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『差異の政治学』

上野千鶴子 2002.2.22 岩波書店 2500円


 この本の紹介の作成:MK(立命館大学政策科学部4回生)
 *の部分は紹介者による感想
 掲載日:2002.07.20

T

1.差異の政治学
2.セクシュアリティの社会学
3.歴史学とフェミニズム
4.「労働」概念のジェンダー化

U

5.「家族」の世紀
6.日本のリブ――その思想と運動
7.「リプロダクティブ・ライツ/ヘルス」と日本のフェミニズム
8.男性学のすすめ
9.複合差別論

V

10.<わたし>のメタ社会学


 


 1.差異の政治学

   一 性差論の罠

 性差の分類として、「セックス」と「ジェンダー」であるとここでは考える。[p.7](「青木やよひ氏のように、性差を三つの次元に分かって、「生物学的性差」「心理・社会的性差」「象徴的性差(宇宙論的雌雄差)」と分類する論者もいる」(「女性性の身体のエコロジー」1983))
 「セックス」は「生物学的性別」、「ジェンダー」は「社会的文化的性別」を指す。[p.3]フロイトは、性差を「解剖学的宿命」と考えたが、フェミニズムはこれに対抗し、「性差は生まれか育ちか? By nature or by nurture?」の問いに「性差は育ちの結果である」と答えた。[p.4-5]
 この「ジェンダー」という用語はフェミニズムが1970年代に持ち込んだものである。[p.3]

   二 セックスとジェンダーのずれ

 ジョン・マネーとパトリシア・タッカーは、セックスとジェンダーは別のものだということを明らかにした。[p.7-12][Money & Tucker 1975=1979]マネーとタッカーは、性診療の外来をうけもち、半陰陽や性転換希望者などの患者の相談と指導にあたっていた。マネーとタッカーはさらに、「生物的性差の基盤のうえに、心理学的性差、社会学的性差、文化的性差が積み上げられる[p.10]」のではない、ジェンダーはセックスよりも拘束力が大きいのだ、ということ[p.10]を証明した。
 フランスの社会学者、エヴリーヌ・シュルロもマネーとタッカーと同様の結論にたどりつき、「私は文明の現状においては、文化的事実をかえるよりも、自然に関する事をかえるほうがずっと容易にみえるということがわかったのです。[p.11][Sullerot & Thibaut eds.1978=1983]」と述べている。

* わたしは、ジェンダーという言葉をなんとなく知っていた。そして、ジェンダーはセックスのおまけ、のような意識を持っていた。もちろんわたしは、この箇所を読み、その意識を覆された。性差の決定において、ジェンダーがセックスよりも規制力が大きいということは、リスクを伴ってまで性転換をしようとする人たちが多くいる、ということから説得力をもって理解することができた。
 また、わたしは、シュルロの文化的事実と自然に関する事の記述は、セックスとジェンダーのみならず、他の事柄にも言えるのではないかと考えた。例えば、血液型と性格の関係についてである。私たちは、A型は几帳面、B型はマイペース、O型は八方美人、AB型は多重人格、などといった血液型による性格判断をすることがある。科学的に、性格と血液型は関係があると言っている学者もいるし、相関関係はないと言っている学者もいる。主に、心理学で扱われているようだ。[松井豊「血液型による性格の相違に関する統計的検 立川短大紀要」]仮に相関関係があったとして、それは、「言語によって形成された」分類を「言語によって追認するという作業」[カッコ内のみ引用。p.10]によっているのではないか。これは、差別とまではいかないが、この本全体で述べられている「政治的」(権力関係が組み込まれている[p.17])なことのひとつなのではないかと考えた。

   三 ジェンダー本質主義

 ジェンダー本質主義とは、性差が文化の産物であることに同意し、男性性よりも女性性のほうが優位であると主張する立場である。[p.14]これは、80年代のアメリカで登場した。
 このような立場が登場した理由は、@アメリカの保守化により、1982年、ERA(Equal Right Ammendment 憲法修正平等条項)が不成立、アメリカのフェミニズムが「挫折」したこと Aフェミニストたちが、男社会の壁の厚さに絶望し、男無用のコミュニティをつくろうとしたこと B「女性文化」「女同士の連帯感」の価値が高まったこと C70年代に活躍していたフェミニストたちが出産のタイムリミットを迎え、出産ラッシュ。母性と家庭の価値を再評価しはじめたこと などである。

