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『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』

Fukuyama, Francis 2002 OUR POSTHUMAN FUTURE : CONSEQUENCES OF THE BIOTECHNOLOGY REVOLUTION,Farrar. Straus and Giroux, New York.
=20020927 鈴木 淑美 訳,ダイヤモンド社,286p.


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■Fukuyama, Francis 2002 OUR POSTHUMAN FUTURE : CONSEQUENCES OF THE BIOTECHNOLOGY REVOLUTION, Farrar. Straus and Giroux, New York. =20020927 鈴木 淑美 訳 『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』,ダイヤモンド社,286p. ISBN-10: 4478180350 ISBN-13: 978-4478180358  〔amazon〕[kinokuniya] en

商品の説明
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昨今、バイオテクノロジー技術は急速に発展しており、今まででは考えられないような事が、実現されてきている。現実にアメリカでは、クスリや遺伝子工学を駆使して「もっと魅力的に」「もっと人に好かれる性格に」変貌を遂げることが可能となっている。
科学でココロを、行動を操作すること。これこそが、著者であるフランシス・フクヤマが本書で提起する問題である。
著者はハーバード大学で政治学を専攻し、世界的ベストセラーとなった、『歴史の終わり』を上梓している。その内容はここでは割愛するが、これに多くの批評が寄せられ、そのなかで唯一反論できないと著者が思ったのは、「科学の終わりがない限り、歴史も終わるはずがない」ということだった。そこで本書において、生命科学の進展という途方もない時代のまっただ中にいる、われわれ人間の本質や政治への影響を論じることとなった。
全体は3部構成で、まず「これから起こること」を述べている。とりわけ、現代社会の大きな問題のひとつである、「長寿」について書かれた部分は興味深い。平均寿命が大幅に延びた社会では、政治的、社会的、思想的変化は、かなり遅いペースで起こる。それは、同時に3、4世代が現役であると、若手の意見が通りにくく、世代が交替しにくいのだ。また、社会は巨大な介護施設と化すかもしれない。われわれはこれらをどうクリアしていくべきなのか。
第2部では、これらをふまえて「人間の根源」を考える。第3部では「今なにをすべきか」、著者からの提言が記されている。
著者は「我々は“人間後(ポストヒューマン)”の未来に足を踏み入れようとしているのかもしれない」と述べている。生命科学の暴走はわれわれをどのような未来に導くのか
読者を不安にさせるような問題を次々と明らかにしているが、一方で「真の自由とは、社会で最も大切にされている価値観を政治の力で守る自由を意味する。バイオテクノロジー革命が進もうとしている今日、我々が守り用いるべきは、この自由にほかならないのである」という力強いひと言も残している。(冴木なお)
日経BP企画
ポスト・ヒューマン
10年前に出版され世界的ベストセラーとなった『歴史の終わり』の著者が、バイオ技術が社会や人間の本性に与える影響を辛らつに考察した注目の新刊。ジョンズ・ホプキンズ大学の政治学教授の著者の博覧強記ぶりがあますところなく現れている。
バイオ技術の進歩に懸念や憂慮、反駁を示す書籍は今までもあった。しかしそのほとんどは多分に無知、無理解、進歩に対する生理的な嫌悪感を借り物の理屈で糊塗するに過ぎない類の書籍であり、「安全性は証明されていない」という証明不能原則を逆手にとって、危険性を過大視する類の書籍が少なくなかった。
研究者が報告する夥しい論文を咀嚼し、そこに正鵠を射た論評を加えつつ、スケールの大きな文明論にまで昇華しているという点で、本書は衝撃の書である。
一読すれば著者の主張がにわか勉強と「専門家が説明しないからいけない」という理屈をよりどころにした「反バイオ論」でないことが読み取れるはずだ。
著者は人類を対象にした遺伝子工学が人類の未来を改変していくことを懸念して、こう述べる。「無制限な生殖の権利であれ、科学研究の自由であれ、見当違いの自由を振りかざした、こんな未来世界を受け入れる必要はない」
(日経バイオビジネス2002/12/1 Copyrightゥ 2001 日経BP企画..All rights reserved.)
出版社/著者からの内容紹介
飛躍的に進歩した生殖医療とゲノムビジネスによって、“人間の次の生き物”が生み出されようとしている
内容(「BOOK」データベースより)
「人間後」(ポストヒューマン)の世界は、人間の遺伝子に他の種の遺伝子をいろいろ融合させすぎて、「人間とは何か」はもはや曖昧になり、「共有された人間性」という概念すら失われてしまうかもしれない。一〇〇歳を超えて長生きし、死を望みながら、しかし死ぬこともできず、介護施設でじっとしている人であふれるかもしれない。こうした未来社会を受け入れる必要はない。テクノロジーの進歩が人間の目的に役立たなくなったのに、進歩は止められない、自分たちはその奴隷だ、などとあきらめる必要はない。
内容(「MARC」データベースより)
人格を変える薬、寿命操作、クローン人間…。バイオテクノロジーはなぜ危険か。自著「歴史の終わり」をめぐる議論を踏まえ、この10余年のテクノロジーの進歩と世界の変化を検証した上で、今後とるべき態度・方策を提言する。
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著者略歴(「BOOK著者紹介情報」より)
フクヤマ,フランシス
ジョンズ・ホプキンズ大学教授。1952年生まれ。父は日系2世、母は日本人。コーネル大学で古典、ハーバード大学で政治学を専攻。89年ブッシュ政権では、国務省政策企画局次長を務める。共産主義の失敗と自由民主主義の正当性を論じた『歴史の終わり』(三笠書房)は、世界的ベストセラーになった
鈴木淑美
1962年生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。清泉女子大学専任講師を経て、翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


■目次

はじめに

T―これから起こること

第1章 二つの未来図 4
 未来を暗示した二冊の本/「人間」の根拠とは何か/悪魔の取引/三つのシナリオ/明白な答えと泥沼の議論/技術進歩への敗北主義を捨てよ/権利と正義はどこからくるか/失敗した社会主義の実験/我々の未来を決める判断

第2章 脳の科学 22
 テクノロジーと政治/認知神経科学の革命/別々に育てられた一卵性双生児の行動/異文化人類学/マウスに高度記憶力遺伝子を埋め込む/「ベル・カーヴ」の衝撃/知能を決める因子「g」仮説/「知能」とは何かをめぐる論争/知能と人種の関係/研究は政治的重要性をおびる/犯罪の遺伝理論/犯罪衝動はどこからくるのか/人種差別的似非科学という批判/ジェンダーの視点/同性愛は遺伝なのか/「ゲイ遺伝子」/私的な優生学の時代が来る?

第3章 行動を支配する薬 48
 暴かれたフロイトの限界/抗鬱薬プロザック論争/"壕入りの自尊心"/「ソーマ」が登場するのか/ADHD治療薬リタリン/リタリンから見える遺伝子工学的未来/利益と圧力/「障害」の定義が広がる/やがて来る向精神薬の新たな波/三つの政治的流行/違法薬物「エクスタシー」/混乱の核心

第4章 寿命の延長 68
 人はなぜ老い、死んでいくか/カギを握る酵素テロメラーゼ/年齢分布の急激な変化/投票者集団としての高齢女性層/長寿化が引き起こす社会的衝突/先延ばしにされる世代交替/政治・社会・思想の停滞/社会は巨大な介護施設となるのか/生活の質が低下し、身体だけが生き続ける/「ポスト・セックス」社会/テクノロジーが提供する生命にしがみつくか

第5章 遺伝子工学 86
 ヒトゲノム計画/マウスのクリックで優れた胚を選ぶ/デザイナー・ベビーへの道/ありがたくない副作用/「人間の性質」は変わるのか/科学技術のスピードは予測不可能/アジアにおける女児不足が意味するものとは/遺伝子工学が人類全体に普及するとき…

第6章 なぜ不安なのか 99
 優生学という亡霊/従来の反論はもう通用しない/新しい人間の「繁殖」/生殖技術と神の意思/「どんな怪物を作ろうというのか」/功利主義的に善か悪か/親の嗜好を次世代に埋め込む行為/ゼロサムゲーム/環境適応の無情な論理/放っておいても解決はしない/何が最も不安なのか/バイオテクノロジーと「人間性」

U―人間の根源へ
第7章 人間の権利 122
 リベラル民主主義の基盤/権利をめぐる議論の混乱/人間の死体を動物の飼料にはできない/利益の優先順位/権利はどこからくるのか/普遍的かつ決定的な権利はない/「人権=自然」主義者の誤り/「すべし」と「である」/あまりに複雑な人間の感情システム/カントのいう「善なる意思」/自由主義国家における「価値」の問題/人間性についての仮定/「生殖の自由」という権利/個人の選択と自律性/暴力の構造/矛盾する性向/種としての人間

第8章 人間の本質 151
 「人間性」という概念の意味/「正常な」身長などない/普遍的な人間が存在するか/遺伝か環境か/性質や行動の遺伝はさまざま/文化的動物としての人間/では、人間本来の性質とは?/書き込まれた「白紙」/種に典型的な認識と反応/「子殺し」の背景/人間中心主義批判と動物の権利/我々は動物とどこまで同じか

第9章 人間の尊厳 172
 尊重されたいという欲望/X因子/自由意思か物理法則か/「その力を手に入れよう」/ジーンリッチとジーンプア/人間について境界線が引けるのか/科学が偏見を覆した/「遺伝くじ」は果たして不公平か/より平等な社会への可能性/遺伝子による格差、遺伝子による平等/サルからヒトになる間に何かが起こった?/部分と全体/複雑さの頂点は人間の行動/人間は生来政治的な動物か/意識は謎のまま/脳というコンピユータの副産物なのか/なぜ「感情」を持つようになったのか/人間らしさに欠かせないもの/進化の過程の重大な飛躍/何を守るべきなのか/脅威にさらされる感情/子ども、病気、犯罪者の権利/我々はいつ人間となるのか?

V―今なにをすべきか
第10章 テクノロジーの政治学 210
 核兵器とITの間/推進派も懸念派も方向違い/なぜ政府の規制が必要か/決めるのは誰?/政治的コミュニティが決めるしかない/生殖に国家が介入する論理/テクノロジーの統制は可能か/不可抗力だと思うべきではない/サダム・フセインのクローンは脅威か/ヒト・クローン非合法化への流れ/倫理性に関する世界の温度差/合意を生み出す魔法はない

第11章 バイオテクノロジー規制 227
 rDNA実験をめぐる論争/農業バイオテクノロジーの規制/食品安全におけるコーデック規格/アメリカとEUの対立/ヒト・バイオテクノロジーの規制/国際レヴェルでの人体実験制約

第12章 未来への指針 236
 思考から行動へと移るべき時期/一六ヵ国がヒトの胚研究を規制/これから現れる技術/どこで線を引くか?/治療と「向上」、病気と健康の境界/アメリカにおけるリタリンの使われ方/まずルールと制度を/既存の組織か新たな機関か/資金ルートに光を当てよ/クローン実験の失敗を待たねばならないのか/我々に与えられた人間の「本質」/我々は技術の奴隷ではない

訳者あとがき 255
注記 286


■引用

第1章 二つの未来図
(p9-10)
 ハックスリーの『素晴らしき新世界』のどこがおかしいかは、人間の本質が価値観の源としてきわめて重要である、という見解に当てはまるか否かによる。(略)
 本書の目的は、ハックスリーが正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の性質を変え、我々が歴史上「人間後(ポストヒューマン)」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。これが重要なのは、人間本来の性質なるものが存在し、しかも意味ある概念として存在し、そのおかげで種としての我々の経験が安定的に続いてきたからである。これが宗教と組み合わさって、最も基本的な価値観を決める。政治体制の種類を形作り、制限するのは人間の性質である。だから、我々の現在を変えるほど強力なテクノロジーは、リベラル民主主義と政治の性質そのものに、おそらくよからぬ影響を与えるに違いない。
 『一九八四年』のところで考えたように、結局のところ、バイオテクノロジーがもたらす結果は、完全に意外なほど良性であり、くよくよ心配することはなさそうだ。テクノロジーは見かけほど力があ[p10>るとは思えないし、我々は節度を守り、慎重に応用するだろう。しかし、私があまり自信がないのは、他の科学的進歩と違い、バイオテクノロジーは、明らかなプラスと微妙なマイナスが切れ目なく混じり合っているからだ。
(pp13-14)
 バイオテクノロジーは、将来大きな利益をもたらす可能性がある反面で、物理的に見えやすい脅威、あるいは精神的で見えにくい脅威を伴う。これに対して、我々はどうすべきなのか。答えは明白である―国家の権力を用いて、それを規制するべきだ。もしも個々の国家権力で十分でないならば、国際的基盤で規制することが必要である。バイオテクノロジー使用の善悪を見極める制度を作り、国家的、国際的両面で有効に施行する方法について、今こそ具体的に検討を始めるべきだ。
 今述べたのは明白な答えなのだが、しかし現在バイオテクノロジーをめぐる多数の論客にとっては、明らかでないようだ。あいかわらず、議論は、クローンや幹細胞研究などの倫理性について、どちらかというと抽象的な泥沼に陥っている。そして何でもOKにしたい陣営と、研究と実践を広く禁止したい陣営の二手に分裂してしまった。より幅広い議論はもちろん重要であるが、事態は非常に速く進んでいるのだから、テクノロジーに支配されるのでなく、人間が支配し続けるために、将来の発展をどう方向づけるべきか、すぐにでも、より実際的な指針を出すべきだ。何もかも認めてしまうこともないし、かなり期待できる研究まで禁止する必要もないと思われるから、妥協点を見つけることが求められる。
 新たな規制の制定は多大な労力を要するものであり、簡単に取り組める問題ではない。この三〇年、各国では、航空業界から電気通信業界まで経済の大部分で規制を緩和し、政府の規模・権限の縮小に向けて動いてきた。その結果生まれた国際規模の経済は、はるかに効率よく富を生み出し、技術革新を実現している。過去の経験から、あらゆる形での国家介入に対して本能的に敵意を持つ人は多い。
 ヒト・バイオテクノロジーを政治的にコントロールする際に、主要な障害となると思われるのは、こ[p14>の規制に対する条件反射にも似た嫌悪である。
 しかし、この点は区別すべきだ。経済の分野によって、有益なことは異なる。たとえば、情報テクノロジー(IT)は多くの社会的利益を生むわりに害は小さいから、政府規制は最小限で済む。かたや核物質や毒性廃棄物の場合、規制がなければ明らかに危険であるため、国家および国際的に厳重なコントロールを受ける。(略)
 ヒト・バイオテクノロジー規制の必要性を主張するうえで最大の障害となるのは、テクノロジーの進歩を止めることがたとえ望ましいとしても、現実にはできない、という共通の見解である。(略)テクノロジーの進歩は止めることもコントロールすることもできない、と考えるのは、間違いである。理由は本書第10章で詳述するつもりだが、我々は実際に、あらゆる種類のテクノロジーと多くの科学研究をコントロールしているのだ。(略)これらの規則に違反する個人や機関があるから、この規則が存在しない(あるいはきちんと実施されない)国があるからといって、そもそもこの規則を作る必要がないという言い訳にはならない。
(p16)
 アリストテレスは、正邪に関する人間の認識―今日でいう人間の権利―は最終的に人間生来の性質に基づく、と論じた。(略)
 アリストテレスは直接の先達にあたるソクラテスやプラトンとともに、人間本来の性質について対話を始めたが、これはリベラル民主主義が生まれるまで、西洋哲学の伝統となっていた。人間性とは何かについては重要な論争が盛んに行われたが、人間性が権利と正義の基盤として重要であることに異論を唱えるものはなかった。アメリカ建国の父たちも自然権を信じ、ここに英国国王に対する革命の基盤を置いていた。それにもかかわらず、ここ一〜二世紀の間、この概念は大学の哲学者や知識人には好まれていない。
 本書第U部で見るように、私は、これは間違いだと思う。権利を定義するならば、人間性についての現実的な判断に基づくべきであろう。バイオテクノロジー革命は人間性という概念に脅威となるが、現代生物学は、これに何らかの意味ある経験的内容を与えようとしているのだ。
(p18)
 世界規模でリベラル民主主義に収束していく重要な理由の一つは、人間性の頑強さに関係がある。というのは、人間の行動は可塑的で変化しやすいとはいえ、無限に変えられるわけではない。ある点で深く根ざした自然な本能と行動様式がまた頭をもたげて、社会改革者が立てた計画を切り崩していく。(略)
 政治制度が人間の先天的性質も後天的性質も一切ゼロに戻すことは不可能だ。二〇世紀の歴史は、二つの相対する恐怖によって定義された。一つは、「生物学こそすべて」と言ったナチであり、もう一つは、「科学は無駄」と言った共産主義である。リベラル民主主義は、このどちらの極端も避け、歴史的に作られた規範に従って政治を形作り、自然な行動様式に過剰な介入をしないため、現代、実現可能で合法的な唯一の政治制度として登場してきたのだ。(略)
 二〇世紀後半のテクノロジーの進歩は、特にリベラル民主主義には好材料となった。テクノロジーが政治的自由と平等それ自体を促進するからではなく―実際には促進しない―、二〇世紀後半のテクノロジー(特に情報にかかわるテクノロジー)が、政治学者イシエル・デ・ソラ・プールのいう自由のテクノロジーであるからだ。
(pp20-21)
 本書は三部に分かれている。第一部は将来起こりうる可能性をいくつか提示し、そこから生じる結果について述べる。(略)
 第二部は、人間性を操作する可能性によって生じる哲学的問題を取り上げる。正邪の理解―人間[p21>の権利―にとって人間性が中心であることを論じてから、人間の起源に関する宗教的前提に依存することなく、人間の尊厳という概念をいかに培うかを論じたい。政治学の理論に関する議論を好まない人は、この章を飛ばしていただいてもかまわない。
 第三部は、もっと実際的な問題だ。バイオテクノロジーの長期的結果について心配があるならば、合法的・非合法的応用を区別する規制を打ち立てることによって、何か手を打てるはずだ。第二部とは対照的に見えるかもしれない。合衆国など諸国における特別な政府機関と法の詳細にも立ち入るが、それには理由がある。テクノロジーの進歩は早い。だから、これに取り組むためにどのような制度が必要となるか、というさらに具体的な分析に素早く移る必要がある。
 ヒトゲノム計画の完成などバイオテクノロジーの進歩は、遺伝的差別や遺伝子のプライヴァシーといった、実際的な政策関連の問題を多数引き起こした。本書は、この問題のどれか一つに焦点を当てることはしない。それは、既に他の学者が詳しく論じているからでもあるが、バイオテクノロジーによって提示された最大の難題はそれほど切迫したものでなく、一〇年あるいは一、二世代先のものであるからだ。これが倫理的だけでなく政治的な問題であるということを忘れてはならない。このテクノロジーに対して、これから二、三年の間に下す政治的判断によって、我々の未来は決まるのだ―「人間後(ポストヒューマン)」の未来に入り込み、その未来が仕掛ける道徳の罠にはまってしまうのか。それとも人間性に基づく世界に踏みとどまるのか。二つに一つである。

