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『貧困の克服──アジア発展の鍵は何か』

Sen, Amartya K. 大石 りら訳 20020122 集英社新書, 189p.


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Sen, Amartya K. 大石 りら訳 20020122 『貧困の克服──アジア発展の鍵は何か』, 集英社新書, 189p.  ISBN-10: 4087201279 ISBN-13: 978-4087201277 \672 [amazon]

■出版社からの内容紹介
アジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したA・セン。彼の講演論文をオリジナル編集し、その理論をやさしく紹介した本書は、21世紀最大のテーマ・貧困の克服に、重大なヒントを与えてくれる。

■内容(「BOOK」データベースより)
アジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したセン博士は、日本やアジア再生の鍵は、かつての経済至上主義路線ではなく、人間中心の経済政策への転換であると力強く提唱する。国連も注目する「人間の安全保障」という概念の可能性とは何か?また、「剥奪状態」「潜在能力」「人間的発展」といったキーワードが示唆する、理想の経済政策とは?四つの講演論文を日本の一般読者向けにオリジナル編集した本書は、セン理論の入門書であるとともに、いまだに貧困、暴力、深刻な人権侵害にあえぐ人類社会を見つめなおすための必読書でもある。

■目次
危機を超えて――アジアのための発展戦略
人権とアジア的価値
普遍的価値としての民主主義
なぜ人間の安全保障なのか
アマルティア・セン人と思想

■要約といくつかのコメント (高田 一樹 立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程在籍 2003年4月)
■補足:高田氏のコメントに対する回答 (坂本 徳仁 立命館大学衣笠総合研究機構PD研究員 2008年7月)

 この書籍にはシンガポール(1999)、ニューヨーク(1997)、ニューデリー(1999)、東京(2000)でのA・センによる4つの講演と、訳者によるセンの紹介が収められている。「アジア」「西洋」という枠組みに違和感を持ちながら、貧困、民主、自由、寛容という言葉についての歴史的敬意と論証がこれら4講演を貫くテーマといえるだろう。以下各章について概観する。

1 危機を越えて――アジアのための発展戦略
 この文章では、アジアの経済発展の過程を各国の例を交えて述べている。経済的危機と教育普及、人間的発展と民主主義の相関について語られている。
 経済発展を遂げた後に、人間的発展がはじまるのだという通念は、欧米の人々の持つ一般的な考えである。しかし、その通念は日本を端緒として、東南アジアの成功をみるにつけ打ち破られよう。なぜなら、経済発展は教育の普及を徹底することによって、多くの人々が経済活動と社会変革に参加することを可能にしてきた。そして、人間的発展は貧困の束縛から解放される前からなされてきたことだからである。その具体例として、明治維新期の日本とヨーロッパの識字率の比較、全国市町村予算における教育費の割合、日本と英米との書籍出版数を比較し、いずれも日本が優れていたという歴史的背景をとりあげる。
 次に人間的発展の目的を問う。社会的な機会を創ることは、人間の潜在能力と生活の質を向上させうることである。教育、医療、栄養状態の改善が国民の寿命の長さと生活の質を保障するのであり、それが生活の豊かさであると位置付けている。そして、人間的発展を初期の段階から目指してきた歴史を「東アジアの戦略」と、その経済的成功を「東アジアの奇跡」と呼ぶ。一例として、女子教育の普及によって幼児の死亡率が低下していったことを南インド・ケララ州の事例に求める。とくにこの地方では、女子教育による知識の向上によって自発的な出生率の低下に結びついたことを中国の「一人っ子政策」と対置させている。またインドと中国の若年層の識字率を比較して、インドの現代科学とテクノロジーと農村部の最貧の深遠部との格差の原因もまたその点にあると述べる。
 経済発展への課題は特定地域での慢性的な貧困のほかにも、突発的な極度の貧困を未然に防止することも含まれる。再びインドと中国の歴史をの対比を通じて、中国が大躍進時代(1958−61)に大飢饉に見まわれているのに対し、インドは独立以来飢饉を経験していないこと。インドは中国よりも言語と文化において一層多様であり、行政機構も同様に地方分権化していることを指摘する。
 飢饉や重大な危機が発生するときには、民主主義の不在という不平等(政治的権利と政治的権力の不平等)がその特徴であり、人間の安全を保障するものは民主主義と参加型の政治が重要であることを強調する。
 経済危機の経験からいくつかの教訓を導き出すとすれば、以下に指摘できるだろう。まず、経済の循環において経済発展の妨げや悪化から目をそらすことはできない。成長率や上昇思考のみに目をとらわれていると、真の発展プロセスとは何かを見落としかねない。直視すべきなのは、危急のときにそこから逃れるために必要な保障である。
 つぎに、利益を共有している社会集団が経済危機に瀕したとき、その真価が問われる。統計上は飢饉によって人口の5パーセント以上に被害を及ぼすことはごく稀であるが、社会集団に属する人々の購買意欲や経済的な自己防衛への意識が物質的よりも精神的に破壊されかねない。
 また、統計のマジックにも配慮が必要である。国民総生産における数パーセントの低下という現象であっても、それを全国民が等しく被るのではなく、貧困者へのいわば逆累進的な負担となりうることを見過ごすわけにはいかない。
 経済成長を達成するためには権威主義体制のほうがより経済環境として適切であるという主張を否定する。なぜなら、経済成長には民主主義という経済環境と市場が大きな役割を果たすからである。ここで、故小渕首相のコメントを引き、人間の尊厳と画一化されない創造性を支えているものは、開かれたコミュニケーションと議論であり、政治的自由と市民的権利がその中心となることを強調する。そして、大飢饉の要因はこまやかな配慮のない中央集権的な国家体制(権威主義的国家、部族コミュニティ、近代の高度に専門化された官僚的独裁)であり、定期的な選挙による民主主義的政府、メディアによる批判が可能な場では飢饉は起こらなかったことを再度述べる。
 さらにこの文脈に沿って、経済的危機に直面したときには専門家によって経済的誘因について語られるが、政治的誘因もそれとは独立して重要であり、また相補完的なものである。経済的危機を負わされている人達に耳を傾ける場が、経済的配慮とともに民主主義を成り立たせているものである。そして、それは説明責任と情報の開示という、政治的誘因が不平等と不正に対する「透明性の自由」を保障することになるのである。

