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『戦後日本病人史』

川上 武 編 20020325 農村漁村文化協会,804+13p. ASIN: 4540001698 12000

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■川上 武 編 20020325 『戦後日本病人史』,農村漁村文化協会,804+13p. ASIN: 4540001698 12000 [amazon][kinokuniya] ※ h01.

■内容

(「MARC」データベースより)
被爆者、ハンセン病、公害病、遺伝子操作や、クローン技術など高度先端医療の進展…、激動の20世紀後半を「患者」の立場から総括する。21世紀の医療と福祉を展望する病人史。

■著者略歴

(「BOOK著者紹介情報」より)
川上 武
1925年生まれ。健和会顧問、医師、医事評論家

坂口 志朗
1956年生まれ。健和会みさと健和団地診療所、医師

藤井 博之
1955年生まれ。健和会臨床疫学研究所、医師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

序章 戦後日本病人史の構図
  cf.医療と社会

第1部 戦後日本病人史の諸相
 1-1 戦争と病人
  cf.戦争と医学/731部隊・文献
 1-2 経済復興期の病人
 1-3 高度経済成長から成人病の時代へ
 1-4 リハビリテーション医療の登場
  田島明子による紹介:http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/hon16byouninsi.htm
  cf.リハビリテーション
 1-5 妊娠・出産と乳児死亡・未熟児の動向
  cf.出産・出生とその前後
 1-6 戦後の女性のライフサイクルの変容
 1-7 産業構造の変動と社会病
 1-8 薬害・医原病の多発とその背景
  cf.薬/薬害
 1-9 「認定」と「補償」の責任論
  cf.医療過誤、医療事故、犯罪…
 1-10 精神障害者と「こころを病む」人びと
  cf.精神障害/精神障害者
 1-11 重症心身障害児(者)の歩み
  cf.障害者(の運動)史のための資料
 1-12 寝たきり・痴呆老人の戦後史
  cf.老いぼける
 1-13 難病患者の苦悩と挑戦
  cf.難病/神経難病/特定疾患

第2部 現代医療のパラダイム転換と病人・障害者
 はじめに 第三次医療技術革新の特徴
 2-1 脳死・臓器移植の軌跡――心臓移植の提起した問題
  cf.脳死/臓器移植
 2-2 性革命から生殖革命へ
  cf.生殖技術
 2-3 二一世紀の死と生死観
  cf.
 2-4 情報技術(IT)革命・ゲノム革命と病人・障害者

おわりに 生命倫理と生死観の再構築
  cf.生命倫理
 終章 社会保障国家への道――病人史的視角から


■引用


■言及

◆立岩 真也 20031101 「現代史へ――勧誘のための試論」『現代思想』2003-11

 「医学史・医療史の本は数々あって、なかには大きなものもある。比較的新しいものでは川上編[2002]等。ただ、長い時間の多様なことを扱うから全体としては厚くなるのだが、一つ一つの主題にそれほどの分量を割くことはできないから、結局よくわからないままに終わることがしばしばである。」(注03)


 
 
<以下は、2006年8月24,25日に、先端研教員・院生有志によっておこなわれた読書会におけるレジュメである>
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川上武編著『戦後日本病人史』第I部第2章
報告 松原洋子

(以下、「M」は松原による補足)

1. 一般病の病人史の時期区分
 敗戦後の混乱期から第一次医療革新の成果普及にいたる病人…忘れられやすいが戦後病人史として見落とせない(川上1982)
 病人の処遇の転機は国民皆保険(1961年)――第2章はそれまでの復興期の病人の変貌を扱う
M:川上の病人史時代区分(pp.71-72、pp.91-92、p.343、pp.611-612)
第一次医療革新(1950年代〜):抗生物質、全身麻酔、輸血/ 国民皆保険(1961)により普及
第二次医療革新(1960年代〜):血液自動分析装置、内視鏡、人工透析装置、各種X線診断装置、超音波断層装置、CTスキャンなど/ 病院施設設備の大型化、診療科目細分化
第三次医療革新(20世紀末〜):脳死臓器移植、生殖技術、ゲノム技術/ 技術自体のなかに「倫理」、社会的価値観を含む

2. 感染症、栄養失調、人工中絶の時代――対症療法から第一次医療技術革新の時代
(1) 戦中から敗戦直後の病人 飢餓と伝染病・結核、医療の荒廃状況
(a) 戦中の病人 
・太平洋戦争末期から敗戦にかけて、栄養状態、体位の低下/ 都市部をはじめとする飢餓大量発生の危惧
・医師、医薬品の軍需優先による医療水準低下、伝染病患者の激増
 図3:コレラ、赤痢、腸チフスなど急性伝染病患者数の推移――1944年約24万人→1946-48年約4万人に激減
(b) 急性伝染病
・ 敗戦後の食糧不足、「外地からの復員、引き揚げ」、医薬品・医療従事者・医療機関の不足、衛生状態の悪化→急性伝染病、性病流行、「混乱期に妊娠した婦女子の問題」
・ 駐留軍の防疫対策としてGHQによる「DDT革命」/強制的集団接種→予防接種事故が相次ぐ/ 急性伝染病が史上最低水準に減少

(2) 結核について 死にいたる病
(a) 戦前の結核患者
・結核は「死病」/ 女工の発病→家族・集落の感染→兵力低下/1940年代に軍部主導の「結核予防体系」で集団発生防止・早期発見の基盤(注10)
(b) 戦後の結核患者
・1951年までは全結核が死因1位/結核療養所は「大気安静」が主、給食も不十分
(c) 結核実態調査と患者への影響
・ 1951年結核予防法施行:医療費一部公費負担に/死亡者数戦前の1/3に
・ 1953結核実態調査:有病率等が支部>郡部/ベッド数の充足へ(企業によっては独自の委託ベッドをもち患者を企業から追い出す)
・ 「社会病としての結核、結核患者の人権、その困窮の原因の追求はなかった」(p.64)
(d) 結核の患者運動
・ ハンセン病患者運動とともに戦後患者運動の潮流をつくる
1948 日本患者同盟 新薬を医療保障に適用させる/1951 残飯闘争/1952 国立病院・療養所統廃合反対運動/1954 入退所基準反対/1958 給食闘争/1966 三柏園闘争/1968 特別会計制への反対運動/1986 日本患者・家族団体協議会結成運動
(e) 朝日訴訟
・ 朝日茂(岡山療養所医療保護入所者)が実質日用品費600円とされることの指示取り消し申請を却下され訴訟・争点は憲法26条生存権が具体的な実現のありかた/第一審勝訴 生活保護基準引き上げ→第二審敗訴→原告死後養子が訴訟継承するも最高裁で保護を受ける権利が相続でいないとして退ける
・ 朝日訴訟の成果として生活保護基準の引き上げ、生活保護制度全般の手直し、最低賃金・失対賃金・公務員給与等の改善、生存権の再認識、闘いによってのみ実現されるという権利意識
(f) 戦後結核治療法と病人
  ・俳人石田波郷(1913-69)の例:罹患して1945年戦地より帰還/胸郭形成手術、肋膜充填術などを受ける
・「当時の結核治療が多くの医原病につながったことは無視できない」(p.68)
→M: 「医原病」という解釈は適切か?当時の外科的結核治療の何を問題とみなすのか。
(g) 社会復帰できない結核患者たち
  ・長期入院による社会復帰の困難/ WHOは結核菌の有無を化学療法の指標としたが、日本では排菌していなくてもレントゲンに影があれば化学療法を継続
  →M: エンドポイントの「厳しさ」の背後にハンセン病政策と同様の構造があるのか… 結核に対する過剰な社会防衛意識? 結核対策にまつわる国や関係者の既得権保持?  
(h) 結核の後遺症に悩む病人たち
  ・結核後遺症(在宅酸素療法が必要)/ストレプトマイシンによる難聴・めまいなど→1971年国・製薬会社・医師に対する損害賠償訴訟
  ・1997年新規発生患者数・罹患率の増加:結核は「日本資本主義の影」(川上) 住所不定者、独居老人、中高年離婚男性などの生活環境改善ぬきにはなくせない。

3. 第一次医療技術革新の時代
(1) 第一次医療技術革新の前夜
・ 対症療法、患者の体力だのみ
・ 局所麻酔・腰椎麻酔が主で手術の負担大/ 輸血は兵力保持優先・保存血液開発すすまず/輸液は皮下注射
(2) 第一次医療技術革新
・ 朝鮮特需を背景に抗生物質・抗結核剤生産増加、価格低下、普及。1951-60年世界的な新薬開発、海外技術の導入
・ 日米医学教育者協議会(1950)でアメリカの気管内麻酔の紹介→普及
・ 血液事業:1948年梅毒感染事件←GHQ血液銀行設置指示。厚生省は日本赤十字社に献血による血液銀行設置するも伸びず。1951年日本ブラッドバンク(←売血)開業し成長。
・ 抗生物質、抗結核剤、全身麻酔、輸液、輸血が手術を改善、術後合併症も抗生物質、栄養改善で減少=第一次医療技術革新。薬と手術が主なので医療施設の大小に関係なく恩恵をうける。
・ ただし医療による犠牲者も。(第8章)


4. 「細菌の逆襲」――公衆衛生の軽視と連動(←経済復興期でなく近年の問題として)
・ 感染症患者への差別のくりかえし
・ 新興感染症、再興感染症/院内感染/性感染症(HIVほか)/寄生虫再興←公衆衛生の軽視、医療環境、社会環境の問題
・ 「感染症に対する油断が『細菌の逆襲』を間に得たとも考えられ、公衆衛生の考え方が見直される必要がある」(p.75)→ M: なにをもって「油断」とみなすのか、どうも見直される必要があるのか、不明