第2章 脳の科学
(p23)
 バイオテクノロジー革命について語る際に、このテーマが遺伝子工学よりはるかに幅広いことを忘れてはならない。我々が今日経験しているのは、DNAを解読し、操作する能力における技術革命というだけではなく、その基盤となる生物学の革命である。この科学的革命は、分子生物学のほか多数の関連分野―認知神経科学、集団遺伝学、行動遺伝学、心理学、人類学、進化生物学、神経薬理学など―での研究と進歩に基づく。これらの科学分野はすべて、政治的意味を孕んでいる。なぜならば、すべての人間行動の源である脳についての知識を増し、それによって操作する能力をも高めるからだ。
(p24)
 遺伝子と性質・行動を結びつける試みは、ヒトゲノム計画より何年も前から行われている。結果として、政治的に数々の激戦が展開されてきた。
 遅くとも古代ギリシャの時代から、人間行動において自然と文化・環境のどちらが重要か、という問題は議論の対象となっている。二〇世紀には、自然科学と社会学によって、自然でなく文化による原因を強調する傾向があった。しかしここ数年、流れは遺伝学の立場をとり、反対の方向に―極端すぎるという人も多いだろ―勢いを増している。科学的展望のこの変化は、一般紙でもあちこちに反映され、知能から肥満、攻撃性まで、あらゆるものを「決定する遺伝子」が取り上げられている。
 人間を形作るうえで、遺伝と文化が果たす役割をめぐる議論は、当初から政治色がきわめて濃い。保守派は自然を基盤とする説明を好むし、左派は環境の役割を強調する。
(pp28-29)
 行動遺伝学と異文化人類学はマクロな行動様式から始まり、相関関係に基づいて人間の性質を推論する。遺伝的に同一である人々をまず取り上げ、環境による違いを探す。また、文化的に異なる人々を対象として、遺伝による相似点を探す。いずれのアプローチも、批評家を満足させるほどにはまだ証明ができない。というのは、統計的推論を根拠としており、これにはしばしば誤差がつきもので、[p29>遺伝子が原因となっているとは断言できないからだ。
(pp31-32)
 一九九四年、チャールズ・マレイとリチャード・ハーンスタインの著書『ベル・カーヴ』は、爆発[p31>的反響を引き起こした。(略)
 マレイとハーンスタインは頑迷な人種主義者として糾弾された。(略)
 しかし、この本は、知能が「遺伝による」という陣営と「環境による」という陣営の間で続いてきた冷戦の、最近の一戦でしかない。保守主義者は、既存の社会階層を正当化して、政府の介入に反対[p32>したいから、「人間は本来異なるものだ」という議論に共感しがちだ。対照的に、左派は、社会正義への追求には自然の制限があってしかるべきだ、という考えに、そしてとくに、人間集団の間には本来差異がある、という考えに従うわけにいかない。知能のような問題では利害関係が大きいため、たちまち方法論までもが論点になってしまった。右派は、知能とは明白で測定可能だといい、左派にしてみれば、その測定は曖昧で大きな間違いをおかしやすいことになる。
(p33)
 精神測定が忌まわしい政治的意味を持つ人種・優生学観と直結することは、人によっては、それだけで分野全体が妥当でないことを示すに十分だと思われるかもしれない。しかし、「政治的に正しくない」発見が「悪い科学」であるとは限らない。気に入らない考えをする論者を方法論から非難し、「似非科学」と排斥することは簡単だ。二〇世紀後半の左派は、これがなかなかうまかった。この最高水準となったのは、一九八一年に発表されたスティーヴン・ジェイ・グールドの『人間の測り間違い』である。
(pp36-37)
 知能と遺伝子に関する議論のポイントは、知能理論のどれかが他より優れている、と論じることではないし、知能の遺伝率を計算することでもない。(略)常識で考えれば、これらの能力は相当遺伝の影響を受けそうだ。分子レヴェルの研究が進んでも、知能と人種差についてそれほど驚愕するような発見にはつながらないのではないだろう[p37>か。(略)
 しかし、異なる問題もある。遺伝子工学において知能の操作につながる進展がない、と仮定しても、遺伝子と行動・性質との関係についての知識が集積するだけで、政治的重要性をおびる。
(p38)
 遺伝と知能の関係以上に政治的論議を呼ぶものがあるならば、それは犯罪と遺伝の問題である。犯罪行動の原因を生物学で明らかにしようという努力は、精神測定と同じくらい古くから行われ、その歴史はさまざまな問題をはらんでいた。この分野の研究でも不愉快な方法論が用いられてきたうえ、優生学運動に関係してきた。
(p41)
 人を犯罪に走らせるのが遺伝子と環境のどちらであれ、この問題を公の場で議論することが、今日のアメリカでは政治的に不可能であることは明白である。アフリカ系アメリカ人がアメリカの犯罪人口において多くの割合を占めるため、黒人が遺伝的に犯罪者になりやすいことになってしまうからだ。科学的人種差別主義がまかり通った昔から、この分野の研究者が、まじめにこの種のテーマを論じたことはない。「この問題に関心を持つ人は、人種差別主義的動機があるのではないか」という疑いは、相変わらず消えないのだ。
(p42)
 遺伝についての知識が、重要な政治的意味を、これまでもこれからも持つ第三の分野は、性欲であろう。性欲は強い生物学的根源がある、ということを否定する人はめったにいない。男性/女性の差異は、社会的環境よりも生物学によって影響を受ける―という議論は、人種の差異が生物学に影響されるというよりも説得力がある。
(p44)
 遺伝子と性欲の問題に移ると、政治的立場はほぼ完全にひっくり返る。遺伝子と知能、遺伝子と犯罪、遺伝子と性の差異という問題では、左派は生物学的説明に激しく反論し、これらの行動に遺伝が重要な影響を及ぼすという証明を軽視しようとする。しかし、同性愛の問題になると、対照的な主張を唱え始める。つまり、性的志向は個人の選択や社会的条件づけの問題ではない、出生時に偶然付与されたものだ、というのである。
(p46)
 他方、同性愛は個人の道徳的選択の問題にすぎない、とする右派の人たちは、左派が知能やジェンダーに関して直面するのと同じ事実、つまり自然による限界があるという事実をつきつけられる。左ききの人たちは、右手で書いたり食べたりするように教えられることができるが、しかしそれには大変な努力がいるし、決して「自然」には感じない。実際、遺伝によって決まる部分もあれば、また社会環境や個々の選択によって決まる部分もある、というかぎりでは、同性愛は知能や犯罪率、性的アイデンティティと違いがない。それぞれ、遺伝と社会的原因の相対的な重要性について議論できても、遺伝子があるということだけで激論の種となる。道徳や人間の可能性には限界がある、ということを示唆してしまうからだ。
(pp46-47)
 二〇世紀の社会学にとって最も好ましい希望とは、自然科学の進歩によって、人間行動の重要な原因としての生物学を排除できるのではないか、ということだった。多くの点で、これは希望通りだった。人種・民族集団の間での差異、また男女の差異が、チャールズ・ダーウィンの進化論が発表された直後に信じられていたよりもずっと些細であることがわかったから、「科学的人種差別主義」には経験的な基盤がないことになる。人間は実際に同じ遺伝子を持つ種と考えられ、それが近代以後、人間に普遍的な尊厳があるという道徳的直感を支えている。しかし、ある集団間の差異は―とくに男女間で―残っている。個人間の差異を説明するには、依然として生物学が大きな役割を果たす。将来、人間の遺伝についての知識が蓄積されても、行動の遺伝的原因についての知識も増えるわけで、政治的論争は果てしなく続くだろう。[p47>
 人間行動の原因についての科学的知識が増えれば、必然的に、因果関係を操作する方法が求められる。たとえば、同性愛を生物学的に引き起こすものが存在する―出生前のアンドロゲンであれ、ゲイ遺伝子であれ―となれば、いつかゲイに「治療」が施せるという可能性につながる。この点で、左派が生物学的な説明を容認できないのは当然だ。人間の尊厳が平等であることが脅かされてしまうからだ。
 話をもっとわかりやすくしよう。これからの二〇年間で、同性愛の遺伝について理解が進み、親がゲイの子どもを産む可能性を減らせる、と仮定してみる。遺伝子工学の存在を推定する必要はない。ピルを投与し、子宮で、胎児の脳を男性化するのに十分なレヴェルのテストステロンを与えればいい。治療が安く、効果的で、副作用がなく、産科医でプライヴァシーを守って処方されるとしよう。さらに、社会の規範が同性愛を受け入れるようになったとする。このピルをのみたいと思う妊婦はどれくらいいるだろうか。
 私が思うに、今日、ゲイ差別と思われるものに憤慨する人も含めて、多くの人がこのピルをのもうとするのではないか。ゲイは、禿げているとか、背が低いとかと同じようなものとして捉えられるかもしれない。―道徳的に非難されるものではなく、かといって理想的状況ともいえないもの。他の条件が同じなら、なるべく子どもにはそうなってほしくない、というようなものだ。では、このことでゲイの立場はどう変わるだろうか。こうした私的な優生学が、前よりも、もっと大規模な差別のターゲットとなりはしないだろうか。それだけではない。ゲイが排除されたら、人類が明らかに改善される、というのだろうか。もしそう言えないとしたら、国に強制されてでないとしても、親が自らこうした優生学的な選択をするという事実に無関心でいてよいのだろうか?

第3章 行動を支配する薬
(pp57-58)
 リタリンの政治学によって、性格や行動として理解するうちに曖昧になってしまった人間の思考活動というものが明らかになる、そして遺伝子工学が用いられたあかつきに何が実現できるかが見えてくる。ADHDを自覚する人たちは、集中できず十分な成果を挙げられないのは性格のせいでも意志[p58>が弱いからでもなく、神経的なものの結果である、とがむしゃらに信じようとする。自分の行動の原因として「ゲイ遺伝子」を挙げるゲイ同様、自分の行為の個人的責任を免れたいと思うのだ。最近の人気のあるリタリン推奨本でいうように、「誰も責められない」というわけだ。(略)
 今や、自分が多動的で集中力の欠如が甚だしいのは、生物学的に決定されている、と認めたい人は間違いなく多い。しかし、正常的な人のたとえば一五%程度しか注意力がない場合は、どうだろうか。この状態であれば、ある程度生物学的原因が認められるが、それでもとにかく何か努力すれば、些かなりとも注意力を高め、多動性を減らすことはできる。訓練、性格、決心、環境はすべて、全般的に重要な役割を果たしている。したがって、病気として分類すると、治療と健康増進の境界線が曖昧になってしまう。しかし、これこそ、病気としてADHDに取り組もうとする推進派が、まさにこれまで求めてきたものなのだ。
(p60)
 IDEAによって今日アメリカで疾病の定義がだんだん広がっていくことを、経費の点から不満に思っている保守派は多い。しかし、もっと重要なのは、道徳的な見地での反論だ。ADHDを疾病と分類することはつまり、社会が、実質上、生物学的・心理社会学的両面で取り組んだうえで、生物学要素のほうが上回る、といっているわけだ。実はある程度行動を抑制できる人も、「あなたは自分では抑制できない」と言われてしまうと、カネと時間が割り当てられ、間違いなく補償が受けられることになる。
(p61)
 プロザックとリタリンの間には、用心すべき対称性がある。プロザックは自尊心を持てない鬱の女性に処方され、高レヴェルのセロトニンとともに、集団の中でアルファとなったオスにも似た感覚を与える。それに対して、リタリンがよく用いられるのは、もともと授業中じっと座っているようにつくられなかった男の子だ。あわせて考えると、男性も女性も、自分に満足し、社会に従順な中性的性格に近づきつつある。そしてこれこそ、今日のアメリカ社会において、政治的に正しい結果なのである。
(pp62-67)
 遺伝子工学やデザイナー・ベビーを待つまでもなく、今後、政治的勢力によって新しい医学技術が進んでいく様子が予想できる。神経薬理学の領域でさまざまな政治の力が働いているのを目撃することになるだろう。合衆国における向精神薬の広がりは、三つの政治的流行を示している。この流行は遺伝子工学とともに再び現れるだろう。第一の流行は、一般の人たちの側に、自分の行動をできるだけ病気として捉えたい、それによって自分の責任を軽くしてもらいたい、という欲求があること。第二は、このプロセスに協力しよう、という経済的利益から団体が強く圧力をかけてくること。これに[p63>は教師や医師のような社会的サーヴィスの提供者も含む。製薬会社同様、彼らも面倒な子どもの行動に介入するよりも、手っ取り早い生物学的方法を好むものだ。あらゆるものを医学の立場で扱おうとする試みから生まれる第三の流行とは、さらに多くの精神状態が治療の対象となっていく傾向である。不愉快な状態、あるいは気が滅入る状態も病気と認めよ、と医師の同意をとりつけることも可能となる。まもなく、代償的な公的介入を受ける法的疾病として、こうした状態が大規模に認められるだろう。
 プロザックとリタリンについて多くのページを割いてきたが、それはもともと悪いとか害があるとか思っているからではなく、この先に起こるものの先触れだと考えるからだ。二、三年すれば、この二つは予期できなかった副作用のために人気を失うかもしれない。もしそうなっても、より強力で、ターゲットを絞り、さらに改良された向精神薬が代わるだけのことだ。
 もちろん、社会的抑制という言葉は、政府が人心を変える薬を用いて従順な国民を生み出す、という右派の想像を彷彿とさせる。この不安は近い将来にはありえない、と思われるかもしれない。しかし、社会的抑制は、国家よりも社会のメンバーによって、すなわち親や教師、学校制度、人の行動に関心のある他人によって、行われうるものだ。アレクシス・ド・トクヴィルが指摘したように、民主主義は「多数派による暴政」になりやすい。そこでは大衆の意見が幅を利かせて、純粋な多様性や差異を追い出してしまう。現在、これは「政治的正しさ(PC)」として知られるようになった。現代のバイオテクノロジーが、政治的に正しい目的に行き着くべく、生物学を用いた新たな手段を大々的に提供する日も近いのではないか、と考えても、杞憂ではないだろう。(略)[p64>
 現在の神経薬理学をみれば、今後の政治的反応がどうなるか予想できる。プロザックやリタリンのような薬物が、それ以外の方法では治らない莫大な数の人々を救うことは、疑いの余地がない。(略)我々の頭痛の種になりそうなのは、これらの薬物が「美容薬理学」として、そもそも正常なふるまいをよりよくするために用いられることであり、あるいは社会的に有利だからといって、本来の正常な行動を変えるのに使われることである。(略)[p65>
 エクスタシー経験についての記述を見ると、エクスタシーが社会的感受性を高め、人間の絆を強め、集中力を高めるなど、社会から一般的に是認される効果を持つように思える。プロザックの効果といわれるものに、不気味なほど似ているが、しかし、エクスタシーは規制薬物であり、合衆国でのいかなる販売・使用も違法とされる。一方で、リタリンとプロザックは医師によって合法的に処方される。この違いはどうしてか?(略)
 はっきりと答えられるのは、「エクスタシーがリタリン、プロザックとはおそらく違う形で身体に害を及ぼすから」である。(略)[p66>
 この違いは服用量の問題が大きい、という人もいる。乱用されれば、リタリンも重い副作用を起こす可能性がある。だから、医師の指導のもとでしか投与されないのだ。しかし、次の疑問が出てくる。どうしてエクスタシーをスケジュールUの薬物として合法化しないのか?あるいは、薬理学的にエクスタシーと同じで、しかも副作用が最低限になる薬物を探そうとしないのか?
 この問いに対する答えは、薬物の非合法化をめぐる混乱の核心をついている。明確な治療目的のない、ただ気分をよくするだけの薬物には、我々は相反する感情をいだく。特に、ヘロインやコカインのように、薬によってもたらされた高揚感が、使用者の正常に機能する能力を傷つけるとしたら、その感情はますます強まる。しかし、この感情は正当化しにくいのだ。人の「正常な機能」とは何か、という問題になるからだ。気分をよくしてくれる二つのドラッグ、アルコールやニコチンは合法なのに、マリファナを違法とすることをどうして正当化できるのか。こうを考えると、身体に明らかな害がある、たとえば中毒性がある、身体を損なう、長期的に望まない副作用にいたる、などの根拠で薬物を禁止するほうが簡単でよさそうだ。
 言い換えれば、薬物について、これが精神に悪い影響を与える、というだけの根拠で―現代の医学用語でいえば、心理学的効果だけで―、はっきりした立場をとることには及び腰なのである。明日、もし製薬会社がほんもののハックスリー風ソーマ錠を発明して、服用すれば副作用なしに使用者が幸せになり、社会的に人との絆を深めてくれる、としたら、それを使うべきでないとする説得力の[p67>ある理由が見つかるかどうか。右派と左派の両陣営で、多くの自由論者が、他人の気持ちや精神状態について気にするべきではない、他人を傷つけない限り、何の薬を選ぼうが勝手にさせておけばいい、と主張する。気難しい伝統主義者が、「ソーマは治療にふさわしくない」と反対したところで、精神医学者たちに、不幸を病気として認め、DSMに加えてほしい、と頼み込むだけのことだ。

