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『難病生活と仲間たち――生命の輝きと尊さを』

山田 富也・白江 浩 20020212 燦葉出版社,323p.

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山田 富也・白江 浩 20020212 『難病生活と仲間たち――生命の輝きと尊さを』,燦葉出版社,323p. ISBN:4-87925-064-3 1905 [amazon][kinokuniya]※ md. n02h.

※もとになっている本↓

◆山田 富也 198311 『筋ジストロフィー症への挑戦』,柏樹社,222p. ASIN: B000J79Q3G [amazon][kinokuniya] ※ md. n02h.

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・内容説明(bk1)「兢々とした今日、社会的弱者たちの声はかき消される。こんな時代だからこそ、筋ジストロフィー患者は声を大にして訴えたい。生きたい! 生きる意味をあなたに! 難病患者の仲間たちの記録集。」

生命がおろそかにされがちな時代に生きていることの尊さを伝えたい!兢々とした今日、社会的弱者達の声はかき消される。こんな時代だからこそ、私達(筋ジストロフィー患者)は声を大にして訴えたい。生きたい!生きる意味をあなたに!難病患者の仲間たちの記録集。

■目次

序章 筋ジストロフィー患者として
第1章 筋ジストロフィー患者の日常生活
 進行に伴う生活の変化
 歩けなくなってから
 身のまわりの心がけ
 私の主治医
第2章 筋ジストロフィー患者の社会生活
 病院生活で気づいたこと
 筋ジストロフィー患者にとっての学校
 在宅生活の悩み
第3章 筋ジストロフィー患者として生きる
  筋ジストロフィーと出会って
 第一節 阿部恭嗣
 第二節 中島英一
 第三節 佐々木文夫
 第四節 岡村隆税
 第五節 高野岳志
 第六節 丸山聖人
 第七節 勝矢光信
 第八節 中澤利江
 第九節 大山敬司
 第十節 小関譲治

■著者

山田富也[ヤマダトミヤ]
 1952年4月4日九州・大牟田市に生まれる。1968年4月国立療養所西多賀病院に入院。1974年3月国立療養所西多賀病院退院。1978年10月映画『車椅子の青春』で第一回赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞。1980年4月映画『さよならの日日』で文化庁優秀映画賞受賞、第二回赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞。11月仙台市より「賛辞の楯」表彰。1986年11月社会福祉法人ありのまま舎設立。1987年4月身体障害者福祉ホーム仙台ありのまま舎を開所。1989年6月仙台市制百周年記念特別賞表彰。1994年4月難病ホスピス太白ありのまま舎開所。現在、社会福祉法人ありのまま舎常務理事。福祉総合誌『ありのまま』編集長。全国車椅子市民交流会運営委員。宮城県難病団体連絡協議会顧問

白江浩[シラエヒロシ]
 1955年4月大阪市生まれ。中学生の時に被爆者の人々と触れ合い差別・戦争・貧困等の問題に関わる。高校生の時に初めて筋ジスの人と出会い、障害・難病の問題に深く関わる。大学在学中に山田3兄弟と知り合い、映画「車椅子の青春」の制作・上映運動に参加。以来、難病・筋ジスの人々の問題を中心に、重度の障害を持った人々と関わりながら、生きて来る。1998年4月太白ありのまま舎施設長代行。2001年1月太白ありのまま舎施設長(ゼネラルマネージャー)2002年2月詩集『車椅子の青春―難病患者たちの魂の詩―』出版する

■引用

第3章 筋ジストロフィー患者として生きる

◆白江浩 20020212 「筋ジストロフィー患者として生きる」,山田・白江[2002:129-319]