2 人権とアジア的価値
 この章では西洋的な視点からによる画一化の象徴として「アジア(アフリカも同様に)」という概念を取上げる。その一例として、「アジア的価値」が必ずしも権威主義(規範・秩序)主義的で、自由主義を軽んじる文脈で語ることはできないこと。それと同様に、西洋が自由主義と個人の自由と自律性に根ざしていると語ることで「アジア的価値」との対比を鮮明に浮かび上がらせることもできないことを述べる。なぜなら、規範主義が「アジア的価値」を特徴付ける要因ではないからである。
 そして、その対局として布置される「西洋リベラリズム」を自由の一元論として捉えることにも疑問を投げかける。その例証には、仏教や儒教など自由と多様性を認める価値観を指摘し、インドの古典(『マハーヴァーラタ』)やインド王朝史での自由、寛容、平等の視点を、歴史的な文脈の中で探ろうと試みる。その結果、西洋的視点によって「アジア的価値」の共通項をくみ出そうとしても、それは同時に西洋の基本的な古典的特色と共通する撞着をはらんでいることに言及する。これらを踏まえて「アジア」や「ヨーロッパ」という着眼点を一旦保留して、「普遍的」な人権について章末に総括する。
 アジアでの権威主義的な国家が近年、目覚しい経済成長を遂げつつあるという主張を、民主主義を背景に同じく成長を遂げたボツワナの例とともに否定する。そして、経済的成功の環境(競争の開放性、国際市場の活用、識字能力と学校教育水準、農地改革の成功、投資を誘因する公的整備、輸出と工業化)を前章に続き列挙する。さらに、困窮を政府に訴える手段(言論の自由)が民主主義の基礎となりうることを、対照的な例示としてエチオピアやソマリア、スターリン体制化のソビエト、大躍進政策時の中国などに求める。このことに言及するのは、経済的要因が政治的要因に比べると重視される傾向にあるが、この両方を保障することが民主主義を安定化させることを再度強調するためである。
 「アジア」という視点の起源である「オリエント(日の昇る方向)」という言葉は、極めてヨーロッパ的な概念であり、「アジア」の途方もない価値と存在の多様性を覆い隠してしまいかねない。そしてそれは「アジア」内において東南アジアと東アジアを分けることをするなれば同じ轍を踏むこととなる。
 章末に、人権を請求する主体(主にここではアジアの人々を想定)とそれらを保障する主体(自国と他国の政府)の対応関係について述べる。端的には、国境や政府を越境する人権の保護を積極的に推し進めるべきであると主張する。その根拠として侵害された権利は当該国家の法律を超えたものであるから誰もが救済することができること。侵害される個人の救済をする際には当該政府の許可は必要ではないことを述べる。そして、人権を特定の国家に属するものとして位置付けるのではなく、その普遍性を認めることを強調する。つまり、他者の権利を意識して、それを保護する義務感による行為は国籍と市民権を越境することができる、という独自の倫理的原則の表明を指し示している。