第4章 寿命の延長
(pp80-85)
 少なくとも先進諸国の人々にとっては、医学テクノロジーによって、老齢期間は二つの段階に区分される。カテゴリーTは六五歳から八○代あたりまで。この段階で、人々は健康で活動的な生活ができ、それを利用する十分な力量を持てる。ますます寿命が延びるだろう、という楽観的な話は、大体がこの期間のことを念頭に置いている。そしてこの新しい段階に対して、実際多くの人たちが期待できることじたいが、現代医学の偉大なる業績である。このカテゴリーの人たちにとって主要な問[p81>題は、仕事によって自分の生活が侵されることだろう。単純な経済的理由により、定年が上がり、六五歳以上の労働者はできるだけ職場に残るようになるだろうが、だからといって社会にとって災いとなるわけではない。高齢の労働者は再教育を受け、ある程度地位を下がらざるをえないかもしれないけれども、多くは労働で社会に貢献できる機会を喜ぶだろうから。
 高齢の第二の段階、カテゴリーUは、問題が大きい。今日では、たいていの人が八○代まで達者であるが、この頃もろもろの能力が衰え、子どものように他人に依存するようになる。これは一般に重んじられる個人の自律性という理想に反するため、こういう期間については誰も考えたくないし、もちろん経験したくない。カテゴリーTとUに属する人の数が増えたことから、今日では、定年間近の人が、老親の介護という事実に選択を縛られるという事態が生じた。
生活の質が低下し、身体だけが生き続ける
 長寿化による社会的影響は、この二つのカテゴリーのどちらが拡大するかで決まる。T、Uのカテゴリーの相対的規模は、長寿化に伴い老化をどこまで遅らせられるかにかかっている。最高のシナリオは、テクノロジーが生命を延ばすと同時に、老化プロセスをもおしやるというものだ。たとえば、すべての体細胞に共通する老化のしくみが分子レヴェルで発見され、身体中の老化プロセスを遅らせることができるといったことだ。そうすれば、身体のあちこちの衰えはいっぺんにやってくることになり、カテゴリーTの人々が増え、カテゴリーUは減少するだろう。これに対して、最悪のシナリオとは、老化の進歩にかなりばらつきがあり、たとえば身体の健康は守れても、加齢ゆえの知的退化を遅らせることはできない、というものだ。幹細胞研究は新たに身体部分を成長させる目的が中心になる[p82>だろう。ウィリアム・ハズルティンの同様のコメントは、第2章で引用した。しかし、アルツハイマーが治療できなければ、この素晴らしいテクノロジーが開発されても、今日より植物状態が数年延びるだけの話だ。
 カテゴリーTが爆発的に増加したならば、国家が介護施設化するといえるかもしれない。一五〇歳まで生きてあたりまえだが、一〇〇歳から最後の五〇年は、子どものように介護人に頼る。この状態か、カテゴリーTが幸せなまま期間延長するか。最終的にどうなるかは予想できない。老化は、多様な生物学的システムに対するダメージが徐々に蓄積した結果であるから、分子生物学によって死を先延ばしできなければ、将来、医学が老化と死の両面で同時に進歩するとは考えにくい。既存の医学テクノロジーを用いると、生活の質が低下し、身体だけ生き続ける。ジャック・キヴォーキアンのような面々が、自殺や安楽死を支持する理由がまさにこれであり、アメリカなどで近年公然と議論される問題として注目されるようになった。(略)
 将来のバイオテクノロジーは、我々に、「長生きをあきらめ質の高い生活をしたほうがよいですよ」と取引を持ちかけると思われる。この取引に承諾したら、劇的な社会的影響がもたらされるだろう。しかし、現時点でこれを評価するのは、きわめて難しい。短期間記憶を失ったり頑迷になったりなど、知的能力における変化は、もともと計測して評価しにくいものだ。前述した、老化についての政治的正しさ(PC)のおかげで、個人として親戚の年寄りとつきあう場合でも、社会が公的政策を制定する場合でも、率直な評価がなかなか下せなくなる。高齢者を差別していると思わせないため、あるいは[p83>高齢者の生活が若者の生活よりも価値がないととられないために、将来の老化問題について本を書く人は誰でも、医学の進歩によって生活の質と量がともに高まるだろうと、とてつもなく楽観的な予言をせざるをえない。
 これが最も明らかなのは、セックスに関してである。老化について、ある人が次のように書いている。「年をとるにつれてセックスを禁じるのは、私たちがみな、高齢者は性的魅力に乏しいと思い込んでいるからに間違いない」。ここでいわれるように、「思い込み」だけで片付く問題ならばよいのだが!しかし不幸にも、とくに女性の場合、性的魅力イコール若さと思われるダーウィン的理由がある。進化は、生殖を促すために性欲を生み出した。だから生殖に適した年齢を過ぎた人間には、パートナーにとって性的魅力を持つ理由がないのだ。その結果どうなるか。この先五〇年、ほとんどの先進国が「ポスト・セックス」社会となるかもしれない。社会の大多数が、もはやセックスを「すべきこと」の上位に持ってこないだろうからだ。
 こうした将来の生活はどうなるだろうか。年齢の平均値が六〇、七〇、あるいはそれ以上である社会はこれまでなかったから、予想するのは難しい。典型的な空港の売店で雑誌を眺めてみよう。表紙を飾るモデルの年齢は平均して二〇代前半、たいてい見た目もよく、完璧に健康である。過去において、こうした表紙は、容貌や健康は別としても、社会全体の実際の平均年齢を反映していたといえる。これから二、三世代後、二〇代前半の人々が人口のほんの少数しか占めないとしたら、雑誌の表紙はどうなるだろうか。人々が目にする現実から極端にはずれていても、自分が若く、力強く、性的魅力にあふれ、健康的だ、と思いたいだろうか。あるいは若さを謳歌した文化が最終的に衰退するにつれて、趣味と習慣も移行するのだろうか。(略)[p84>
 人口のバランスとして、カテゴリーTとUの人数が多い社会へ移行すれば、生死についての意味もさらに深みをますだろう。現在まで、人間にとって生活とアイデンティティは、生殖、言い換えれば家族を持ち、子どもを育てること、あるいは稼いで家族を食べさせることに結びついている。人々は、蜘蛛の巣状に社会にはりめぐらされた家族への義務、仕事への責任に搦めとられている。自分に課せられた義務はほとんどどうしようもできないのだが、これは努力と不安を生むと同時に、大いなる満足の源でもある。こうした社会的義務を果たそうとすることから、道徳と性格が形作られるのだ。
 しかし対照的に、カテゴリーTとUの人々にとっては、家族との関係も仕事との関係も、はるかに希薄となる。彼らは生殖可能な年を超えている。カテゴリーTの中には、働こうとする人もいるかもしれないが、しかし労働と、労働が生み出す社会的絆を守る義務に縛られることはないだろう。カテゴリーUの人たちは、生殖も労働もせず、お金と公共サーヴィスが自分たちに向かって流れてくるのを見ているだけだ。
 といっても、T、Uのカテゴリーの人たちが突然責任から解放されたり、自由になったりするという意味ではない。彼らは、生活を空虚で寂しいと思うのではないか、ということだ。多くの人にとって、義務という絆があるからこそ、生活に生きがいが感じられる。定年後の生活が、働き、戦った後にくる短い余暇と受け止められる場合は、当然の報いだと思われるかもしれない。しかし、終点が見えないまま、この生活が二〇年あるいは三〇年にわたるならば、単なる時間の無駄だ。カテゴリーTの人々が、長い間、力が衰え他人に頼る毎日が続くことに、喜びや充実を感じることはないだろう。
 死との関係も、同じように変化する。死とは、生の自然にして不可避な一面でなく、天然痘やはし[p85>かのように、予防可能な災いとして考えられるようになるかもしれない。もしそうなれば、尊厳や品格をもって死を迎えないのは、愚かな選択にみえるだろう。自分がいつまでもずっと生き永らえると知っていたら、それでも他人のために生命を犠牲にしようと思うだろうか。必死になって、バイオテクノロジーが提供する生命にしがみつくだろうか。それとも、何もできないのに、ただ無限に生き続けているなんてとても耐えられない、と思うだろうか。

第5章 遺伝子工学
(p86)
 これまでの三章で述べたことは、いずれも、最も革命的なバイオテクノロジー、遺伝子工学においてさらなる進歩がなくても、起こる可能性がある。
(pp94-95)
 遺伝子工学にはこうしたさまざまな制限があるわけだが、予期しうる将来に、人間の性質を改変することはありえないのだろうか?その判断は早計に下すべきでない。いくつか理由を説明しよう。
 第一の理由は、生命科学における科学的・技術的発展のスピードがめざましく、しかも予想できないことである。(略)難しい仕事を簡単に片づけるどんな方法が今後登場するか、予想できない。(略)[p95>
 遺伝子間の相互作用がきわめて複雑に機能するといっても、それがすべて理解できない限りヒト遺伝子工学全体が棚上げされるというわけではない。技術の発展は、そういうものではない。たとえば、新薬が発明され、試験を経て、使用が承認されるとき、その効果が生じるしくみをメーカー側がいつも正確に理解しているわけではない。(略)
 人体実験の問題は、遺伝子工学の加速度的発達に対する重大な障害であるが、決して克服不可能ではない。新薬の試験と同様、最初リスクはほとんど動物が負うことになろう。人間を実験に用いるリスクが容認されるのは、利益が予測される場合に限る。対立遺伝子が異常を生じた本人と子孫に、二分の一の割合で痴呆と死の可能性をもたらすハンチントン病のような場合、筋肉やバストをより好ましく変えるのとは別格として扱われるべきだ。予期できない、また長期的副作用があるかもしれないというだけで、遺伝子治療の研究がストップすることはありえない。医学の発達史における初期段階もそうだったではないか。
(pp95-97)
 遺伝子工学による優生学/劣生学的効果が、人間の性質そのものを左右するほど普及するかという[p96>問題も、まだ決着がついていない。人口統計に重大な影響を与えるような遺伝子工学は、いかなるものであれ望ましく安全で、比較的安価に用いられるべきである。(略)
 しかしながら、新しい医学技術を数百万もの人々が選択した結果、人口全体に影響する例がないわけではない。現代のアジアでは、超音波によって中絶が簡単にでき、両性の割合が劇的に変化している。(略)
 遺伝子工学が超音波や中絶と同じくらい、安価で誰でも利用できる技術になるかどうかは、誰にも[p97>わからない。このテクノロジーによって生じる利益がどう予想されるかにもよるだろう。今日の生命倫理学者が共通して口にするのは、この種の遺伝子工学を利用できるのが金持ちだけに限られる、という懸念である。しかし未来のバイオテクノロジーが、たとえば知能の高い子どもたちを遺伝的に作り出す安全かつ効果的な方法を生み出したとしたら、問題はかなり軽減される。このシナリオで、進歩的な民主主義福祉国家が優生学のゲームに再び突入するかもしれない。今回は、IQの低い子が生まれないようにするのでなく、遺伝性障害を持つ人たちが、自分と子孫のIQを上げるために遺伝子工学を用いるのだ。こうした状況では、国家が、テクノロジーを安価に、誰でも利用可能に保証することになるから、人口レベルの影響が生じるだろう。
(pp97-98)
 ヒト遺伝子工学の結果、意図せざる結果がもたらされるだろうし、また望まれるような効果は生まれないかもしれない、という議論は、この先もやはり消えることはなさそうだ。(略)[p98>
 ヒト遺伝子工学は、未来にいたる第四の道筋にすぎない。バイオテクノロジーの発達においても、はるか先の段階である。今日、人間の性質を大きく変えることはできない。また、結局いつになっても変えることは不可能なままかもしれない。しかし、二つのポイントは指摘しておきたい。
 一つは、遺伝子工学が実現しなくても、バイオテクノロジーにおける初めの三つの段階―遺伝的因果関係についての知識が増え、神経薬理学が発達し、生命が延びる―が二一世紀の政治に重要な結果をもたらす、ということだ。人間が平等であり道徳的選択能力を持つという、これまで我々が重視してきた概念に真っ向から対立することになるため、これらのテクノロジーの発達は大きな論争を巻き起こすに違いない。また、このテクノロジーを応用すれば、社会が市民の行動をより支配できるようになるだろう。人間の性格やアイデンティティについての理解の仕方も、おそらく一変することになる。社会階層は揺さぶられ、知的、政治的進歩のペースも変わるのではないか。国際政治の性質も、影響を受けるはずだ。
 第二の点は、人類レヴェルの遺伝子工学が実現するのが二五、五〇、一〇〇年先のことだとしても、これはバイオテクノロジーにおける発達の中で、重要性が飛びぬけて高いことだ。人間性とは正義、道徳性、よい生き方といった概念の根本を支えるものであるが、遺伝子工学が人類全体に普及すると、全面的に激変せざるをえないからだ。
 どうしてそうなるか?これについては、第二部で取り上げたい。

第6章 なぜ不安なのか
(pp101-103)
 初期の優生政策に対して向けられる反論の中で、少なくとも西洋で今後進められる優生学には当てはまらない、と思われるものが二つある。まず、「この時点で利用できるテクノロジーを考えれば、優生学計画は目的を達成できない」という反論である。(略)
 従来型優生学に対する第二の反論は、これが国家に支援された、強制的な計画だということである。(略)[p102>
 遺伝子工学によって優生学は俎上に戻ったが、しかしこれからの優生学は、少なくとも西洋先進諸国では、従来型優生学とは違うアプローチとなることは疑いない。というのは、上に述べた二つの反論がいずれも当てはまらず、優生学という言葉から伝統的に連想されてきた恐怖感が取り除けるような、より人に優しく穏健な優生学が可能になるだろうから。「優生学は技術的に実行不可能」という第一の反論は、二〇世紀初めに行われていた、強制的不妊などにしか当てはまらない。遺伝的スクリーニングの進歩のおかげで、今日では、子どもを産むことを決める前に、医師が劣性形質のキャリアを確認できる。将来は、両親から劣性遺伝子を伝えられて異常を持つリスクが高い胎児を識別できるだろう。(略)
 国家が支援した優生学に対する第二の反論は、将来は重要ではないだろう。なぜならば、現代世界[p103>でかつての優生学ゲームを再開したがる国はほとんどないからだ。(略)国民の遺伝子プールの健康を守るなどして、国家が合法的に集団の健康維持に努めるべきだ、という発想にまともに取り合うことは、もはやあるまい。時代遅れの人種主義者やエリート主義者のたわごととして、片づけられるだろう。
(pp103-104)
 今後、人に優しい穏健な優生学が、両親個々で選択する問題になれば、国家が国民に強制する類いのものではなくなる。ある評論家によれば、「旧い優生学は適者を繁殖させ、不適者を排除するために淘汰し続けた。新しい優生学は、原則的に、不適者をみな最高レヴェルの遺伝形質に変えようとする」。(略)
 私自身の好みを言わせてもらえば、将来の遺伝子工学を指すには、優生学という言葉でなく、「ブリーディング(繁殖、交配)」―もともとはダーウィンの「淘汰」を翻訳するのに用いられた―を用[p104>いたい。将来は、子どもたちに渡す遺伝子を選ぶことによって、はるかに科学的・効果的に、動物を繁殖(ブリーディング)するように人間を繁殖(ブリーディング)するようになるだろう。ブリーディングという言葉には、国家の支援という含みがあるとは限らないが、遺伝子工学が人間から人間性を奪う可能性を感じさせる。
 したがって、ヒト遺伝子工学に対する反論はいろいろあるものの、国家の支援によるのは危険だ、とか政府が強制するからだめだ、とかいった理由に縛られるべきではない。(略)しかし、新しい人間の繁殖に対して反対しようとするならば、個々の親が自分の子どもの遺伝子構成を自由に決定していけない理由を、まず説明しなければならない。
 反対論として、基本的に三つの立場が考えられる。@宗教に基づくもの A功利主義的思想に基づくもの B哲学的原則(些か語弊はあるが)に基づくもの。本章ではこれから、最初の二つについて考え、哲学的問題は第U部で取り上げることにする。
(pp104-105)
 宗教は、ヒト遺伝子工学に反対する最も明快な根拠となる。新たに開発された諸々の生殖技術に対する反対意見の多くが宗教的立場に立ったものだとしても、当然だろう。(略)[p105>
 宗教と科学は両立不可能、と考える人もいる。教育が進み科学的知識が一般に広まれば、生命医学研究に対する宗教家の反論も鎮火するだろう、と見るむきもある。
(pp106-108)
 反論はそのうちおさまる、と楽観視するこの見解は、すんなりとは頷けない。これにはいくつかの理由がある。第一に、バイオテクノロジーの実際的・倫理的な恩恵については、宗教と無関係な立場でも、懐疑的にならざるをえない。この点は第U部で説明する。宗教が提供するのは、ある種のテクノロジーに対する最も単純明快な反論で、それに尽きる。
 第二に、宗教が直感で認識する道徳的真理は、しばしば無宗教の人々にも共有されるものだ。(略)人間は等しく尊敬されるべきだと主張するリベラルな平等主義が、信仰と対極にある科学的世界観と論理的に断絶しているわけではない(このことは後述する)。
 第三に、教育が進み一般にもっと現代化すれば、宗教は科学的合理主義に譲歩するはずだ、という考えは、あまりに素朴で、現実から乖離している。(略)[p107>
 他方、宗教的立場に立つ保守主義者の多くは、生命医学研究において中絶問題をすべてに優先させてしまい、自らの大義を傷つけてしまっている。(略)胚は試験管受精クリニックで廃棄されるとき、既に傷つけられている。中絶反対論者は今まで、このことを主張してきた。(略)チャールズ・クラウサマーが指摘したように、宗教的保守主義者は、幹細胞に関する焦点がずれている。これらの細胞をどこから持ってくるか、でなく、その運命について考えるべきなのだ。「単純な細胞の力を利用して、全器官、さらに生物にまで成長させる研究を思いとどまるきっかけは、『我々は今度どんな怪物を作ろうというのだろう』という問いかけであるはずだ」。
 宗教は、ある種のバイオテクノロジーに反対する最も明快な根拠となるけれども、宗教のそもそも[p108>の出発点と前提を受け入れない多くの人たちを納得させることはできない。世俗的な他の議論について、調べてみよう。
(pp108-111)
 ここで、功利主義という言葉で意味するのは、経済的な懸念、つまり、今後バイオテクノロジーが進歩すると、予期せざるコストがかかるかもしれない、あるいは今日当然視されている利益をはるかにしのぐ長期的な損失につながるかもしれない、という心配である。宗教的視点から見たバイオテクノロジーがもたらす「損害」は、たとえば、遺伝子操作が人間の尊厳を危うくするというように、多くがはっきりと実体のないものだが、対照的に、功利主義的立場から見た「損害」は概して、経済的コスト、あるいは身体的幸福に対する明白なコストという形をとるから、見た目にわかりやすい。(略)[p109>
 遺伝子工学を含めて、新たなバイオテクノロジーが、国家によって強制されるのでなく、両親個々が選択したうえで用いられるとすれば、個人にとって、あるいは社会全体にとって、悪い結果を招く可能性はあるだろうか。
 悪い結果の中で最も明らかなのは、従来の医学でもよくあったことだが、治療を受けている人に、副作用など長期にわたる悪影響が出ることだ。(略)
 将来の遺伝子治療、とくに生殖細胞系に影響を与える治療は、従来の医薬で経験してきたよりも、規制の点ではるかに難しいだろうと思われる。(略)
 経済理論によれば、社会全体に悪い結果がもたらされるのは、個人の選択がマイナスの外部効果につながる、つまり、その相互作用に直接かかわらない第三者が犠牲になる場合である。(略)バイオテクノロジーの利用に関する個人の選択が、マイナスの外部効果をもたらし、社会全体に損害を与えるようなことがあるだろうか。―これが問題なのである。[p110>
 自らの同意なしに遺伝子を操作される子どもたちは、潜在的損害を受ける第三者である。現代の家族法では、親子を利益の共同体であると仮定し、したがって、子育てと教育において親にかなりの自由を許容している。自由主義者たちは、こう主張する。親はたいてい子どもに最高のものだけを与えようとするから、より賢くより美しい、といった望ましい遺伝的形質を伝えられる子どもの側にも、暗黙の同意があるのだ。とはいえ、親には有利に見えても、ある種の選択が子どもに害となる例も考えられる。(略)[p111>
 親は子どもの利益を最大にしたいと考えるが、科学者や医者の持論に振り回され、誤った判断を下すこともある。(略)
(p113)
 文化的規範によってもまた、親は子どもに悪影響をもたらすような選択をすることがある。前に簡単に述べたが、アジアで超音波を使って胎児の性を調べ、男の子ならば産む、というのもその一例だ。(略)
(pp113-114)
 生命医学の他の分野に話を移そう。個人の合理的決定から生じうるマイナスの外部効果には、別のパターンもある。一つは、老化と将来の長寿化に関する問題だ。死ぬか、延命治療を受けるかの選択に直面した場合、たとえその治療のおかげで生きる楽しみが減るとしても、ほとんどの人は後者を選ぶだろう。仮に、たとえば身体の機能を三〇%犠牲にしても、生命をあと一〇年延ばすという選択をする人が多ければ、この人たちを生かしておくための"つけ"は社会に回ってくる。これは既に日本、イタリア、ドイツのように高齢化が進んでいる国で起こりつつある現象だ。若者への依存の割合がさらに極端になり、平均的生活水準が急降下するという不吉なシナリオも想像できる。[p114>
 第4章で論じた長寿化の議論から示唆されるマイナス効果は、経済的な外部効果だけにとどまらない。高齢者が道を譲らなければ、若者は年功序列の階層をなかなか上がれない。(略)
 マイナスの外部効果は、人の活動と特質の多くがゼロサムゲームであることにも関係がある。(略)たとえばハーヴァード大学に進むような秀才になってほしいと望む親は多いが、ハーヴァードに入学する競争はゼロサムゲームである。遺伝子治療を施して頭のいい子が生まれ、ハーヴァードに入れば、別の子が入れない。ある人がデザイナー・ベビーを持とうと決心したら、他の人(というより、子ども)が割を食う。そして全体として見たら、誰がいい目にあうのかはっきりしな
(p115)
 自然界の秩序に従うこと、また人間は不用意に介入して手を加えるべきでない、と思うことには、十分な理由がある。環境に関していえば、これは正しいことがわかっている。生態系は部分が全体と相関しており、その複雑さはなかなか理解できない。(略)
 人間性にも同じことがいえる。(略)
(pp117-119)
 人間の性質はある意味で持続するようにできているから、それを根本から変える技術ができたとしても、使いたいとは思わないだろう、と論じるむきがある。しかし、この議論は、人間の野心を過小評価しているし、過去の人たちが人間の性質を克服しようと苦労してきたことを理解していないように思われる。(略)
 今この時期に、将来のバイオテクノロジーに対するこうした功利主義的反論のうち、どれがどこまで決定的であるか判断するのは不可能だ。テクノロジーの進歩の方向によって決まるといえる。(略)
 重要なのは次のことだ。国家が強制するのでなく、親が優生学的選択を行うかぎり、悪い結果が起こると心配しなくていい、という自由主義者の議論に対しては、懐疑的でなければならない。自由市場はたいていうまく働くが、しかしそうならないこともあり、政府が介入して正すべき場合もある。マイナスの外部効果は放っておいても解決しない。外部効果の程度は今の時点でわからないが、市場にも個人の選択にも関係がないと片づけるべきではない。[p118>何が最も不安なのか
 功利主義の立場をとれば、ある問題について賛否を論じるのに便利だが、この議論は重大な限界があり、決定的欠陥となっている。功利主義者が損益計算に持ち込むのは、具体的で目に見える善悪ばかりで、金銭に還元したり、身体に対する物理的な損害として捉えたりできるものでしかない。簡単には測れないような微妙な利害、あるいは身体より精神面にかかわる利害はほとんど考慮に入れない。(略)
 功利主義者の考え方は、嗜好の問題にすぎないと思われがちな道徳的命令に関する場合、とくに限界がある。たとえば、シカゴ大学の経済学者ゲイリー・ベッカーは、犯罪は合理的功利主義に基づく打算の結果である、と論じる。つまり、犯罪によるコストより利益が上回れば、実行するだろう、というのだ。これは確かに多くの犯罪者の動機となるが、極端なことをいえば、コストが納得のいくもので罰せられないと確信できれば、子殺しもできてしまう。しかし多くの人々は、こんなことを思ってもみない。この事実から、実際には子どもに無限の価値を置いていることや、正しいことを行う義務感は経済価値で表せないことが理解できる。言い換えれば、たとえ功利主義的にみて利益が上がるとしても、道徳的によくない、と信じられていることがある、ということだ。
 バイオテクノロジーにもこのことがいえる。意図しない結果が生じるのではないか、予想できないコストがかかるのではないか、と悩むのはまっとうなことだが、人々がテクノロジーに対して感じる不安は、功利主義的なものではない。むしろバイオテクノロジーによって、我々がある意味で人間性―歴史において、人間を取り巻く状況が明らかに変化してきたといえ、我々のアイデンティティと[p119>方向感覚を変わらず支えてきた、本質的な性質―を失うかもしれない、という不安である。さらに悪いことは、大切なものを失ってしまったのに、その自覚が持てないかもしれない。人間の歴史から「人間後(ポストヒューマン)」の歴史に足を踏み入れながら、別の世界に入り込んだことに気づけないかもしれない。
(pp119-120)
 では、我々が失うかもしれない人間の本質とは何か。信仰を持つ人にとっては、生まれながらにして与えられている聖なる賜物ということになろう。世俗的な視点から見れば、「人間性」であり、人間が人間として遍く共有する、人間に典型的な特徴である。究極的に、バイオテクノロジー革命ではこの人間性が問題になる。
 人間性は、人間の権利、正義、道徳性という概念と密接に結びついている。独立宣言に署名した人たちは、とくにそう考えていた。人間の権利、つまり人間性によって与えられた権利が存在することを信じていたのである。
 人間の権利と人間性のつながりは、しかし明快なものではなく、現代の哲学者たちによってさかんに否定されてきた。(略)
 人間性に基づく権利の概念を重視しなくなるのは、哲学としても、日常的な道徳問題としても正しいことではあるまい。人間性によってこそ、我々は道徳意識を持ち、社会の中で生きるための技能を身につけていける。人間性が根拠となるからこそ、権利、正義、道徳性について哲学的に議論するこ[p120>とができる。究極的にバイオテクノロジーの進歩によって問われるのは、将来の医学技術による功利主義的損益計算だけではない。歴史以来常に存在してきた、人間の道徳意識の根拠そのものである。ニーチェが予言したように、我々はこの道徳意識を忘れるように運命付けられているのかもしれない。しかしそうなったら、本来の人間性による正邪の基準を捨てた結果を受け入れ、望まない社会になるだろうことを認めなければならない。
 しかし、この未知の世界がどんなものかを考えるには、現代の権利理論を整理し、政治において人間性の果たす役割を理解しておく必要がある。