 第一節 阿部恭嗣 132-155
  19551112生
  難病筋ジス患者のぼやき 阿部恭嗣 149-155
 第二節 中島英一
  1951-19930404
  筋ジスとつきあって 中島英一 172-179 『ありのまま』創刊号(197605)より
 第三節 佐々木文夫 
  19571115-19950623
  筋ジス患者として病室で思う事 190-195
 第四節 岡村隆税 196-
  19480603-19981227
  映画『車椅子の青春』シナリオより 210-
 第五節 高野岳志↓
  「筋ジストロフィーと私」 229-236 『ありのまま』2(197610)
 第六節 丸山聖人
  19540408-
  「蒼いすすき」 丸山聖人 248-252
 第七節 勝矢光信
  1947-
  映画『車椅子の青春』シナリオより 260-
  「在宅−難病の人々の思い」 262-268
 第八節 中澤利江 269-
  19650403-
  「ホスピスで五ヶ月を過ごして」 281-286
 第九節 大山敬司
  19600414-
  「私の入院療養生活」 297-304
 第十節 小関譲治
  197309-
  「これから」 315-318

 「第五節 高野岳志(たかのたけし)


 一九八四年十三月二十七日、高野岳志君が亡くなった。
 その翌日、山田富也から私の自宅に電話が入り「高野君が亡くなった」と告げられた。
 山田富也にあこがれ、ありのまま舎の連動に興味をもち、干葉市で行われた映画「車椅子の青春」の上映会では、実行委員長を務めてくれた。
 入院中の病院内から準備を進めるということで、様々な問題を抱えていた。
 しかし、高野君たちは、それを超えていくこともこの上映運動の意義と位置付けていた。
 高野君には、人を引き付ける不思義な力△217 があった。実行委員のメンバーも高野君には一目置いているように見えた。
 リーダーとして、頼もしさを感じた。
 上映会の後、私は彼の勧めもあって、病院内で一泊させて頂いた。
 当然私のべッドなどないわけで、ぺッドサイドの床には、新聞紙が敷かれ、その上にはどこで調達してきたのか、布団とマットレスが敷いてあった。
 どうやら、ナースの中にも理解者がいるようで、彼らの運動を心援してくれてしるという。
 その夜、遅くまで実行委貝会のメンバーと話した。その中で高野君は、山田富也の行動力、ありのまま舎の活動を見ていて、自分もどのような困難があっても、やりとげたいことがある、と語っていた。
 「地域で暮らし、啓蒙運動をする」というだけで、それ以上のことは具体的には考えていなかったようだ。
 高野君の話を聞いていると、山田富也とありのまま舎を思い描きながら話しているようにさえ、聞こえた。
 その後、電話と手紙で何度か連絡をとり合ったが、彼なりに着々と準備を進めていった。△218
 しかし、周囲(家族や病院関係者)の反対は強く,なかなか退院できる状況にはならかった。
 医師は「退院したら、一年の生命だ」と告げた。
 しかし、のちに高野君は言った。
 「退院したらあと一年の生命だ、なんて言われたけど、あのまま病院にいたら、それこそ一年の生命だったと思う」
 その頃ようやく聞こえ始めたアメリカ自立生活運動(IL)に呼応するように、高野君は動き始めた。
 IL関係の集会や講演会の場に、よく顔を出していて、そこで何度か高野君と出会った。
 高野君は山田富也にすこぶる似ていた。風貌ではない。その考え方、行動様式が、である。
 頑固であること。信じた道を必ず実現しようとすること。周囲は無謀と見ても、本人はいたって楽観的であること。そういうと神経の図太さと雑把な人問を連想する方もいるだろう。
 しかしその実、繊細な神経と、綿密な計質ができている、という点も似ていた。△219
 病院のべッドサイドで語り合った思い出、上映会をやり切った姿、自立生活運動に傾倒していった在りし日が思い出される。

