『人工臓器物語――コンタクトレンズから人工心臓まで』
筏 義人 20020520 裳華房,198p. 1575
■筏 義人 20020520 『人工臓器物語――コンタクトレンズから人工心臓まで』,裳華房,198p. ISBN:4785387424 1575 [amazon]/[kinokuniya] b c02
■目次
1章 外部情報をキャッチ(感覚系) 1
1 最高の傑作―人工耳 2
2 ここまできた―コンタクトレンズ 10
3 簡単そうで難しい―人工角膜 20
4 高齢者への贈りもの―眼内レンズ 25
5 ナノテクノロジーの出番―人工網膜 31
2章 走・歩行力を維持(骨格系) 35
1 ニーズの高い―人工神経 36
2 スポーツ選手への助っ人―人工じん帯・腱 39
3 高齢化社会の優等生―人工関節 44
4 強じんな骨に迫れるか―人工骨 54
5 自立を助ける―義肢 58
3章 食を楽しみ、栄養を摂取(咬合系と消化系) 63
1 歴史のもっとも長い―人工歯 64
2 苦労の連続―人工歯根(歯科インプラント) 72
3 自動栄養補給器―人工腸管 81
4 改良の進んだ―人工肛門 82
4章 酸素を確保(呼吸系) 85
1 救命のつわもの―人工肺 86
2 輸血にとって代われるか―人工血液 93
5章 エネルギー源を全身に(循環系) 99
1 血栓との闘い―人工心臓 101
2 携帯電話は敵?―ペースメーカー 114
3 種類を選べる―人工弁 123
4 開発済みも未開発もある―人工血管 126
6章 血液を正常化(浄化系) 133
1 最長三五年も働く―人工腎臓 134
2 解毒にも苦労する―人工肝臓 145
3 けなげな子供らのために―人工膵臓 150
7章 身体を物理的に保護(被覆保護系) 155
1 再生を助ける―人工皮膚 156
2 プリオンよ、さようなら―人工硬膜 163
8章 美と若さを永遠に(性・審美系) 171
1 カッコ良くして悩みを除く―顔面補綴物 172
2 女性自身―人工乳房 175
3 男も自信を取り戻そう―人工ペニス 185
4 シャンプーもできる―人工毛髪 188
おわりに 193
索引 198
■紹介・引用
▼2 ここまできた―コンタクトレンズ (pp10-17)
コンタクトレンズを人工臓器だというと、不思議に思う人がいます。(略)厚生労働省からみれば、コンタクトレンズと人工心臓との間に大きな差はありません。眼鏡は厚生労働省の許可なしに自由に販売できますが、コンタクトレンズの製造と輸入には厚生労働省の厳しい審査があります。購入する場合でも、医師の処方箋がなければ断られます。コンタクトレンズも人工心臓も、厚生労働省の基準によれば医療用具という項目に分類され、生体安全性や有効性を証明できなければ、製造できないのです。
このように国の審査が必要なのは、これらの医療用具が私たちの生きた細胞に接触して使われるためです。
コンタクトレンズの誕生
コンタクトレンズという概念がいつ頃生まれたのかは明らかでありません。イタリアのレオナルド・ダビンチやフランスのデカルトは、角膜表面に多くの水をつければ視力の矯正が可能になると指摘しました。しかし、今日のコンタクトレンズのような透明で薄い材料を角膜上にのせるだけで視力を矯正できることが明確に示されたのは一八八八年のことです。それも、三人の研究者が別々に発表しました。彼らはスイスのフィックとフランスのカルトとドイツのミュラーです。彼らのコンタクトレンズはいずれもガラス製で、重いことが最大の欠点でした。ドイツの有名な光学機器メーカーであるカール・ツァイス社はガラス製のコンタクトレンズを製造しましたが、全然、売れませんでした。それから一九四〇年までの間の進歩は、ダロスが、コンタクトレンズと角膜との間に涙を入り込ませると、より長期間にわたってレンズ装用が可能になることを示したことぐらいでした。現在のコンタクトレンズも、涙で濡れることが必須条件です。