第7章 人間の権利
(p123)
 生命科学は近年人間本来の性質についての重要な発見を生み出してきたからだ。自然科学者が研究する、自然の「である」と、権利について議論するなかで生じる道徳的・政治的「すべし」の間には大きな隔たりがある、と学者たちは言いたがる。けれども、これは結局ごまかしにすぎない。科学が人間性の本質について多くを語れば語るほど、人間の権利について、ひいてはそれを保護する制度と公的政策の構想についても、暗黙のうちに示している。現代の資本主義的リベラル民主主義が成功しているのは、人間性について他の政治制度よりも現実的な仮定に基づいているからだ、と考えられるだろう。
(pp127-128)
 功利主義的にいえば、仮に故人の同意があるならば、人間の死体を引き渡して動物の飼料など有用な製品に加工してもよさそうなものだ。(略)
 人間の身体を再利用するという選択肢について考えようとせず、こういうことを口にするだけで嫌悪感を覚えるのは、ジェイムズ・ワトソンが嫌がった、「尊厳」という言葉のためである。(略)このことから、人間が種[p128>に典型的なやり方で、互いにこのような特別な感情を、親戚や愛する人の死体にまで及ぶ感情を与え合うのはなぜか、というさらなる問いが生じる。
 権利は、道徳的重要性が大きいために、利益にまさる。利益は代替可能で、市場で他のものと交換できる。権利は、絶対ではないにせよ、経済的価値がはっきりしないためにあまり柔軟とはいえない。(略)
(pp129-133)
 権利が発生する源としては、三つが考えられる。神授の権利、自然の権利、現代の実証主義者的権利ともいうべき、法と社会的慣習に位置づけられるもの。言い換えれば、神、自然、人間自身、この三つから発する。
 今日ではいかなるリベラル民主主義社会においても、宗教に由来する権利は、政治的権利の基盤としては認められていない。(略)もちろん、自由主義社会においても、人は神の形に作られている、だから人間の基本的権利は神からくる、と信じる人はいる。こうした見解は、たとえば中絶論争などで初めて問題となる。
 第二の源は自然、あるいはもっと正確に言えば、人間の本質である。(略)
 人間の権利は人間性に基づくという考えは、一八世紀から現在までさかんに攻撃され、人権=自然主義の誤謬とレッテルを貼られてきた。デイヴィッド・ヒュームから二〇世紀の哲学的分析学者G・[p130>E・ムーア、R・M・ヘアらにいたる伝統がそれである。人権=自然に基づくとする立場への批判は、アングロサクソン社会において特に激しいが、その論点は、自然や本性では正義、道徳性・倫理を哲学的に語るまともな基盤にならないということだ。(略)
 私はこう考える。人権=自然主義は誤謬とする立場は、それ自身誤解である。哲学が、権利と道徳性の基盤を自然に置いていたカント以前の伝統にぜひとも戻る必要がある。しかし、この議論を詳しく述べて、自然権の排斥がなぜ誤りかを説明する前に、第三の権利の源を見ておくべきだろう。これは、実証哲学的といわれるようなものである。第三のアプローチの弱点こそが、自然権という概念を取り戻す必要を思わせる。(略)
 権利がどこからくるかを位置づける最も単純な方法は、基本的法律と宣言を通じて、社会が何をもって権利とみなすかを調べることだ。(略)[p131>このアプローチは、権利が本質的に手続きの問題であることを意味する。もし、公的な場で下着姿で歩き回る権利を過半数が認めれば、これは結社言論の自由に伴う基本的人権の一つとなる。
 それなら、実証主義的アプローチのどこが間違いなのか。問題は、人権擁護者なら誰でも実際に知っているように、普遍性のある決定的権利はないことだ。中国政府は、西洋の人権擁護者から、政治的異分子を投獄したと批判されたとき、社会にとっての集団的権利は個人の権利より重要だ、と応じた。西洋組織は個人の政治的権利に重点を置くが、これは普遍的希望の表れではなく、西洋の(キリスト教の)人権に対する文化的偏見による。(略)[p132>
 人権は人間性に基づくとするアプローチを捨てたのは、軽率だったのではないか。文化的相対主義によって、我々はこの問いを改めて考えさせられる。「世界の全民族が共有する単一の人間性というものが存在する」ということが、少なくとも理論的には、普遍的人権を支える根拠となる。しかし、「人権=自然」主義を誤りだとする考えは現代西洋思想の奥深くで信じられ、そのため自然権の議論の復活はそうそう簡単ではない。
 権利は自然に根ざすものではない、という考えは、二つの別々の、しかし、しばしば相互に関係する議論に基づいている。一つめは、英国経験主義の父の一人、デイヴィッド・ヒュームの説である。彼は「すべし」を「である」から引き出すのは不可能だときっぱり証明した、とされる。(略)[p133>
 通常、ヒュームは、自然や自然界についての経験的観察から道徳的義務を引き出すことはできない、と主張したといわれる。(略)
 「人権=自然」主義は誤りとする二つめの議論は、仮に「すべし」が「である」から引き出せるとしても、「である」はしばしば醜く、道徳から外れたもの、あるいは不道徳である、とみる。(略)
(pp134-136)
 自然権の議論を再び打ち立てるため、これらの反対論について、一つ一つ順番に考えていこう。手始めに「である―すべし」の二分法を取り上げよう。(略)
 もちろん、人間の欲求、必要、欲望は非常に多種多様で、それが同じく多種多様な「すべし」を生み出す。人間の必要を満たそうとすることから道徳を生み出す功利主義の問題点はどこにあるのだろうか。さまざまな形の功利主義の問題は、「である」と「すべし」結びつける方法にあるのではない(多くの功利主義者は、倫理原則の基盤を明らかな人間性の理論に置いている)。そうではなくて、功利主義のラディカルな還元主義、すなわち、人間性に対するあまりに単純化した見方が問題なのだ。(略)[p135>
 人間の価値観は人間の情緒や感情と緊密に結びついている、と認識すれば、人間が実際、「である」と「すべし」をつなげて考えていることが、はっきりするだろう。こうして引き出される「すべし」は、少なくとも人間の感情システムと同じくらい複雑である。つまり、人間が善悪を判断する場合、欲望にせよ、切望、嫌悪、反感、怒り、罪悪感、喜びにせよ、何らかの強い感情が伴わないことはめ[p136>ったにない。(略)善悪を判断するプロセスは、基本的に合理的なものではない。感情の「である」が源になっているからだ。
(pp136-138)
 すべての感情は、そもそも主観的に経験される。ではそれが互いに対立する場合、より客観的な価値をどうやって決めればよいのか。ここで、人間性についての伝統的哲学の説明が場面に登場する。カント以前の哲学者がほとんどみな何らかの形で打ち出している人間性の理論は、ある種の欲求、必要、情緒、感情を人間性にとってより基本的なものとして優先させる。(略)[p137>
 西洋の伝統が断絶したのは、ヒュームの時代ではなく、ルソー、特にカントの時代である。ホッブスとロック同様、ルソーは人間を自然の状態を特徴づけようとしながらも、人間が「完全になりうる」とも論じた。この発想から、「理性的存在者が自然の因果を超越し、これが定言的命法の基盤となる」というカントの思想がもたらされる。(略)[p138>
 それ以降の西洋哲学は、権利のいわゆる義務論―人間性あるいは人間の目的についての実在的な主張に拠らない倫理体系を引き出そうとする―に向かうカント的ルートをたどっている。カント自身は、自分の道徳法則はいかなる理性的行為者にも当てはまる、社会は事実「理性的悪魔」によって成り立っている、と述べた。それ以降の義務論は、カントにならって、人間の目的についての実在的理論は人間性を持ち込むかどうかにかかわらずありえない、という仮定から出発している。
(pp139-140)
 人間性を基盤にした権利の理論から、話が大きく逸れてしまったが、これには多くの理由がある。権利の義務論の最大の弱点は、この立場に立って議論を組み立てようとすると、結局は必ず、人間性についての仮定を持ち込まざるをえない点であろう。違うのは、プラトンからヒュームあたりでは、みな堂々とそうしていたが、それ以降の哲学者は裏でこっそりとやってのけるところが違うだけだ。カント自身、『形而上学』で、ある宗教的ドグマを永遠とみなす教会制度は「あらかじめ規定された[p140>人類の目的と対立する」から、コミュニティがこの制度を自らに課すことはありえないと述べた、と指摘したのはウィリアム・ゴルストンである。
 では、人類の目的とは何だろうか。反啓蒙主義的な偏見を捨て、理性ある個人として発展することだ。―カントのこの主張は、既に人間性についてしっかりとした仮定を打ち立てている。つまり、人間は理性のある生き物である、人間は理性によって利益を得、理性を用いることを喜ぶ、その理性は時間とともに発達する可能性がある、ということだ。(略)
 同じことは、現代のカント派学者にも当てはまる。たとえば、ジョン・ロールズは明らかに人間性について議論するのを避けようとし、いわゆる最初の位置に基づいて、理性ある行為者のすべての集団に当てはまる最小限の道徳法則を確立しようとする。
(pp143-145)
 現代の義務論者たちには、他の弱点もある。人間性の理論や、人間の目的の根拠となる他の手段がないために、義務論は結局、個人の道徳的自律性を、人間最高の善にまで高めてしまう点だ。この理論は、次のような取引を申し出る。哲学者も自由主義社会も、生き方を教えない、自分で決めていい。[p144>哲学者にせよ自由主義社会にせよ、できることは、あなたの選んだ生き方が決して他の人の邪魔にならないように手続き上のルールを作ることだけだ。誰でも自分の人生計画を人に批判されたり侮辱されたりしたくない、という気持ちを言い当てているといえる。義務論が終始擁護するのは、本来の意味深い人生計画よりも、「選ぶ権利」、これだけである。(略)
 しかし、自分の人生設計を決める自由が良いことであるのは間違いないが、今日理解されているような道徳的自由が、唯一最重要の人間の善であるかどうか、多くの人にとってそんなに良いことなのか、問うべきだろう。伝統的に人間に尊厳を与えるといわれてきた道徳的自律性は、上から与えられた道徳法則を受け入れたり、または拒否したりする自由であって、こうした法則じたいを作る自由をさすわけではない。カントにとって道徳的自律性とは、自分の個人的性向に従う、ということを意味[p145>しない。そうではなく、しばしば個人の本来の欲求や性向と矛盾した行動を強いる、実際的理由に抵抗することである。しかし対照的に、今日、個人の自律性という場合、純粋な道徳的選択と、個人の性向や嗜好、欲望、満足を追求するような選択を区別することはめったにない。
(p146)
 「人権=自然」主義を誤りとする、もう一方の議論についても見ておこう。権利が自然から引き出せるとしても、自然は暴力的で攻撃的、残虐で互いに無関心である、という議論である。(略)
 私ならこう答える。人間性を人権にそのまま翻訳することはできないにしても、人間の目的についての合理的議論、つまり哲学が両者の間を媒介している。数学的に証明できるような真実にはつながらない。そういうわけで、議論しても実のあるコンセンサスすら結ばないこともある。しかしこの議論によって、権利のヒエラルキーが確立できるようになった。また権利の問題への回答の中で、これまで政治的に力を持ってきた類いの回答を受け入れないですむ。(略)
(p150)
 もしも人権が、自然という概念に基づいているならば、その概念とは何か。人間の性質や行動について科学的に知られていることと矛盾せずに、定義することができるだろうか。今まで、私は人間性について何らかの理論を示したり、人間性とは何かという定義を提示したりしてこなかった。意味ある形での人間性の存在を否定する人は―社会学者に一般的だが、自然科学者にもみられる―少なくない。種に典型的な行動とは何か、さらに人間という種にとっては何なのかを、次章で検討していかねばならない。

第8章 人間の本質
(pp151-152)
 ここまで、人間の権利は人間本来の性質に基づいている、といいながら、その「人間本来の性質」(人間性)について定義しないまま議論を進めてきた。人間の性質と価値観、政治学は、互いに緊密に結びついているため、人間性という概念自体がこの二、三百年にわたって大きな論争を醸してきたと[p152>しても、不思議ではない。きわめて伝統的なところを示せば、本性・自然と文化の間にどうやって境界線を引けばいいか、という問題がある。
 二〇世紀後半になると、論点が別に移った。自然や本性よりも文化に比重が置かれるようになり、人間行動は非常に可塑的だから人間性という概念自体が無意味だと主張するむきまであった。生命科学の最近の進歩のせいで、人間性の重要性を主張する陣営は旗色が悪く、逆に反人間性の立場をとるものは元気がいい。(略)
 ここでいう人間性という言葉は、人間という種に典型的な反応・行動と形質の総和であって、環境因子より遺伝的因子から生じるものとして捉えている。典型的という言葉にはいくらか説明が必要であろう。私がこの言葉を使うのは、動物や行動学者が「種に典型的な行動」(たとえば、ペアでつがうのはコマドリやネコマネドリに典型的だが、ゴリラやオランウータンにとっては違う)というときと同じ意味合いである。動物の「性質」についてよくある誤解は、これが遺伝決定論をさすのではないかというものだ。実際には、同じ種の中でも、個体によってかなりの差がある。そうでなければ自然淘汰や進化的適応は起こりえない。これは、人間のような文化的動物の場合、特に当てはまる。行動は覚えられ、改良されるものだから、ばらつきが大きくなるのは避けがたいし、このばらつきには、個人が環境から受ける影響が他の動物の場合よりもはっきりと反映されている。つまり、「典型的である」ということは、統計学によって作られたものなのだ。行動や特徴の分布図の中央値に近いあたりを示している、というにすぎない。
(p156)
 人間性という伝統的な概念によって我々は誤った方向に進んでしまった、この概念は現実に存在しないものをさしている、と数年前から批判があがっているが、その議論は大きく分けて三つに分類できる。第一は、共通の性質までつきとめられるような普遍的人間など存在しない、もし共通の性質があるとしても、些細なものにすぎない(たとえば、あらゆる社会は病気より健康を好む、など)という主張である。
(pp157-159)
 普遍的な人間は存在しない、というこの議論がもっともらしく見えるのは、「普遍的」という言葉を狭義の意味で使っているからだ。「普遍的」あるいは中央値の血液型といっても意味がないことは確かである。(略)ひとつの特徴が普遍的とみなされるには、標準偏差がゼロである必要はない。(略)一つの特徴が普遍的だと認められるには、単一の明確な中央値があり、比較的標準偏差が小さいことが必要である。(略)
 人間性という概念に対する第二の批判は、遺伝学者リチャード・レウォンティンがここ数年間繰り返し述べてきたことだが、要するに、生物体の遺伝子型(DNA)がその表現型(DNから最終的に[p158)できあがった実際の生物)を決めるのではない、という議論である。つまり、知能や行動・反応はもちろん、身体的見かけや特徴さえも、遺伝というよりも環境によって作られる、とする。遺伝子は生物体が成長する各段階で、環境と相互に作用しあうから、人間性という概念を主張する人たちがいうほど、遺伝子に決定力があるとは考えられない。(略)[p159)
 これまでのところ、レウォンティンの議論は、妥当と思われるが、しかしこれで人間性の概念が否定されるわけではない。身長のところで述べたように、環境は身長の中央値を変えることもありうるが、身長の伸びには限度がある。女性の身長が平均して男性より高いということにはならないだろう。こうしたばらつきの範囲は自然によってもともと決まっている。そのうえ、環境、遺伝子型、表現型はたいてい比例しており、遺伝子のばらつき分布が正常であれば、必ず表現型も正常に分布する。つまり、食事がちゃんとしていれば、背が高くなる(種に典型的な限度内で)。環境に影響されるという事実にもかかわらず、身長分布曲線は単一の中央値を得る。
(pp160-162)
 遺伝子型が表現型を決めるのではない、というレウォンティンの議論は、人間に限らずすべての種に共通するが、人間性という概念に対する第三の批判は、人間だけにあてはまる。すなわち、人間は文化的動物であって、学習し行動を改め、遺伝によらずに次の世代に伝えていける。(略)[p161>
 人間は文化的な動物で、学習できるから、人間本来の性質というものは存在しない、という議論は基本的に方向を誤っている。人間本来の性質を認める論者でも、人間が文化的な生き物であること、学習や教育、制度を用いて生きかたを形作れることは誰も否定しない。(略)[p162>文化は自然を補完する。そればかりか、自然を克服することもできる。
(p163)
 包括的な定義よりも重要なのは、種に固有の特徴を探ることだ。人間の尊厳という究極の問題を少しでも理解するには、これが不可欠だ。まず「認識力」―我々人間がとかく自慢したくなるこの特徴から始めよう。
(p164)
 人間の認識の仕方は生まれつき決まっているとする見解は、近年経験的支持を大いに得ているが、また抵抗も多い。特にアングロサクソン社会においては、ジョン・ロックと英国経験主義者たちの伝統が根強い。ロックは『人間悟性論』を、「人間の知性に生来の知識はない」「とくに生来の道徳観はない」という主張で始めている。これが有名なロックの「タブラ・ラサ」(白紙)である。脳は一種の全目的コンピュータであり、見える感覚的データを取り込み、操作することができる。しかし記憶の銀行は、生まれた時は空っぽの状態だ、という。
(pp164-165)
 今日、タブラ・ラサ理論は、すっかり時代遅れになってしまった。認識神経科学と心理学の研究の[p165>おかげで、脳は空白のままではなく、高度な認識構造のモジュール器官であり、これはほとんどが人間に独特のものである、とみなされるようになった。
(pp166-167)
 ロックは白紙状態といったが、我々は生まれたときあらかじめ抽象的な道徳意識を植えつけられているわけではない、という意味でそれは正しい。しかし、人間には生まれつきの感情反応というものがあり、それが種に比較的固定した道徳意識を形作る。これがカントの考える、人間が現実を知覚して秩序と意味を与える方法である。カントは、人間が必ず持っている知覚構造を空間と時間の認識であるとしたが、我々はもっといろいろ付け加えてもいいだろう。色を見、[p167>匂いに反応し、顔の表情を認め、言葉を解釈して嘘を見つけ、危険を避け、互いに思いやり、仕返しし、当惑し、子どもや親を気遣い、近親相姦や人肉食いを嫌悪し、事件の原因を考える。こんなふうに、人間の知性が種に典型的な働きをするように、進化によってプログラムされているのである。言語の場合と同じく、環境と互いにかかわり合うことで、これらの能力を使いこなすように学ばなければならない。しかしその潜在能力と、必要なプログラムは生まれたとき既に備わっている。
(p167)
 生命倫理学者ピーター・シンガーは、動物の権利を促し、人間のいわゆる人間中心主義(人間が不当にも、他の動物より人間を好むこと)を批判して有名になった。こうして、第7章冒頭で引用したジェイムズ・ワトソンが提起した問いにぶつかる。いったい何が、サンショウウオに権利を与えるのか?
 この問いに対する最も単刀直入で、しかもサンショウウオだけでなく、高度に発達した神経系を持つ動物にも当てはまりそうな答えは、「痛みを感じ、苦しむことができる」ことである。
(pp169-170)
 人間の[p170>尊厳という発想にはそれなりの理由があるが、しかし、たくさんの重要な特徴を人間と共有している動物が多いことも確かである。
(p171)
 ピーター・シンガーら動物保護論者が「人間中心主義」として非難するものは、必ずしも人間の側の、自分勝手で無知な偏見とはいえない。むしろ、人間の特殊性という経験に基づく、人間の尊厳に対する信念そのものである。人間の認識について議論しながら、このテーマに迫ってきたが、しかしもし、人間の道徳的ステイタスが高く、他の動物より上とされ、それでいて人間同士対等に思えるのはどうしてか、を探ろうとするならば、人間本来の性質―人間という種に典型的なだけでなく、人間に独自な性質―について、知らなければならない。そうして初めて、バイオテクノロジーの将来の発達に対して、最大の防衛手段が必要である理由が理解できるだろう。

