3 社会病の拡大と「認定」問題
@ 被爆者「認定」の経緯
原爆医療法の改正や被爆者特別措置法の成立により、新しい制度が設置された。しかし、爆心地からの距離、現在の所得などで制限があり、死没者や遺族は省みられなかった。これに対し被爆者は、「被爆者援護法」による国家保障を求めて運動を進めた。
A 塵(じん)肺の「認定」問題
塵肺症は戦後もっとも早くとり上げられた職業病である。1951年、「塵肺措置要綱」が策定されたが、補償制度が病気の特性を理解しないものだったため、労働者は死を覚悟で働き続けた。
B 白ろう病の「認定」問題
1960年、白ろう病が発生、拡大してきたが、林野庁は調査や対策の必要性の報告を受けながら、これを黙殺、秘匿してきた。世論や国会での追求で労働省は、1965年5月、白ろう病が職業病にあたることを認めたが、被害者救済を怠り続けた。当時、病像をめぐる医学論争があった。
C CO中毒後遺症の病人史
1967年にCO特別立法が成立し、1968年にCO協定が結ばれたが、十分なものではなかった。1972年、企業責任を問う民事訴訟が提起された。三池炭鉱閉山に向けて、1996年には、CO協定の破棄が三井鉱山の後継会社である三井石炭鉱業と労組の間で合意され、これによってCO患者とその家族は、切り捨てられた。
D 農業災害補償の運動
1964年には静岡県の農協青年部や全国農協から要求が出された。1965年、労働者災害補償保険法の改正によって、農業災害にも労災保険適用の道が開かれた。しかし、農民の過労性疾患、農薬中毒などは認めないという問題があった。
E 新しい職業病の「認定」問題
業務起因性疾患のうち労災・公務災害として認定・補償されたのは1部だったが、1960年代後半〜70年代に認定患者数は増加した。
F 過労性疾患の労災認定
職業病の認定を申請・獲得できるかは、職場に労働組合があるか否か、その組合がどのような姿勢をとるかに影響された。
G 隠蔽される原発被曝
1970年代に「原発ジプシー」と呼ばれる原発労働者の健康障害が起こっても、国や原発企業はこれを認知しなかった。1974年、最初の原発被曝訴訟が提起された。背景には地域の産業基盤の弱さ、それを誘発しつけ込む原発産業側の動きがある。
H 4大公害病裁判から「公害健康被害補償法」へ
1971〜73年、4大公害病裁判で原告=患者側が勝訴した。73年、「公害健康被害補償法」が成立し、加害者の費用負担で補償が給付されることになった。1973年の水俣病第2次訴訟は、認定基準の誤りを問うものとなった。
I 予防接種禍の救済制度
全国予防接種事故防止推進会の厚生省への陳情により、1970年7月に、「予防接種事故にたいする措置」が閣議決定された。額や医療費支給が最近の人に限られるなどの問題があった。認定には、必要な診断書が医師の死亡や拒否で入手できなかったり、市町村窓口での受け付け拒否があった。
J 予防接種禍集団訴訟
1973年には、損害賠償を求めるワクチン禍集団訴訟が、また1975年には、国を相手に損害賠償請求訴訟が定期された。
4 国・企業の巻き返しと国家賠償訴訟
@ 職業病認定打ち切り
1970年代半ば、日本経済が低成長期に入ると、労災による補償を打ち切る動きが強まった。1989年に、日本労働者安全センターが解散するなど、労災・職業病をめぐる運動は大きな影響を受けた。
A 水俣病認定基準の再改訂
1977年、症状の組合わせによって判断するという「昭和52年判断条件」が、環境庁によって示された。これにより新たに水俣病と認定される数は目立って減った。
B 公健法改定への動き
政府、財界は「現在の大気のもとでは被害者の発生はありえない」という立場で、公害病補償の打ち切りをすすめた。1987年、公健法が改定され、大気汚染指定地域41ヵ所の解除と公害患者の新規認定打ち切りが決定された。