コンタクトレンズに大きな変革をもたらしたのは、プラスチックレンズの登場です。一九三七年にタイスラーは酢酸セルロースからプラスチック製コンタクトレンズを開発しましたが、これよりもっと大きな影響を与えたのは、ローム・アンド・バース社が一九三六年に透明プラスチックのポリメタクリル酸メチル(PMMA)の工場生産を開始したことです。直ちに、PMMA製コンタクトレンズが切削加工によって製造され、それまでのコンタクトレンズより性能的に優れ、厚みも薄くなりました。 しかし、それらを実際に使用できる人たちの数は限られていました。この状態を打破したのがツオヒです。一九四六年のある日、ツオヒの同僚が、コンタクトレンズの切削加工をミスしてしまったとベソをかきながら、強角膜部と光学部とが別々になった失敗品を手に持ってツオヒの部屋に入ってきました。ツオヒは、その光学部分のみを角膜にのせればどうなるだろうかと思って自分の目に試してみました。その結果はとても満足できるものであったため、さらに改良を重ね、ついに一九四八年、特許出願にまでこぎつけました。
わが国でコンタクトレンズの開発研究が始まったのは、当時、眼鏡店で働いていた一九歳の田中恭一に駐留米軍の将校夫人が『私、コンタクトレンズをもっているのよ』と一九五一年に話したのがきっかけといわれています。彼は、その三か月後に角膜コンタクトレンズを作り、一九五二年にPMMA製ハードコンタクトレンズの製造を開始しました。
ソフトコンタクトレンズの開発
世界で最初のソフトコンタクトレンズは、メタクリル酸ヒドロキシエチル(HEMA)というモノマーの重合によって作られました。このHEMAの重合体からソフトコンタクトレンズを開発したのは、旧チェコスロバキアのヴィヒテーレとリムという高分子化学者です。
(略)
一九五二年の夏、ヴィヒテーレが急行列車で旅行していたとき、彼の横に座っていた見知らぬ紳士が眼科の雑誌を読んでいました。その雑誌にタンタル製義眼の大きな広告が出ているのがチラリと見えたので、ヴィヒテーレは、義眼としては金属よりも親水性のプラスチック製のほうが生体適合性に優れているとその紳士に話しかけました。ところが、その紳士は、たまたま、チェコ政府の医療プラスチック委員会の委員であったため、ヴィヒテーレにその委員会で話すように頼みました。その講演会で委員会はヴィヒテーレにその材料を提供するように要請しましたが、彼は、これはまだアイデアの段階で実際の材料は存在しないと答え、委員会を失望させました。
そこで、さっそく、ヴィヒテーレ教授は教室員に親水性プラスチックの合成を始めるように話しました。その研究員の一人であったリムが種々の原料を用いて実験を続けた結果、ついに蒸留フラスコの底にHEMAモノマーからの透明で柔らかいゲルが生成しているのを見つけたのです。直ちにヴィヒテーレはリムの名前を入れた特許を書き上げました。このゲルは完全に透明で強度もあり、含水率は四〇%もあったので、彼は生体適合性のあるコンタクトレンズの原料として有望だと考えました。しかし、大学の研究室は基礎研究をするところで、レンズの成形加工などはできませんでした。そこで、ヴィヒテーレは政府に出向き、HEMAが新しいレンズ材料として有望なことを力説しました。しかし、笑って相手にされず、それは、むしろ、歯科用だといわれ、歯科教室で加工研究を行う便宜を図ってくれました。
ヴィヒテーレはその教室でHEMAモノマーの水溶液重合によるレンズ状含水ゲルの作製を試みましたが、レンズのふちが望みどおりの形にならず、失敗の連続でした。しかし、ついに一九五七年四月に望みどおりのレンズができ、それを彼は自分の目に入れてみました。最初は痛みを感じましたが、数分間も我慢すれば、モノを鮮明に見ることができました。これに自信を得て、さらに、成形加工を続けましたが、結局、再現性のよい加工法は開発できず、一九五八年に政府は資金援助を打ち切ってしまいました。
一九五八年にヴィヒテーレ教授は、他の教室員とともに大学を放免され、プラハの国立高分子化学研究所に移りました。しかし、この研究所の使命も基礎研究を行うことであり、成形加工のような応用技術的な仕事は許されませんでした。そこで、再び、ヴィヒテーレは研究所外でコンタクトレンズの開発の場を探さなければなりませんでした。