 一九五七年六月六日。東京で高野君は生まれた。
 ようやく歩き始めた頃、ご両親は転びやすい高野君を見て、その異変に気づき始めていた。
 その後も、転ぶ回数が増え、生まれた病院で診てもらった。
 その結果「筋ジストロフイー」と診断された。
 おなかを突き出し、踵を上げ、つま先立って立って歩く様は、典型的な筋ジスの特徴だった。
 その風貌が西郷隆盛に似ていたので、「西郷さん」と呼ばれたことr
 四歳の頃、茨城県の石岡市に引っ越した。
 小学校は石岡市の普通小学校に入学した。
 お兄さんとで歩いて通った。
 この頃から、歩行が難しくなってきた。
 ランドセルを背負って、歩くことが大変になってきていた。
 ある夏休みのことだった。△220
 高野君は、お兄さんが近所ど野球をしているところにやってきて、仲間に入れろ、と訴えた。
 何とか歩くことはできても、野球が出来る状態ではなかった。
 しかし、高野君ばお兄さんに「自分がボールを打つから、代わりに兄貴が走れ」と言った。
 友だちも最初はそれを受け入れてくれた。
 しかし、球拾いも出来なくなった高野君の要求は、次第に拒否されるようになった。
 そんなある日、高野君はひょこひょこホームべースまでやってきで、突然おしっこをし始めたことがあった。
 仲間に入れてもらえず、自分をアピールしたかったようだ。
 そんな高野君を見ていて、ご両親は、難病だから、少しでも最先端の医療を受けさせたい、と思った。そこで、西多賀病院と並んで日本では早くから筋ジス患者を受け入れた、千葉県四街道にある国立療養所下志津病院に入院させることを決断した。△221
 高野君が小学校三年生の時だった。
 まだ、筋ジスのこともよく知られていなかったために、余計に入院させることへの理解が浅かったのだと思う。
 入院後は、病院に併設されていた養護学校に通った。
 仲間もできた。またI先生と出会い、様々なことを学んだ。
 勉強にも励んだ。
 高野君は中学三年生の時、お兄さんと一緒にアマチュア無線四級の免許を取った。
 その後I先生の尽力で機材を揃えてもらい、無線クラブを作るなど、活動は広がった。
 無線は今で言えば、パソコン通信(電子メール)同様、外部の人たちとのつながりを持つ、数少ない手段だった。中学・高校というのは、苦しみ・楽しみも共にもっとも多感な頃であり、活発に活動する時期でもある。又、人生の進路に悩む時でもある。
 そんな時に、筋ジス患者はもっとも進行著しく、十八歳で高校を卒業した後に寝たきりとなり、二十歳前後で亡くなることが、当時としてはパターンであった。△222
 その事実を、仲問の死を通して、患者たちも否応なく承知していた。
 高野君は自分はそうはなりたくない、と思いながらも、日々矢われていく自由と機能を実感せざるを得なかった。生きたいと思いつつ、残された時問を計り、何ができるのか、高野君の中にも、将来への焦りが強くなってきた。
 そんな中学二年生の時だった。NHKのド牛ュメント番組で、筋ジスについて取り上げたいと、病院に申し出があった。病名もあまり知られておらず、どちらかというと、その頃は病院に隔離されたイメージが強かった。
 そんな状況下で、骨と皮になった肉体をさらけ出すことに、何の意味があるんだ。病院側は難色を示した。
 そこで、NHKでは、ひとりひとり、本人や家族に聞き取りを行った。
 その時の高野君の答はこうだった。
 「病院がかわいそうだとか、情けをかけてやろうとか、そういう番組なら嫌です」
 NHKがどういう意図で、この番組をを企画したのかは分からないが、高野君の発言に対△223 して、少なからぬ興味を示した。
 そして、高野君の意思を受け入れ、高野君を中心にした、番組を構成した。ご両親にも了承をとり、撮影はスタートした。
 毎日のリハビリ訓練の様子を中心に撮影は進んだ。
 多くの患者が諦めて、訓練をしていなかったが、高野君は少しでも、鍛えて進行を抑えたいと考えていた。
 その様子をカメラは追った。
 三十分のドキュメント番組「ある生の記録」が放映されると、反響は大きかった。
 こんな病気があるのか。視聴者から寄せられる反響に対し、NHKでは、再度高野君のその後を追った番組を作ることにした。高校一年生の時だった。この時の番組の内容は、たとえ短い人生であっても、やりたいことに夢中になって取り組む生き様、表情を伝えた。この番組はヨーロツパで短編のドキュメンタリーとして、高い評価を受け、最優秀賞を受賞した。△224
 テレビを見た人が、筋ジストの子供たちを支援したいと、ヴォランティアとして、病院に来ることが急に増えたと言う。恋もした。看護婦さんだった。本気で結婚も考えていたようだ。