   四 ジェンダーの非対称性

 ジェンダーとは、男もしくは女というそれぞれの項なのではなく、男と女に集団を分割する分割線・差異化そのものであるということを、80年代、クリスチーヌ・デルフィが提唱。
 またデルフィは、男と女は、男でなければ女、女でなければ男という対称的な関係にあるのではなく、女は、男を標準とした場合に、をれを差異化したもの、としてあると「ジェンダーの非対称性」を述べた。[p.17]
 ここから言えることは、男と女の項を入れ替えただけではジェンダーの問題解決にはならないということである。

   五 差異の政治学

 「政治」の意味は、目に見える形で何かが何かを権力支配する、ということだけではない。微視的な政治 micro-politics[p.20]を意味する。誰かが「こうしろ」と指示しなくても、一見「主体的」に見える行為にさえも微視的な権力がはたらいているという。

   六 ポスト構造主義のジェンダー論

 ジェンダーとセックスのあいだには関係があるのか、あるとしたらどんな関係なのか。[p.22]リンダ・ニコルソンは「生物学的なるものはその上に文化的な意味が構築される土台である」とした。[p.23]それは、「女性」に集団的アイデンティティを与えたが、むしろ「女性」という集団内の差異を明らかにしてしまった。このことは、9節の「複合差別論」[p.238]に詳しく述べられている。

* わたしたちが一般的にあたりまえであると考えていた「身体が性別をつくる」ということには、意外なことにそれほど歴史があるわけではない。中世の人々は、「神が人間をつくる」ことを疑ってもいなかったのだ。現在は「自然」が絶対的な存在で、その前には「神」が絶対的存在であった。絶対的存在は、真実に「絶対」ではないのである。

   七 終わりに

 差異化には政治が伴う。
 またジェンダーは、あらゆる分野すべてを説明できる概念ではないが、逆に、ジェンダー抜きで物事を説明することもできない。そのような概念である。[p.30]



 2.セクシュアリティの社会学

   一 「セクシュアリティ」とは何か?

 セクシュアリティは、古代にも中世にも存在しなかった。また、これから先存在するかどうかは不明である。よって、セクシュアリティには歴史というものは存在しない。セクシュアリティ研究は、「いま」をめぐる研究である。[p.33]

   二 「セクシュアリティ」の定義

 「セックスは両脚のあいだに、セクシュアリティは両耳のあいだにある」。1964年、アメリカのカルデローンとカーケンダールはこう定義した。[p.35-36]セクシュアリティは、生理的現象であるよりも、心理・社会的な現象である。

   三 性の科学

 表3参照。

   四 セクシュアリティの近代の装置

 セクシュアリティは「私的な領域」が「公的」につくりだされるための装置である。[p.43]。
 「公的人間」(誰にも見えている部分)は、背後の「内面」や「心理」を造る。人々は、その「内面」(誰にも見せたことのないわたし)こそが真の自己、本物であると考える。
 つまり、セクシュアリティも同じように「本物」とみなされ、個人を権力支配するのである。[p.44]

* ここからわたしが考えたことは、世の中は目に見えるものと、目に見えないものに支配されているということである。目に見えないものは、この本が述べているように「見えない権力」「微視的な」[p.20]権力としてはたらく。しかし目に見えるものもまた、見えないものと同等の権力を持っていると考える。というより、見えないものの権力が、見える権力を生み出しているのではないかと思う。
 例えば、わたしたちは、人は外見で判断してはいけないと考えながらも、まったく外見を無視してはいない。そして、「○○らしく」(女らしく、知的に、など)なるために、外見を変えようとする。整形するものもいる。「みため」は強い印象を与えるから、そのような行為は間違ってはいないと思う。だからこそ、アートや、ディスプレイの技術が存在するのだから。
 何が正しく、何が間違っているかの議論は別として、2つの権力によってわたしたちは支配され、この文明社会を生きているのだと思った。

   五 セクシュアリティの研究の方法

 セクシュアリティ研究の難点は、@セクシュアリティ研究自体がタブー視されがちであること Aセクシュアリティをめぐる言説が、表に出にくいこと Bセクシュアリティに関する史料が検閲されてきたこと C史料に書かれている歴史=歴史ではないこと である。[p.45-46]