一九五八年の秋に適当な研究施設が見つかり、一年間で一〇〇個のレンズを成形できるようになりました。そこで、彼はレンズをプラハ第二眼科病院のドライフス博士のところに持っていき、彼の患者にそれを試すように依頼しました。その臨床結果は上々であり、ある患者はレンズを装用したままで夜を過ごしても、翌日、はっきりとモノを見ることができました。彼は、成形法はまだ満足できる段階ではありませんでしたが、これらの結果をレポートにまとめて一九六〇年に政府に提出しました。
ところが、製造できるレンズの数が少なすぎるという理由で、政府はこの開発援助をまたもや打ち切ってしまいました。彼は打ち切りの撤回を求めて何度も政府に交渉しましたが、すべて徒労に終りました。さらに、他の成形加工法を自分なりに考え、一九六一年五月にレポートを再び政府に提出しましたが、それも専門委員会で拒否されました。これで、ヴィヒテーレはソフトコンタクトレンズを開発するという夢をほとんどあきらめてしまいました。
しかし、その後もしばしば、失敗した成形加工の記憶がヴィヒテーレの脳裏に浮かんでは消えました。そしてついに、一九六一年の暮れのある日、試験管にHEMAを入れて重合したときに試験管の底に生成した重合物の形状がコンタクトレンズにそっくりであったことに気づきました。そこで、さっそく、ガラス製モールドの作製をガラス工に依頼しました。数日後にモールドが仕上がってきたので、クリスマスの前日に自分の息子の自転車に付いていた発電機を利用して自宅でスピンキャスト器を試作しました。この発電機に変圧器を接続すると、期待どおりに動いたので、クリスマスの午後に薬品を研究所から自宅に持ち帰り、それでHEMAを重合して四個のレンズを作りました。得られた重合物を、一夜、食塩水に浸してから、眼科病院のドライフス博士のところへ持っていき、患者の目にはめてもらいました。すると、異物感はなく、レンズとして機能することがわかりました。
そこで、さらに多くのレンズを作るため、ヴィヒテーレは、自転車の発電機ではなく、自分の蓄音機のモーターを使うことにしました。大晦日には一五の回転軸をもつスピンキャスト重合器を作り上げることができ、それを使うと重合は一五分間で終了しました。彼は自宅で奥さんと二人で、毎日、レンズ作りに励みました。ヴィヒテーレが、昼間、研究所で働いている間は、奥さんが一人でレンズを作りました。このようにして一週間で数百個のレンズが作られ、一九六二年の一月から四月までの間に五五〇〇個のレンズを二人で作ることができたのです。
その後は、チェコ政府の特許部も彼のレンズに興味を示し、ヴィヒテーレもアメリカやヨーロッパの各所で新型レンズについて講演しました。しかし、当時、コンタクトレンズはすべてハードという世の中であり、誰もソフトコンタクトレンズを認めようとはしませんでした。
一九六三年六月、国際会議に出席するためにロンドンを訪れたさい、ヴィヒテーレは眼肉レンズの発明者として高名であったリドレー教授をたずねました。一時間も待たされたうえに、ヴィヒテーレに対する彼の態度は冷たいものでした。ヴィヒテーレがリドレーに自分の目に入れているコンタクトレンズを見て欲しいと頼んだとき、リドレーはヴィヒテーレに近寄って目を見てレンズなど入っていないと言いました。そこで、ヴィヒテーレは目からレンズを取り出してリドレーに見せました。リドレーは大いに驚き、すぐに多くの眼科医の集まっているところにヴィヒテーレを連れていき、彼らにヴィヒテーレの目にレンズが入っているかどうかを確かめるように告げました。そこで、また、大きな興奮がまき起こりました。
そこに居合わせた眼科医の一人がこのレンズに大きな興味をいだき、ロンドンの王立眼科協会で講演するように頼みました。その講演会には、ハードコンタクトレンズの製造で世界の第一人者であったニッセルも来ていました。彼はヴィヒテーレを空港に送る車の中で、自分の製造装置でヴィヒテーレのレンズを製造できれば非常に素晴らしく、多くの人たちの福音になるだろうと話しました。この話をヒントに、ヴィヒテーレはポリHEMAの切削加工という新しい成形加工法を考えつくことになるのです。