3 普遍的価値としての民主主義
 20世紀の最も重要な出来事は、民主主義の発展と台頭であると位置付ける。そして、民主主義は普遍的とはいえない、といういくつかの意見に反論を呈するすることで、その普遍性を描こうと試みる。その際には民主主義の役割と「アジア的価値」という言葉が鍵となる。
 民主主義の起源を、2000年も前の古代ギリシャまでさかのぼることができるが、それが全世界のどの地域でも「ふつうの」政治統治形態と見なされるようになったのは20世紀になってからである。それまで、例えばマグナ・カルタ(1215)は「特殊」な規則として認識されていた。19世紀までは、民主主義と国家形態の適応度や相性が真面目に検討さえされていたのだ。20世紀は民主主義の普遍性を認識した時代であると特徴付けることができる。
 つぎに民主主義の今日的な機能をインドを例に挙げて説明する。インドにおける民主主義の機能は、多様な言語と宗教を共存させる寛容さをもちつつ、国家の統一を担っていると述べる。そして、民主主義は画一的な多数決原理を十分条件とするのではなく、普遍的価値として束縛を受けない活動がその条件である。その内容についていくつかにに分けて詳述すると、まず人間が持つ一般的な自由(政治的自由を含む)と権利の行使(経済や福祉の要求)を指す。つぎに、経済や政治的配慮を求め、またその機会が保障されていることを指す。最後にこれからの検証課題としながらも、双方向的な議論によって、社会的な価値とその優先順位を形成する場を民主主義を実践することから導き、公共の場での議論が欲求、権利、義務の基本的内容を具体化させると述べる。
 その上で、民主主義のもつ普遍性の根拠を問う。手掛かりとして民主主義の普遍性への懐疑に反論を呈する。まず、すべての人々が民主主義の決定的な重要性について合意していない、という主張がある。それに潜む価値観は、普遍性として認識されるためには、すべての人々の合意が必要であるという考え方がある。これに対する反論として、従来からある価値については、たいてい誰かは反対するものであり、普遍的価値にはすべての人々による普遍的な合意は必要でないと述べる。そしてその論拠として、非暴力運動の価値に言及し、非暴力は普遍的価値であるが、すでに世界中の人々がこの価値によって行動していたわけではなかったとガンジーが主張したことについて述べている。また、20世紀の歴史に対照させて、普遍的価値の主張には事実に基づかない暗黙の仮定あること、民主主義はその支持者を増やすことはあったにせよ、減らすことはなかったと述べる。 
 資本主義の普遍性に対するもうひとつの疑念として、地域的な激しい経済格差という要因を挙げる。これは貧困層の関心が生活の糧を得ることに集中し、経済的誘引ほどには民主主義への関心を払われないとするものである。するということである。これに対する反論として、民主主義画は高尚な理想なのではなく、それが保護する対象は、最も困窮した危機(飢饉)に直面している人々にこそ向けられるべきこと。貧しい人々が市民的政治的権利に無関心であるという主張が誤りであることについて、特にインドの例を挙げて述べる。
 最後に民主主義の普遍性を経済的政治的な要因ではなく、「アジア的価値」というアジアの権威主義を想定した文化的要因からの疑念を取り上げる。これに対する反論は、アジアには宗教的自由を制限するような敵対的信仰は存在しないこと。寛容の精神、国家義務として少数者保護を唱えていた歴史的事例を挙げている。その上でアジアの伝統文化には権威主義的な史料があるのは確かだが、それは同様に西洋の文献(プラトン、アクイナスなど)にも見られる思索であり、一概に権威主義を「アジア的価値」として位置づけることはできないだろうと述べる。
 現代の民主主義的思想は啓蒙運動や産業革命を経た19世紀に形成された世論の合意が大きく影響していること。ハンチントンの『文明の衝突』を啓発的書籍と評価しながらも、「西洋は近代化される以前から西洋であった」という主張は歴史的な経過を振り返ると誤りであることを述べる。
 最後に民主主義を普遍的であると位置づける論証として価値を形成するうえで構成的な役割を民主主義が担っていると述べる。その価値とは人間的生活での重要性、政治的誘引の創造、欲求、権利義務の要求の程度と可能性への理解であると指摘する。これらの特長は地域性がないことであり、「アジア的価値」という想像上の文化的禁忌や要因に還元されるのは誤りである、と述べて講演を締めくくっている。