 ところで、高野君は高校を卒業後、東京にある大学の通信課程に籍を置いたことがあった。
 夏に行われるスクーリングは、学生だったお兄さんがずっと付き添った。
 それを二年間続けた。しかし、体力的に続かなかったのだろう。それ以来スクーリングにも参加していない。
 映画「車椅子の青春」と高野君が出会ったのは、ちょうどその頃である。
 お兄さんとも相談して、石岡上映を準備し、実行した。何ができるのか、悩んでいた頃のことである。
 実行委員長になり、友達や仲間が参加して行われた。結果は、市民会館が満員(二、〇〇〇名近い)になる大盛況だった。
 この時、山田富也と高野君は出会った。△235
 その後、冒頭で申し上げた千葉上映も成功させた。
 それから程なくだった。
 一九八一年九月に高野君が病院を出て、アパートでの暮らしを始めた、と聞いた。
 このまま病院で死にたくない。負けず嫌いの高野君にとって、どうしても受け入れ難かったのだろう。
 お父さんは、反対した。
 せっかく、最先端の医療を受けさせようと、幼い時、周囲の反対にも関わらず、入院させたことを考えると、簡単には認められなかった。
 親子の言い争いがあった。お互いに真剣だった。
 決してお父さんは認めたわけではないが、頑固で負けず嫌いの高野君も、引くわけにはいかなかった。
 アパート住まいを始めてから、近くの農家で野莱を仕入れ、野菜を売って、家賃の足しにした。リヤカーに野菜を乗せ、電動車椅子で引っ張り、後ろからヴォランティアが押しながら、何キロも売り歩いた。
 また、今では全国に一〇〇ケ所以上にまでなった自立生活センターを作り、障害者の自△226 立生活の支援活動も始めた。
 野菜の販売以外にも、廃品回収やバザーを行いながら資金を捻出していた。
 このころ、山田富也とも再会している。
 富也はどうすればこれほど真っ黒になれるのかと思うほど日焼けした高野君を見て、「筋ジスらしくない筋ジスだ」と言った。
 いつだったか、高野君はお父さんとヴォランティアさんとで、青年の翼でハワイに行ったことがあった。
 それがきっかけどうか分からないが、アメリカの筋ジス事情をよく勉強していた。
 その時、人工呼吸器「チェスト」(第二節の中島さんで紹介した)を見て、欲しがった。
 呼吸が苦しくなっていたのだろうか。
 しかし、高価なものだったので、手にいれることは叶わなかった。
 アパートでの生活に問題が出始めた。学生中心のヴォランティアは、卒業したらやめていくことが多い。後輩たちが受け継ぐが、定着させるのは大変だ。また、いんなタィプの人がいて、それをまとめくいくのは本当に大変なことだった。△227
 体調も優れず、風邪を引いても十分な対応が出来なくなった。
 負けず嫌いで、頑固な高野君は弱音を吐かなかった。
 最後は病院で亡くなった。
 あの欲しがったチェストをつけていた。
 痛々しかった。
 葬儀の場に、山田富也の姿があった。
 富也は、高野君が亡くなったことを聞いで、いてもたってもいられなかった。
 仙台から石岡まで車での数時間の旅は、富也にとっても辛い道のりだったが、最後の別れをどうしてもしたかった。
 お母さんが、富也に言った。
 「富也さんの運動を見て、岳志は自分も富也さんを目指して頑張っていきたい、と言ってました。富也さんを励みに頑張っていました」と。
 富也は今も思う。
 「もっと生かしてゃりたかった。せっかく・自立運動を始めて、これからどんどん輪が広がっていく予感がしていたのに、残念でならない」△228
 死後、解剖された彼の心臓には、ほとんど筋肉組織がなかった、と聞いた。」(この節の白江の執筆部分の全文)