ついに、一九六四年の春にアメリカの企業もヴィヒテーレのレンズに興味を示しました。一九七二年には、ボッシュ・アンド・ロム社が大量生産を開始し、世界にソフトコンタクトレンズを供給していくことになります。その後、共産党政権によるヴィヒテーレの公職追放やコンタクトレンズの特許係争が始まって大きなドラマがヴィヒテーレを中心に再び繰り広げられます。しかし、すでに多くの紙数を使ってしまったので、ヴィヒテーレの「回想」はこの辺で終りにします。
一九九〇年代の初頭には日本で約九〇〇万人がコンタクトレンズを装用し、その六〇〜七〇%がハードコンタクトレンズを使っていたのに対し、米国ではソフトコンタクトレンズが好んで用いられていました。ソフトのほうが異物感が少ないにもかかわらず、わが国でハードが多用された大きな理由は、両国間における眼科医療システムの違いです。米国では、眼科医のライセンスをもっていないオプトメトリストとよばれる眼科光学技士もコンタクトレンズを処方できます。実際、米国ではオプトメトリストがほとんどのコンタクトレンズを処方し、いつでもこちらの相談にのってくれるうえに、自分のことは自分で決めるというアメリカ人気質も手伝って装用感のよいソフトが選択されます。それに対し、わが国で処方箋を書けるのは医師(眼科医とは限らない!)のみであり、医師としては角膜に異常が生じるとはるかにその異常を察知しやすいハードを薦めます。その結果、医者に弱い日本人には、ハードコンタクトレンズの使用が多くなったのです。
▼3 簡単そうで難しい―人工角膜 (pp20-24)
角膜が元に回復できないほど強く異常をきたしたとき、角膜が移植されます。角膜移植はすでに一八四〇年に試みられ、現在では成功率が八○〜九〇%というほど高い治療法となっています。臓器移植の中で最初に成功したこの角膜移植も、わが国では問題を抱えています。それは技術的な問題ではなく、他の臓器移植と同じく、角膜を提供するドナーの不足です。わが国では、目の見えない約二五万名のうちの約二万五千名が角膜移植を必要としているにもかかわらず、ドナーから提供されるのは年間約一五〇〇眼だけです。ところが、米国では一年間に約十万眼が提供され、約五万例の角膜が移植されています。このように、米国では提供数が必要数の二倍もあるため、米国から日本に移植用角膜が送られてきています。
提供臓器数が十分に多く、その移植術の成功率も高ければ、その臓器における人工臓器の必要度は低くなります。人工材料から作られる人工臓器は、機能面ではその生体臓器の足元にも及ばないからです。しかし、免疫学的な拒絶と力学的な耐久性という点では、人工臓器のほうが優れている場合が少なからずあります(次節に述べる水晶体はその一例)。わが国では、絶対的なドナー不足という点からも人工角膜を必要としますが、余るほど十分に角膜が提供されている米国においても、人工角膜が研究されています。その理由は、移植された角膜が結膜化したり皮膚化して、角膜移植では治療できない場合があるためです。また、人口が多くて衛生環境も良くない発展途上国では、数多くの人たちが人工角膜によって光を取り戻すことを望んでいます。
なかなか難しい人工角膜
人工角膜の目的は、混濁した角膜を除去し、そこへ人工透明体を置いて光を透過させることです。この機能は他の人工臓器に比べてはるかに単純です。光の通らなくなった角膜の混濁部分を取り除き、そこへ透明なプラスチックあるいはガラスを埋め込みばよいからです。すでに一七八九年、フランスのペリエー・ド・ケンシーは、彼の「眼科手術詳解」という著書の中に、今日でも通用する人工角膜の概念を記しています。