5. らい予防法廃止までの遠い道――プロミンが開発されても生涯隔離続く
(1) ハンセン病――戦中の悲惨な状況
・ 1931「らい予防法」(M: 正しくは「癩予防法」)により強制収容。看護士による足の切断、断種手術など。
・ 戦前/戦中に外島事件・長島事件*などの患者運動があったが、軍国主義台頭により運動抑圧。
→M: 外島事件(1933):日本プロレタリア癩者解放同盟設立をめぐる患者間対立、急進派の「追放」
長島事件(1936):愛生園過剰収容問題に契機に、作業の賃上げ要求「抑圧」したのは「軍国主義の台頭」か?
(2) 戦後のハンセン病患者の夜明け
(a) 重監房廃止闘争からプロミン獲得
・1947栗生楽泉園で「特別病室」廃止闘争/1949プロミン獲得推進委員会結成、ハンスト決行→予算化
(b) 全国国立ハンセン病療養所患者協議会(全患協)結成
・ 1950三園長証言*を契機に51年全患協結成のちのハンセン病患者運動の中心に
*M: 林芳信(多摩全生園長)、光田健輔(愛生園長)、宮崎松記(恵楓園長)が参議院厚生委員会で強制収容、断種、逃走患者罰則強化などを証言
(c) 隔離政策を維持しようとする政府
・ 1953菊池医療刑務所支所(ハンセン病患者の代用刑務所)
「犯罪内容もハンセン病に特有なものは少なく、人間回復を希望する患者を強権的に押さえ込む方法は有効ではなかった」
→M; 代用刑務所はハンセン病患者を「感染防止」の見地から別途処置しようとしたもの。それに由来する懲罰の恣意性が問題。戦後の代用刑務所は「隔離政策維持」の周辺的装置にすぎないのではないか。
(3) 日本政府のハンセン病対策と世界の国々との違い
・ 1951〜53に海外の関連会議では「閉鎖型」は外来治療、フォローアップなどの方針確認がされていたが、1953年らい予防法では強制入院、罰則強化。患者が反対運動をするが成立。
・ 1956年ローマ会議、58年国際らい会議(東京)でも隔離政策が海外の潮流に反することが明らかだったが、ハンセン病隔離政策は継続
(4) 戦後なお続くハンセン病患者への差別や偏見
・藤本事件で死刑判決(1953年):刑務所内の特設法廷で傍聴人や反対尋問もなく実施。
(5) ハンセン病患者の社会復帰への遠い道のり
・1950年に軽快退所者ピークに。労務外出も頻繁になるが、法改正されず。その後在園者の高齢化などが問題に。
(6) 療養所の生活環境の改善かららい予防法廃止へ
・昭和40年代は療養所内の改善が中心/1974 ハンセン病海外協力事業に医師たちが参加し、隔離政策の孤立を認識/1991 全患協は「らい予防法改正運動」を採択/1995 らい学会反省表明/1996 らい予防法廃止、厚生大臣謝罪
(7) 人間裁判――らい予防法国賠訴訟 
・ 1998 熊本地裁に国賠訴訟 1953年のらい予防法は違憲と。厚生省(被告)は賠償請求権20年消滅を根拠に、78年以前は責任なく、実質的な解放政策により人権侵害はないと反論。
・ 大谷元厚生省医務局長:新憲法下の予防法制定はあやまり。
・ 2001年国や国家意義医の立法上の不作為を認める判決
・ ハンセン病患者を苦しめた責任について歴史的検証が待たれる

コメント
・敗戦後の混乱から国民皆保険(1961)という時代区分における「病人」として、結核とハンセン病が中心的にとりあげられるのはなぜか。患者運動史上、結核とハンセン病は特筆されるからだろうか。第一次医療技術革新という技術中心的時代区分と患者運動史への注目の関係をより詳しく知りたかった。
・この時代区分を前提とするならば、技術と病人の関係が中心に記述されるべきではなかっただろうか。社会的背景を重視する本書のアプローチにおいて、技術革新による時代区分はどのように評価されているのか。結核やハンセン病の場合は、国立療養所という特殊な条件が関わっており、「技術革新」との関係も屈折していると思われ、その点を検討する必要があるのではないか。


 
 
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川上武編著『戦後日本病人史』第I部第4章 リハビリテーション医療の登場

  田島明子による紹介:http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/hon16byouninsi.htm
  cf.リハビリテーション


 
 
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川上武編著『戦後日本病人史』第I部第5・6章
報告 貞岡

読書会 2006/08/24・25          先端総合学術研究科 生命 sadaoka minobu
『戦後日本病人史』
編者:川上武(医師)
第5・第6章 執筆者:坂口志郎(医師)     pp183−251

第5章「妊娠・出産と乳児死亡・未熟児の動向」
1.妊娠・分娩の戦後史-少子化の歴史的背景-
病人史の課題を妊産婦死亡や胎児死亡、乳児死亡、低出生体重児として述べている。
戦後は妊産婦死亡率の著しい減少がみられる。
2003年の妊産婦死亡率(出産10万対)6.0 ― 『国民衛生の動向2005』より
1950年161.2
1960年117.5
1970年48.7

妊産婦死亡の減少に影響を与えたものは、
GHQによる施設分娩の普及と
助産婦の介助から医師への医療的な管理分娩の方向変化傾向の強まり

  陣痛促進剤の医原病や社会的適応の問題浮上
  帝王切開の普及と急増化、恣意性の問題
  医療的過剰な分娩管理に対する反省
  産む側に立った様々なお産のあり方が模索され始めた。
    1970年精神予防性無痛分娩ラマーズ法の取り入れ、アクティブ・バース、夫立会い分娩の推進
  自宅分娩から施設内分娩への推移
    1950年自宅分娩95.4%→1997年施設内分娩99.8%


2.乳児死亡と未熟児の戦後史

乳児死亡率の推移は大幅な減少
1950年(1000対)60.1
1997年      3.7
2005年

乳児死亡の地域差は1990年には消失した。
丸山博の開発した、アルファインデックス指数によると過酷な労働条件、貧困な生活をや
むなくされていた地域で乳児死亡率が高かったことが明らかになった。

目覚しい進歩の低出生体重児の医療
  専門家の知識の乏しさと利益が優先した未熟児医療による未熟児網膜症の歴史
超低出生体重児の延命、予後のフォローアップの重要性。

3.少子化の問題
少子化の進展
合計特殊出生率は1966年(昭和41年)丙午1.58、1989年(平成元年)1.57、
2005年、1.25と低下する。低下の原因は未婚率の上昇にあると言う。
少子化対策は単純に産めよ増やせよでは通用しない、男女が共同して子育てにあたれるよ
うな社会的環境の整備を行うこと、育児休業制度の改善充実、保育所サービスの拡充、子
育てが両立できる就業環境の整備が必要であると述べる。

保育所の現状は認可法保育所と無認可保育所があり、無認可保育所は環境面でのばらつき
がみられ、高度成長期の1960年代にはベビーホテルが急増し死亡事故が続いた。
国は2000年営利法人の認可保育所の設置を認め、認可外保育施設に対する指導監督の強化
を指示した。

少子化の問題は先進工業国に共通する問題である。人口政策が成功しているスウェーデン
では、1990年代に合計特殊出生率が2.1を超えるまでに上昇した。育児休業、保育サービス、
児童手当の支給における政策が功を奏したと言う。

4.育児法の変遷と乳児
戦後に栄養が母乳よりも優れていると言う宣伝で人工栄養が本格的に取り入れられた。
1955年森永のヒ素中毒事件では130人が死亡した。

母乳育児の復権
母乳の感染防護能力の優位性が明らかにされてからは、母乳への価値が高まっていった。
1989年WHO「母乳育児を成功させるための10か条」を提示した。
母子同室・母乳育児を推進する病院を「赤ちゃんに優しい病院」と認定した。
母乳栄養は、30%→1995年46.2%に回復した。

育児書の戦後史は、
父権的な記述から、母親の立場を尊重し子ども自身の意欲の尊重へと変化した。
1946年小児科医B.スポック『コモンセンスブック・オブ・チャイドルケア』
1956年『スッポック博士の育児書』
1967年小児科医松田道雄『育児の百貨』
1973年内藤寿七郎『赤ちゃん百貨』わかりやすい本として脚光を浴びた。
1987年毛利子来『ひとりひとりのお産と育児の本』
この頃から育児体験本・育児雑誌が多数創刊されるようになる。
育児書が進歩しても、育児に関する不安を訴える母親の相談は後を絶たない現状は続いて
いる。

1995年毛利子来編『障害を持つ子のいる暮らし』障害とは何か・正常であるとはどういう
ことかという問いかけを行った。

低出生体重児・新生児医療の進歩は乳児死亡激減という成果を挙げたものの、障害を持っ
て生きる子どもを増やすことにつながっていることは否定できないと言う。


 
 
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第6章 戦後の女性のライフサイクルの変容
1.はじめに
病人史を見る視角として女性の人権を重視している。
1980年富士見産婦人科病院事件など無資格の医師・理事長が婦人科疾患を診断し、手術を
行った例もある。

2.女性のライフサイクルの変貌
戦前・戦中・戦後の前半と後半では、女性のライフサイクルが変貌した。
初潮年齢の低下、女性の一生で産む子どもの数の減少、性体験低年齢化に伴う出産・中絶、
女性の子育て開放期・老年期の延長