◆高野 岳志 197610 「進行性筋ジストロフイーと私」,『ありのまま』2→山田・白江[2002:229-236]
 *以下全文収録

進行性筋ジストロフイーと私  高野岳志

 私が千葉県四街道町にある、国立療養所下志津病院に入所したのは、昭和四十一年六月十日のことでした。下志津病院は仙台の西多賀病院と並び昭和三十九年に進行性筋ジストロフィー患音収容指定を受けた所で、私は筋ジス専用病棟の建設に伴う増床によって入所したわけです。当時の私は小学三年生でしたが、入所を決める際に両親が私の意見を求めてくれたことは、今でも忘れることができません。両親が私のことを一個の尊重されるぺき人間として扱っていること、また、入所ということが如何に重要な問題を含んでいるかということを私は子供心にも感じていました。
 このとき、父が私に言ったことは次のような内容でした。「岳志君も良く知っていると思うけど、岳志君の病気はまだ治らない病気なんだよ。だから、日本や世界のおおぜいのお医者さんが、一生懸命に病気の治療法の研究をしているわけだ。そこで、入院するかもしれない病院は、岳志君と同じ病気の人達を集めて、お医者さんが研究をするために、検△229 査をしたり、投薬したり、機能訓練をしたりする所なんだ。だから、治療法が発見されれば一番先に治るし、岳志君と同じ病気の人達のためにもなると思う。それに、学校だってあるんだもの、淋しいだろうけど入院したらどうかね。」これに対して私は「ニ、三年ならがまんできるよ。六年生くらいにはもどってこれるよね。」と応えたものです。
 早いもので、あれからもう十年の月日が流れ去っています。私にとってこの十年は、どうやら、進行性筋ジストロフイーを理解するためにだけあったような気さえします。入所当時の私は、治らない病気だということは知っていましたが、九死一生につながる病気であることなど想像すらできませんでした。また、治療法は必ず発見されて、自分の身体は健康にもどるものと信じて疑いませんでしたが、今になってみれば答は明確です。元気に歩行できた身体はもうすっかり萎え、体験的に進行性筋ジストロフィーデュシェンヌ型を知りました。入所当時の療友は一〇〇名中十名足らずとなり、私が確実に知っているだけでも六十名以上が苦悩しつつ死んで行きました。今でも私の脳裏には、一人一人の言葉、声、しぐさ、性格などが鮮やかに残されていて、生前を思い起こさせるのです。
 私は別れ慣れしてしまって、この頃あまり、死≠ェ感じられなくなって来ていますが、妙なことに一度も最後の別れをしたことがありません。小児病棟の特性だと言ってしまえ△230 ばそれまでかもしれませんが、毎日同じ宅屋根の下で暮らした仲間の最後の別れができないことは不自然であり、いつも未練が残されます。今ではだいぶ変わって来ましたが、四、五年前までは仲問の死≠ヘ知らされませんでしたし、ある病棟では「遺体を窓から出した。」とか「強制退院させたと言った。」とか、うわさが流れたことさえありました。
 今まで死≠ヘ職員の配慮によって隠されて来たのですが、私には隠すことによりかえって死≠フ陰惨さ、恐ろしさを増幅してしまっているように思えてなりません。死≠フ病である筋ジス≠考えるには死≠考えることが必然であり、死≠考えることによって、はじめて現在の生≠ェ確立され、人生設計≠烽ナきるものだと思います。しかし、病気の本質を隠され続けると(ほとんどの回りの人達は隠そうとする)末期に至るまでは、病気のことを考えようとしないので、自分の短い人生の認識もなく、一番重要な自分の生≠考えることもありません。したがって、前向きな主体性を持つこともなく、自分に与えられた問題、例えば、悲願である「病因の究明、治療法の確立」「生活の改善」「生活圏の拡大」等に取り組む姿勢も薄れてくるものと考えられます。また死期が近づいたときに死≠フ受容がなかなかできないということも起こるでしょう。もっとも筋ジス≠フ難しさは他の領域をも考えなければなりませんが。△231
 私が体験の他に、筋ジス≠知るようになったのは、いわゆるマスコミからでした。これは、私の体験を体系づける働きをしたのです。というのは、マスコミから受けた知識が体験により実証されていったわけです。
 私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌のマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィーに冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかっていきました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んだものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なだけで健康であるなどの点でした。