第9章 人間の尊厳
(pp173-175)
 政治の議論は、人間の尊厳という問題に、さらにそれに関連して、他人に認められたいという欲望に集中している。人間は常に、個人として、あるいは宗教的、民族的、人種的集団のメンバーとして、自分の尊厳を他人に認められたいと願っている。他人に認められるための戦いは経済的なものではない。我々が欲するのは金銭でなく、自分でふさわしいと思う形で、他人に尊敬してもらうことだ。昔、支配者たちは周囲の者たちに、王、皇帝、君主であると認めさせようとした。今では、かつて軽蔑されていた集団のメンバーが、対等の地位を認めてもらおうとする。女性たち、ゲイ、ウクライナ人、身体が不自由な人たち、インディアン、などなどだ。
 一七〇年以上も前にトックヴィルが『アメリカの民主主義』で述べたように、近代化の中心となったのは、対等に認められて尊重されたいという欲求であった。リベラル民主主義においてこれが何を意味するかというと、些か複雑である。我々があらゆる重要な点で平等だと思うべきだとか、生活がみな同じでなければならないということではない。(略)[p174>
 等しく認められたいという欲求から、こういうことが考えられる。ある人の本質的でない、偶然による特徴をすべてはがしたら、あとには人間本来の資質が残る。これはある最低限の尊敬に値する。これをX因子と呼ぼう。(略)政治の世界では、すべての人がX因子を持っているのだから、平等に尊敬することが求められる。(略)X因子を持つものに与えられるのは、人権だけではない。もし大人であれば、政治的権利―言論、信教、結社、政治参加の権利が尊重される民主主義社会で生きる権利―もまた、与えられる。
 X因子を持つ人と持たない人の線引きは、これまでの歴史で、最大の激論の種となってきた。民主的だった古代社会も含め、多くの社会では、X因子は一部の人間だけに属するとされ、ある性や経済的階級、人種、部族の人たち、また知能が低いとか、身体が不自由であるとか、先天的欠損などのある人たちは除外された。これらの社会はきっちりと階層化され、階級が違えばX因子の量も違い、X[p175>因子を全く持たない人もいる、と考えられた。今日、人間は自由主義的に平等であると信じる人たちは、人類全体のまわりを太く真っ赤な線で囲み、その内側にいる人はみなX因子を持つのだから、すべての人たちに平等の尊敬を払うべきだ、と考える。しかし彼らにとって、境界の外側にいるものたちは、尊厳のレヴェルが低い。(略)では、X因子とは何か?これはどこからくるのか?
(p179)
 X因子、つまり人間すべてを結びつける人間の本質がある、と考えないことにすると、普遍的な人間の平等という概念―人間性という概念を否定する人たちは、ほとんどみな信じている―にとって、どんな影響が生まれるか。そこから考えよう。
(pp181-182)
 人間と非人間の間が連続していて、ぼかしのように徐々に移行するものだとしたら、人間内部にも同じような連続体があっておかしくない。これは、神あるいは自然に対する信仰が課してきた束縛から、強者を解放することを意味する。その一方で、強者でない人は、ただ健康と安全だけしか求められなくなる。かつて与えられていた高等な目標は、今ではまやかしとされてしまった。(略)[p182>
 人間は等しく尊厳を持つという発想は、起源であるキリスト教からもカントからも根こそぎにされ、ほとんどの物質主義的自然科学者にとって、宗教的ドグマだと考えられている。生まれない子の道徳的ステイタスをめぐる議論が長い間続いているのは、唯一の例外である。
 人間の尊厳が平等であると信じられている理由は、単純ではない。一つには習慣の力のせい、つまりかつてマックス・ウェーバーが「死にたえた信仰の亡霊」と呼んだものに今なおつきまとわれているから、である。また、歴史的偶然の産物ともいえる。つまり、人間の普遍の尊厳という前提を断固否定したナチスの人種的・優生学的政策の恐ろしい結末を目のあたりにしたことで、次の二、三世代は、人間の普遍的尊厳を確信するようになった。
 この概念が根強いのには、もう一つ重要な理由がある。これは自然の本質とでもいおうか。歴史的に見て、ある集団が人間の尊厳を否定された場合に根拠とされたのは、単なる偏見であったり、あるいは偶然の文化・環境的条件のせいだったりしたことがわかっている。
(pp185-187)
 遺伝的不平等に不満を覚えた場合、選択肢は二つある。一つめは、ある特徴や性質の改善を目的とするバイオテクノロジーの使用を禁止して、競争を沈静化させること。これは最も賢明な行動だ。とはいえ、今の状態からよりよくするということは、考えるだけでワクワクするし、簡単には断ち切れそうにない。子どもをよりよくしてはならない、とする規則を敷くのも難しいだろう。この点で、二つめの可能性が現れる。このテクノロジーを、「底上げ」のために用いる、ということだ。
 リベラル民主主義が将来、国家支援の優生学政策に回帰するとしたら、唯一考えられるのはこのシナリオである。(略)[p186>底辺を上げるには、国家の介入が必要である。遺伝学によってもともとの特徴をよりよくするテクノロジーは、費用がかかるうえ、何らかのリスクを伴いそうだが、仮に比較的安く安全であっても、貧しく教育のない人たちには、やはり利用できないだろう。だから、尊厳に値する人間を真っ赤な線で囲んだが、誰もその線からはみださないように国家が保証して補強する必要が生じる。
 将来よりよい人間を生み「繁殖」させる政策は、非常に複雑になる。今まで、左派は概して、クローン人間づくりや遺伝子工学、バイオテクノロジーに反対してきた。伝統的なヒューマニズム、環境学的懸念、テクノロジーと関連企業に対する疑念、優生学の不安などがその理由である。左派は歴史的にいって、人間を成り立たせるものはおもに社会的要因であるとし、遺伝の役割を過小評価してきた。彼らが考えを変えて、社会的に不利な立場にある人たちのために遺伝子工学を用いることを支持するには、まず遺伝子が知能の決定に重要な働きをすると認めなければならない。(略)[p187>
 左派にも、遺伝子工学に賛成する人たちが現れてきた。ジョン・ロールズは『正義の理論』で、生まれつきの才能が不平等に分配されているのは、元来不公平だと論じた。ロールズ派の論者は、安全性、コストなどを慎重に考慮したうえで、うまく解決できたならば、バイオテクノロジーを利用して不利な立場の人たちを底上げし、人生の機会を平等化したいと考える。ロナルド・ドウォーキンは、自主性を守るべきだという信念から、親が遺伝子工学を利用して子どもを操作する権利を擁護している。そして、ローレンス・トライブは、禁止されても、クローンによって生まれる子は差別されると指摘し、クローンの禁止に反論している。
 遺伝子による格差と、遺伝子による平等。この二つのシナリオのうち、どちらの可能性が高いかは、わからない。しかし高度の生物医学テクノロジーが実現すれば、遺伝的不平等の拡大が二一世紀政治の主要論点にならない、と考えるほうが無理があるだろう。
(pp189-191)
 生物学的組織のような複雑なシステムを還元主義で理解する方法論そのものが問題なのである。
 もちろん還元主義は、現代自然科学を支えてきた方法であり、最大の成功をもたらした。(略)[p190>
 けれども、天体力学や液体力学のような物理学の分野で当てはまることが、生物学のような複雑なシステムに応用できるとは限らない。全体を構成する各部分の行動や反応を、ただ集めたり拡大したりするだけでは、行動や反応のシステムは予想できない。(略)
 複雑な全体の行動・反応が、部分の総計として理解できないことは、今日の自然科学において認められており、いわゆる非線形、あるいは「複合適応」システムの分野での発展につながった。複雑な全体像の現れ方をモデルで示そうとするこのアプローチは、ある意味で、還元主義と正反対である。全体は単純な部分にさかのぼれるが、部分から全体を予想できる単純なモデルはない。(略)[p191>こうしたモデルからわかるのは、あるシステムがもともと混沌とした予測不可能なものであること、あるいは予測するには最初の状況について正確な知識が必要だが、その知識は手に入らないこと、これだけだ。より高いレヴェルは、複雑さの程度に見合う方法論によって理解しなければならない。
(pp198-199)
 意識を持ち、文化を有し、言語を使う動物は他にもいる、と主張しても、この動物の意識が人間の政治、人間の芸術、人間の宗教を生み出すことはできないから、納得しがたい。(略)著書『第三のチンパンジー』で、ジェアド・ダイアモンドは、チンパンジーと人間のゲノムは九八%以上が同じである、と述べ、二つの種の違いは比較的瑣末だと示唆している。けれども複雑系においては、小さな違いが莫大な質的変化を引き起こす。人間とチンパンジーは似たようなものというのは、一度の差でしかないから、氷と水に大きな違いはない、というようなものだ。
 したがって、進化の途中で神が人間に直接魂を挿入した、という教皇の言葉に同意しなくても、ある時点で重大な質的飛躍が―存在論的飛躍でないにせよ―起こったことは受け入れられるだろう。[p199>部分から全体へのこの飛躍こそが、究極的に、人間の尊厳の基盤となる。宗教的前提から始めなくても、この概念は認められるはずだ。
(pp199-201)
 人間に、尊厳と他の動物以上の道徳的ステイタスがあるのは、我々が部分を単に合計したというよ[p200>りも複雑な全体として存在するという事実によるとする。そこで、「X因子とは何か?」と考えても、単純な答えがないことは明らかだ。X因子は道徳的選択、理性、言語、社会性、直覚、感情、意識、あるいは人間の尊厳の根拠として示されてきた他の資質のどれか一つに還元できない。人間の全体にこれらあらゆる資質が集まって、X因子となるのである。人間はみな遺伝的に与えられた才能があり、これによって、その人は人間になり、人間は他の動物と区別される。(略)
 ここまで、人間の尊厳について長々と議論してきたのは、次の問いに答えるためだ。―「我々がバイオテクノロジーの進歩から、守りたいものは何か?」。答えはこうだ。ここまで進化してきた我々の複雑な本質を、自ら変えてしまいたくない。人間本来の性質という統一性も持続性も、ひいてはそれに基づく人間の権利も、守りたい。
 人間の複雑さと、道徳的選択、理性、幅広い感情といった人間独自の特徴の相互作用に、X因子が関連しているならば、バイオテクノロジーがどのように、そしてどうして、我々を単純な存在にしたがるのかを問うてみるべきだろう。この答えは、生物医学の目的を功利主義に還元しようとする不変[p201>の圧力、言い換えれば、本来複雑なはずの目的を、痛みや喜びなど二、三の単純なカテゴリーに還元してしまう目論みにある。とくに、痛みと苦しみの軽減は、他の何よりも優先されやすい。これはバイオテクノロジーが持ち出す交換条件ともいえる。たとえば病気を治したり、寿命を延ばしたり、子どもをもっと扱いやすくしたりできるが、それには才能や野心、多様性など、大切な人間の資質が犠牲になる。
(pp201-202)
 我々はまだまだ人間性を変えられそうにないし、いつになってもそんなことはできそうにないから、バイオテクノロジーから護れるかどうか心配する必要はない、と言う科学者・研究者は多い。確かに、彼らは正しいだろう。ヒト生殖細胞系工学にしても、rDNAテクノロジーのヒトへの応用にしても、[p202>多くの人が考えるより実現ははるかに遠そうだ。
 しかし、人間の行動・反応を操作する能力は、遺伝子工学の発達頼みというわけではない。遺伝子工学によって実現が予想されることは、ほとんどすべて、神経薬理学によってずっと早い時期に可能になるだろう。そして、年齢や性の分布だけでなく、生活の質という点で、新たな生物医学テクノロジーが利用でき、人口統計学的激変に直面することになるだろう。
(pp203-204)
 人間の尊厳は人間がある独自性を持つという事実に基づく、とする自然権の理論に則ってみると、個々の人間がその特徴をどの程度共有するかによって、権利に差があっていいことになりそうだ。たとえば、アルツハイマーの老人は正常な大人の理論的に考える能力が失われているため、人間の尊厳のなかでも投票や立候補という形で政治に参加できる部分を失っている。(略)また、自然権の理論を突きつめると、こんなこともいえる。人間に基本的な特質を持つ程度と、それに基づいて与えられる権利から、人を細かく区分できる。実際、過去の歴史においてそうだった。生来の貴族というのがそれだ。これに暗示される階[p204>層制こそ、人々が自然権という概念に疑念を持った理由の一つである。
 しかし、政治的権利を与える際に上下に分けすぎるのはよくない。これにはもっともな理由がある。まず、個人に権利を与える「人間の本質的な特徴」について、正確には合意がなされていないこと。もっと重要なのは、ある個人がこれらの特質をどれだけ持っているかは、きわめて判断が難しい。判断を下す人が利害関係のない第三者であることはめったにないからだ。(略)
 そうはいっても、現実に、今日のリベラル民主主義国家では例外なく、個人や集団が人間に典型的な特質を共有する程度に応じて権利に差をつけている。たとえば、子どもは理性と道徳的選択能力がまだ十分に発達していないから、大人としての権利を持たない。(略)犯罪者は基本権を取り上げられるが、人間に基本的な道徳意識がないとみなされた場合、権利は一層厳重に剥奪される。
(pp206-207)
 将来のバイオテクノロジー社会において、「平等」という問題が左派を根扱ぎにしかねないとしたら、右派は人間の尊厳にかかわる問題で、文字通り分解してしまうだろう。合衆国において、右派(共和党に代表される)は、企業活動とテクノロジーへの規制は最小限にしたい自由主義者と、かたや中絶や家族など幅広い問題を取り上げる(多くは宗教家)社会的保守主義者の間で分裂している。両者の連帯はいつも大変強く、選挙の間は磐石だが、ここには将来展望上の基本的な相違が隠蔽されている。新しいテクノロジーが出現して、健康面で大いに恩恵を与え、バイオテクノロジー産業には莫大な金儲けのチャンスを与える一方で、これまでしっかりと守られてきた倫理的規範を破らざるをえなくなったとき、それでも右派の同盟関係がもつかどうかはわからない。
 ここで、政治学と政治戦略の問題に戻ることにしよう。人間の尊厳という概念が現実性を持ってそこにあるならば、哲学論文で論じられるだけでなく、現実の世界政治においても擁護されるべきであ[p207>り、さらに現実的な政治制度によって守られるべきだからだ。この問題については、本書の最終章で考えたい。