   六 カテゴリー化とプロマタイゼーション

 「科学的」に見える調査でも、問われないことに対して被験者は答えない。[p.49]
 日本には「同性愛者」はいるのか?「レズビアン」はいるのか?[p.50-51]

* わたしは、性に関することにおいては、特に、研究の「科学性」は難しいと思う。それは、性に関すること以外でも、社会科学的なものはそうであると思う。なぜなら、何かを測る尺度は、長さや重さなど普遍的なものなら明らかであるが、人間の行動や気持ちは、簡単に比較できるものではないからである。しかし、それを一定の尺度で測る必要性が社会科学にあるのかどうか。(10節四項参照)

   七 セクシュアリティの脱神話化に向けて

 セクシュアリティの社会学とは、・・・・・・セクシュアリティの呪力を脱神話化する試みなのである。[p.52]
 トロブリアンド島民の話が紹介されている。[p.52]トロブリアンド島民は、妊娠は女性が精霊に感じて感じておきると考えていた。そのトロブリアンド島民の呪力を脱神話化したのは、マリノウスキーではなかったのか。だとすれば、セクシュアリティを脱神話化する「セクシュアリティの社会学」さえも、いずれは神話となり、さらにはそこから脱するというプロセスが待ち受けているのではないだろうか、とわたしは考えた。



 3.歴史学とフェミニズム――「女性史」を超えて

   一 女性史とフェミニズム

 欧米圏では、フェミニズムのあとに女性史が登場したが、日本では、女性史の方がフェミニズムに先立っていた。[p.56-57](表4参照)

   二 第一期=フェミニズム前史

 「被害者史観」。「解放史」としての性格。[p.58-59]
 井上清、高群逸枝。

   三 第二期=「女性史論争」とその展開

 女性史論争の3つの対立軸、@生活史vs解放史 Aフェミニズムvs解放史 Bフェミニズムvs生活史。[p.62-74]

   四 第三期=女性史からジェンダー史へ

 「解放史」「抑圧史」からの脱却。「女性文化」「女性の権力」の発見。[p.78]抑圧から自律へ。

   五 女性史と近代

 「家族」「家」との関連。

   六 歴史のジェンダー化――「女性史」を超えて

 ジェンダーという概念の導入によって、女性史においても、表現や分析の幅を広げることになる。具体的には、@「性別」の概念をひとつの用語で言い表すことが可能になった A分析対象の変化(男/女から、その差異の切断線へ) Bこの差異の権力関係の明示 どんな領域にも、ジェンダーはかかわってくる。しかし、ジェンダーがすべての問を解くこともない。[p.87-88]



 4.「労働」概念のジェンダー化

   序 「家事は仕事ではないのか」

 「家事は労働である」と主張するのも、それに反発するのも、また主婦である。[p.92-93]

   一 第二次主婦論争の背景

 1960年、「第二次主婦論争」。第一次主婦論争は、女性の社会進出であったのに対し、第二次主婦論争は、「主婦労働」を問題にした。[p.94]
 主婦労働と家事労働の違い。

   二 主婦労働の問題化とその社会的背景

 1960年は、「女性の主婦化」の時代。[p.97]

   三 「主婦労働」の値段

 主婦労働に価値はあるが、その価値が認められない。[p.101]
 「誰がいくらはらうのか」の問題。[p.103]

   四 マルクス主義者の回答

 @家事労働は労働力商品を生産する。 A家事労働は不生産的であるが、価値を生産する労働である。 B家事労働は価値を生産するが、それは交換価値ではなく使用価値である。 C家事労働は資本制分析の外にある。[p.108]

   五 沈黙させられた女たち

 一次、主婦の家事労働の価値についての論争がおさまる。

   六 八〇年代の家事労働論争

 その後再び、様々な視点により、主婦の家事労働についての議論がなされるようになる。その分類は、@マルクス主義の立場から A近代主義の立場から、「不払いの家事労働」に男性による「領有」「搾取」は影響していないというもの B「家父長制」の妥当性から疑うもの Cマルクス主義フェミニズムの問題構制を受け入れたうえで、それを一元的な経済理論の枠の中にふたたび統合しようとするもの D資本制の下での「本源的蓄積」「国際分業」を統合的に説明しようとするもの E「国家」の役割を強調するもの である。[p.115-116]