4 なぜ人間の安全保障なのか
 人間の安全保障の意味と重要性について述べる。その根拠には消極的理由と積極的理由がある。
 消極的理由とは、人間の生存、生活、尊厳が現在の危険や災難(AIDS、マラリアなど公衆衛生の問題や内戦、虐殺などの迫害の問題)のために妨げられつつあり、それを意思的で実践的な政治参加によって克服しようとすることを指す。一方、積極的な理由とは、危機や困難を一層的確に把握し、科学技術や経済的社会的資産を支えにしてへのよりよい処方箋を得る機会を得たことを指す。このようにわれわれはアジアでの危機という経験から人間の安全保障に対する教訓を得てきた。
 市場経済の景気後退に際しても、安全の保障と日常生活を守るためには社会的、経済的備えが必要である。そのために民主主義的な政治参加によって人間の尊厳が守られることで人間の安全保障が強化されうる。
 また、現代の政治や公共の場における議論のグローバル化と同じ文脈で環境保護に対するグローバルな関心と責任が求められるべきであり、それは国家の貧富を問わない。
 今日ではグローバリゼーション自体がグローバル化しつつある。反グローバリゼーションを掲げる人たちでさえ、世界の隅々からアメリカの主要都市に集まってくるのである。しかし、経済的技術的交流からもたらされるグローバル化の恩恵をわかち合うことが可能か否かは国際的な取り決めにかかっている。今日ではグローバルな人権の展望(民主主義、社会的公正、女性たちのエンパワーメントなどについて)がよく理解されつつある。一方で人間の安全保障が脅かされることに抗う決意こそ未来に継承されるべき遺産である。

5 アマルティア・セン 人と思想
 省略


 以上当該書籍の概要を記した。以下本文に対するいくつかのコメントと懐疑を章ごとに示す。

1 危機を越えて――アジアのための発展戦略
◆貧困の定義をどのように用意するのか。対象者の「私は困窮している」という経済的、政治的要求をもって貧困者となすのか。それとも統計的な手法を採るのか。平等・不平等の位置づけも同様に、明らかな抑圧の事例を除いて平等と不平等のお互いの位置関係をどのように認識すべきか。
→ Sen教授は貧困を「基礎的な潜在能力の欠如」として捉えている。詳細は『福祉の経済学――財と潜在能力』を見よ。
◆民主主義の選ぶ政治体制は必ず民主的帰結を導きうるのか。
→ 暴力や抑圧を非民主的な状態であるとするならば、 ナチスや紛争多発地域であるアフリカの例に見られるように「民主主義」は非民主的な帰結を生み出すことがある。しかしながら、 Sen教授は「民主主義」を単純な「多数決に基づく選挙」という制度的な側面のみで捉えてはおらず、「討議民主主義」などの包括的な概念で捉えている。 Sen教授はいわば“定着する民主主義”を議論しているのであるから、この問いはSen教授への懐疑として意味を為さない。
◆識字率や所謂「(近代の)教育」制度をもって人間的発展とみなしうるのか。「無文字社会」あるいは「われわれの流儀にはこれが一番あっている」と表明する共同体に対してそれを否といいうるのか。
→ Sen教授は「潜在能力の拡大」をもって人間の発展とみなしている。本文でもそのように書いてあるはずである。 詳細は『福祉の経済学』、『自由と経済開発』を見よ。また、Sen教授は「抑圧的な共同体の価値」よりも「人権」に重きを置いている。 共同体の価値観がある特定集団の人権を著しく侵害しているのであれば、「介入」も正当化されるであろう。 共同体主義に対するSen教授の批判は『アイデンティティに先行する理性』やIdentity and Violence を見よ。
◆環境要因による干ばつによる飢饉から救済するため食糧援助をすることと、非民主国家を民主化に導く動機付けとしての食料制裁をすることの優先はどのように根拠付けられるか。
→ Sen教授はそのような議論をしていないため回答できない。
◆民主主義への希求を政治的誘引と位置づける一方で、「一人の賢者と多数の愚衆」という仮説を克服できるか。
→ Sen教授が繰り返し強調しているように、権威主義的体制が民主主義体制に比べて優れたパフォーマンスを生み出すという 実証的・理論的な根拠は存在しない。政治体制とそのパフォーマンスの関係については、経済学者のPersson教授、Tabellini教授、 Acemoglu教授、Barro教授、政治学者であるLijphart教授、Boix教授、Iversen教授などの研究を見よ。
◆「知識の向上によって自発的な出生率の上昇」は認めうるのか、それともそのような事態はありえないのか。
→ Sen教授が書いているように、女性の権利拡大・社会進出は出産・育児の機会費用を増大させ出生率を低下させる。 先進国病とも言える「少子高齢化」はこのような状況を背景として起こっているが、出産・育児の機会費用を低下させるような 政策・価値観の転換(ワークシェアリング、出産・育児助成の充実、男性の家事・育児手伝い)である程度出生率の上昇は可能である。