 結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集だと記憶しています。私はこれに出会うまで筋ジス≠ニいう病気を楽観的に捉えていましたが、自分の置かれた現実を改めて思い知らされました。私達にとっては、当たり前となってしまっていることが、一般社会の位置づけからみると、特殊で、異常で、△232 悲惨な状況であることがわかり、筋ジス≠ェ死≠フ病であり、狭い療養所という空問的に限られた場で、時間的に極く限られた、生≠送らねばならないことを知りました。
 写真集ではカメラを通しての客観的な眼が、私達の日常を暗い陰を帯びたものとして映し出していました。寝返りさえ打てずに横たわる最重度患者の眼は、死≠ノ観念したようでいて、怨念のこもった視線を向けていました。やせ衰え骨と皮ばかりになった身体は、飢餓状態に置かれ路端に倒れ伏したアジア・アフリカ諸国の子供等を連想させ、生命の宿りさえ感じさせない点がありました。また、退院の日を夢見て身体的苦痛に耐え貫き機能訓練に励む子供達の姿は、最重度患者を頭に描くためか、そのあどけなさがかえって残酷さを強調しています。いくら機能訓練をしたところで進行を若干遅らせることが精一杯なのですから。そして、そこに映しだされた姿はまきれもない私自身の姿でもあるのです。最後の解説には筋ジス≠フ詳しい説明と、筋ジス患者は収容されるだけで、死≠待つだけの状態にあり、能率的な研究体制も打ち出せない行政の不備が指摘されていました。
 このときには死亡患者も多く、私は筋ジス≠ェ恐ろしい病気であるという感じは抱いていましたが、いざ、既定事実を知ると死≠ノ対しての動揺がつのり、不安と恐怖の念が襲って来ました。何度も何度も自分の死≠頭の中で想定し、冷静に考えようとした△233 ところで一向に考えはまとまらず、この世から自分が消滅してしまうことが、まるで他人事ででもあるかのようにしか思えず、大変無感動な状態となり、何に対しても気力が起こりません。自分が矮小化され生きている意味さえもないように思え、生まれて来なければ良かったという思いが走りました。「何故自分は苦しまねばならないのか。」「何故自分はこのような運命を背負ってこの世に存在しているのか。」としだいにやり場のない怒りがこみ上げ、どうしようもない孤独感と悲しみの内に絶望の端に立たされたような思いにかられたのです。
 私はこの十年間、以上のようにして筋ジス≠、決定づけられた人生≠知り、療養所の中で成長して来ました。そして、現段階では経済的理由、介助者、緊急時の医療、学校教育などの点によって、私達の生活の場は療養所の他にはないことを知りました。私達は一生を療養所の中で過ごし、死んでいかなければならないのです。その意味において療養所は家庭よりももっと大切な場所であると思います。しかし、私は療養所の中に寵り、そこに自分達の楽園≠形成してしまってはならないと思います。療養所はあくまでも国によって仮に設けられた収容所であり、本来は、私達も一般の人間と同じように、社会の中で暮らして行くことが当然なのですから。療養所の中にあっても社会の一員であると△234 いう自覚に基づき、一般社会とのつながりを強化し、声を絶やすことなく参加して行かなければをりません。
 今年は「国立研究所」が建設されていますが、筋ジス≠フ問題はまだやっと手がつけられたばかりです。当時〔ママ〕者である私達は問題の解決に向って最大限に努力する必要があるのです。「病因の究明・治療法の確立」は問題解決のための根本ですが、それと共に現在の私達の生活をよりいっそう充実したものとし、人間的な生≠送れる環境を築き上げることが最も重要なことであると思います。
 S君は「俺は患者である前に人間なんだ。」という言葉を残してこの世を去りました。ある側面からみれば短絡的だと言われるかもしれませんが、健康面において多少の影響があったとしても、彼は自分のなすべきことをしたかったのです。彼は職員を憎んでいました。しかし、最後には理解されることをあきらめていたようです。彼は自分の病状を知りすぎる程、良く知っていました。彼の口癖は「俺はいつ死んでも良い人間だから。」だったのです。死≠越える生≠彼は実現したかったのだと思います。彼の最後の望みは絶たれましたが、今でも彼は心の中に生き続けてします。「良き友」の死≠ヘ私にとってショックでしたが、彼の生きざま≠ヘは「素晴らしい」の一語でした。彼のな△235 すべきことは「自治の確立」「生活の向上」「筋ジス運動の推進」だったのです。
 私は自分の置かれた状況に気づくのが遅く、また、自分のなすべきことを見つけるのに、えらい回り道をしてしまいましたが、療養所の中にあっても社会人≠ナあることを忘れずに「生≠フ確立」「病因の究明・治療法の確立」を目指して進んで行くことにしています。
 私は死≠迎える日まで、自分自身を呪い、恨み、悩み続けるでしょうが、一瞬々々を大事にして掛け替えのない自分の生≠歩んで行こうと思うのです。