   七 「労働」概念の組み換えへ

 「男は仕事、女は家事」の時代から、「男は仕事、女は仕事+家事」の時代へ。あたらしい性差別の出現。[p.117]
 「女性の社会進出」≠「女性の地位の向上」への気づき。[p.117]
 女子労働の周辺化。[p.118-120]



 5.「家族」の世紀

   はじめに

 家族の構造は、母子ダイアドと性ダイアドの結合によるもの。家族の機能は、「子どもの社会化機能」と「成人の情緒安定機能」。[p.127-128]
 しかし、再生産は母子ダイアドさえあれば可能である。母子ダイアドと性ダイアドのあいだの必然的関係もなくても可能である。[p.128]
 家族は重い倫理性を負わされてきた。家族そのものを問い直す必要もあるかもしれない。
* わたしは個人的に、今後家族がなくなるのではないかと考えている。まず、結婚というものが消えるのではないか。少し前までは「結婚とは何か」が与えられていたために、結婚というものが成り立ってきたと思う(具体的には、「女は男に尽くすべき」などの観念によって、愛があるないにかかわらず、お見合いなどによって結婚をし、それが幸せだと考えられてきた)。しかし、そのような観念は必ずしも必要ではないという風潮になった現在、「結婚とはこのようであるべき」というモデルがない。だから、結婚の理由はひとによって様々である。様々な理由の中の一つでふえているのがいわゆる「できちゃった結婚」である。子どもができたことを理由に結婚をする。要は、子どもがきちんと経済的にも困ることなく育つことができれば、結婚しなくてもいいけれど、それが難しいということと、世の中の古い考えの人の目を考えて、結婚をするのである。
 だから、経済的にも子育てが可能で、世の中の目もさほど気にならなくなったら、彼らが結婚する理由はなくなってしまう。「できちゃった結婚」の増加は、今後の結婚の数自体の低下を示唆しているのではないだろうか。そして、結婚がなくなれば、家族である意味もなくなってくる。女性の解放がすすめば、少なくとも経済的な面では自立ができて、家族である理由が減ってしまう。だからわたしは、家族は今後なくなっていくと思う。

   一 構造――「核家族」の普遍性をめぐって

 人類学的には、性ダイアドのない家族も存在しうる。婚姻をもって「家族の成立」とみなす家族社会学の定義は、近代的な家族観・婚姻観に規定されている。[p.131]

   二 「家族」のシステム論――パーソンズとフロイト

 パーソンズとフロイトは、母子ダイアドと性ダイアドの結合が家族の必須条件だと考えていた。[p.133]

  cf.パーソンズ

   三 機能――「子どもの社会化機能」と「成人の情緒安定機能」

 パーソンズの核家族の機能(5節初項)は、母の性的パートナーが子の生物学的な地chであるという一致が前提である。[p.137]
 この2つの家族の機能は、普遍的なものではなく、文化的に産出されたものである。

   四 倫理――「愛の共同体」としての家族

 家族を「愛の共同体」と見ることによって、家族に倫理的な負荷がかかる。これによって家族の抑圧性や権力関係は隠蔽される。[p.144]家庭内暴力はここから生まれる。

   結 「家族」の呪縛を超えて

 「近代家族」はわたしたちの行動と思考を、必要以上に呪縛した。[p.146]20世紀は後世の人々に「家族の世紀」と呼ばれるようになるかもしれない。



 6.日本のリブ――その思想と運動

   一 リブのイメージ
 リブとは何か。liberation(解放)の意。70年代前半(70年第1回リブ大会から75年まで)をリブ、75年国際婦人年以降をフェミニズムと呼ぶ。[p.149]
 リブのイメージは決してよくない。「全ブス連」「もてない女のヒステリー」等といわれたこともある。[p.148]

   二 リブと近代

 リブは「解放」は掲げていても、「平等」を掲げてはいない。しかし「男並みの権利獲得をめざす男女平等要求」[p.150]として誤解されていることが多い。
 リブは決して「カッコイイ」ものではなく、むしろ「カッコワルサ」のなかに「解放」があるのだという。[p.153]

   三 リブは輸入思想か?