2 人権とアジア的価値
◆「アジア」が欧米的な区分だということを認めたとしても、何によってアイデンティティを確保することができるのか。原子的な人間存在という認識(多様性相対論)で議論は可能か。「インドは独立以前からインド」か。
→ 何を聞きたいのか意味が不明瞭である。Sen教授のアイデンティティに関する議論は『アイデンティティに先行する理性』を見よ。
◆なぜ規範的価値を道徳の一要素として肯定的に認めないのか。
→ 何を言いたいのか意味が不明瞭である。少なくとも哲学の世界では「規範的価値」と「道徳」は同じものを指す用語である。
◆政治的経済的要求は単なる弁明以上の対処をする際、誰がどのように聞き入れ、弁明しないものとの整合性をどのように採るのか。
→ 何を聞きたいのか意味が不明瞭である。
◆裁判制度のように弁明(要求)できない者への対処とパターナリズムとの調整を如何に採るのか。
→ 何を聞きたいのか意味が不明瞭である。
◆市民革命という経験をしていない国家、共同体にも西洋で生まれた人権思想を正当化できるのはなぜか。同様にアジアの歴史に根付く人権思想という枠組みは西洋のそれと同じものなのか。
→ Sen教授が繰り返し強調しているように、人権や民主主義、自由主義を重んじる考え方は “西洋”に特有のものではない。さらに、それを積極的に認めるだけの道徳的根拠に関する議論もSen教授は 様々な論文・書籍を通じて行なっている。最後に、コメントにある「アジアの歴史に根付く人権思想」という用語は意味が不明瞭である。
◆「多数派による脅威」という根拠での内政干渉は認められるのか。
→ 何を聞きたいのか意味が不明瞭である。

