HOME > BOOK >

『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』

Kass, Leon R. 2002 Life, Liberty and the Defense of Dignity: The Challenge for Bioethics, Encounter Books, San Francisco
=20050415 堤 理華 訳,日本教文社,420p


このHP経由で購入すると寄付されます

Kass, Leon R. 2002 Life, Liberty and the Defense of Dignity: The Challenge for Bioethics, Encounter Books, San Francisco=20050415 堤 理華 訳,『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』,日本教文社,420p. ISBN-10: 4531081455 ISBN-13: 978-4531081455 2600 [amazon][kinokuniya] ※ be.et.

■出版社/著者からの内容紹介

科学やテクノロジーに依存し、「自由」と「権利」の名のもとに遺伝子・生殖細胞・身体の改変や、不死までも求め始めた人類。その先に待っているのは本当に「すばらしい新世界」なのか? 米大統領生命倫理委員会を率いる著者による、「人間が人間でいられる未来」を守るための勇気ある提言の数々。

内容(「BOOK」データベースより)
科学やテクノロジーに依存し、「自由」と「権利」の名のもとに遺伝子・生殖細胞・身体の改変や、不死までも求め始めた人類。その先に待っているのは本当に「すばらしい新世界」なのか?米大統領生命倫理委員会を率いる著者による、「人間が人間でいられる未来」を守るための勇気ある提言の数々。

■目次

献辞
はじめに 2
人間後(ポスト・ヒューマン)の未来に向き合うこと 6
生命倫理学を深めていく必要性 12
自由主義リベラルの原理の強みと限界 18
人間の尊厳の探求 21
各章の内容について 30

第一部 テクノロジーと倫理学の本質と目的 37
第一章 テクノロジーの問題点とリベラル民主主義 38
 テクノロジーとは何か 40
 何が問題なのか 49
 テクノロジーの問題 51
  ●「自然の支配」の実現可能性 54
  ●目標と善意 57
  ●悲劇的な自己矛盾 62
 テクノロジーとリベラル民主主義 67

第二章 倫理学の実践――どのように行動すればよいか 73
 倫理学の実践の現況 76
 理論と実践――言説と行動 88
 感情と行動の習慣――異なる倫理学の実践に向けて 92
 明日に向けての行動 97
 道徳資本を一新し、道徳的な英知を求めよう 100

第二部 バイオテクノロジーからの倫理学的挑戦 105
 生命と血統――遺伝学と生命のはじまり 107
第三章 研究室における生命の意味 108
 疑問の意味 113
 体外の生命に対する位置づけ 115
 体外にある胚の処遇 122
 血のつながりと親であること、肉体をもつことと性 127
 将来の展望 134
 国の助成にかかわる問題点 140
 最後に 151

第四章 遺伝子テクノロジー時代の到来 158
 遺伝子テクノロジーは特別か 161
 遺伝的自己認識は役に立つのか 163
 自由はどうか 166
 人間の尊厳はどうか 169
  ●「神を演ずること」 170
  ●生命の製造業化と商品化 171
  ●基準、規範、目的 173
  ●成功の悲劇 175

第五章 クローニングと人間後(ポスト・ヒューマン)の未来 188
 クローン人間の創造への準備 189
 最先端技術としてのクローニング 196
 クローニングを評価する文脈 200
 性の深遠さ 204
 クローニングが悪である理由 210
 異議への回答 216
 人間のクローニングを禁止する 221
 思慮分別の必要性 226
 肉体と魂――人間の生における「部分」と「全体」について 233

第六章 臓器売買は許されるのか――その是非、所有権、進歩の代償 234
 臓器移植の是非について 240
 所有権について 249
 進歩の代償について 260
 死と不死――最期まで人間として生きること 265

第七章 死ぬ権利はあるか 266
 「死ぬ」権利 270
 死ぬ「権利」 273
 なぜ「死ぬ権利」を主張するのか 278
 「死ぬ権利」はあるのか 282
 死ぬ法的な権利はあるのか 290
 「死ぬ権利」の悲劇的な意味 300
 最後に――「権利」について 304

第八章 尊厳死と生命の神聖性 309
 生命の神聖性(と人間の尊厳) 314
 尊厳死 327
 安楽死――尊厳のない、危険な死 334

第九章 栄えある生命とその限界――生命に終わりがある理由 348
 人間の妥当な寿命 355
 死すべき運命の価値 360
 不死への願望 365
 自己の永続化 368

第三部 生物学の本質と目的 375
第一〇章 生物学の永遠の限界 376
 実践に関する限界――「限界のない目標」のもつ限界 379
 哲学的な限界――命のかよわない概念 382
 新たな生物学――究極の限界 399