3.多様化する女性のライフコース
子育て開放期という余暇の出現への対応。
高度経済成長期の労働力不足は女性への低賃金労働と家事の二重の搾取となった。
生命を生み育てる死を看取る労働は女性の仕事に割り当てられた。
子どもを産み育てる結婚と言う永久就職は、女性の仕事の退職を意味した。

4.多産多死から少産少死へ
1940年国民優性法は 優生手術と産児調節としての中絶の防止を目的とした。
1948年優生保護法は 戦後の過剰人口対策として人工妊娠中絶を認め、
第1条は 戦前の優生運動の流れ、 第14条は
「経済的理由」の追加
1952年中絶禁止の条項は空文化し、ほぼ自由に行われる行為となった。
1955年人工妊娠中絶数の急上昇 届出は117万件でピークに達する。

5.事情のある妊娠・出産の場合
1872年明治政府による娼妓開放令・人身売買の禁止を打ち出した。
1873年私娼の禁止・近代的公娼制度の確立
1880年(明治13年)刑法 堕胎罪の成立 国家統制の始まり
望まない妊娠はヤミ堕胎、嬰児殺し、棄児の形におよぶことが多かった。
1945年(昭和20年)外国駐屯軍慰安施設等整備要領 国営の売春施設運営
      占領軍兵士の性病罹患率の上昇、米国の売春反対の世論
1946年GHQにより国営売春施設は閉鎖された。
      しかし、米兵の性暴力が絶えない。特殊飲食店街 赤線 公娼制度のよみが
え      り。
1947年引揚げ婦人の健康問題と人工妊娠中絶 秘密裏での施行
1948年寿産院事件 婚姻外からの「もらい子」で約100万円稼いでいた。
1977年菊田医師養子斡旋事件「実子斡旋」
1987年特別養子制度が成立

6.生殖革命と女性
女性主導の性となる時代
1970年代「リプロダクティブ・フリーダム」の概念
1980−1990年代「リプロダクティブ・ヘルス」の概念
1998年日本国内で初めての未婚者への人工授精と出産
1999年低用量ピルの解禁とバイアグラ 承認までの期間の長短に男性優位の認識
性感染症の問題 クラミジア感染の急増加、エイズ感染

売春
1956年売春防止法
1984年風俗営業法
児童買春は国境を越えた問題となっている。

7.高齢者の性をめぐって
高齢者の性を否定しない、多様な性のあり方があることが調査検討され始めている。

第5・6章文献感想
 病気ではない妊娠を病人史で扱うことは、多少の冒険があると思われた。
(筆者もそのようなニュアンスを述べているが)妊産婦死亡・乳児
死亡の沿革を追い、当時の社会状況を述べ、さらに出生率から少子化問題を捉え、社会的
な政策の状況を述べていることでは、社会を範囲に入れた病人史ということで、興味深い。

 第6章では、病人史と戦後の女性の人権の関わりが、リアリティに理解できる内容であ
ろう。戦後の女性は、現代では健康と権利を獲得したと言っても過言ではないであろう。
その反面、近代の生殖文化における多様性の中で新たな問題が形を変えて出現しているように思われる。


 
 
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川上武編著『戦後日本病人史』第I部第7章
報告 横田

『病人史』読書会 2006.8.24 担当:横田
川上武編『戦後日本病人史』農山漁村文化協会, 2002.

第7章 産業構造の変動と社会病  252-320
1 社会病の戦後における系譜
(1)社会病の病人史、その意味
社会病の定義:「社会・医療システムの歪み自体が直接的に疾病の原因となり、病人の運命を暗転させる」ことで生じた、健康上の被害=川上『現代日本病人史』3頁からの引用
病人と社会の関係=被害・加害の色合いが濃い
加害者=国家、企業、医療機関
一個人が社会と対峙する姿=人間の美しさ=社会病の病人史の魅力
(2)社会病の時代としての戦後
社会病が生まれるのは社会が強制力をもって人々の生活を規制するとき
戦後経済の変遷=労働災害・職業病にさらされてきた
重化学工業化、国土開発、大量生産・大量消費社会=公害病
医療革新と国民皆保険=医原病と医療事故
社会病の分野が広がることと、病人が生まれることは、ひと繋がり
本章:典型的社会病である労災・職業病と公害
(3)社会病病人史の時代区分
社会病の病人史時期区分=社会の認知と補償をめぐる闘い
本章:社会の認知を主体
病人史の時代区分に関わる要素=産業構造の変化、運動の支援

2 職業病と就労構造の変貌
(1)労働現場の疾病・障害:戦時と戦後の連続性・不連続性
「生産優先主義」:戦前から戦後に連続
(2)復興とともに増加した労働災害
戦後の労働環境の変化により労働災害増減
敗戦直後=労働時間短縮で減少→朝鮮戦争特需で経済復興=生産増強=労働災害は増加
・炭鉱災害 戦後直後も減らず
炭鉱を巡る環境の変化:
傾斜生産方式による増産=労働強化→アメリカ炭と石油の挟み撃ち=「合理化」→1960年代に石油に敗れる=大手も閉山の流れ
1963年 三井三池炭塵爆発 戦後最悪の炭鉱事故 一酸化炭素中毒の死亡・後遺症
炭鉱被害者社会の犠牲:炭鉱の安全無視、石炭産業の切捨て
(3)高度経済成長期:重化学工業化、合理化と労働移動
産業構造・労働人口構成の変化:農林水産業から、鉱工業、サービス業へ
技術革新:日本の国際競争力向上、有害物質、危険な機器・設備その他有害作業を招来
→新しい労災,職業病患者の発生
例)水銀・鉛中毒、有機リン・有機水銀中毒、ベンゼン中毒、職業ガン・・・
大規模化、オートメーション化:熟練工の配置転換、心身負荷の偏り
その他の例)頸肩腕症候群、白ろう病、塵肺(1980年代初めまで長期にわたり増加)
・農業の「近代化」に伴う災害
従来=寄生虫症、「こう手」(一種の腱鞘炎)
高度成長期=農機具による外傷、農薬による健康被害
例)パラチオン、パラコート
農業の「近代化」がもたらしたもの=重労働から解放、生産性向上、肉体的精神的負担出現
若槻による農業に起因する疾病と災害分類、この時期に新しいものが出現
「農夫症」概念: 戦前からあった、健康犠牲を当然視する考え方。戦後も、都会の労働者にもある「健康不在」を示す社会的疾病概念
(4)低成長期:ハイテク産業化と労災打ち切り
1970年代高度経済成長は終了、産業構造の再編=輸出の主力は鉄鋼から自動車へ
1980年代 OA化FA化=過労性障害の拡大
1990年代 平成不況=過労自殺
一般病の社会化=成人病がストレスで悪化=不健康で危険な生活行動は、社会によって強制されている
「生活習慣病」は、社会が強制しているという視点を欠落
「本人不注意論」(高度経済成長期の労災で企業側が主張)の、低成長・平成不況版


3 公害による戦後病人史
(1)前史:戦前の公害病
第一次世界大戦後重化学工業化
1930年代 鉱山・工場の公害、大気汚染・水質汚濁・騒音などの都市公害問題
戦前は、公害現象はあっても問題にせず
足尾鉱毒事件=日本資本主義で最初の大規模な公害
戦前の公害:農作物、自然環境の被害を主張、健康被害は軽視

(2)公害病の発生:高度経済成長期のはじまり
・水俣病
1951年ごろから海に異変、1956年奇病発生を厚生省に報告(患者発生は1941年にまで遡る)
当初伝染病と考えたが、1959年熊本大学により有機水銀説発表、厚生省水俣病食中毒部会が有機水銀の排出源をチッソ水俣工場と特定
水俣はチッソ城下町 → 水俣病病人,漁業関係者以外はチッソ側
「見舞金契約」(1959)、漁業安全宣言(1964) → 汚染拡大
・四日市ぜんそく 
1958年 三菱系昭和四日市石油操業開始、コンビナート群の建設
1953年ごろから伊勢湾で漁業に被害=油臭い魚
1960年代はじめから元漁師町から喘息患者発生
1965年 市の認定制度発足
・イタイイタイ病
1876年 三井組、神岡に進出 亜鉛鉱山
明治期から鉱毒事件あった
1961年 荻野昇によるイタイイタイ病のカドミウム鉱毒説
疫学的特徴=被害者の発生地域と神通川からの取水・利用地域が完全一致
1966年 補償要求、三井拒否
1963年 厚生省イタイイタイ病研究班発足
1968年 公害病と結論
[年代が他の本の記載と異なる部分がある:
下川耿史<シモカワコウシ>編『環境史年表 昭和平成』2004, 河出書房新社]

日本の公害の特徴=庄司、宮本『日本の公害』からの引用
加害企業の犯罪性
人的損失の大きいこと
政府・自治体の公共活動により公害発生が促進、政府・自治体が住民運動と敵対
その背景
生活環境、安全対策を後回し
産業構造が素材供給型重化学工業優先、中小企業から公害が排出
異常な大都市化・重化学工業の集積化
大量高速運送大系の無計画な進行
地価上昇で公害防止のための土地利用計画は困難
大量消費生活様式の普及
企業国家、企業主義、「草の根保守主義」
→ 労災・職業病と共通性

(3)高度成長期の公害問題
1967-68年
損害賠償請求=公害と被害の因果関係が争点=科学裁判
法定内外 健康破壊をなくしたい研究者・医師vs.企業側の学者の論争
1971-73年 判決、原告勝訴 
判決後も存在する問題
公害病による障害は継続、他の地域にも患者
認定制度が足かせ
企業の補償は被害者の苦しみを償うにたらない
患者差別・圧迫