 リブは輸入思想だと考えられがちである。しかし、工業化、新左翼の台頭、従来の女性運動の形骸化、女性ネットワークの広がり、などの理由から、輸入思想ではないと考える。[p.156]リブは、その後のフェミニズムに確実に受け継がれている。

   四 「被害者の正義」

 リブは、「被害者の正義」を主張しているという間違ったイメージをもたれていた。[p.156]

   五 リブと新左翼

 新左翼運動のなかで、「女性(おんなせい)」が否定されていく過程で、たしかにリブは生まれていった。しかし、それは新左翼の男性社会の中で矛盾を感じた女性たちが、新左翼から袂を分かったのであって、「リブの担い手が新左翼の女活動家、女闘士」であるという理解は正確ではない。[p.159-160]

   六 リブと母性

 西欧のフェミニズムは母性を拒否したこともあったが、日本のリブは母性を手放さなかった。[p.162]
 中絶の権利は、一見、母性の拒否ともみえる。しかしむしろ、「中絶の権利」があることによって、「産む・産まない」の自由を獲得し、「産める社会」「産みたい社会」をつくるというのが日本のリブであった。[p.163-165]

   七 リブの運動論

 「代表を置かない」「やりたいことをやる(参加者の自然自発性にまかせる)」という独自の運動論。[p.166-167]

   八 主婦リブ

 リブは、メディアを通じて、一部の人のものから主婦にも届き、共感をもって迎えられた。そして「主婦リブ」は、「主婦的状況」の問題性を問いはじめた。[p.168-170]

   九 リブの伴走者たち

 リブと同時代に生きたオリジナルな女性思想家たち。(表5参照)

   一〇 マイノリティ・フェミニズム

 フェミニズムは「さまざまな差別」をいっきょに解く万能薬でははい。[p.174]9節二項に関連。
 リブは障害者問題の中にある女性差別をあきらかにした。[p.174]この他にも「レズビアン・フェミニズム」「在日外国人フェミニズム」などのマイノリティフェミニズムがある。[p.174-176]

   一一 リブとフェミニズム

 これからはどんな問題もフェミニズムなしには解けなくなるだろう。[p.176](3節6項が関連)


 7.「リプロダクティブ・ライツ/ヘルス」と日本のフェミニズム

   一 フェミニズムと「中絶の権利」

 「中絶の自由」によって、ヤミ中絶や外国に高いお金を払って中絶しなければならないということを避けることができる。
 日本では法のタテマエと運用実態の乖離によって「中絶の自由」が保たれてきた。しかし、カトリックの国や、ドイツ、アメリカにおいても、中絶の自由を維持するのは難しいことである。[p.180-183]

   二 リブと「産む自由・産まない自由」

 「産む・産まないは女の自由」=「中絶の権利」ではない。[p.183]
 日本のリブは、「産まない自由」よりも「産む自由」「産める自由」を強調。リブは母性の拒否ではない。[p.185]

   三 フェミニズムと「性と生殖の自己決定権」

 「選択」=「中絶の権利」<−>生命の権利。[p.186-187]

   四 「選択の自由」と優性思想

 「産む・産まない権利」<−>障害者の「産まれる権利」[p.188]

   五 出生率抑制と家族政策

 発展途上国では出生率抑制に苦しんでいるのに、日本では、「中絶の自由」があったために出生率抑制の「優等生」となった。経済的理由によって、自然に「子どもは二人まで」の選択に導かれたのである。[p.193]
 女性の労働参加がかならずしも出生率低下と結びついているのではない。「働く女性にとって」の環境作りがととのえば、「子育てに親和的な社会」は可能である。[p.196]

   六 ピルの解禁とフェミニズム

 ピルの解禁は、出生率低下に関係ない。[p.197]
 ピルが「究極の避妊薬」として中ピ連(中絶禁止法に反対し、ピル解禁を要求する女性解放連合)がシンボルとした理由は、@飲み忘れなければ100%の成功率で避妊できる A内服薬なので、性器に触れずに避妊できる B女性が否認の主導権を握ることができる C性の開放の時代(70年代)に「生殖の性」と「快楽の性」を切り離すことができる ことである。[p.197-198]
 ピルの問題点は @ピルの副作用 A飲み忘れによる失敗が多い B男性の避妊に対する責任意識を低下させる などである。[p.198]

   七 「リプロダクティブ・ライツ」から「ヘルス」へ

 リプロダクティブの問題は女性だけのものから、男女ともに含む問題へ。
 「産みたいときに産みたいだけ産む権利と能力を。産みたくないときに子どもを産まない権利と能力を。産めないとわかったときに、その事態を受け入れる権利と能力を。そしてどんな子どもでも生命として受け入れる権利と能力を。」[p.205]