5 国家賠償を求める病人たち
@ 国家賠償請求
1978年の大阪西淀川公害訴訟が大気汚染裁判としてはじめて国を被告に加えた。また、80年に提起された水俣病第3次訴訟も、ついに国・県を相手にした訴訟となった。これらは公害病補償の打ち切りを進める国の政策と、対決する性格をもつものだった。
A 過労死・過労自殺の「認定」問題
1988年、大阪過労死問題連絡会と、東京を中心としたストレス疾患労災研究会に参加する弁護士、医師、労働運動家が中心になって、「過労死110番」全国ネットが開設され、過労死の労災補償の相談活動をはじめた。
B 原発被曝の社会問題化
1993年、原発労働者の被曝による労災に初の認定がおりた。1993年には「労災申請相談窓口」が、1996年には神奈川、大阪、北海道で「原発被曝労働ホットライン」が開設された。その後、原発労働者の被曝への労災認定は増加し、白血病だけで労災認定は5件(申請されたもの10件:2000年10月現在)にのぼる。
C スモン裁判と薬事2法
1979年、薬事2法が成立し、また厚生省・製薬3社と被害者の間で和解調書(確認書)が調印された。
クロロキン薬害裁判の1995年の最高裁判決ではいずれも国の責任は認めなかった。
D 薬害エイズの認定・補償問題
1988年、「全国ヘモフィリアの会」は、薬害エイズの完全救済を国と製薬企業に求める方針をきめた。同年、国会審議中の「エイズ予防法案」の成立阻止と、薬害エイズの原因究明、患者救済のため、「東京HIV訴訟弁護団」が結成された。1989年、政府は「血液製剤で感染した血友病患者に対してのHIV感染者救済事業」を発足させた。1989年、エイズ予防法案は、血友病患者らが反対運動に奔走するなか、強行採決によって成立した。
6 社会病の「和解」と戦争責任
@「被爆者援護法」の制定と問題点
1994年、「被爆者援護法」が制定された。これは、改善点も認められるが、国家補償の法律とはならなかったため、「ふたたび被爆者をつくらない」「核兵器は国際法違反」という国の態度が明確でなく、施策面でも特別葬祭給付金の受給資格者を被爆者手帳を持っているものに限るとか、外国人被爆者を排除するなどの矛盾、欠陥が残ったと、日本被団協は評価している。
A 水俣病の「和解」
公害病裁判は、90年代につぎつぎと判決をむかえた。多くは国の国家賠償責任を認めなかったが、水俣病第3次訴訟と西淀川公害第2〜4次訴訟では、国の責任を認める判決がおりた。
1995年、水俣病の「最終決着」が世論となった。9月に連立与党3党は与党解決案をまとめ、政府は閣議でこれにもとづく政府解決策を決定、村山首相が談話を発表した。
B HIV訴訟
1989年5月、大阪で9名の原告が国と製薬企業(ミドリ十字、化血研、バクスター、バイエル、日本臓器製薬)を相手取り、訴訟を提起(以後96年までに16次、182人が提訴)、10月には東京で14名が提訴(以後96年までに11次、218人が提起)し、HIV訴訟がはじまる。90年には「HIV訴訟を支える会」が結成され、支援活動がとりくまれていった。HIV訴訟は、原告が匿名で参加できるよう配慮され、法廷で患者は原告番号で呼ばれていた。のち患者のなかから運動を進めるためにあえて実名を公表し、メディアにも登場する人々があらわれた。1996年、菅厚生大臣は、国の法的責任を認め、謝罪する。あらゆる薬害事件ではじめてのことであった。
C 戦後史の底流にある「責任回避」
90年代に「和解」にいたったどの国家賠償訴訟でも、和解文の文言に「謝罪」のはいることはなかった。医学的な理由で.はなく、法律の規定によって、病人が隔離という人権侵害を受けつづけた点で、ハンセン病は、病人史としての共通点をもっている。