(4)低成長期における公害被害者の闘い
「第二期」の公害被害=カネミ油症、六価クロム公害
流通・消費過程で発生する都市公害=大都市と工業都市から地方・農村漁村へ 
1972年 国連人間環境会議「かけがいのない地球」
→ 公害防止世論の高まり

公害病年表 307-308頁

1973年 石油ショック、ドルショックを境に、環境対策は世界的に後退
経団連:二酸化窒素の環境基準緩和を要請
1977年 公害健康被害補償制度改定、水俣認定基準改訂

低成長期の公害
ハイテク汚染=トリクロロエチレンの地下水汚染 企業と行政が公害隠しに奔走する
生活のなかにある汚染=廃棄物焼却、建材、産業廃棄物
20世紀の公害=工業化をすすめた国、資本主義国・社会主義国を問わず
20世紀末から=途上国への公害の輸出・国際化が問題化
公害予防、汚染物質処理を経済に組み込むか、環境を破壊しない経済を目ざすか、理論的検討中
「決定的な解決策のないまま二一世紀に受け継がれた環境問題が、いま正念場を迎えていることは確かである。」[311]


 
 
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川上武編著『戦後日本病人史』第I部第9章
報告 植村

《戦後日本病人史》読書会レジュメ 2006.8.24 植村要

第9章 「認定」と「補償」の責任論

1.病人史における社会病の「認定」と「補償」
労働災害・職業病や公害病は、加害者の存在する病気である。被害者である病人は、その償いをもとめる権利があり、加害者は国家や企業である。病いからの解放と、加害者による謝罪、償いを求めた病人たちに対し、加害者は「認定」制度を口実に救済を怠ろうとした。病人に残された道は裁判に訴え、企業や国と対決することである。命を削るこの闘いによってはじめて、社会病の「補償」の多くがかちとられていった。

2「認定」制度のはじまり
@ 労働基準法の「業務起因性疾病」
新しく健康被害を受けた人は、それが業務に起因することを自ら立証しなければ、補償をうける権利が発生しない。この考え方は、ほかの全ての社会病にも広がっていった。
A「原爆医療法」の認定疾病
原爆医療法が制定されたが、これについて病理学者の杉原芳夫はつぎのような問題点を指摘した。
「誰も仕事を休んでまで、遠方にある指定検査機関に出向く者はいない。原爆症の認定は医師がすることになったが、放射線によって、どんな病気が発生するかもわからない。」
1988年3月末の認定者数は、被爆者総数の約0.7%にとどまる。
B 水俣病の「見舞金契約」
公害病が、医学的診断ではなく行政の設置した機関によって「認定」される制度のルーツは、1959年に「見舞金契約」にある。当初、水俣病患者と「認定」されたのはわずかに112人だった。認定には患者・家族の申請が必要で、差別をおそれ申請しない者も多かった。また認定のための検診は、患者と医師との関係を傷つけた。

3 社会病の拡大と「認定」問題
@ 被爆者「認定」の経緯
原爆医療法の改正や被爆者特別措置法の成立により、新しい制度が設置された。しかし、爆心地からの距離、現在の所得などで制限があり、死没者や遺族は省みられなかった。これに対し被爆者は、「被爆者援護法」による国家保障を求めて運動を進めた。
A 塵(じん)肺の「認定」問題
塵肺症は戦後もっとも早くとり上げられた職業病である。1951年、「塵肺措置要綱」が策定されたが、補償制度が病気の特性を理解しないものだったため、労働者は死を覚悟で働き続けた。
B 白ろう病の「認定」問題
1960年、白ろう病が発生、拡大してきたが、林野庁は調査や対策の必要性の報告を受けながら、これを黙殺、秘匿してきた。世論や国会での追求で労働省は、1965年5月、白ろう病が職業病にあたることを認めたが、被害者救済を怠り続けた。当時、病像をめぐる医学論争があった。
C CO中毒後遺症の病人史
1967年にCO特別立法が成立し、1968年にCO協定が結ばれたが、十分なものではなかった。1972年、企業責任を問う民事訴訟が提起された。三池炭鉱閉山に向けて、1996年には、CO協定の破棄が三井鉱山の後継会社である三井石炭鉱業と労組の間で合意され、これによってCO患者とその家族は、切り捨てられた。
D 農業災害補償の運動
1964年には静岡県の農協青年部や全国農協から要求が出された。1965年、労働者災害補償保険法の改正によって、農業災害にも労災保険適用の道が開かれた。しかし、農民の過労性疾患、農薬中毒などは認めないという問題があった。
E 新しい職業病の「認定」問題
業務起因性疾患のうち労災・公務災害として認定・補償されたのは1部だったが、1960年代後半〜70年代に認定患者数は増加した。
F 過労性疾患の労災認定
職業病の認定を申請・獲得できるかは、職場に労働組合があるか否か、その組合がどのような姿勢をとるかに影響された。
G 隠蔽される原発被曝
1970年代に「原発ジプシー」と呼ばれる原発労働者の健康障害が起こっても、国や原発企業はこれを認知しなかった。1974年、最初の原発被曝訴訟が提起された。背景には地域の産業基盤の弱さ、それを誘発しつけ込む原発産業側の動きがある。
H 4大公害病裁判から「公害健康被害補償法」へ
1971〜73年、4大公害病裁判で原告=患者側が勝訴した。73年、「公害健康被害補償法」が成立し、加害者の費用負担で補償が給付されることになった。1973年の水俣病第2次訴訟は、認定基準の誤りを問うものとなった。
I 予防接種禍の救済制度
全国予防接種事故防止推進会の厚生省への陳情により、1970年7月に、「予防接種事故にたいする措置」が閣議決定された。額や医療費支給が最近の人に限られるなどの問題があった。認定には、必要な診断書が医師の死亡や拒否で入手できなかったり、市町村窓口での受け付け拒否があった。
J 予防接種禍集団訴訟
1973年には、損害賠償を求めるワクチン禍集団訴訟が、また1975年には、国を相手に損害賠償請求訴訟が定期された。

4 国・企業の巻き返しと国家賠償訴訟
@ 職業病認定打ち切り
1970年代半ば、日本経済が低成長期に入ると、労災による補償を打ち切る動きが強まった。1989年に、日本労働者安全センターが解散するなど、労災・職業病をめぐる運動は大きな影響を受けた。
A 水俣病認定基準の再改訂
1977年、症状の組合わせによって判断するという「昭和52年判断条件」が、環境庁によって示された。これにより新たに水俣病と認定される数は目立って減った。
B 公健法改定への動き
政府、財界は「現在の大気のもとでは被害者の発生はありえない」という立場で、公害病補償の打ち切りをすすめた。1987年、公健法が改定され、大気汚染指定地域41ヵ所の解除と公害患者の新規認定打ち切りが決定された。

5 国家賠償を求める病人たち
@ 国家賠償請求
1978年の大阪西淀川公害訴訟が大気汚染裁判としてはじめて国を被告に加えた。また、80年に提起された水俣病第3次訴訟も、ついに国・県を相手にした訴訟となった。これらは公害病補償の打ち切りを進める国の政策と、対決する性格をもつものだった。
A 過労死・過労自殺の「認定」問題
1988年、大阪過労死問題連絡会と、東京を中心としたストレス疾患労災研究会に参加する弁護士、医師、労働運動家が中心になって、「過労死110番」全国ネットが開設され、過労死の労災補償の相談活動をはじめた。
B 原発被曝の社会問題化
1993年、原発労働者の被曝による労災に初の認定がおりた。1993年には「労災申請相談窓口」が、1996年には神奈川、大阪、北海道で「原発被曝労働ホットライン」が開設された。その後、原発労働者の被曝への労災認定は増加し、白血病だけで労災認定は5件(申請されたもの10件:2000年10月現在)にのぼる。
C スモン裁判と薬事2法
1979年、薬事2法が成立し、また厚生省・製薬3社と被害者の間で和解調書(確認書)が調印された。
クロロキン薬害裁判の1995年の最高裁判決ではいずれも国の責任は認めなかった。
D 薬害エイズの認定・補償問題
1988年、「全国ヘモフィリアの会」は、薬害エイズの完全救済を国と製薬企業に求める方針をきめた。同年、国会審議中の「エイズ予防法案」の成立阻止と、薬害エイズの原因究明、患者救済のため、「東京HIV訴訟弁護団」が結成された。1989年、政府は「血液製剤で感染した血友病患者に対してのHIV感染者救済事業」を発足させた。1989年、エイズ予防法案は、血友病患者らが反対運動に奔走するなか、強行採決によって成立した。

6 社会病の「和解」と戦争責任
@「被爆者援護法」の制定と問題点
1994年、「被爆者援護法」が制定された。これは、改善点も認められるが、国家補償の法律とはならなかったため、「ふたたび被爆者をつくらない」「核兵器は国際法違反」という国の態度が明確でなく、施策面でも特別葬祭給付金の受給資格者を被爆者手帳を持っているものに限るとか、外国人被爆者を排除するなどの矛盾、欠陥が残ったと、日本被団協は評価している。
A 水俣病の「和解」
公害病裁判は、90年代につぎつぎと判決をむかえた。多くは国の国家賠償責任を認めなかったが、水俣病第3次訴訟と西淀川公害第2〜4次訴訟では、国の責任を認める判決がおりた。
1995年、水俣病の「最終決着」が世論となった。9月に連立与党3党は与党解決案をまとめ、政府は閣議でこれにもとづく政府解決策を決定、村山首相が談話を発表した。
B HIV訴訟
1989年5月、大阪で9名の原告が国と製薬企業(ミドリ十字、化血研、バクスター、バイエル、日本臓器製薬)を相手取り、訴訟を提起(以後96年までに16次、182人が提訴)、10月には東京で14名が提訴(以後96年までに11次、218人が提起)し、HIV訴訟がはじまる。90年には「HIV訴訟を支える会」が結成され、支援活動がとりくまれていった。HIV訴訟は、原告が匿名で参加できるよう配慮され、法廷で患者は原告番号で呼ばれていた。のち患者のなかから運動を進めるためにあえて実名を公表し、メディアにも登場する人々があらわれた。1996年、菅厚生大臣は、国の法的責任を認め、謝罪する。あらゆる薬害事件ではじめてのことであった。
C 戦後史の底流にある「責任回避」 
90年代に「和解」にいたったどの国家賠償訴訟でも、和解文の文言に「謝罪」のはいることはなかった。医学的な理由で.はなく、法律の規定によって、病人が隔離という人権侵害を受けつづけた点で、ハンセン病は、病人史としての共通点をもっている。