 8.男性学のススメ

   一 はじめに

 「男性学」は「日本の男性の自前のことばで語られた思想としてここにあることを示す」もの。[p.211]

   二 男性学の誕生

 ウィメンズリブはあるのに、メンズリブがないのはなぜか?
 女性が「女らしさ」の抑圧に声をあげたのが、ウィメンズリブ。では男性は「男らしさ」から利益を得ているから、「男らしさ」の抑圧に声をあげないのか。[p.212]
 女性は「生産からの疎外」され、男性は「美からの疎外」されている。ここから声をあげたのが「異性装者」か。[p.213]

   三 ジェンダー秩序のゆらぎとメンズ・リブ

 「権利を主張するフェミニスト」と「女らしさから利益を貪ろうとする打算的な女」が「ひとりの中に同居している」ことにふりまわされる男性の戸惑いと憤慨。[p.215]
 男らしさを演じ続けることができない。

   四 つくられた男のセクシュアリティ

 男の性欲がいかにつくられるか。[p.218]性欲は消費の欲望とおなじく、つくられあおられる。消費社会の性文化が、性をいかに消費すべきかを教える。[p.218]

   五 私領域の男たち

 村瀬春樹の「主夫」経験から、「主婦症候群」は女の属性ではなく、役割の属性である。[p.221]

   六 父親としての男

 父親が「男らしさ」を求めるがゆえの「育児にかかわる父」のモデルの不在。[p.224]しかし、男はパートナーである女性よりも自分の子どものことを考える。「育てる性(親性)」を発見するためには、家父長制の家族の連鎖を断ち切らなければならない(男らしさの呪縛からの解放?)。[p.224]

   七 公領域の男たち

 「男らしさ」が公領域を定義している。[p.225]そして、そこから降りることは難しいし、また、そこから降りないでいることも破壊的である。[p.225-226]

   八 ゲイ・スタディズ

 同性愛も本能ではない。異性愛は自然ではない。どちらも文化と社会によってつくられるもの。[p.228]

   九 男のフェミニズム

 ここでは男性学を「フェミニズム以降の男性の自己省察」と定義。[p.230]その理由は学問の当事者性の尊重である。
 男性学が、たんにフェミニズムの代理人に甘んじなければ、男性学はあたらしいジェンダー研究につけ加わるだろう。[p.234]

   一〇 女の男性論

 女の手による男性論について。これらは、女性が男性から問題を引き出していることによって、可能な研究であったと思われる。もし男性学が「当事者原則」にのっとったものであったとしたら、男性学の言説は「危機の言説」「社会的弱者に転落した男性の側の言説」としてしかあらわれなくなってしまう。これが男性学の困難さである。[p.236]

 cf.男性学


 9.複合差別論

   一 複合差別とは何か?

 複数の差別が地区層的に重なった状態、またそれらの差別がねじれたり、葛藤したり、ひとつの差別が他の差別を強化したり、補償したりという関係からおこる、差別の概念。[p.239]

   二 「すべての被差別者の連帯」は可能か?

 すべての差別をひとつの差別の解決によって解決しようとする理論は成立しない。むしろ、ある差別の隠蔽となってしまう危険性もある。そして複合差別としてはたらく場合がおおい。

   三 女性と障害者

 ウーマンリブは「産む・産まないは女が決める」を掲げ「中絶の権利」を主張していた。しかしこれは障害者団体の批判の的となる。これは、被差別者同士が「対立」の構造をつくりだしてしまった例である。

   四 ひとつのケーススタディ

 障害者でもあり、女性である安積遊歩の例をあげ、「障害者」としての解放がむしろ「女性」としての解放を阻害してしまったということを述べている。[p,247-249]あるひとつの差別が、自動的にほかの差別の解放にはつながるとはいえないのである。

 cf.安積遊歩

   五 エスニック・マイノリティと女性

 少数民族の女性の例をあげ、差別が複合することによってプラスに転じることを述べている。

   六 差別の複数性

 差別は複数関わりあうことで、より差別性を強化したり、反対にプラスに転じたりする。その「ねじれ」、「複合」の組み合わせや効果は複雑である。

   七 解放の戦略
 被差別集団が半差別の運動を行うとときの戦略の共通項 @支配集団に対して報復や逆転の発想をとらない Aキャッチアップは差別の構造メカニズムの解体そのものではないことをわかっている B差異の解消が目的なのではなく、差異の承認に向かっていること


 10.<わたし>のメタ社会学

   一 なぜ社会学するか?