しかし、最初に人工角膜を作製してウサギの眼に埋めたのは、ドイツのヌスバウムでした。彼は、まず、木材、ガラス、鉄、銅などから作った小球を自分の体内に埋め込み、その生体反応を調べました。その結果、ガラスの刺激性がもっとも低かったので、一八五六年にガラス製人工角膜を彼の患者に埋め込み、一か月間、それが角膜内に留まっていることを確認しました。この世界最初の臨床応用例を契機に、あちこちでガラス製あるいは石英製の人工角膜が作られました。生体組織と強く結合させるため、透明部の周囲にふち部も取り付けられました。このふち部によって臨床成績は向上し、二年間も機能したという報告が発表されました。
しかし、ほとんどの場合、数週間か数か月後に人工角膜は眼から落ちてしまいました。このように人工角膜の成績が悪い最中に角膜移植が試みられるようになったため、二〇世紀の前半には人工角膜の研究はほとんど進展しませんでした。研究が再開されたのは、ガラスより軽いアクリル樹脂が工業生産されるようになってからです。一つの例外は、一八九一年にディンマーがセルロイドから人工角膜を作り、四人の患者に埋めたことです。これがプラスチックを人工臓器の素材として用いた世界最初の例のようです。セルロイドには溶け出しやすい樟脳が含まれているため、結果は満足できるものではありませんでした。
ドイツのビュンシュエは一九四三年にPMMAを初めて人工角膜に用いました。彼は、第二次世界大戦中の戦地においてPMMAを自分の皮下に六週間埋め込んでその安全性を調べてから、それをウサギの目に埋め込みました。このように人工角膜の素材としてPMMAが使われるようになってから、多くの研究者がPMMAから複雑な形状の人工角膜を作りました。その結果、一〇年のような長期間の使用例も報告されましたが、本当にいつも信頼して臨床応用できる人工角膜はいまだに開発されていません。
現在、研究されている人工角膜の多くは、図1・5に見られるように、本体の透明部とその外側に多くの孔をもつふち部とから構成されています。ふち部の目的は、人工角膜が周囲の生体組織からはずれてしまわないように固定することです。その固定にもかかわらず、人工角膜が目の組織からはずれて脱落してしまいます。これにはいろいろな原因が考えられます。その一つは、人工角膜の周囲にある生体組織中のコラーゲンが酵素分解を受けて融解してしまうことです。人工角膜の脱落は、人工材料と生体組織とのすき間に細菌が侵入して起こる感染によっても生じます。さらに生体が人工異物を排除しようとする強い防御反応にもよります。皮膚や角膜のように、外界に接している生体組織の表面から人工材料を差し込んでおくと、上皮組織が材料表面に沿って内部に下降してきます。その組織が材料の裏側まで回り、最後には異物全体を体外へ排除してしまうのです。このような生体反応を下方成長(down−growth)といいます。この下方成長によっても人工角膜は生体組織内に根付くことができず、体外に押し出されてしまうのです。
上皮組織の下方成長による異物排除反応は、人工材料の一部が身体外部に露出している場合に起こり、材料全体が体内に埋め込まれていると起こりません。しかし、完全に体内に埋め込まれている場合にも生体は異物排除反応を起こします。それは、薄いコラーゲン組織によって材料が包み込まれてしまう反応です。このような体内異物に対する包み込みをカプセル化とよびます(8章2節参照)。生体はこのカプセル化によって侵入人工物を自分の環境から隔離しているのです。人工材料は生体にとって異物なため、生体がそれを排除しようとするのは当然ですが、人工臓器の開発者にとってはこの生体反応は大きな悩みの種です。
このように、人工角膜の開発を妨げている大きな理由は、材料の生体適合性の不足であり、力学的や光学的な材料特性に問題があるのではありません。人工材料が生体の内外にまたがって存在することが、失敗の最大の原因なのです。
▼4 高齢者への贈りもの―眼内レンズ (pp25-30)
眼内レンズの誕生
現在では、混濁した水晶体の代替に人工水晶体が用いられ、わが国では、一九九二年から健康保険が適用されました。しかし、それが開発されるまでは、不透明になった水晶体を手術で取り除いた後、視野の狭いトンボ眼鏡をかけなければなりませんでした。水晶体を英語ではlensというため、人工水晶体よりも眼内レンズという用語が広く使われています。