第10章 テクノロジーの政治学
(pp212-213)
 プラスとマイナスが密接に絡み合っているテクノロジーに直面したとき、とりうる対応はただ一つ。諸国家がこうしたテクノロジーの開発と利用を政治的に規制して、人間の繁栄を促すテクノロジーと、人間の尊厳と幸福にとって脅威となるテクノロジーを明確に区別する機関を設立することだ。この機関は、国家レヴェルで区別を強制する権限を与えられるだけでなく、最終的には国際的範囲で効力を持つ必要がある。(略)
 今日、バイオテクノロジーについての論争は、二極化している。まずは自由主義陣営で、社会は新たなテクノロジーの開発に制限を与えるべきでないし、与えられない、と主張する。ここに含まれるのは、科学の領域を拡大しようとする研究者・学者たち、利益が見込めるバイオテクノロジー産業、それから、自由市場と規制緩和を信奉し、政府のテクノロジーへの干渉は最小限にすべきであると論じる、とくに米英の思想家たちだ。
 もう一方の陣営は、バイオテクノロジーについて道徳的立場から懸念を持つ、さまざまな立場の人たちの混成グループである―宗教家、自然の神聖を信じる環境保護論者、新しいテクノロジーを毛嫌いする人々、優生学の復活を恐れる左派。かたやジェレミー・リフキンら活動家、かたやカトリック教会まで広がるこのグループは、試験管受精、幹細胞研究から遺伝子組み換え作物.クローン人間まで、おびただしい新テクノロジーの禁止を求めている。
 今後は、この二極化より先に進まなければならない。両者のアプローチは―バイオテクノロジー[p213>開発に対する全くの自由放任主義も、幅広い禁止運動も―方向違いで、現実的でない。
 クローン人間などのテクノロジーは、本来的な理由からも戦術的理由からも、全面的に禁止すべきである。しかし、これから登場しつつある他のバイオテクノロジーについては、もっと微妙な規制が求められるだろう。みなテクノロジーに賛否を表明し、自分の倫理的立場を主張するばかりで、テクノロジー開発のスピードや領域を社会が制御するために必要な機関について具体的に考える人はほとんどいない。
(pp214-216)
 新たなバイオテクノロジーをコントロールするかどうかを、誰が、いかなる権威を持って決めるべきだろうか。(略)[p215>
 科学とテクノロジーの目的を確立して、その善悪を判断できるのは、「神学、哲学、政治学」だけ[p216>である。科学者たちが、自分の行動に関する道徳的法則づくりに貢献できるとしたら、それは科学者としてでなく、科学的知識のある政治団体のメンバーとしてである。生命医学の分野で研究する科学者の中には、才気縦横、ひたむきで精力にみち、倫理的、思慮深い人たちが多い。しかし彼らの利益は公的利益に必ずしも一致しない。科学者たちは野心に駆られているものだし、ある一つのテクノロジーや医学に金銭的利害を持つことも多い。バイオテクノロジーで何をするか、という問題は、専門家だけで決められることではない。
 科学利用の何を合法とし、何を非合法とするか、それを誰が決めるのかという問題は、実際はかなり簡単なことであり、数世紀にわたる政治理論と現実によって明らかになっている。こうした問題で主権を持ち、テクノロジーの発展のスピードと領域をコントロールできるのは、選ばれた議員を通じて機能する、民主的政治機関である。(略)科学それ自体は人間の目的を達成するための道具にすぎない。政治機関がふさわしい目的を決定することは、最終的には科学の問題ではない。
(p218)
 「テクノロジーは合法的に規制すべきだ」と判断するとして、それが果たして可能かどうか、という問題が残っている。(略)
テクノロジーの拡大を抑える唯一の方法は、テクノロジー規制法について国際的合意をとりつけることだが、これは交渉が難しいうえ、施行となるとさらに困難を極めるだろう。しかし、こうした国際的合意がなければ、ある国が単独で規制しようとしても、実効性がないばかりか立ち遅れてしまう。
(pp219-220)
 テクノロジーの進歩は止めようがないという悲観主義は間違っている。しかし、多くの人たちがそう思い込むあまり、本来は実現するわけがないのに、予言通りになってしまうこともある。というのは、技術進歩のスピードと範囲が制御できないわけではないからだ。危険性があるため、あるいは倫理的に議論を呼んだために、テクノロジーが政治的規制を受け、実際に抑えられてきた。(略)[p220>
 法というものは完全に施行されることはないのだ。いずれの国でも殺人を犯罪とし、重罪を科しているが、それでも殺人はなくならない。だからといって、法が無意味だということにはならないのである。
(pp221-222>
 グローバル社会では、規制は国際的範囲で運用できなければ意味がない、という議論がある。確かに正しいが、だから国家レヴェルの規制を作るのが無駄だというなら、主客転倒である。はじめから規制が国際的レヴェルで敷かれることはめったにない。国家がまずそれぞれの状況に合う規制を練り上げ、そのあとで、国際的なシステムについて考え始めるものだ。合衆国のような政治・経済・文化的優位にある国には、特に当てはまる。合衆国における国内法の取り組みは、他国から大いに注目されるだろう。ある種のバイオテクノロジーの規制について国際的合意が成立しても、アメリカが国家レヴェルで動かなければ、実現は難しい。
 テクノロジーの規制がある程度成功した事例を挙げてきたが、ヒト・バイオテクノロジーに同様の[p222>システムを作る難しさを過小評価するつもりはない。国際的バイオテクノロジー産業は競争が激しく、企業は開発上の規制が緩い土地を常に探している。
(p223)
 バイオテクノロジーの規制について国際的合意が成立する見込みはどうか。まだこの時点で言うことはできないが、しかしこの問題を文化と政治の面から考えてみよう。
(p225)
 バイオテクノロジーの規制に対する合意に不参加を選ぶ国があるとしたら、それはアジアである。アジア諸国の多くは、民主国家でないか、あるいは道徳的根拠からある種のバイオテクノロジーに強硬に反対する人々が少ない。シンガポールや韓国などは、生命医学の優れた基幹的研究施設を持ち、経済的動機からバイオテクノロジーでマーケットシェアを確保しようとする。将来、バイオテクノロジーは世界政治を二分する境界線となるかもしれない。(略)
 ヒト・バイオテクノロジーを国際的に管理するといっても、新たな国際機関を設立してわけのわからない官僚をあてることが必要だとは限らない。最も単純なレヴェルでは、国家間で規制政策を摺り合わせていくなかで、実現できる。ヨーロッパ連合(EU)諸国にとって、この努力は既にヨーロッパのレヴェルで現実のものとなっている。
(p226)
 ヒト・バイオテクノロジーを将来どのように規制すべきかを議論する前に、規制の現状と経緯を理解する必要がある。とくに国際的レヴェルで見るときわめて複雑であり、農業とヒト・バイオテクノロジーの歴史がそこで密接に絡み合っている。

第11章 バイオテクノロジー規制
(p227)
 規制には、政府による介入を最小限に抑えた業界・科学学会の自己規制から、法的機関による規制まで、さまざまなアプローチがある。公的規制は多かれ少なかれ一方的に踏み込んできやすい。規制をする側とされる側に密接な関係がある場合、しばしば業界が規制団体を取り込んでしまっていると批判される。しかし、逆に敵対関係にある場合は、規制機関が細かい(しかもうっとうしい)規則を業界に課しては、しょっちゅう訴訟問題に巻き込まれている。この多くは、バイオテクノロジーにも既に当てはまる。
(pp232-233)
 農業バイオテクノロジーをめぐる規制については実にさまざまな議論があるなかでも、アメリカとEU間の対立は深刻である。合衆国はリスク基準としての予防原則を認めず、安全性や環境に対して害があると主張するならばきちんと証明をつけるべきだ、と主張している。合衆国はまた、GMOの強制的表示にも、そうすればGMOと非GMOの食品加工プロセスを分けることになり費用が嵩む、といって反対している。とくにカルタヘナ議定書がWTOのSPS規定を形骸化し、GMO産物の輸入制限に合法的な根拠を与える、という点を懸念している。
 こうした見解の違いには、多くの理由がある。合衆国は世界最大の農業輸出国であり、遺伝子組み換え作物を早くから栽培してきた。もし輸入国がGMOに制限を課したり、コストのかかる表示を義務付けたりできてしまったら、失うものが多すぎる。アメリカの農家が輸出志向で、自由貿易を支持するのに対して、ヨーロッパの農家は保護主義的傾向が強い。合衆国では遺伝子組み換え食品に対して、ヨーロッパのような消費者からの反発はほとんどないが、食品加工業者の中には、GMO表示を自発的に始めたところもある。ヨーロッパは環境保護運動がずっとさかんで、もともとバイオテクノロジーに対して敵愾心が強い。(略)
 ヒト・バイオテクノロジーの規制は、農業バイオテクノロジーに比べてはるかに遅れている。人間の遺伝子組み換えじたいが、まだ実現していないからでもある。既存の規制のなかでも、新しいテクノロジーに適用できる部分もあるだろうし、新たにはめ込まれる部分もある。しかし、規制システムの根幹にあたる部分は、これから作り出さなければならない。[p233>
 既存の規制で、ヒト・バイオテクノロジーの将来の発達に重要となるのは、二つの分野、つまり人体実験と薬物の承認に関する規則である。
 人体実験に関する規則の進化に注目するのは、将来のクローン人間実験や生殖系工学の実験にも当てはまるからというだけではなく、科学研究に対する重大な倫理的拘束が、国内的にも国際的にもうまく機能している例であるからだ。これは、規制にまつわる世間的な通念に逆行する。つまり、科学とテクノロジーの自由な進歩は決して不可避でないことを示しているばかりか、政府による規制を最も嫌いそうな国、合衆国ではっきりと認められる。
 合衆国において、人体実験に関する規則は薬品産業の規制と連携して進化し、スキャンダルや残虐行為が露見するたびに前進してきた。(略)
(p235)
 国によって差こそあれ、これらの例からわかるのは、国際社会が科学研究のあり方に対してうまく制限を課し、実験の必要性と、被験者の尊厳に対する敬意のバランスをとることは実際に可能である、ということだ。この問題は、これからも何度となく振り返って考える必要があるだろう。

第12章 未来への指針
(pp236-237)
 はっきりしていることが一つある。政府が、科学者と学識のある神学者、歴史学者、生命倫理学者をともに含む委員会を国内で設置して、バイオテクノロジー問題に取り組んでいられる時は、終わりに近づきつつある、ということだ。アメリカ生命倫理委員会をはじめとするこの種の委員会は、生物医学研究の道徳・社会的意味を考えるための下準備を整えるには、きわめて重要な役割を果たした。しかし、もうそろそろ思考から行動へ、忠告から規制へと移るべきだ。現実的な強制力を持つ制[p237>度が必要なのだ。
(p240)
 本質的にいって規制とは、ある行動が合法か非合法かを決め、赤い境界線を引くことだ。この際、規制する側がある程度自主的に判断できる範囲が法によって定められている。
(pp242-244)
 赤い線を引く方法の一つは、治療と「向上」を区別することだ。研究は治療を目的とすべきであって、もともと正常な状態のグレードアップを目指す向上は制限したほうがいい。(略)
 治療と向上は理論上区別できないから、実際に差別するのはおかしい、という根拠で、この二つを分けることに反対する意見もある。これは昔からあった伝統だが、フランスの思想家ミシェル・フーコーが力説するように、社会が病気とみなすものは、社会的構築物にすぎず、「規範」からの「逸脱」がすなわち病気とみなされた、という理屈である。(略)
 病気と正常が区別しづらい状況があるにせよ、それでも実際、「健康」と呼べるものはあるだろう。(略)[p243>
 「病気と健康の間には原則として違いがない」と主張する人は、病気になったことがないのだろうか。もしウィルスに感染したり足を折ったりした経験があれば、そのときにははっきり違いを感じるはずだ。(略)
 病気と健康、治療と向上の間のボーダーラインが曖昧な場合でも、規制機関は現実問題として区別をつけることができる。(略)[p244>
 診断上で、病気と健康の区別が、処置上で、治療と向上の区別つけにくいケースがあるとしたら、それがADHDとリタリンであるといっていい。それでも、規制機関は常に両者の区別をつけていく。
(pp244-245)
 どこかで境界線を引くべきだ、という原則でいったん合意したならば、どこに引くかを長時間かけ[p245>て細かく議論していても、得策ではない。他の場合もそうだが、こうした判断は現時点でまだ一般に知らされていない情報や経験に基づいて、行政府が試行錯誤していかねばならない。もっと重要なのは、たとえば治療目的の着床前診断・スクリーニングに対する規制を作り、施行する機関をどんな形にするか、そしてこの機関をどう国際的に拡大していけるかを考えることだ。
 繰り返しになるが、まず立法府議員が踏み出して、ルールと制度を作ることから始めなければならない。これは、言葉で言うほど簡単ではない。バイオテクノロジーは技術的に複雑であり、やっかいなテーマである。日進月歩で変わるうえ、実にさまざまな利益団体が思い思いの方向に引っ張り合っているのだ。バイオテクノロジーの政治学は、これまで馴染んできた政治的カテゴリーとは異なる。保守的な共和党員であるにしても、左翼の社会民主党員であるにしても、それで治療的クローンや幹細胞研究を許可する法案に、賛否どちらの票を投じるかが決まるわけではない。こうした理由から、この問題が他のやり方で解決できるのではないかと期待して、多くの議員はなかなか自分から触れようとしない。
 しかし、テクノロジーが刻々と変化する今、何もしないでいるのは、結局この変化を合法化していることにほかならない。民主主義社会といいながら議員たちが責任に向き合わないならば、他の機関が代わりに決定を下してしまうだろう。
(pp246-248)
 立法府がヒト・バイオテクノロジーに対してさらに規制をかけようと動くならば、実行に必要な機関をどうするか、という大きな問題にぶつかる。(略)[p247>
 FDAが否認する場合、根拠になるのは、有効性と安全性だけだ。しかし、安全・有効であっても、精査が必要となる問題は数多い。FDAの限界は明らかだ。(略)[p248>
 こういうわけで、新薬や人間の健康に関するテクノロジーの承認を管轄する、新たな機関が必要になるのである。幅広い権限を持つとともに、この新しい機関は従来と異なるスタッフを擁するべきだろう。FDAで新薬の臨床実験を監督している医師や科学者だけでなく、当該テクノロジーの社会・倫理的意味について判断を下す用意のある識者なども含めるのがよい。
(pp248-249)
 既存の機関では将来のバイオテクノロジーの規制に十分でないと考える二つめの理由は、研究者の学会とバイオテクノロジー/製薬業界が、この一世代で大きく様変わりしたことだ。(略)[p249>
 こうしたことから、新たな規制機関は、効力と安全性に限らず広い見地に立ってバイオテクノロジーを規制する権限を持つとともに、あらゆる研究開発(連邦政府が資金を出しているか否かに関係なく)に法的権限を持つべきであると考えられる。
(pp249-251)
 合衆国などの国々でこうした規制システムを設けるとしたら、どんなことが予想できるだろうか。新たな機関をつくるには数えきれないほどの政治的障害がつきものだ。バイオテクノロジー業界は、規制に対して強硬に反対する(FDAの規則が緩むことを期待しているのだ)し、科学学会もたいていがそうだ。たいていの人たちは、公的な法律によるのでなく、共同体内部で自己規制するほうを好む。こ[p250>の点で、患者や老人、さまざまな病気の治療を促進したい人たちの支持団体も加わり、こうして非常に強力な政治的連合体ができている。(略)
 医薬品規制の歴史は、スルファニルアミド薬やサリドマイドのようなおぞましい物語によって突き動かされてきた。クローン人間に関する規制は、クローン実験が失敗した結果として、身体に障害を[p251>持つ赤ちゃんが生まれるまで待たねばならないかもしれない。バイオテクノロジー業界は、こうした問題が起こることを予期して、人々に結果の安全性と倫理性を納得させ、しかも利益も守れるシステムの制定に動くのがいいか、それとも忌まわしい事件や恐ろしい実験に対して、一般から激しい抗議が出るまで放っておくか、考えるべきだろう。
(p252)
 自然権のような概念は哲学の学者たちには好まれないといえ、我々の政治世界は、その大部分が確かな人間の「本質」の存在を根拠にしている。この「本質」は、自然によって、あるいはむしろ、こうした本質が存在すると信じることそのものによって、我々に賦与されているのである。
(pp252-253)
 我々は「人間後(ポストヒューマン)」の未来に足を踏み入れようとしているのかもしれない。この未来では、テクノロジーによって、人間性を徐々に変える力が与えられる。人間の自由という旗印のもと、多くの人たちはこの力を受け入れる。(略)
 しかし、この種の自由は、人々がこれまで享受してきた自由とは違う。従来、政治的自由が意味したのは、我々本来の性質が確立してきた目的を行う自由のことだった。(略)[p253>
 我々は、この新しい自由を受け入れる運命なのだろうか。(略)
 無制限な生殖の権利であれ、科学研究の自由であれ、見当違いの自由を振りかざした、こんな未来世界を受け入れる必要はない。テクノロジーの進歩が人間の目的に役立たなくなってもまだ、進歩は止められない、自分たちはその奴隷だ、などとあきらめる理由がどこにあるのか。真の自由とは、社会で最も大切にされている価値観を政治の力で守る自由を意味する。バイオテクノロジー革命が進もうとしている今日、我々が守り用いるべきは、この自由にほかならないのである。


■言及

◆Wissenschaftliche Abteilung des DRZE[生命環境倫理ドイツ情報センター] 2002 drze-Sachstandsbericht.Nr.1. Enhancement. Die ethische Diskussion uber biomedizinische Verbesserungen des Menschen,New York: Dana Press(=20071108, 松田純・小椋宗一郎訳『エンハンスメント――バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』知泉書館).
(pp21-23)
 エンハンスメントは、人間存在が偶然的で制約されていて有限であるという意味での、人間の不確かさ(Kontingenz)を解消するものだという解釈がある。幾人かの論者たちはこうした解釈を意識して、人間の条件(conditio humana)がもつ高い倫理的価値を強調し、それを人間[p22>本性を生物医学的に改良することに対する倫理的限界をめぐる検討のなかへ、統制的理念として持ち込もうとする。
 マケニィは問う。人間の傷つきやすさ(Verwundbarkeit)や、人間が自分の目標を追求しようとする際に身体を通じて受ける抵抗は単に妨げにすぎないものなのか、それとも自分にとって、あるいは他人にとっても倫理的価値の源泉でもあるのではないか、と。マケニィは、プラトンに始まりアリストテレス、ストア派、マイモニデスを経てレヴィナスに至るまでの、これに関するさまざまな議論を振り返って、次のような確信に連続性を確認できると考えている。すなわち、身体についてのわれわれの解釈と、身体とのつきあい方の様式と、とりわけ、われわれが傷つくものであるという意識、身体が抵抗を経験するということ、これらはわれわれの道徳的アイデンティティ(moral identity)と自己形成(self-formation)にとって重大な意義をもつという確信である。ウインクラーもこれと同じ方向で論じ、人間の傷つきやすさ、不完全性、有限性(fragility, imperfection, and finitude)についての意識がもつ決定的な意義を強調している。パレンズは「傷つきやすさの善さ(Goodness of Fragility)」というキーワードで、「偶然のめぐり合せと変動に依存している(subjection to chance and change)」という意味での人間の傷つき[p23>やすさを減らそうとすることによって生じるかも知れない危険を指摘しようとしている。フクヤマ(*45)もバイオテクノロジーへの規制の必要性についての考察のなかで、正邪の理解、それゆえ人権の理解にとって人間本性が中心的な意義をもっていることから出発している。薬理学や遺伝子技術によるバイオテクノロジーのなかで、人間の自然本性に介入しこれを改変すれば、その度合いに応じて、人間の自然本性に基づく「基本的な価値」も危殆に瀕するであろう。かかる「人間の終わり」と「ポストヒューマン段階」への踏み出しは、ひょっとしたら、リベラル・デモクラシーと政治の本質に有害な影響を及ぼすかも知れないとフクヤマは言う(*46)。人間本性の形と規範的な意義への問いは、とくに遺伝子技術によるエンハンスメントに関して論じられている(II章六および七を見よ)。