 この質問に、上野千鶴子は、「注文があるから」と答える。[p.271]研究者は、学会という制度に守られているからこそ研究を続けることができるのだと。しかし、ここでは、だれも「注文」をしてこない問い=「<わたし>はなぜ社会学するのか?」に答えるという。[p.272]

   二 「文学」と「社会科学」の間

 社会学は、自分の外にあるものを対象とする。作家は自分の内面に向かう。[p.274]

   三 臨床の知と経験

 「臨床の知」は「対話的な知」。[p.278]
 「ノイズ」はその観察者によって、ノイズのままでもあるし、情報にもなりうる。新しい「情報」のために、研究者は「聞く耳」を持つことである。[p.280-281]

   四 定性情報と定量情報

 定量情報は、ノイズをコード化したもの。定性情報は、その信頼性を疑われることがある。
 2節六項にある、セクシュアリティ研究におけるカテゴリー化の話では、性の研究の科学性についてが書かれている。この項との関連で考えると、これは性の科学を含める「社会学」が、定性情報によっていないということか。

   五 共有の知とオリジナリティ

 「科学とは、科学集団が共有する制度的な知」。[トマス・クーン p.284]

   六 記述と文体

 記述がなければ、思想はない。つまり研究者には表現能力が必須。[p.287]

   七 アカデミズムとジャーナリズム

 アカデミズムは「専門家集団の知」、ジャーナリズムは「公共の知」。[p.290]
 しかし、ジャーナリズムはアカデミズムを生む可能性を秘めている。この2つのあいだに権威主義的な序列は必要ない。[p.291]

   八 系譜学的な知

 社会「科学」であることには、「法則性」と「合理性」が求められている。しかし実際は、そうではありえない。[p.292]
 フーコーはそれにかわって「系譜学的な知」を提示した。系譜学的な知とは、@事後的な知である A予測をしない B過去にさかのぼるものは、索出的な意味を持つ C目的論的な知を否定する 。

* わたしは「政策科学」を3年半学んできている。政策科学という学問は新しいので、まだしっかりと確立されていない。教授に「政策科学者」は誰もいない。経済学出身、工学部出身、社会学出身などの方々が寄り集まって、わたしたち学生もともに、政策科学とは何かを模索している。それだけ未熟な学問ではあるが、この節から、「社会学と政策科学は全く違うものである」ということを感じた。
 政策科学は、敢えて「科学」という名称をつけている(他大学に「総合政策」などの学部はあるが、「政策科学」という学部はない)。それによって、前述の社会学(系譜学的な知)の定義のAやCと全く逆の学問であるといえる。政策科学には予測が必要であるし、なんらかの使命(環境問題の解決、など)をもって、その問題を解決することを目的としている(問題解決型)のだ。
 社会学と政策科学のどちらが優れているのかと、問うつもりはない。ただ、この違いがあることで、社会学も、政策科学も、それぞれの存在意義があるのだと思った。

  cf.Foucault, Michel

   九 パラダイム転換

 パラダイムの交換は進歩や進化ではない。[p.295]また、パラダイム転換は「外から」来るものである。
 つまり、10節三項で述べているように、「聞く耳」を持ち、「外から」の声を聞き、ノイズを情報に転換していくことが、パラダイム革新につながるのである。[p.296]

   一〇 自己言及性 self-refrentiality と位置性 positionality

 学問は真理のためにあるのではない。真理のためにあるとされることにより、排除され抑圧されるものがある。[p.296-298]

   一一 社会学の対象と方法

 社会学では、問に対する答えを社会的な変数で説明し尽くそうという「知への意識」がある。[p.301]

   一二 学問の政治性

 学問の当事者性。[p.306]

   一三 言説と実践

 「理論と実践」の対立は、実際にはありえない。どちらも「政治」から逃れることはできない。
 「この立場もまた、いずれ乗りこえられていく運命にあるだろう」。[p.308]2節七項参照。


UP:20020720
フェミニズム  ◇BOOK
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