 
 
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川上武編著『戦後日本病人史』第I部第10章
報告 

◆第10章 精神障害者と「こころを病む」人びと 《p.403-465》 坂口 志朗

報告 三浦藍

一. はじめに*病人史で精神病者を取り上げる理由
@ 精神病者の処遇に低医療費政策の矛盾が直接的に表われ、経済的に不利な立場である。
A 精神病者の診断と治療は病気に即して社会条件に左右される面が強い。

二. 戦中戦後の精神病者 *精神衛生法【1950年制定】に関してその特徴 p.403
1) 精神病院の設置を都道府県に義務づけた
2) 精神障害の予防、国民の精神的健康の保持向上の考え方
3) 精神衛生鑑定医の制度の創設
4) 全国民が都道府県知事へ診断および必要な保護を申請できるようになった
5) 仮入院・仮退院の制度の創設
6) 私宅監禁制度の廃止

三. 分裂病の戦後病人史 p.407
1) 向精神薬の登場 治せない→治せる
2) 作業療法、遊戯療法、生活臨床
江熊要一ら「分裂病の再発予防を目的とした精神医療のあり方」→地域精神医療へ
3) 病院病床の増加 結核→精神
4) 精神衛生実態調査 第1回【1954】第2回【1963】、第3回(1973)以後下火に
5) 精神衛生法改正【1965年】
ライシャワー事件(1964年)→「危険な精神障害者」の排除と隔離の強化
* 入院中心主義→通院治療と社会復帰支援の活動重視
* 処置入院の患者が無断退去した場合の警察への通報義務・緊急処置入院制度・精神障害者の申請通報制度の強化なども……
6) 地域精神医療への道 小坂英世―分裂病者の治療「技術論」小坂理論
7) 地域の精神病者たち 浜田晋『私の精神分裂病論』
8) 家族の努力 1965年「全国精神障害者家族会連合会」の創設
1993年「全国精神障害者団体連合会」の発足
9) 患者虐待の実態 1960年代末からの悪徳精神病院告発の流行
10) 1993年において70歳未満の6ヶ月以上入院患者34.60万人のうち、19.34万人(55.9%)が精神病院の入院患者である。
・短期入院患者と長期入院患者の二極分化(回転ドア現象と病院沈殿グループ)
11) 開放化へのこころみ 開放化運動(日本の精神病院の開放率30%台)
12) 精神衛生法から精神保健法へ
*精神保健指定医制度(5年毎の研修)*「任意入院」「医療保護入院」を規定、「応急入院」を新設 *本人への必要事項の告知(義務?)*都道府県の精神医療審査会による入院の継続に関する審査*人権を著しく無視する行動制限の禁止*法律の目的に社会復帰の促進を盛り込んだ*生活訓練施設ならびに授産施設を精神障害者社会復帰施設として法律上規定
13) 「精神障害者保健福祉手帳」について 1995年から交付(97年で6万人)

四. 「こころの病」の戦後史 p.430
 1)「心の病」と精神障害(気分変調性障害・パニック障害・対人神経症・強迫神経症)
 2)うつ病の多様化(内因性うつ病・神経症性うつ病・反応性うつ病)
  ・過労自殺におけるうつ症状・児童、思春期におけるうつ状態・産後うつなど
 3)パニック障害(不安神経症) *流動的な疾患概念
 4)対人神経症・強迫神経症と不登校・社会的ひきこもり
  ・不登校‥何らかの心理的・環境的要因によって登校しないか、
登校したくてもできない状態にある児童・生徒
・ ひきこもり‥20代後半までに問題化し、六ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの   ***長期化・高齢化

五. 戦後の依存症の歴史 p.436
1) アルコール依存症の現状 8.4L(1985)→9.2L(1990)
2) 「無頼派」の時代 バルビツレート系薬剤中毒 1951(S26)年覚せい剤取締り法施行
3) 高度成長の時代 ヘロイン,シンナー中毒
1961年「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」
1963年久里浜病院アルコール専門病棟 AA(1970年代中頃より)、DARC(1985)
 4)90年代の薬物汚染――薬物依存の低年齢化――

六. 子どもの処遇――変わりゆく家族の中で―― p.442
1) 戦中・戦後の子どもの状態 登校拒否児・約26万人(1956) 2)高度成長期の子どもたち 核家族化 3)受験戦争の時代―いじめの深刻化― 4)孤立する子どもたち 5)新たな学級崩壊の時代

七. 「こころを病む人」の戦後史 p.446
 1)「こころ」の時代 2)拒食症から摂食障害へ 食に関する嗜癖行動 
3)境界例 ・人格障害と幼児・児童期の虐待の経験 
感情の調節障害/衝動の制御障害/一過性の現実見当障害/
激しく揺れ動く対人関係/孤立することへの恐怖/自己同一性の障害
4)児童虐待 境界性人格障害との関連 5)少年非行の深刻化 共感性の欠如
6)犯罪と精神障害 保安処分と精神医療

八. 幼児虐待とトラウマ p.452
1) 幼児虐待への関心のたかまり2000年「児童虐待の防止等に関する法律」発布 
2) 古典的幼児虐待 3)カムアウトする性的虐待の被害者たち 4)「偽りの記憶」論争

九. 世紀末の精神状況から二一世紀へ p.456

 「電気治療は外来で、お金がなくてインシュリン療法ができない人を非常に安直に、患者が受ける傷など一切かんがえないで、ただおちつかせるという意味でつかっていたようにおもいますね。今薬物が大量につかわれている状況に似ているのではないかと思います。」(岡田泰雄「歴史からみた日本の精神科医療の問題点』、八戸ノ里クリニック、二〇〇〇年)第2部討論における浜田晋の発言、坂口[2002:408]に引用)
 「また、一九四七年に松沢病院で開始されたロボトミーは、またたくまに全国の精神病院にひろがり、五〇年には精神外科が日本精神神経学会の宿題報告として取り上げられ、戦後の一時期はその全盛期であった(12)。[…]しかし五五年ごろより向精神薬が使われるようになると、その効果が顕著であったこともあって、ロボトミーはそのマイナスの面―人格変化をともなう脳障害の存在が明らかにされて批判にされされ、急速に治療法としての生命を失った。それだけ向精神薬は精神の病の治療に画期をもたらしたといえる。向精神薬による薬物療法は、それまでの治療法に比べ手軽で、しかも効果が現れやすかっただけに、安易な投与や大量療法へ結びつくことにもつながり、薬物一般に共通する弊害を生み出すことにもなった。しかし、それまで「治せない」として医学的対象の外に置かれていた精神の病を、「治せる」可能性があるものとして、治療への積極的取り組みを引き出した点で、<0408<向精神薬の導入は画期的なできごとであった。」(坂口[2002:408-409])
(12)ロボトミーに代表される精神外科の一時的な興隆とその転落の歴史については、岡田文彦『精神分裂病の謎――精神外科の栄光と悲惨』(花林書房、一九九八年)が、最新の大脳生理学の知見もとりいれ、精神分裂病の病因解明にもとりくんでいて面白い。」(坂口[2002:459])

 「一部の国立病院や療養所で試みられていた作業療法と、その延長線上にある生活療法は、向精神薬の開発後に全国の私的な精神病院に普及することになった。この背景には、向精神薬が患者を覚醒状態において鎮静させる効果があるため、電器ショックやインシュリン療法と違って、少ない人手でたくさんの患者を管理することが可能になったことがある。」(坂口[2002:409])

 
 
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川上武編著『戦後日本病人史』第I部第11章 本間 肇
報告 堀田義太郎
 →重症心身障害児施設

『戦後日本病人史』川上武編著、2002年、農山漁村文化協会   担当:堀田義太郎

 ※ 印以下はメモ

第11章 重症心身障害児(者)の歩み (pp. 466-516)

一 重症心身障害児医療の黎明

(1)はじめに

(2)重症心身障害児(者)問題登場の背景と現状

 この「問題が社会に浮上したのは、戦後十数年も過ぎてから」
 その要因――@重症心身障害児の増加、A重度・重症のため児童福祉法の適用外とされながら、B核家族化による家庭療育が困難になった。

 「問題」自体は「古くからのもの」――「多産多死が普通」の時代→「出生時に障害児と分かれば、“間引き”を悪と感じない時代」。その実態は「闇の中」。
 ⇒ 戦後の人権意識の向上、医療技術の進歩、少子化と家族などの複合要因――重症心身障害児の問題の社会化。

(3)重症心身障害児(者)問題が社会問題に――くるま椅子の歌

1946年11月、滋賀県に近江学園開設
1958年 「重症心身障害児」という呼称により、児童福祉法の適用外だった障害児に公的支援
水上努「拝啓 池田総理大臣殿」と『くるま椅子の歌』(1967年)