3 普遍的価値としての民主主義
◆「押し売り的」民主主義は正当化されうるのか。民主主義には他の政治体制に対する寛容は存在しないのか。
→ Sen教授が強調している点は「人権が諸政策の基礎に置かれるべきだ」ということである。 従って、「押し売り的」民主主義も「人権」のためには正当化されうる場合が存在する。 ただし、「押し売り方」の中身・方法も重要であることは言うまでもない。 「民主主義の他の政治体制に対する寛容性がない」かの如くに書いて、 「権威主義・社会主義・全体主義的統治の行なってきた圧政・不寛容」を無視する議論は不当であるように思われる。
◆民主主義的経緯によって決められた独裁や宣戦布告は正当化されうるのか。
→ 重複する内容のコメントが多いように感じられるが、 Sen教授の考えている民主主義は単なる「制度としての多数決」ではない。人権を著しく侵害するような 政治的決定をSen教授は支持していないし、自由民主主義の下ではそのような判断は違憲であり処罰の対象でさえある。
◆民主主義への普遍性について、すべての人々の合意がないまま普遍化を認定し、後になればそれは認知されうるという主張をいかに保障しうるのか。
→ Sen教授はどこにもそのような主張をしていない。
◆十分な経済的誘因が満たされた者は本当に政治的誘因を求めるのか。
→ 経済的に充足していなくても政治的自由を求めることはしばしばあるし、 Sen教授は経済的に充足した後に人は政治的自由を求めて行動するだろうなどと主張していない。 補足として、「経済成長後に民主化する」という政治学者Lipsetの有名な仮説があるが、 Barro教授の実証分析ではLipset仮説を適切に修正すれば相当程度成立すると主張している。
◆普遍的価値を保った民主主義とはそれを目標として実現すべきものなのか。
→ 実現すべきものとしてSen教授は考えている。
◆理想の民主主義とは実現しうるのか。あるいはそれを評価する側に不利な現象が民主主義的状況から立ち現れた際には「まだ完全な、あるいは理想的な民主主義的形態ではない」という論理によって、民主主義の誤謬を認めることを保護するような仕組みとなっていないだろうか。
→ よくいる社会主義者のようなみっともない言い訳をするほどSen教授は馬鹿ではない。Sen教授は民主主義を偶像崇拝しているわけではないし、 民主主義の欠陥も社会選択理論・公共選択論・政治経済学・政治学の成果から良く熟知している。それでもなお、民主主義のコストに対してベネフィット (民主主義の道具的価値及び内在的価値)の方が はるかに大きいから民主主義が重要だと考えているのである。

4 なぜ人間の安全保障なのか
◆国家や人民の安全を確保するために不本意な徴兵などの義務に応じなければならないのか。
→ Sen教授はそのような議論を展開していないが、 治安を守るために「腐敗の少ない警察組織」、「公正な司法組織」が必要なのと同様、 人権侵害の著しい脅威に対する防衛手段として徴兵が 有用であるのならば正当化されるだろう。しかし、ミルトン・フリードマン教授も論じているように 徴兵が有用なことはあまりないと思うが・・・。
◆民主主義的な政治形態が人間の尊厳を保障するのは本当か。むしろ民主主義を広めるために新たな戦火の火種を作っているのではないか。
→ 自由民主主義の下では人権を保障することが最も重視される。 9・11以降のブッシュ政権のみを例にして、「民主主義を広めるために戦火の火種を作っている」と主張するのはあまりにも稚拙である。
◆グローバル化の究極的な実現は国境の廃止、均一的な人間の安全保障と生活の質にあるのか。
→ Sen教授の議論を遥かに超えた話である。 少なくとも市場経済と自由貿易を上手に使っていけば「貧困の克服」は可能であろう。 その一方で、政治的諸自由をいかに保証するのか、Sen教授の議論はそこまで詰められてはいないように思われる。
◆国益を守るという政治体制と民主主義は並存しうるのか。
→ 現に並存しているのだが、主旨が不明瞭である。

■高田氏のコメントへの感想、並びに『貧困の克服』評 (坂本 徳仁)
全体を通して「潜在能力アプローチ」に対する理解不足と、 「古典的民主主義」と「自由民主主義」の混同・誤解から生じる疑問が多かったように思われる。 Sen教授が自由民主主義を比較的楽観的に受け入れているのは否めない事実であるものの、 民主的統治システムがパフォーマンスと人権の保障上で最もましな政治的統治体制であることは 歴史的にも理論的にも様々な分析が示唆している通りである。 その一方で、Sen教授の議論において民主主義や人権の内実に対する明瞭な定義が為されず、 民主的統治システムは多様なものでありうるという近年の問題関心について 深く込み入った議論が為されているわけでもないことには一定の留意が必要である。 様々な民主的統治システムのパフォーマンス比較に関する研究が まだまだ発展途上にある現段階では、「人間の安全保障」を守るためにどのような 統治システムが適しているのか、どのような国際関係を構築する必要があるのか、 市場をどのように活用するべきか等、考慮されるべき問題は山積している。その意味において、 「貧困の克服」のために為されてきたSen教授を含めた経済学者・法学者・政治学者の 優れた諸研究は出発点にすぎないのかもしれない。 前途はまだまだ遠いように思われるが、経済成長に伴う貧困削減が我々に教えてくれるように 明るい兆しがあるのもまた事実である。人間の地道な努力と誠実さをもってすれば 「貧困の克服」は決して不可能な事業ではないだろう。



*作成:高田 一樹 *改定・補足:坂本 徳仁
UP:20030416 REV:20080713
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