 (*45)Fukuyama 2002: 33 邦訳20
 (*46)Fukuyama 2002: 21 邦訳9

(pp58-59)
 二〇世紀なかばに最初の向精神薬が開発・導入され、さらに脳の生化学的構造に関する科学的知識が増大して以降、精神疾患の治療は根本的に変化した。その系統の医薬品の使用が増加し、新薬および改良薬の開発が進むにつれて、多くの患者が救われるようになった。以前は施設への収容が必要だった多くの人々が、今日では外来治療が可能となり、自分で決めた人生を、少なくともある程度の範囲で、送ることができるようになった。向精神薬は、内因性または外因性の顕在化した精神障害の治療だけでなく、抑うつ亜症候群(subsyndromale Depression)のような、まだ顕在化していない精神的障害のケースにも投与されている。さらに向精神薬は、軽い倦怠感の治療や日常的な気分の状態を改善するために、自己投薬という経路によっても服用されるケースが増えている。そのため向精神薬の使用は精神医学の内部だけでなく、社会的にも議論を呼び、[p59>どのような場合にこの系統の医薬品を用いるべきか、また向精神薬がもつ人格変容作用を治療としてどう評価し、倫理的・社会的にどう評価すべきかが論じられるようになった。その際、生命倫理学の議論においては、「人格のエンハンスメント(改良この是非が問われることが多くなった(*3)。そうした議論の中心にあるのは、心理状態が病気かどうかの評価が必ずしも十分に解明されていない場合には、ある種の抗うつ薬の服用が〔その人の〕本当(Authenzitat)〔の人格性〕(I章三(*4))を損なうことを意味しないかということである。
(pp65-66)
 プロザックの使用に対する批判は、個別事例での適切さという問題を超えて、精神医学の立場とその目標設定全体への批判としても理解される、とフクヤマは捉えている。生活世界がますます医療化していくという流れのなかで、人間は、脳の生化学に関する新しい知見に基づいて、生活上克服すべき諸問題に対して、それらが病理的である必要は全くないのに、ある生化学的薬剤によって解決しようとしがちになる(17)。全体主義諸国においては、〔薬による〕「行動のコントロール」が政治的にとことん利用されるのではないかという危惧すら生じている(18)。生活世界の医療化という一般的傾向を背景にして、生活上の困難の克服を助けてくれるとされる簡便な作用物質への需要が社会のなかで高まる。薬の処方を厳格にすれば、そのような社会的需要に直面して、投薬を正当化するために「さまざまな病気」を「新たに創作」することが増えるのは避けがたいと[p66>言われる(19)。このようにして、薬の効能を厳密に品質保証することとは無関係に、病気概念および健康概念の外延と内包とが拡大されていく(20)。ガーエミは、「日常的うつの病理化(Pathologisierung von Alltagsdepressionen)」を警告している。なぜなら、「薬によるこころの美容整形(21)(kosmetische Pharmakologie)」による「クスリ中心主義の世界観(Pharmdkonzentrische Weltsicht)に直面すると、われわれの人格性の一部を変更するために、あるいは自分や他者にとって社会的ないし道徳的に望ましくないとみなされるようなあり方を変更するために、医薬品が用いられる危険が出てくるからだ(22)。しかし人生の成功に関するわれわれの判断にとって、精神医学は適切な支援を与えるものではないとされる。むしろ精神医学は、人生の意味への問いに対して中立的な立場をとる。そのため、ある人のそのつどの生活状況においてどのような形の支援が適切でありえるのか、一つの支援がどんな時に治療に当たり、どんな時にエンハンスメントの概念に当たるのかをたえず吟味しなければならない(23)、と言われている。
(pp60-61)
 これに匹敵する論争が、メチルフェニデートという作用物質(商品名リタリン、メディキネット〔ドイツでの商品名〕)に関連して生じている。この作用物質は、ドーパミンという神経伝達物質の再取り込みを阻害し、脳に対する刺激的効果という点で各種のアンフェタミンやコカインと類似作用を有する(*9)。リタリンは、「子供時代の多動性症候群」(注意欠陥・多動性症候群 ADHD)と描写・診断されるようなもろもろの状態の治療に用いられる。この名称は「じっとしていられない[p61>子供たちという現象を連想させることから、この医薬品の行動変更的性質に対して批判が向けられている。明らかに病的な行動の治療とは別に、親や教師からとりわけ負担に感じられるような少年の年齢相応の行動の場合にも、リタリンがしばしば投薬されているのではないかという疑念が出されている。ここでとりわけ議論されるのは、そうした薬剤が用いられる症状の境界線はどこにあるべきかという問題である(*10)。
(pp62-63)
 プロザックのような抗うつ剤の使用に対して表明される懸念は、まず次のことに向けられている。病理的と評価された諸症例での使用を超えて、場合によっては病気でなく、むしろ或る人の自己すなわち人格性が抗うつ剤によって治療されているのではないか? あるいは心理社会的な性格の諸問題が治療されているのではないか? プロザックが広まることによって、自分の評価を高くできないという感情を単純に薬によって克服することができ、向上をめざして心理的および社会的に努力しなくてもよいという暗示にかかるだろう、との指摘もある(*12)。病気ではなく自分の人生設計に困難を抱えて疎外感に悩んでいるような人々が、プロザックによって治療を受けたり、あるいは自己投与するケースがますます増えてくるという危惧が表明されている。エリオットは、「苦悶観念(Angstvorstellung)」あるいは「躁病」といった精神医学の概念に意識的に対置して、「疎外(alienation)という概念を選ぶ。この意味での「疎外」は、内的意味連関と外的意味連関、すなわちある人の内面(自己)とその周囲世界とが調和していない状態をあらわす。[p63>その際、エリオットによれば、ある種の疎外形態は、周囲世界の要求に適切に反応できることさえあり、それ自体はけっして病的で治療の必要なものと評価されるべきではない。もちろんさまざまな形態の疎外はうつとともに現れるだろうが、疎外とうつは必ずしも不可分ではないし、ましてや同一ではないとエリオットは言う。というのも、自らの時代の意味構造に対して疑いを向ける者が誰でもうつになるわけではなく、またうつである者すべてが、うつの原因の意味を創出できないせいにするわけではないからだ(13)。しかしながら、自分が疎外されていると感じる多くの人々や、自らの生活状況と人生設計に困難を抱えている多くの人々、場合によっては潜在的な精神的諸障害に苦しむ多くの人々が医師に助けを求めてくる。そうした状況において適切な形の援助はどのようなものでありうるのだろうか? そうした援助は医療行為の目標設定にどのように適合するだろうか? 医師はどのような手段を用いることができるだろうか?
(pp65-66)
 プロザックの使用に対する批判は、個別事例での適切さという問題を超えて、精神医学の立場とその目標設定全体への批判としても理解される、とフクヤマは捉えている。生活世界がますます医療化していくという流れのなかで、人間は、脳の生化学に関する新しい知見に基づいて、生活上克服すべき諸問題に対して、それらが病理的である必要は全くないのに、ある生化学的薬剤によって解決しようとしがちになる(*17)。全体主義諸国においては、〔薬による〕「行動のコントロール」が政治的にとことん利用されるのではないかという危惧すら生じている(*18)。生活世界の医療化という一般的傾向を背景にして、生活上の困難の克服を助けてくれるとされる簡便な作用物質への需要が社会のなかで高まる。薬の処方を厳格にすれば、そのような社会的需要に直面して、投薬を正当化するために「さまざまな病気」を「新たに創作」することが増えるのは避けがたいと[p66>言われる(*19)。このようにして、薬の効能を厳密に品質保証することとは無関係に、病気概念および健康概念の外延と内包とが拡大されていく。ガーエミは、「日常的うつの病理化(Pathologisierung von Alltagsdepressionen)」を警告している。なぜなら、「薬によるこころの美容整形(kosmetische Pharmakologie)」による「クスリ中心主義の世界観(Pharmdkonzentrische Weltsicht)に直面すると、われわれの人格性の一部を変更するために、あるいは自分や他者にとって社会的ないし道徳的に望ましくないとみなされるようなあり方を変更するために、医薬品が用いられる危険が出てくるからだ。しかし人生の成功に関するわれわれの判断にとって、精神医学は適切な支援を与えるものではないとされる。むしろ精神医学は、人生の意味への問いに対して中立的な立場をとる。そのため、ある人のそのつどの生活状況においてどのような形の支援が適切でありえるのか、一つの支援がどんな時に治療に当たり、どんな時にエンハンスメントの概念に当たるのかをたえず吟味しなければならない、と言われている。
(pp71-73)
 特定の人格の性格特性が誰かにとって変えようがなく本質的であるかどうかは、その当人がそれらの特性を自らのものと見なすかどうか、すなわち当人が自ら進んで(自律的に)それらの特性を保持するかどうか、それらの特性が本当に自分のものであるかどうかに大いに依存している。こうした諸事情のもとで、精神療法をプロザックの服用よりも「より本物(authentischer)」と捉えるべきかが議論されうる。かくしてドゥグラツィアは、〔人格の〕諸価値と自己理解が医学的治療の基礎として不変であるならば、プロザックを用いたいわゆる「不自然な」生化学的処置と、「間接的な」精神療法的処置との間にもはやまったく違いがないという見解に達した。そうだとすれば、〔プロザックの使用を〕パターナリスティックに規制することを根拠づけることはまずできない。このかぎりで、プロザックの使用は、人間にとって本質的な「自己創発的プロジェクト」の本物の一部でありうる。それがエンハンスメントの諸形態を含んでいる場合であっても、このことは妥当するとドゥグラツィアは考える。
 プロザックの服用に関するエドワーズの評価もこの点に関わる。彼の見解によると、自己自身への気遣いと、われわれの自然本性が〔自己完成へと〕課せられてあること(Aufgegebenheit)は、自己完成の方法をめぐる問いに答えることを困難にしている。こうした実存的な気遣いは[p72>苦悩(Leiden)と結びつき、身体的ならびに精神的な病気や健康についてわれわれが抱くイメージと結びついているため、医療と生活世界とは互いに入り混じっている。エドワーズはフーコーの「パトス」という概念を参照しながら、こう強調する。もしわれわれが自分たちを計画どおりに行為する者と理解するならば、プロザックを自分の人生を生きる助けにしようとする人に対して、この薬を与えることを拒む十分な理由はほとんど見いだせない(*30)。エンハンスメント技術が精神薬理学的な性質のものも含めて人生に役立つということは、エドワーズによれば、技術によって刻印されたわれわれの生の一部である。歯並びの悪さや肌のしみ・そばかす、脱毛や物忘れなどは、それらを防ぐことが可能な場合には、それらを我慢するよう誰かに強いることは結局のところほとんど不可能だ。ここには、人間の自然本性へのもろもろの介入を許さないという〔過剰な〕道徳化の危険が存する。〔エンハンスメントを禁止する論調を〕道徳化と非難することは、〔エンハンスメントを〕医療化と非難することへのお返しである。そのかぎりで、われわれが―少なくともわれわれの一部が―現状とは別の仕方で生きることができるか、またそうすべきであるか、その可能性について、きめ細かく慎重かつ批判的に検討することが必要だ。別の生き方をしようとする際、もろもろのエンハンスメント技術が助けになることもあろう。[p73>タルコット・パーソンズがその社会学的諸研究において主題化したように、病気と健康の概念、とりわ精神的健康という概念は文化的および社会的な諸規準に極めて強く依存している。このことを理解するならば、「もともとの」人格から逸脱した「新しい」人格を目指すことは、この「新しい」人格が文化的・社会的諸規準によりよく適合し、当人が「新しい」人格をより心地よく感じる場合には、努力に値する。ただし、その際どのような方法によってこれを成し遂げることができ、また成し遂げるべきかということは未決のままである。

 (*3)Konner 1999; Bender 2000; Elliot 2000; Schatzberg 2000; Fukuyama 2002: 66-87
 (*4)Yodyingyuad et al. 1985; Higley et al. 1996; 同 2000; Fukuyama 1999; Harder/Ridley 2000
 (*9)Fukuyama 1999
 (*10)Bonn 1999; Fukuyama 1999; 同 2002: 75-80; Konner 1999: 29-30
 (*12)Fukuyama 2002: 72
 (*17)Fukuyama 1999
 (*18)Fukuyama 2002: 68,83
 (*19)Healy 2000: 19-20; Fukuyama 2002: 86
 (*30)Edwards 2000: 31-32; 類似の主張 Fukuyama 2002: 86; Lanzerath 2002 も参照

 Fukuyama, Francis (1999): Der programmierte Unmensch, in: Suddeutsche Zeitung, 55, 180, o. S.
 ― (2002): Das Ende des Menschen, Stuttgart, Munchen. (フランシス・フクヤマ『人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か』鈴木淑美訳、ダイヤモンド社、2002年)


倉持武, 200510, 「訳者あとがき」 Kass, Leon R. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York: Dana Press(=200510, 倉持武監訳『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』青木書店):383-398.
(pp383-384)
 本書と同様のテーマでクローン人間をも射程に入れた著書が,リー・シルバーや当評議会のメンバーであるフランシス・フクヤマ,当評議会議長レオン・R・カスによってすでに書かれ,邦訳もされているが,日本人著者によ[p384>るエンハンスメント問題をある程度体系的に論じた書物は出版されていないのではないだろうか(@)。
(pp390-391)
 ところで,本書では「新たなバイオテクノロジーの力が不断に獲得され続けていくことで,人間の欲望そのものの方も常にかたちを変え,膨れ上がっていく」という事実,そして人間の欲望は「それを満たすのに役立つ手段に刺激されて形作られ,色づけされるだけでなく,まわりの文化的社会的観念や実践によっても直接的に形作られ,色づけされる」という事実が指摘されている。この指摘と,先に述べた人間的な活動とバイオテクノロジーに頼った結果だけの獲得の対比をあわせ考える観点から,アメリカの現状を簡単に見ておこう。
 市場の自由を最高の価値とし,トリックルダウン理論(trickle‐down theory)を信奉するネオコンの支配する国,フクヤマの言うリベラル・デモクラシーの社会をバイオテクノロジーの進展から守るだけではなく,バイオテクノロジーを積極的に取り込むことによって,いっそうの発展を目指そうとする国,アメリカは,世界最強の基軸通貨と軍事力の国である。アフガニスタンやイラクのことには触れないが,グローバリゼーションの発信地として,世界銀行,IMF,WTOを牛耳り,月収数千円という新奴隷制と言った方が正しい低賃金労働を求めて世界中に進出し,アガンベンの言うゾーエ,ネグリ,ハートの言うマルチチュードを膨大に生み出し続けているアメリカは,国内を見れば全株式の90%を10%の人が握り,下層階級全資産の40を1人の人物(ビル・ゲイツ)が握る国である。アメリカの統計によると,全企業収益における金融サービスの占める割合が,1947年には8%であったが,1970年に20%,2003年には40%になった。資産をほとんど持たない90%の国民はさておき,「外国為替市場で根をつめて長時間働き,国際貿易取引の決済に必要な額の200倍以上にもなる投機的取引をしている人たち」は,どのような社会的有用性を発揮しているのだろうか(C)。彼らの活動は,非常に高度な専門的知識を基盤にするものであるとはいえ,所詮,運と偶然に支えられた博打であり,蹴落としあい騙しあいである。それは,「知る主体とその活動との関係,知る主体の活動と目的を達成する喜びとの関係は引き裂かれてしまう」バイオテクノロジーに頼った活動とどこに違いがあるのか。行為や結果との間,そして「手段と目的の間に経験的な理解可能な結びつきが存[p391>在する」,自覚的で主体的な行為である,人間的な活動なのだろうか。社会的活動として見て,彼らが稼ぎ出す全企業収益の40%から,残る90%の国民に,自爆テロによる爆弾の破片以外に何が滴り落ちてきているのだろうか。何も生み出さず,ただ掠め取るだけの生き方をする者が最も適応的な生き方をする者であり,エリートであるような社会なら,社会自体が歪んでいるか狂っていると言うしかない。大統領生命倫理評議会が指摘する「新しくて途方もない力が,我われの理想が持っている意味の大きさを見失わせ,生きること,自由であること,幸福を求めることに関する我われの感性を狭めてしまう恐れがあると感じさせる」バイオテクノロジーに関する懸念は,アメリカ社会そのものに関する懸念としてより妥当するのではないだろうか。
(pp397-398)
 @Silver, L, Remaking Eden, Avon Books, lnc., 1998(東江,渡会,真:喜志訳『複製されるヒト』翔泳社,1998年)。Fukuyama, F., Our Posthuman Future Farrar, Straus and Giroux, 2002 (鈴木淑美訳『人間の終わり』ダイヤモンド社,2002年)。Kass, L., Life, Liberty and the Defense of Dignity: The Challenge for Bioethics, Ca : Encounter Books, 2002(堤理華訳『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』日本教文社,2005年)。
 クローン人間だけ,あるいは遺伝子技術だけを論じた著書なら,もちろん,日本でも出版されている。たとえば,上村芳郎『クローン人間の倫理』みすず[p398>書房,2003年,響堂新『クローン人間』新潮選書,2003年,松田純『遺伝子技術の進展と人間の未来』知泉書館,2005年などである。