(4)敗戦直後の“心身障害者(児)”福祉
 
 1947年12月「児童福祉法」の制定。以後は毎年一部改正

(5)東京都立梅ヶ丘病院

● 改善史:
 当初は30名を超える集団に3〜4人の職員
 ――就職して一日で辞める人と、自分は移れるが子どもは移れないから「辛くても働いている」という人。
 労働条件と子どもの状況の過酷さ⇒看護職員の退職⇒さらなる状況の悪化
 ⇔ 職場の環境整備(主に人員増員のための予算の問題)
 蓄積された技能の定着と継承を困難にする異動――人事管理制度
 家族会の形成と協力
 教育――現行制度・規準が壁(著者は1979年「養護学校への全入が制度化」に言及している)。
 看護師の増員と新職種の導入。予算の補正

● 現在:
 廃止の危機――「都立病院で経営効率が最も悪い」(480)
 ⇔ 2001年石原都知事の諮問に対する統廃合・民営化の提案

(6)重症心身障害児施設・施策は何故出遅れたのか

「療養効果の薄い重症心身障害児に対して、果たしてそれだけの社会的意味があるのか?という効率優先の考え」(481)

(7)「重症心身障害児」問題はどのような力で前進したのか

 障害児の親の会、障害者団体――「福祉なくして成長なし」1973年「福祉元年」と呼ばれる
 糸賀一雄の思想――「不治永患」ではなく「発達保障」。「予防と早期発見、早期対策」「取り替えることの出来ない個性的な自己実現……こそが創造であり、生産である」「人格発達の権利」(484-5)。
 ※ この文に含まれている矛盾は、この章の著者自身にも共有されている。

二 ひととして生きようとする障害者に“壁”

(1)親・兄弟による「障害者」殺しと“無理心中”

 無理心中 → 同情による情状酌量 → 障害者の生きる権利の無視 →
@ 1976年毎日新聞「子どもと共に重荷を背負って人生を歩んで行く覚悟がほしかった」という障害児を持つ主婦による投稿。
A 「この年、希望すれば入所できる物理的条件は出来たと政府は表明」(486)⇔ 施設での「処遇」への不安

(2)障害者の要求・「人間として生きたい」

 ● びわこ学園の吉田君――「人手不足は子どもの生活に直接響いた」
 ● 労働
 ● 同性の入浴介助
 ● 結婚・出産・仕事

(3)〜(5)は「府中療養センター」の人体実験をはじめとした暴力と虐待についての記述

三 光と影――施策のゆがみ

予算不足と人員不足:「運営費・職員の待遇と確保」の問題・「重労働の割に処遇もいまいち」(499)
→重症心身障害児(者)施設でのストライキ(1973年5月島田療育園」
過重労働→退職→人員の減少→労働条件の悪化の悪循環

四 障害者に対する“見方”

(1)本人の主張――著者のまとめ「自己の確立に向けて、自己を主張する。自分で出来ること、自分で
出来るようになることに向かって全力を出す。この意欲は生きる力の源泉だ」(503)

(2)親などからみた“障害者”と医療・医師

母親の話。「施設に入れるために16歳の娘に子宮摘出手術を受けさせる」『私には蒼い海がある』

(3)医師の〈多様な価値観〉

● 合理主義的立場 ※「合理主義」がどういう意味で使われているかは不明
『神の汚れた手』の医師――生かすに値しない生があると考える「心情」は「ナチスと五十歩百歩」
『谷間の生霊たち』――死んだ方が幸せ。「スプーンで歯をこじ開けて強制的に食事を与える光景なんて、まるで拷問だ。罪もない子らが、三度、三度、拷問にかけられているようなもの」
「深刻な人手不足のなかで、極めて良心的な医師たちが苦悩する姿が、残酷に描写されている」(506)

※ だが「拷問」という語は「拷問される者」が生きていることが前提。上の文の意味は「生かすことが拷問である」ということだが、それは理に適ってはいない。つまり合理的ではない。

● 人道主義的立場―― 別府・太陽の家の中村医師

(4)ヴァイオリニスト・千住真理子(省略)

五 「障害者の権利擁護をすすめる」施設で働く福祉労働者

(1)職場のノーマリゼーション到達度評価
(2)賃上げから「賃上げも・入所者の人間らしい生活の保障も」へ
 1965年 賃金、労働条件が劣悪、人手不足による閉鎖、入所者の削減、ストライキ
 1975年 入所者よりも職員数が上回る 「とはいえ、大部分が民間経営のため労働条件の改善は」進まない。
 労働組合による運動―― 「職員のためだけではなく、……入所者の人権擁護を求める項目が掲げられた」(508)

おわりに

出生前診断・遺伝子診断による予めの排除→社会が変わる必要
障害に対するイメージの変化
性の問題――「人間として当然のこととはいえ……」 
「早期発見・早期治療で脳性まひなど……訓練によって歩ける」

 ※ だが、過剰な訓練の身体的負担によってむしろ悪化する場合も多い。

年表(省略)


※ 全体を通して指摘されている、労働(介助)者の状況と被介助者の状況の相即性をめぐる問題点は重要。とりわけ看護・介助が重労働であるという点。
たとえば「介助の社会化」をめぐる問題として
――「介助」は、
@ 他者の身体に関わるためダーティ・ワークの側面がある。
A 相手のニーズに合わせる仕事であり労働者のイニシアティブ(主体性?)が期待されていない(自由度が低い)。言い換えれば、個々の行為の適否はその場の相手に委ねられている(個別的ニーズの充足が目的である)。
B 自己の利益のための仕事ではなく他者の利益のための仕事である(効率化・システム化は困難)
など、精神的・身体的負担はたとえばデスクワークなどに比べて大きい。(さらに「生産に寄与していない」という仕事への価値づけ(スティグマ化?)も無視できない)
→「介助の社会化」の必要性と困難。
介助せず済んでいる者(「フリーライダー」(立岩))は、何をどれだけ負担すべきか。
介助せずに他の労働をしている者の負担の程度は、その労働の様々な負担に応じて算出されるのではないか、等々。

 以上


 
 
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川上武編著『戦後日本病人史』第2部第2章
報告 利光恵子

川上武編 2002 『戦後日本病人史』 農山漁村文化協会
第U部 現代医療のパラダイム転換と病人・障害者

*利光コメント
はじめに 第三次医療技術革命の特徴(p611-613)

戦後日本医療技術の発展を技術論の視点から見ると(技術を概念操作で、技術自体と技術システムに分ける考え方を提起)
・第3次医療技術革新(20世紀末〜)の特徴:技術自体のなかに「倫理」、社会的価値を含む
p613注(1)「・・・医療倫理、バイオエシックスは医療における人間の行為を倫理面から体系的に研究する学問体系として、有力な地歩をしめるにいたった。・・・私は現代医療の技術自体のなかに“倫理”が参入してきたという事実より出発しているので、前記の著書とは同じ問題を扱っても、展開のしかたが少し違ってくる。とくに“ビジネス化”を射程に入れたのは、私の技術論が、技術自体と技術システムとを、概念段階で分離し、現実の医療の場では両面からのアプローチを重視した結果である。」
・第1次・第2次医療技術革新:副作用の問題、過剰適用といったマイナス面もあったが、技術自体としては、技術進歩=患者のため、好ましいという理論的枠組みの上に構築
・明治以降の技術進歩・医療システムの歴史にも“医弊”のない時代はなかったが、“医弊”は技術自体というより医療システムの限界に由来

・第三次医療技術革新=医療を根底で支えている理論的枠組みの転換あり。典型は、脳死・臓器移植(死期判定の変更―心(臓)死から脳死へ)、生殖革命。
・脳死・臓器移植と生殖革命が内蔵している医療思想上の問題について、多くは、それらが医療のパラダイム転換の上に成立してくる技術であることに気づいていない。むしろ、科学技術信奉の根源的性格として技術適用を望む患者がいる限りは、前進をやめることはなく、医療思想としての限界、難点、そのビジネス化についての社会からの厳しい批判を軽視。
・根底に技術的・思想的難点をかかえている以上、その技術的・思想的点検が必要
 
第2章 性革命から生殖革命へ(p640-684)

1.人類の二大欲求―“生と性”(640−)
(1)不老長寿の願いと高齢化社会
 生への強い欲求→医療における技術進歩:臓器移植、遺伝子治療、ゲノム解析
         “死への道”が重要課題
(2)性の二面性(快楽性と生殖)
 性の二面性をめぐる医療技術の進歩
性革命:“性の快楽性”追究が女性主体の下で、性と生殖の分離技術確立
生殖革命:不妊治療技術の開発が“生殖革命”とよんでもよい段階に達した。生命倫理の問題が発生(p642)

2.性革命の実現過程―“性と生殖”の分離へ(p643-)
(1)性の快楽性の追究
 (a)低容量ピルの開発・普及→女性の主体的な避妊が可能に。しかし、副作用や長期的予後への不安あり
   *RU486(ミフェプリストン Mifepristone 米:ミフェプレックス、EU:ミフェジン)妊娠後(最終月経初日から)49日以内であれば妊娠修了可能。日本では未承認。2004/10に厚労省ホームページで健康被害の危険についての注意喚起し、個人輸入を制限。 
 (b)勃起障害(ED)へのバイアグラの使用。しかし、副作用、適用は限定。
   日常診療の場での性の軽視の現状:降圧剤・向精神薬服用による性機能低下←医師・患者・家族(妻)の評価の差(p646)
   *ED治療薬:レビトラ(日本バイエル)・・・ラテン語で、レは男性、ビトラは生命
    糖尿病・高血圧の合併症としてのEDもあるが、大多数が相談せず