眼内レンズには長い開発の歴史があり、すでに一七世紀頃から人の眼に眼内レンズが埋め込まれています。しかし、本格的な埋め込み治療を行ったのは、この2節のコンタクトレンズで述べたリドレーという英国の眼科医です。
リドレーはしばしば白内障手術を行いました。一九四九年のある日の手術のとき、そばにいた医学生が「先生が取り出した水晶体の代わりに透明なレンズを入れないのは残念です」とつぶやきました。別の言い伝えでは、その学生は「先生!取り除いたレンズの代わりに新しいレンズを入れるのを忘れましたよ」と叫んだことになっていたり、「先生!取り除いたところになぜ新しい透明レンズを入れないのですか?」と質問したことになっています。いずれにしろ、リドレーは、その学生の一言でハッとひらめき、透明な人工レンズを埋め込むことを考えついたのです。
彼が用いたのは、割れやすくて重いガラス製ではなく、透明なアクリル樹脂製でした。このプラスチックは、すでに第二次世界大戦において戦闘機の天蓋の安全ガラスとして使われていました。そのため、当時の英国空軍隊員の眼に戦闘機の安全ガラスの破片が入り込むことがありました。その破片は炎症も起こさず、周囲の組織と共存していることをリドレーは診察経験から知っていました。彼は、プラスチックの鋭いエッジが眼の敏感な組織に接触しない限り安全だ、という経験に基づいてアクリル樹脂から水晶体の形をしたレンズを作り、患者の眼内に埋め込んだのです。
体内に埋め込まれる人工材料に要求されるもっとも重要な条件は、生体に安全なことです。具体的には、発熱、慢性炎症、溶血、アレルギー、がんなどを引き起こさないことです。一般にこれらの反応は、材料の表面に付いた付着物、材料内部からの溶出物、材料の分解生成物などによって引き起こされます。したがって、有害物質は材料それ自体というよりも、それとは異なる別の第三物質であるため、細心の注意を払って製造すれば、生体に安全な人工材料を創り出すことができます。
リドレーは最初のレンズを一九四九年一一月二九日にロンドンの病院で四五歳の婦人の眼に埋め込みました。この眼内レンズのサイズは水晶体のサイズに合わせたために少し厚すぎましたが、視力は回復しました。この結果に勇気づけられ、リドレーは第二回目の手術を一九五〇年八月二三日に行いました。このときにも強い近視が起こりましたが、彼は改良を加えてその後の数年間に一〇〇〇個のレンズを患者に埋め込みました。多くは成功しましたが、やむなくレンズを取り出すケースもありました。
レンズの位置がずれたために一二年後に取り出すことになったとき、リドレーは「うまく機能していた眼内レンズを突然の予期せぬ原因で取り出さなければならないときほど辛いことはない」と述懐しています。このリドレーレンズの失敗の原因の一つは、レンズの水中における重さが一七r(空気中では一二r)もあり、今日の眼内レンズの水中での重さ(約一r)よりはるかに重かったことです。
リドレーの眼内レンズの埋め込み手術には多くの非難や軽蔑も浴びせられました。たとえば、ある眼科医は、リドレーの手術による視力改善は眼内に挿入された人工異物による危険性を超えるほどのメリットがあるかどうかきわめて疑わしいと言いました。米国でも大きな反対がありました。米国で最初の眼内レンズが患者に埋め込まれたのは一九六七年でしたが、その後、多くの非難が生じたため、それまでに二四三例の眼内レンズを埋めた眼科医らはその安全性が確認されるまで埋め込み手術を中断すると一九六九年一〇月一日に宣言しました。
一九七〇年と一九七一年に非手術派の眼科医らから安全と認める報告があり、一九七一年に手術は再開されました。しかし、それでもなお、手術への妨害は続きました。最大の妨害は食品医薬品局(FDA)が眼内レンズは医薬だ、と言いだしたことです。当時のFDAは、医薬に対する管轄権しかもっておらず、医療用具に対する管轄権をもっていませんでした。FDAに抗議するため、眼内レンズを埋め込んだ患者たちもFDAのヒアリングに参加し、いかに自分たちが眼内レンズの恩恵を受けているかを訴えました。このとき、環境運動家のネーダーも患者のためといって眼内レンズの埋め込みに反対していました。