謝辞 407
訳者あとがき 409
参考文献 i


■引用

 「今の私たちは、ある特定の病気を治療する(つまり、治す、もしくは改善する)のでなく、ただ生存に必要な機能を維持することによって生かしておく、医学的な「治療」(つまり介入)いとう手段をもっている。なかでももっとも悪名高い装置が、人工呼吸器である。ほかにも栄養と水分を供<0273<給するための、単純だがやはり人工的な装置や、老廃物を除去するための、腎臓の透析器がある。そして将来的には、人工心臓も手に入るようになるはずだ。こうした装置を使えば、その使用を勧める積極的な制度上の政策にも後押しされ、患者をしばしば何十年にもわたって生かしておくことができる。昏睡状態にある患者でさえもそうだ。今日耳にする「死ぬ権利」は、そういった生命維持を目的とした医療行為を拒否する権利を意味することが多い――それを含むものであるのはたしかだ。
 だが「死ぬ権利」には、普通これ以上の意味がある。用語が曖昧であるがゆえに、すでに普通法〔コモンロー〕として確立されている「手術、望まない医療行為、入院を拒否する権利」と、新しく求められている「死ぬ権利」とは、異なるにもかかわらず、その内容や意図が混同されてしまっている。前者は、死ぬ危険性が高まることになっても、治療を拒否できると認めるものである。前者は、死につつあるときにどう生きるかを選択するものであり、後者はおもに「死ぬための」選択であるようだ。この意味から、「死ぬ権利」という名称は誤りではない。
 そして、治療の継続を望まないだけでなく、死をもたらすにあたって積極的な手助けを求める人がいることを考えると、この名称はいっそう誤りとはいえないものになってくる。」([273-274])
 cf.安楽死・尊厳死


■言及

森岡正博,200603,「人間の生命操作に対する批判的見解に関する予備的考察(1)――大統領評議会報告書の場合」『疑似法的な倫理からプロセスの倫理へ−「生命倫理」の臨床哲学的変換の試み』(大阪大学文学部):63-75.
 http://www.lifestudies.org/jp/handai01.htm
  報告書のこの箇所は、とくに編者であるカスの思想の影響を強く受けている。カスの単著『生命操作は人を幸せにするか』では、さらに直接的に論点が展開されているのでそちらを見てみよう。カスは言う。「正直にいうなら、人間の命にかぎりがあることは、すべての人間にとって、自覚があろうとなかろうと、天恵であるblessingと私は考えている」(25)。「さらにいえば、不死である他の存在とは、私が思うに、死という宿命を負った今の人間ほど幸福well offではないはずだ。私たちは、死という運命に感謝すべきなのである」(26)。
  このように指摘したうえで、カスは以下のように述べる。人間は、不死や不滅、永遠といったものを求めるものなのだが、そこで切望されているものは、実はこの世で無限に生き続けることによって達成できるような種類のものではないのである。このような「人間の切望はこの世での生earthly lifeをいくら引き延ばしてもかなえられない。ただ年齢だけが増え、はてしなく「同じことmore of the same」を繰り返すばかりで、もっとも深い望みを満足させることは不可能なのである」(27)。すなわち、この世での不死が仮に達成されたとしても、そこで獲得されるのは、無限に反復される「同じこと」の集積でしかないのであり、それは当初我々が切望していたものとは、まったくかけ離れたものでしかないのである。「不死や不滅、永遠といったものにあこがれる人間の気持ちは、たとえ死を「生命医学的に」克服したとしても、きっと満足させることはできないであろう」。「それどころか、寿命の延長を追求することは、人間の魂が本来めざしているはずの目標から私たちの歩みをそらすことになり、人間の幸福を脅かすことになる」のである(28)。では、我々が当初切望していたものとは何かと言えば、カスはそれを「他者における完成completion in another person」(29)と呼んでいる。それは「神の愛」へと通じるものであるが、カスはこれ以上宗教的な世界に入って説明することを自粛する。カスの提出するこの論点は、ユダヤ=キリスト教の文脈によらなくても、把握可能な哲学的論点のように私には思われる。我々が「永遠」を求めるときに、そこで切望されているものは、この世での不死によっては達成できないはずの何ものかだったのであるという命題は、充分に神学の外部での考察に値するし、また医療があきらかに老化遅延と不死に向かって邁進している現在、どうしても問うておかねばならない論点だと考えられる。
  私は『無痛文明論』において、同様の論点を考察したのち、以下のように述べた。「われわれは、生の延長、所有の拡大、願望の実現によって「永遠」に近づくのではなく、まったく逆に、手にしていたものを手放し、自己を解体し、残されたものを真摯に味わうことによって「永遠」に出会うのである。無痛文明は、持続の果てに「永遠」を求めようと希求するがゆえに、けっして「永遠」に出会うことがない」(30)。この文章の「無痛文明」を、テクノロジーによって不死を追い求める我々の文明というふうに置き換えてみれば、カスの言おうとすることと響き合うことが分かるであろう。ポイントは、「永遠」をどう捉えるのか、という点に存するのである。
  すなわち、いつまでもできるだけ長く生き続けていたいという「欲望」の中身と、永遠がほしい・永遠の一部になりたいという「切望」の中身は、同じなのか違うのか、もし違うとすればどのように違うのか、について哲学的に考えていくことが必要なのである。これは、時間論、救済論などへと越境する大問題であるが、不老不死を目指す今日の医学的欲望をどう考えればよいのかというときに、避けては通れない論点のように思われるのである。これなどは、従来の生命倫理学では手に負えない種類の問題だ。どうしても、哲学・人間学へのシフトが要請されることになろう。