(2)性のマイノリティの社会化
 トランスジェンダーをめぐる医療
  医療行為としての「性同一性障害」の「患者」への性転換手術実施(埼玉医大1998.10)
 「性同一性障害でも、医療を必要としない人々もおり、患者という言葉には抵抗感をもっているということもある。病人史としても注意すべき問題であろう」(p647)

3.水面下で進行した生殖革命(648-)
(1)生殖技術の三つの分類(金城、1996による)
 @生殖力を抑制し、望まない子どもの出生を回避する技術(避妊・人工妊娠中絶など)
 A出産を望んでいるのに子どもをもつことができなかった女性に、子どもを生めるようにする技術(不妊治療)
 B生命の質を選別するための技術

(2)生殖革命の定義
「生殖革命は男女の性関係と生殖の連続性を断ち切り、夫婦/カップルとその実子とされる子どもとの生物学的な親子関係と社会的(法的)な親子関係を複雑化したものである(中略)。最後は、誰を母と見做し、誰を父とするかは、単に法的な問題ではなく文化的な問題でもあり、価値観の再考をせずに決することは避けなければならないと思う」(柘植あづみ、2000)

(3)不妊治療の治療技術の発展段階
(a)不妊症の定義
  「避妊をしないでごく自然に性行為を営んでいるあいだ、2年たっても子どものできない状態」(国際参加婦人科連合、国際不妊学会・・・医学的定義)
  妊娠しないという以外にはなんの身体症状がないので、病気というより、「子どもが何としてもできない人にとってのひとつの症状」(宮淑子、2000)
(b)人工授精―AID(DI)とAIH
(c)体外受精-“試験管ベビー”の誕生
「体外受精は俗に“試験管ベビー”と呼ばれる。・・・この言葉は、体外受精という技術によって、女と胎児の関係の変遷を表すようで興味深い。ベビーが試験管の中(対外)に置かれるのは、実際には発生のごく短い間だけなのであるが、培養された胚がもどされる女の体は、胎児生命の源、生活者としての女ではなく、“試験管としての女”なのである」(丸本百合子、1991)ここに女のからだが、女性の人間としての生活、感情が、“子どもを生むことの技術化”を優先する技術思想によってゆがめられていく危険性を感じる。体外受精を核として技術の発展方向が代理母、借り腹などに向かうことへの問題提起と思われる。(p654)
(d)顕微授精の問題

(4)胎児選別の問題ー生命の質の選別
超音波画像診断、トリプルマーカー検査、羊水診断、絨毛検査、受精卵診断
(a)障害児の排除―出生前診断の二面性
「ハイリスク・グループの女性たちには、出生前診断はその対処を事前に決定できるという点で福音」しかし、「いくら胎児診断が進んだって、障害児は必ず生まれる」(丸本)という事実の重みから眼をそむけることはできない。障害児との共生が必要になってくる社会的基盤はここにあるといわざるをえない」(p657)
(b)男女生み分け
 着床前診断、パーコール法

4、女性の側からみた性革命・生殖革命(660-)
(1)女性の性の主体性の確立と限界
 p661 20歳未満、20歳台前半での人工妊娠中絶数の増加→「その背後には低用量ピルの利用が進まないことがあり、使用者は2%未満という実情がある。」
*この記述は、その前での金城(1998)「イギリスの統計では若い世代ではピルが使用されるようになって、かえって中絶実施率が増えている」との引用と矛盾。金城は続けて「ヨーロッパ諸国などで中絶を少なくしてきたのは、おもに性に関する情報の提供や教育の普及によるものであった。日本で強調されているように、ピルは中絶をなくす特効薬ではない」と記載(金城、1998、『生命誕生をめぐるバイオエシックス』p35)

(2)女性と生殖革命
(a)科学技術と安全性の問題
  生殖革命の過程には、女性にとって技術的・社会的にリスクがある:卵子採取の際の不安・苦痛・危険性、排卵誘発剤による卵管過剰刺激症候群
 (b)女性の人生を変える生殖技術―生活と結婚への影響
生殖技術の女性に対するリスク=低い成功率、身体の苦痛・危険性、心理的不安、多額の費用、「終わりのないトンネル」
(c)不妊治療の背後にあるものー女性のリプロダクティブ・ライツ、自己決定権を阻害するもの
 女性を不妊治療に押しやる家庭的社会的背景・心理的圧力=「跡継ぎが必要」・・・現在でも色濃く残存する「家」意識と「いのちを繋ぐ」という観点
 (d)体外受精と女性の生命観
  減数手術の問題

5.性、生殖の商品化・ビジネス化
(1)性の商品化・ビジネス化
 売春防止法公布(1956)
 高度経済成長にともない、売春・風俗産業へのニーズの高まり
 性のより多面的なビジネス化→風俗産業の隆盛、海外への売買春ツアー、外国人売春婦

(2)生殖革命の商品化・ビジネス化(p667)
(a)生殖技術と保険診療
(b)生殖医療のビジネス化
 ・精子・卵子・受精卵の売買
 ・代理母出産
    →生殖産業(リプロテック)
    →赤ちゃんビジネスのマクドナルド化の方向
(c)生殖医療のガイドライン作成
 厚生省の「生殖補助医療に関する専門委員会作業班」が一応のガイドライン発表(2000年6月) 表6参照(p672)
  「精子・卵子・胚の提供による生殖補助医療のあり方についての報告書」
   ・精子、卵子、受精卵の売買の禁止
   ・「代理母出産」の禁止
→しかしながら、今だにたなざらし状態 

6.脳死・臓器移植と生殖革命との共通点とちがい(673-)
(1)医療技術の日本的特性
「脳死・臓器移植と生殖革命について、・・・病人・障害者の視点から、その齎す社会的影響とその根底にある思想的意味について考えてきた。このなかで、その受けとめ方・適用が先進国の間でも違いがあり、さらに開発途上国ではむしろその革命的技術の“被害者”的役割を担わされていることも明らかになってきた」(p673)

脳死・臓器移植と生殖革命について(技術内容・レベルは同じであるのに)、その適用において、アメリカ・西欧とは様相が異なる。日本での脳死・臓器移植と生殖革命の間にも共通点と差異がある。⇒日本医療の日本的・文化的特性

(2)両者の共通点
■パラダイム転換としての共通点
脳死・臓器移植(N)
 前提条件である死期判定の“心(臓)死から脳死”への転換=医療の科学的、倫理的、法的枠組みの根本的変更
生殖革命(S)
 不妊治療の進歩の結果として、生命操作を人工的・技術的に行うことが可能=“生殖”のパラダイム転換

■日本的匿名性―情報開示の流れに逆行
脳死・臓器移植(N)
 臓器移植法施行第4例目から、家族は医療機関に匿名性を前提として、臓器提供を認めるようになったため、脳死判定、臓器移植の適応の是非という、最も情報開示が必要な分野が闇に 
*むしろ、医療側が情報開示に消極的であることの正当さを証明するために、ドナー・家族のプライバシー保護を前面に出したのではないか。川上が指摘するように、情報公開が必要なのは、脳死になった事故原因、救命救急医療の実態、脳死判定の手順、移植臓器の配分、レシピエントの状況といった医学的事実であり、匿名であっても情報公開は可能
生殖革命(S)
 子どもを生めない・生まない女性がいる家庭への社会の厳しい眼、生殖革命には親と子の関係を公開させない部分(精子ドナーの匿名性など)あり→生殖革命の匿名性

(3)両者の違い(表7 P675参照)・・・以下、N:脳死・臓器移植 S:生殖革命
■技術の実施される場所
N:脳死判定の技術的条件のある救命・救急センター(臓器提供病院)+ 臓器移植に関する人的・物的資源を擁する大病院、術後も生涯にわたる医療的管理が必要
S:施設は開業医レベルで可能、
 成功すれば、医療から離脱

■技術的認知度と技術適用の平等性
N:非日常の医療、適用に男女差なし、小児への移植は例外を除けば不可
S:水面下で日常診療化、女性に対する侵襲度大

■技術の復元可能性
N:一回限りの最終的手術(*例外:腎移植、生体肝移植)
S:成功するまで繰り返し施行が必要、いつやめるかが決断のしどころ

■技術のガイドライン
N:長い議論のすえ、脳死臨調→臓器移植法の制定で、国レベルでの一定の枠組みあり
S:水面下で既成事実が先行、学会レベルで現状追認の形で会告(ガイドライン)

■自己決定の問題
N:ドナーとレシピエントそれぞれへの情報開示と自己決定が必要不可欠だが、現実にはドナーへの情報開示時は完全に形骸化、ドナーカードを持つ当事者とともに家族の同意も必要
 *現行法では、前もって文書によって脳死判定を受けることと脳死での臓器摘出に同意する意思を表示しており、家族も同意する場合に、脳死・臓器移植は可能(自己決定を必須条件としている)
S:当事者である女性の自己決定が、家庭や社会の外圧重圧に左右されることが多い
■生命倫理との関係
N:「脳死」=「死」であることは一定の合意あり
 *臓器提供に合意している場合に限り、「脳死」=「死」
  人体の資源化、末期医療・尊厳死とも深く関連
S:生命の質の判断を避けてとおれない(障害児の選択的中絶、男女産み分け)

脳死・臓器移植には、「歴史的生命観の改革が要請される。また、生殖医療のもつ優生学的発想、男女見分け問題になると・・・その際に、“健常者と障害者の共生”“マイノリティの人権尊重”の旗を高くかかげないと、人間が人間らしく暮らす社会としては必ずしもこのましくなくなるかもしれない。そういう意味では、21世紀医療はその出発点で厳しい選択を迫られているといえよう。ここに病人史(障害者を含む)の存在理由もあるといえよう。」
(p681)
(作成 利光恵子)


 
 
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川上武編著『戦後日本病人史』第2部第3章
報告 大谷いづみ

病人史読書会 20060825 立命館・学而館生命部屋
川上武編著,2002,『戦後日本病人史』農山漁村文化協会       担当:大谷いづみ

第3章 21世紀の死と生死観

一 心臓移植とホスピスを“対”で考える。
・死のパラダイム変換
突発死による脳死(と臓器移植)とがんによるターミナル・ケア(による死=ホスピス)を“対”で把握する
・医療技術的アプローチと社会的・経済的基盤アプローチの必要性
 個人としては生死観や死の教育の問題,それ以上に死んでゆく者に対する社会的配慮 →社会や看とる人々の問題

二 死亡数急増の21世紀
・21世紀の“死”の特徴:「後期高齢者(75歳以上)」の死亡の急増と「病院・施設死亡」の増加=死のパラダイム変換
・世人の常識=バイテクによる人間の生命の延長(敗戦後,死亡率の低下,1980年代世界一の長寿国)
しかし,1990年代以後,再び死亡者数が増加し,今後は急増が予測(1999年,106万人,2012年,140万人)
※ 人は永遠に死なないわけではないから,後期高齢者の死亡の急増は,戦後,長寿になった結果,長寿化の底を打った当然予想されるべき状況では?