                     〜ありのまま 第二号より〜
                     (一九七六年十月発行)」(全文)

あとがき

 一年程前、山田富也常務理事から、「今回、「筋ジストロフイー症への挑戦一を二十年ぶりに全面改訂したいので、協力してくれ」と言われた。
 当初は、二十年の時差を修正し、字句を現代に合わせ、今の山田富也の生活ぶりを書く位に考えていた。
 そして、そのつもりで作業を始めた。ところが、結果的には、前作の面影はわずかに見られるぐらいで、改訂というより、全面書き直しということになってしまった。
 全く新しい本になってしまった。
 考えてみれば、山田富也の生活は、この二十年で想像もつかないほど変化した。
 かつては、全国を駆け巡っていたのに、今は二十四時間人工呼吸器を付け、べッド上で過ごしている。
 それひとつとっても、わずかばかりの訂正で済むはずはない。△322
 山田富也との出会いは、二十五年前に遡る。
 私にとっては、私の人生を変えた男だ。
 昔も今も、心から尊敬しているし、信頼している男だ。
 私は今、山田の後を継いで、施設長という立場で活動しているが、同志であり、兄貴だと思っている。
 私は筋ジス患者ではないが、カテゴリーとしては、その仲間に入れてもらいたい。
 この本の姉妹編として詩集・車椅子の青春%十一世紀版「難病患者たちの魂の詩」をありのまま舎は二月に刊行します。この本同様、難病患者たちの叫びと思いが収められている仲間たちの記録集です。
 この本は、山田富也・浪子夫妻と、私と、ありのまま舎のスタッフである鈴木一彦君の四人が直接手がけた。
 他の多くのスタッフにも助けてもらった。改めて感謝したい。

 二〇〇一年十二月
                                    白江浩」

■言及

◆立岩 真也 2017/06/01 「高野岳志――生の現代のために・22 連載・134」,『現代思想』45-(2017-6):-

◆立岩真也 2014- 「身体の現代のために」,『現代思想』 文献表


UP: 20160105 REV:20170511, 12
ありのまま舎  ◇山田 富也  ◇筋ジストロフィー  ◇「難病」  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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