霜田求, 200403, 「先端医療技術における道徳的リスク――生命科学をめぐるコミュニケーションの可能性に向けて」『臨床コミュニケーションのモデル開発と実践』(文部科学省・科学技術政策提言報告書、研究代表者:鷲田清一):203-210.
 先の分類で道徳的リスクを「人間性や人間の尊厳への侵害」と特徴づけたが、これは、遺伝子への介入よりもヒト・クローン作製をめぐる議論の中で繰り返し唱えられてきた反対論拠としてよく知られている。それに関連して、「平等に尊重されるべき、あるいは不可侵であるはずの生命を操作可能な対象とする行為」、「人間の手段化・道具化」といった表現も見出される。そもそもリスクが「道徳的」であるとはいかなる意味においてなのか。ここでは、「道徳的リスク」という語の直接の用例は見られないものの、際立ってこの論点を強調しているように思われる二人の論者、レオン・カスとハンス・ヨナスの見解を手がかりにしてみたい。
 米国大統領生命倫理評議会の議長を務める著名な生命倫理学者カスによれば、ヒト胚の研究利用、クローニング、遺伝子操作といったヒト・バイオテクノロジーの進展の中で問われるべきことは、「雇用や保険における〈遺伝子差別〉のリスク」――これは「実践的問題として重要である」が「最も深刻な問題」ではない――よりもむしろ、「人間性(humanity)」および「人間の尊厳(human dignity)」が保持されるかどうかということである。それは、「疾病の治療、苦しみの緩和、生命の保持」といった「よきこと」ゆえに全面的に否定することはできないものの、人間として生かす/死なせるといった境界づけができるという「思い上がり(hubris)」の心性を育ててしまう、人間生命の「製品化や商品化」への道を拓くというマイナス面も無視されてはならない。「尊厳と人間性への挑戦」という「道徳的危機(moral crisis)」こそ、真に問われるべきものなのである。(cf. Kass 2002)4
(略)
 しかしながらこうした見解で見落とされているのは、共同‐協同存在としての人間相互の関係のうちで働いている「倫理」が直面する脅威である。それは、先端医療技術の力を借りてコントロール可能な対象として眼差しかつ関わっていくという、他者との関係性が危機にさらされているという事態に他ならない。これを、「どのような〈他者への関わり〉および〈他者との関わり合い〉を構想し、築き上げていくのか」という意味での倫理的構想力への挑戦として受け止める感受力が求められているのではないか。
 つまり「道徳的リスク」ということで問われるべきなのは、カスやヨナスが唱えるような「それ自体として不可侵な実体的価値の侵害の脅威」ではなく、むしろ「思い通りにコントロールできる他者への関わり合いを望む/思い通りにならない(したがって煩わしい) 他者との関わり合いを望まない」という欲望がテクノロジーによって増幅される(抑制機能が解除される)ことの問題性なのである。そうした「欲望増幅=抑制機能解除」を積極的に推し進め、コスト便益的発想(生産性・効率性)を人間の〈質〉評価(正常/異常、健常/障害)に組み込む発想への違和感および抵抗感覚の摩滅こそ、真剣に取り組むべき課題ではないだろうか。これを「相互行為‐関係性の変質」あるいは「コミュニケーション的日常実践の貧困化」というリスクとして析出し、かつそれへの対処方法を案出する共同‐協同的営みが必要となる。その核心に据えられるのは、医療だけでなくあらゆる先端技術に付随するリスクについて、それぞれの専門分野を横断し、かつ非専門家との間で行われる公共的討議(public discourse)としてのリスク・コミュニケーションということになるだろう。


◆立岩 真也 2008 『生死本』(仮題),筑摩書房 文献表


*作成: 追加:植村要
UP:20071205 REV:20080907
Kass, Leon R.  ◇エンハンスメント  ◇生命倫理 bioethics   ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME(http://www.arsvi.com)