三 死への二つの道
(1) 生死観をめぐるふたつの道
「人間は出生と同時に,成長→死への道が規定されているのに,平生は死について考えることは少なく。それが一たび死を意識する状況におかれると,それ以降,死についての思いがさらず,死への恐怖におびやかされていく」
・人類一般の死について考えようとする立場:宗教,哲学,生命倫理の分野
・「自分自身の心が,生命飢餓状態におかれている場合の生死観」:
 刑が最終的に決定した死刑囚,出撃日が決定した神風特高隊員,がんで手遅れが宣言される(岸本英夫)
※???
(2) 生死観からバイオシックスの死へ
 バイオエシックスが直面する四つの死(加藤尚武)
 @人工妊娠中絶 A新生児の死 B末期患者の安楽死 C臓器移植
 これらの「死者の精神,心」と死の事実,技術の“解釈”とのズレ
(3) 死への二つの道
 (a) 医学的要因が主導する死
  第二次医療技術革新(人工呼吸器の開発)
  →死期判定の変化:脳死問題,スパゲッティ症候群・植物状態の患者,癌患者や難病の末期患者の生死決定権や家族の意見→尊厳死の問題
 (b) 社会的要因が主導する死
・医療技術の及ばないところでおきる死の問題:自殺,事故,孤独死,死刑など
イ 自殺
・バブル以後の自殺の増加(過労死と自殺)
 高齢者の自殺は一人暮らしより,家族と同居している場合(重荷になるという不安)の方が多い→日本型家族制度の崩壊過程の前兆?※
ロ アメリカの自殺についての一つの考え方(キボキアン)
・死の“自己決定権”→(他者の手を借りた)自殺
ハ 交通死(一万人)
    ※「被害」なのに(加害者が)「殺人」に問われないという遺族の感慨
ニ 孤独死
   (i) “飽食の時代”の餓死(生活保護の受給問題)
   (ii)現代社会の「異常な死」(神戸震災)
→(仮設住宅の)孤独死:@一人暮らしの男性,A慢性疾患,B低所得者(100万以下)
→独居死(特に心血管系の慢性疾患をもつ一人暮らしの高齢者の突然死)
ホ 死刑
ヘ “社会病”(職業病と公害病)

四 現代医療の現場で――“スパゲッティ症候群”と病人・家族
(1) 現代の病院医療――延命医療の実情
 第三次医療技術革新(特にICU)→蘇生術から延命医療へ→象徴としての“スパゲッティ症候群”
(2) “スパゲッティ症候群”とは
 医療・看護の世界で日常的に用いられる“スパゲッティ”,家族や見舞客にとっても受け取り
  ※病院死=スパゲッティ,在宅死=自然死という図式
(3) 尊厳死とカレン裁判
 延命治療の限界→“尊厳死”(「リヴィング・ウィル」):延命治療の放棄の遺言,本質は消極的安楽死
 もともとは“安楽死”法制化運動のなかから誕生した概念。
 アメリカの安楽死運動:「消極的安楽死」と「積極的安楽死」で消極的安楽死を尊厳死といいかえる。カレン裁判が事態を一変
(4) 日本の尊厳死の動向
 「アメリカでは尊厳死が承認されてから,末期医療の手抜きや差別などのトラブルがおきてきていることである」(※出典なし)
五 安楽死と二一世紀の死
(1) 最近の二例の安楽死事件と名古屋高裁の判例(1962年)
・東海大学事件,京都京北病院事件
(2) “安楽死先進国”オランダの実態
・死亡者の40人に一人が“安楽死”を選択
・問題点:精神的・心理的苦痛も含む,家庭医による在宅安楽死
(3) 自殺幇助と安楽死(ヘンディンの紹介)
・「オランダでは自殺幇助・安楽死の実験を握っているのは患者でなく医師,安楽死は患者ではなく医師の支配権力を強化するもの」l
・PVSはコスト意識先行の医療システムにおいては,延命治療が不当に停止される危険性
 →二一世紀の医療は,完全な高度医療と“楢山”医療に二極分化
これをさけるためには,
 →医療・福祉システムを“キュアからケアへ”転換すること
  病人の立場にたって行動すること
※ 「生命倫理といった一般論」
※ 「病人の立場に立つこと」と市民の自己決定権絶対化意識

六 ホスピスは建物ではなく,ケアの哲学と運動
(1) ホスピスの暗いイメージ
・末期癌患者に転院先としてホスピスを勧める→最期の場所,ホスピスに行った患者の末路(死)?
(2) ホスピスのルーツ:1879.12.9アイルランド・ダブリンの近代ホスピス
(3) 近代ホスピスの誕生
1967 セントクリストファー・ホスピス,セント・ビターズ・ホスピス(市民運動による)
1980 世界最初の「ホスピス会議」:「人権運動としてのホスピス」,「患者の権利宣言」
 ドイツ(1986),デンマーク(1992)
(4) ホスピスのサービス形態の推移
・イギリス,アイルランド:在宅ケアの増加,日本:介護保険法のなかの“二四時間ケア”の充実にかかる

七 日本でのホスピスの動向
(1) ホスピス黎明期から現在へ
・キリスト教系医療施設・欧米の「人権運動としてのホスピス」運動として登場
 聖隷ホスピス(1981),淀川キリスト教病院ホスピス(1983),岡村昭彦の活動
 長岡西病院ビハーラ病棟(1992),
 在宅ホスピス医療
(2) ホスピスの現状
 ホスピス入所期間:平均二ヶ月,年間6-7000人
(3) 『死ぬ瞬間』の影響
(4) 延命医療からホスピスへ
 「死の受容」の受け入れ方(の混乱)・山崎「病院で死ぬということ」(1990)

八 二一世紀の生死観
(1) スピリチュアルケアの背景
・山崎の提唱「死に直面していく時に感じた不安や恐れとか,存在の喪失というスピリチュアルペインは,民族,宗教,国境を超えて普遍的な問題」
・デーケン@「死の教育」予防医学としての意味,患者の家族と遺族へのスピリチュアルケア
・樋口和彦:「死の受容」は医学をより処理しやすくするやり方,死んでゆくひとの自由が必要
 →筆者の解釈:病人・家族や医療・看護者にとっての死に向かって生きていくときの哲学としての死生観(生死観)の重要性=普遍性と個別性の統合する生死観
(2) 生死観の多様性
・個性的であるが時代の制約:世代間の差異と世界的視点からの生死観の差異
(a)特攻隊員と命じた人間の自決→日本人の生死観(「気にかかる」)
(b)ネーダーコールン靖子のオランダでの安楽死
(c)小泉純一郎:弘法大師の絶食死と細川ガラシャの自害,大往生とポックリ死

九 生死観と社会保障
・筆者の社会保障観:@親のない子の生活・教育保障A子のない親や単身者の老後保障B障害者や慢性病者の治療・生活・労働保障
・死に直面したときの
 @身体的不安:「激痛のあまりの尊厳死」※???
 A社会的不安:高齢者の余生の不安,親の子どもの生活・教育保障への不安,
・死にゆく者の生死観の問題:他者(含む宗教)依存で解決はできない
 →どう生きたかによって決定される
・ゲノム時代の生死観はわかりにくい


※ 考察
@医療技術革新による「死」の変容(人工的に延命された生)→安楽死・尊厳死・自然死,解決策としての緩和ケア・ホスピス→西洋的な死への態度への疑問→日本人の死生観(大往生・ポックリ+特攻隊・自決の例示)
A社会的要因による「死」の変容:自殺,事故,孤独死(天災,ライフスタイルの変化など),死刑,「社会病」

※ 典型的でありがちな図式の@とAがかみあわないまま(統合して考察されないまま),筆者自身の戸惑いで終わっている。トピックや文献を通して人口に膾炙した言説が筆者にママ投影されている?
@の図式に疑問はあるようだが,「気がかり」や戸惑いで終始している。
※ 筆者の「気がかり」や戸惑いは,「八 二一世紀の生死観」の「生死観の多様性」と括られた事例の非多様性と,「九 生死観と社会保障」との乖離にあるのではないか。

■言及

◆立岩 真也 2008 『…』,筑摩書房 文献表


REV:20060713,15 0813 070322 0404,05, 20141226
病者障害者運動史研究  ◇医学史/医療史  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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