眼内レンズを入れると、よく世界が変わって見えるようになったといわれます。確かにそれは老人性白内障では正しいでしょうが、若い人では必ずしもそうではなく、不満も聞かれます。その原因は生体組織にあります。人は老いてくると、水晶体が硬くなって水晶体を収縮・弛緩させている毛様体が働けなくなり、視覚系が固定焦点となってきます。したがって、固定焦点式眼内レンズを入れても、透明度が大きく増大したためにモノが鮮やかに見え、世界が変わって見えます。ところが、水晶体と毛様体が正常に働いて焦点を調節していた若い人には、急に固定焦点となるため、不平も出てくるのです。
▼5 ナノテクノロジーの出番―人工網膜 (pp31-34)
機能を失った網膜の代わりをする人工網膜、あるいは視力を取り戻す人工視覚システムに関する研究が数十年前から欧米で始められ、ようやく最近、完全視覚障害者にも使えるようになってきました。これらの人工視覚器の原理は、光を人工的に受け取り、その光情報をコンピュータ処理してから視神経に直接伝えるというものです。
まず、米国のある医療機器会社の研究から紹介します。この研究陣が開発中の図1・8に示した人工視覚システム装置は三つのパーツから構成されています。一つは、右目に小型テレビカメラ、左端に距離センサーを取り付けたサングラスであり、二つめは腰のベルトに装着する二個のコンピュータです。三つめの部品は、視覚をつかさどる脳の後頭葉に埋め込む六八個のプラチナ電極です。まず、距離センサーがキャッチした距離情報とテレビカメラがとらえた画像情報とを一つのコンピュータが処理してイメージを作ります。これを受け取ったもう一つのコンピュータがその信号を電極に送って脳の中の神経細胞を刺激し、閃光(せんこう)を発せさせます。三六歳のときに失明した男性は、この装置を付けることによって地下鉄の駅を歩くことができ、一・五m離れて五pほどの文字を読めるようになったそうです。この装置の開発で研究陣が苦労した一つは、外部コンピュータと体内電極を接続している皮膚貫通電線による細菌感染でした。今後の目標は、さらに電極の数を増やすとともに、コンピュータの能力を高めることです。
危険な脳内に電極を埋め込むのではなく、網膜の前あるいは後ろに直径数oの微小シリコンチップを埋め込む研究も欧米で行われています。その人工網膜の一例を図1・9に示しました。この研究の目的は、眼鏡のフレームに付けた小型カメラがとらえた映像を電気信号に変換し、網膜に埋め込んだチップにその電気信号を無線で送ることです。信号を受けたチップは網膜内部の神経節細胞を電気的に刺激し、その結果、視覚が擬似的に実現するというわけです。
微小な網膜チップはμmより小さいnmオーダーの超微細加工によって作られます。いわゆるナノテクノロジーです。実は、世界に先駆けてわが国で人工網膜チップがすでに工業生産され、販売されています。しかし、その用途は、視覚障害者のためではなく、駐車場の監視システムや、携帯電話のような携帯情報端末に組み込んで写真を直送する装置などのためです。モノの形状や動きを人間の目のように瞬時に検出できるこの人工網膜チップには、光をとらえる受光素子が九o角の面に一〇万個ほど並んでいます。この数は、デジタルカメラなどに使われている電荷結合素子(CCD)が三〇〇万個を超える場合もあるのと比べるとはるかに少ないですが、人工網膜チップは、光に対する感度の変えられる受光素子を数多く並べているため、特別な画像処理装置を用いなくても情報処理できます。
わが国にこのような先端技術があるにもかかわらず、それが医療に活かされていないのは、少し悲しいことです。しかし、ようやく、わが国の経済産業省と厚生労働省も、光を電気信号に変換する素子を網膜付近に埋め込み、目に入ってきた光を電気信号に変えて神経に伝達するシステムと、センサーや画像処理装置を身に付け、体外で視覚情報を処理してから信号を神経に送るシステム、という二種類の人工システムの開発に乗りだしました。
*作成:植村 要