◆McKibben, Bill 2003 Enough: Staying Human in an Engineered Age, Watkins Loomis Agency Inc.=20050830, 山下篤子訳,『人間の終焉――テクノロジーは、もう十分だ!』,河出書房新社
(p35)
 この操作がいつはじまるか、どれくらい急速に普及するかはまだわからない。支持者からも反対者からもさまざまな数字があがっている。プリンストン大学の生物学者で、生殖系列操作をテーマにした『複製されるヒト(Remaking Eden))』という本の著者でもあるリー・シルヴァーは、最初の生殖系列遺伝子治療は、嚢胞性線維症のようなあきらかな病気を排除する目的で実施されるだろうと述べている(ただし、あとで見るように、胚をいじらなくても、スクリーニングするだけで同じことがずっと簡単にできる)。しかしそのような介入は「標準レベル以下になることに対する不安」を生じさせるだろう。シルヴァーは二〇一〇年にある産科病棟で男の子を産んだばかりの母親のようすを想像している。「マックスが男の子なのは知っていたわ。それからついでに、私の兄のトムみたいに太ったりしないようにしてあるの」。彼が想像する二〇五〇年の若い母親は、陣痛をまぎらせるためにアルバムのページをめくって、生まれてくる子が一六歳になったときの姿を写真で見る。「きれいな顔をした、身長一六〇センチあまりの少女」である(*66)。生殖系列の遺伝子操作はいったんはじまると、急速に普及するかもしれない。フランシス・フクヤマが近ごろ指摘したように、安い超音波検査装置と受けやすい中絶処置のおかげで、アジアでは生まれてくる女児の数が急激に減ってしまった(*67)。また遺伝学・社会評議会のマーシー・ダーノフスキーが指摘しているように、「技術的・優生学的なビジョン」と私たちの消費者文化は「気がかりになるほどぴったりあっている」ので、そうしたテクノロジーに対する本能的な疑いが吹きとばされてしまうかもしれない(*68)。携帯電話にしても、みんながもつようになるのに、それほど長い時間はかからなかった。
(p44)
 攻撃性についても不安と同じことが言える。政治的公正(ボリテイカル・コレクトネス)の適用対象とするかどうかは別問題だが、少なくとも暴力的な行動の一部は遺伝子と関係しているらしい。フランシス・フクヤマが著書『人間の終わり(Our Posthuman Future)』のなかで指摘しているとおり、早くも一九八○年代に、オランダの研究者が「病的な暴力の既往」をもった家系を調べ、それが「モノアミン酸化酵素(MAO)という酵素の生産を支配する遺伝子に起因する」ことを突きとめた。フランスのチームは、マウスもそれと同じMAO遺伝子の欠陥があると「極度に暴力的」になることを示した(*94)。すでに一部の倫理学者は、判決の前に、反社会的な行動の「素因」をあたえる特定のDNA断片の有無を調べること要求している(*95)。
(pp58-59)
 しかし、もしその勝利が一時的なものだったら? 政治学者のフランシス・フクヤマは、この新たな分断の影響についてだれよりも入念に考えてきた。感情的にならずに慎重に書かれた彼の著書『人間の終わり』には、順調にいっている若い人たちが有望なのは「たまたま生まれや育ちがよかった」おかげではなく、「親の選択とプラニングがよかった」おかげだという、ぞっとするような世界が展開されている。彼らにとって成功は「そうあってしかるべきこと」であり、ありがたく思うようなものではない。「彼らは、選ばれなかった人たちとは見方も考え方も行動も、感じ方まで違うだろうし、そのうちに自分たちは別種の生きものだと思うようになるかもしれない。要するに自分を貴族のように感じるのだが、昔の貴族とは違って、生まれがいいという彼らの主張は、因習ではなく自然に根ざしている(*132)」。それはフクヤマが指摘しているように、建国の父たちのアメリカとはまったくちがう世界だろう――建国の父たちは、すべての人間が平等につくられていると信じていた。もちろん彼らの定義した「市民」の範囲は非常に狭かったが、私たちは彼らの精神のもとでそれをしだいに拡大し、男女両性、あらゆる人種を含めるようになった。しかしいま、その定義がふたたびせばめられ、「リベラルデモクラシーや政治そのものの本質に悪い影響をおよぼす」かもしれないのである(*133)。独立宣言にうたわれた政治的平等は、人間は実際に平等であるという考えが[p59>崩壊してしまうと、もちこたえられない。フクヤマは、「事実上、生まれながら背に鞍を置かれている人と、生まれながら乗馬靴と拍車を身につけている人をつくりだせるようになったら、政治的権利はどうなるだろうか」と問いかけている(*134)。
 この問いに、きちんとした答は出せない。いまとたいして変わらないよ、という冷やかしのほかには。「経済力のある親が、高いお金のかかる私立学校の教育を子どもに受けさせる権利を認めるなら、〈不公平〉という理由を、生殖遺伝技術の行使を認めない根拠としてもちだすことはできない」とシルヴァーは言う。「私たちが好もうが好むまいが、世界市場がそれを支配するようになる(*135)」。この数十年間、アメリカ国内でも世界全体でも、富者と貧者の格差が確実に拡大してきたことを考えれば、それはおおいにありうる(そしておおいに気が滅入る)。
(pp61-62)
 答が出るまで実験を続け、変なものができてしまったら(ドギー・マウス[学習・記憶能力にすぐれた系統の遺伝子操作マウス]が相撲取りマウスになってしまったら)、それを捨てて初めからやりなおせばいい。しかし人間はやっかいだ。賢い子ども(ドギー・キッド)がほしくてクリニックに行ったのに毛深くて太った斜視の子どもができたら、あなたは訴訟を起こすだろう。それより何より倫理にもとる。あなたは自分が不幸な人生をつくりだしてしまったことを正当化できるだろうか? 実際に、この点はだれもが同意しており、生殖系列操作の熱烈な支持者でさえ、まだ当分はリスクが大きすぎると言っている。米国生命倫理諮問委員会は一九九七年に、そうした作業を「現時点で人間に用いるのは安全ではない」と裁定した(*142)。
 この裁定のキーワードは「現時点」だった。ニューマンたちは、そうした改変はどこまでいっても安全ではなく、したがって倫理にもとると考えている。「安全かどうか、どうしたらわかるのだろうか?」と彼は問う。「マウスの研究ではわからない。マウスとラットでも耐性がちがう。人間ならなおさらだ。確かめるには人間で実験をするしかない。実際に遺伝子に組み込んでどうなるかを見るしかないが、それは許されない。向こう側で何が起こるにせよ、そこに行くには倫理的に不可能な道を通らなくてはならない――何世代にもわたって人間が実験されるのだ(*143)」。しかしその道が熱意によって、あるいは利益目的のために、無理に開かれるかもしれない。「予期しない副作用や長期の副作用がありそうだという事実だけでは、遺伝子治療を研究する人たちをおしとどめることはできないだろう。医学はそうして発達してきたのだから」とフランシス・フクヤマは予測する。それに新しいコンピュータ・モデルの技術によって、遺伝子をいじったらどうなるかを簡単に予測できるようになるかもしれない、と彼は言う(*144)。また、多数の生殖系列操作の支持者がリスクの議論にいらだちをつのらせている。「自然は毎日たくさんのモンスターをつくりだしている」と、UF[p62>Oカルトからヒト・クローン製作者に転身したラエリアン教団のラエルは言った。なぜ科学に、それよりも高い基準が適用されなくてはならないのだろうか(*145)? ラエルは行きすぎだと言うなら、長年『サイエンス』の編集をしていたダニエル・コシュランドの言葉をとりあげてみよう。コシュランドは一九九八年にUCLAで開催されたあるシンポジウムで、次のような発言をした。「この世界に絶対に安全というものはない。……たいていの人が承知しているようにリスクは相対的なもので、リスクがあっても比較のうえで得るもののほうが大きそうなら、ものごとは実行される。考えてみれば妊娠、出産という過程全体がリスクの大きい危険な仕事だ。生殖系列操作は自然とされているものと十分にはりあうようになると私は思っている(*146)」。つまり、この試みにつきもののリスク――必然的に人問に実験をすることになるという事実――は、歯止めにならないということである。
(pp181-184)
 胚をそれぞれスクリーニングして、問題の特性をもっていない胚を子宮に移植すれば、あとは出産予定日を待つだけでいいのだ。体外受精をする場合は、いずれにしても複数の卵子を受精させるのが通常である。したがってそれらの受精卵を、遺伝子と病気との関係についての新しい知識にもとづいて調べればそれですむ。(略)
 この方法は理論的に可能なだけでなく、すでに用いられている。(略)[p182>
 先にも書いたように、この技術は「もう十分」のラインにまっすぐ向かう。子どもが嚢胞性線維症になるかどうかがわかるスクリーニングと同種のスクリーニングで、そのほか多数の特性についてもわかるからだ。たとえば男児を判別することもできる。(略)
 また、本書のはじめに書いた恐怖につながる道をまっすぐ進んでいくことにもなるかもしれない。リー・シルヴァーの著書に登場する架空の女性は、胚を一〇〇個つくって、コンピュータ分析でそ[p183>れぞれの「遺伝子プロファイル」を作成させる――どの胚がいちばん背が高くなる、あるいは頭がよくなる、ブロンドになる見込みが高いかを知るために(*72)。もし「高いIQへの遺伝的寄与をになう変異遺伝子」をもつ胚を選別できるようになれば、「このような方法で選別された子どもたちの平均スコアは一二〇近くにもなって、一般人の平均スコアである一〇〇を大きく上まわるかもしれない」と、グレゴリー・ストックは指摘している(*73)。ストックは米国ヒト生殖学会の年次大会で、滑りやすい坂道の可能性の一例をあげるために、親たちは、まるでダウン症とスペアタイヤが基本的に同等のものであるかのように、「肥満や精神遅滞になるとわかっている子どもを排除したがるようになるだろう」と語った。要するに「子どもは生まれる前にテストに合格しなくてはならなくなるのだ(*74)」
 しかしこれは、最悪の場合でも、生殖系列操作よりはましなはずだ。親の選択は、自然に存在する可能性の範囲内で――親の卵子と精子が提供する一定の選択肢のなかで、おこなわれるからだ。その威力は大きいが、無限ではない。もちろん濫用されればひどいことになるだろう。キャシーが嚢胞性線維症をもっているという理由で「排除」されていたかもしれないなんて、考えるだけで耐えがたい。前にも書いたとおり、彼女は私の知っているなかで一番すばらしい人間だったのだから。私は彼女と同じ立場ではなかったが、着床前遺伝子診断によるスクリーニングの魅力が理解できるのと同時に、障害を擁護する人たちが感じる嫌悪感も理解できる。本当の意味での試金石は、その選択肢と情報を、比較的少ない、生死にかかわる遺伝病だけに制限することができるかどうかだろう。「私たちがしなくてはならないのは、この手法の禁止ではなく、規制であり、合法的な利用と不法な利用とを区別する線引きである」とフランシス・フクヤマは書いている(*75)。それができれば、この手法は私たちが意味のある世界のなかにとどまるのに役立つだろう。[p184>
 これは、この手法が個々の悲しみをすべて解消するという意味ではない。たとえば両親がともに、劣性遺伝の病気の遺伝子を二つもち、単なる保因者ではなく病気を発症しているとしよう。その場合は、すべての胚が両親と同じ状態にあるので、子宮に移植すべき健全な胚がない。しかし遺伝子操作研究を担当するカナダの委員会が説明しているように、そういうケースは「きわめて稀である」。「劣性遺伝病の平均罹病率は二万分の一であるから、病気をもつ人どうしが偶然に結婚する可能性は非常に低い。また仮に病気の人どうしが結婚したとしても、子どもができるほどの健康さと身体機能があるなら、その病気はそれほど重大な悪影響をおよぼさないものであるはずだ(*76)」。とはいえ、もしその親たちが遺伝病をもたない子どもを望むのであれば、少なくとも通常の医療による治療方法が開発されるまでのあいだは、生殖系列操作をするか、養子をもらうかしかない。また、受胎能力が低すぎて体外受精でもうまくいかないという人たちも、自分の遺伝子を受け継いだ子どもをもつにはクローニングによるしかない。こうした人たちは少数だが、そのなかには養子ではどうしてもだめだというケースもあるだろう。実の子どもを見たいという願望が強い場合もあるからだ。しかしそれは、生殖系列操作に向かった場合に社会が負うことになるリスクを正当化するほど強くはない。私たちを後押しして、「これで十分」というポイントを超えさせるほど強くはない。
(pp203-264)
 ひょっとすると私たちは、あっさりあきらめて、問題が複雑すぎるので「市場に決めさせる」しかない、という結論を出すかもしれない。しかし、そうはしないかもしれない。テクノロジーを真剣にとりあげる政治が生まれて、条件はまったく異なるがアーミッシュがしているように、知的に取り組みはじめるという可能性も考えられる。そのような政治は、明示的にではないが、私が「十分なポイント」と呼んできたものに似たようなところに収束する。それは長い時間をかけて、私たちを多少とも人間として保つ規制の網を、ひいてはタブーの網を生みだす。私たちはこれらのテクノロジーに対して、永久的な勝利をおさめることはできない。自然原生地域の保護は一回すればそれですむわけではなく、毎年新たに守っていかなくてはならない。どんなに強力な条約をつくっても、物理学者に核兵器の製造法を忘れさせることはできない。それと同じように、これらのテクノ[p264>ロジーに対する対策も、一度立てればそれですむというわけにはいかない。生殖系列操作はつねに存在し、私たちを誘惑する。それらの可能性とともに生き、それらを導き、指示をあたえ、必要があれば排除することが、人間というもののあり方に新たな要素として加わるのだ。フランシス・フクヤマは、結果としてどのような状況になりうるかを冷静に検討している。「社会が確立できるルールの順列と組み合わせは莫大な数になる」と彼は述べている。それらは完璧には機能するわけではない――「まったく漏れのない規制の体制はない」――規制があっても人びとは銀行強盗を働く(*119)。重要なのは、銀行業がなりたたないほど頻繁に強盗が起こらないようにすることである。
 新しいルールは私たちに、ここしばらくの過去にしてきたよりも注意深く考えることを要求するだろう。たとえば市場のマジックを美化してばかりいるのではなく、侵害するには貴重すぎる人生の諸面はどれかと問うことをはじめなくてはならなくなる。自分が社会に対して(すなわち子どもたち全般や未来に対して)どんな義務をもっているかを、自分の子どもに対して特定の時期にもっている義務とは別のものとして、もっとじっくり考えなくてはならなくなる。また、厳しい事実――たとえば、私たちは個人権に対する適切な配慮を、人類という種を危うくする超個人主義に変えてしまったという事実――にも対峙しなくてはならなくなる。


金森修松原洋子, 200311, 「対談――生命にとって技術とは何か」『現代思想』31(13):26-43 →金森修, 20051020, 『遺伝子改造』勁草書房:113-156.
(pp123-124)
 金森 それから、例のフランシス・フクヤマ。彼は『人間の終わり』のなかで、科学者の暴走を止めるべきだとして、生殖系列の遺伝子改良についても、明確な反対を表明しています。ただ、その際、彼が最終的に何を言っているかというと、数万年前から普遍的な人間性というものがあるんだから、それに悖(もと)ることはすべきではないと言っているだけです。彼は優れた政治学者ですが、この準拠点は、ちょうど生命倫理学者がよく使う「人間の尊厳」という概念が、推進派の科学者の前では退却戦法的な際どい歯止めになっているだけだ、というのと、あまり変わらない。ともに、少し弱い楔(くさび)ですよね。
 「人間の尊厳」という概念について少し付言しておくなら、その重要な特徴は、それがそもそも操作的な概念ではないという事実のなかにあります。ですから、操作性が主導的役割を果たしている言説空間のなかでは、もともとすわり(校正者注:「すわり」に傍点)が悪いものなのです。もっとも、私はだから無意味だ、といっているのではないというのは、すぐに理解していただけるでしょうけど……。私が国の審査委員会で頑張るとき、私はしばしばこの概念の重要性を顕揚(けんよう)しますが、審査委員会で行われる議論は「生命とはなにか」といった水準の論争ではなく、「あれこれの申請研究計画をどうすればいいのか」といった、[p124>まさに操作的な水準での議論です。だからこそ、私がこの概念を重視することは、本性的にすわりが悪いわけですが、それでも私が頑張るのは、その種の操作的議論だけで重要な科学政策を決めることは不適切だという、私なりの判断があるからです。
 松原 フクヤマにしてもリフキンにしても、評価すべき点も多いと思うのですが、「普遍的な人間性」、あるいは「生物としての人間の自然な姿」の存在が想定されているようです。しかし、人種、性、階級、また病気や障害をめぐるボディ・ポリティクスの膨大な研究成果は、こうした普遍的な人間性、あるいは「尊厳を認めるに足る人間とはなにか」という議論の発生と展開をつまびらかにしてきました。人間性をめぐるポリティクスは、社会的マイノリティを人間性の境界や周縁に位置づけたり、存在を否定したりもしてきたことが明らかにされたわけです。たとえば、異性愛社会や性(セックス)の二型性を前提とする人間観の権力により、生存が脅かされる人々もいます。
(pp135-138)
 金森 ところで、技術の強さが何によって測られるかというと、それは、公共的なベネフィットによって以外にはないでしょうね。〈一般的な福祉〉という、この顔の見えないような概念が、にもかかわらず、技術を支える根拠になっているんです。いまの話題に関連する技術の場合、それはまだ海のもの[p136>とも山のものともつかなくて、公共的なベネフィットがあるとはいえないから、規制が加えられているだけです。問題なのは、やってみなければ分からない、どのくらいのベネフィットがあるかないかが、そもそもやっていないのだから分からない、そういうものを、技術以外の論理によって止めるといったときに、それを止める根拠とはなんなのか、ということですよね。
 先程言ったように、そのタイプの議論の代表的な論者として、カスやフクヤマのような人たちがいるわけです。フクヤマの論理は、共通の人間性があることをまずは認め、その人間性を毀損(きそん)するからいけない、というもの。つまり「人間の尊厳」の概念をもとにしていますから、若干弱い部分を抱え込んでいる。他方、カスの場合は、設計ということ自体のあり方が、人間の子どもの存在にそぐわないというのが基本的な論点です。この論点については、いま詳細に検討するわけにはいきませんが、それなりに強い論点ですよ(8)。
 要するに、強い弱いの違いはあるにしろ、カスもフクヤマも、技術的思考内部の文脈に位置しながら、その地平に沿った判断をするというのではなく、技術外的な地点から、倫理的な判断をしている、ということです。彼らの論理は、技術的思考のラインには位置しえない、技術外的な論理の最たるものなのです。倫理を、技術的思考の延長線として設定することも、技術的思考に隠れていたものを発見したとして持ち出してくることも、できないということです。いや、私は、なんとも当たり前のことの回りをぐるぐる回っているだけのような……。
 松原 技術が仮にパーソナルなもので、それぞれの好みに応じて個別に使えるものであるとしたら、使いたい人が使えばいい。ですが、技術自身は自律的に展開しているように見えて、実は技術自身が[p137>公共性を持っているわけですよね。
 金森 そもそも、技術はパーソナルなものではありえませんよ。私がさっきまで敵に対して撃っていたライフルを、逃げる時に置いて行ってしまうと、逆に敵に使われてしまいます。使い方のプロセスさえ踏めば誰でも使えるわけです。パーソナルな技術というのはありえない。確かに、より正確にいえば、特異な文脈を抱え込んだローカルな技術、さらには或る特定の職人さんにしかほとんど真似のできないこつ(校正者注:「こつ」に傍点)のようなものはあります。しかし、それは技術のなかの亀裂のようなものであり、ラフな視線で見たときには隠蔽される、または周辺化されるものとして位置づけられることには変わりはない。
 松原さんがおっしゃったことは技術の波及のことですね。技術が直接、間接にもたらす社会的な効果のことをおっしゃっているわけで、それが公共かというと、いろいろな人間を巻き込むから公共ですが、これは普通われわれが公共圏を設定する時の公共とは、意味が違います。技術の〈錐〉(きり)みたいなものが社会空間に射しこまれていく、その過程で、周辺にひび(校正者注:「ひび」に傍点)が入りますね。そのひび(校正者注:「ひび」に傍点)が困るのでなんとかしなくてはということになるわけであって、われわれが普通考える社会科学的、あるいは哲学的な意味での公共圏とは違うんですよ。
 松原 ただ、技術開発のアイデアのレベルでは多様な展開がありえますが、実際それに開発費が投入されるのか、あるいは商品化されるのかという局面では、公共的な判断が働かざるを得ないと思います。
 金森 その意味では賛成です。遺伝子組換えにせよ原子力発電所にしろ、馬鹿でかい金がかかります[p138>から、プライヴェートでちょっとやってみる、というわけにはいかない。その意味では公共投資、先行投資があるということでしょう?
 松原 それほど大きなプロジェクトでなくても、技術開発や商品化の場面で、これは世の中に出していいとか、ちょっと危ないとかいう判断があるでしょう。私は、技術のポイントは最終的に現場に落とせるかどうかにあると思います。確かに企業にとってはコストパフォーマンスが重要ですから、事故の発生や社会的不公正の可能性が事前に察知されていても、ペナルティのコストを収益が上回ると判断されれば、公共性に反する技術を売り込むこともあります。しかし同時に、技術がユーザーに歓迎され、社会的信用を獲得して普及することも、技術にとっては大変重要なことです。つまり技術開発や商品化において公共性が意味をもってくるわけです。技術開発者、企業、行政、市民にとっての公共性には、ズレがありますから、技術開発者がなんらかの公共性を有しているからといって、その自律性にまかせればいいということにはなりません。また巨大な多国籍企業のように強大な資金力と権力を有する企業の場合には、その力によって〈現場〉そのものを自分に都合良く仕立て上げることもあります。そうした現実には注意しなければなりませんが、現場でうまく機能しなければならない宿命を持つ技術は、科学技術の社会的規制が問題になる以前から、或る種の公共性を獲得せざるを得ませんでした。さらに同じ技術といっても、理工系技術と生命科学系技術、また生命科学技術のなかでも医療技術とそれ以外の技術には、求められる公共性の質に違いがあり、その違いが、それぞれの技術の基本的性格の差異をつくってきたのではないかと思います。


霜田求, 200403, 「先端医療技術における道徳的リスク――生命科学をめぐるコミュニケーションの可能性に向けて」『臨床コミュニケーションのモデル開発と実践』(文部科学省・科学技術政策提言報告書、研究代表者:鷲田清一)
(p6)
 米国大統領生命倫理評議会の議長を務める著名な生命倫理学者カスによれば、ヒト胚の研究利用、クローニング、遺伝子操作といったヒト・バイオテクノロジーの進展の中で問われるべきことは、「雇用や保険における〈遺伝子差別〉のリスク」―これは「実践的問題として重要である」が「最も深刻な問題」ではない――よりもむしろ、「人間性(humanity)」および「人間の尊厳(human dignity)」が保持されるかどうかということである。それは、「疾病の治療、苦しみの緩和、生命の保持」といった「よきこと」ゆえに全面的に否定することはできないものの、人間として生かす/死なせるといった境界づけができるという「思い上がり(hubris)」の心性を育ててしまう、人間生命の「製品化や商品化」への道を拓くというマイナス面も無視されてはならない。「尊厳と人間性への挑戦」という「道徳的危機(moral crisis)」こそ、真に問われるべきものなのである。(cf.Kass2002)(*4)
(p9)
 (*4)ヒト・バイオテクノロジーの問題性を「人間本性(human nature)」「人間の尊厳」への「脅威」と捉える政治思想家フランシス・フクヤマも、カスとほぼ同様の見解をとっている。cf.Fukuyama2002


進藤雄三, 20040331, 「医療と「個人化」」『社会学評論』54(4):401-412.
(pp404-405)
 ベックの「個人化」論が提示された時期を考慮した場合、医療領域における対応物として遺伝学のインパクトを挙げることができる(*2)。
 このテーマが急速に浮上してきた直接のきっかけは、1988年のアメリカの国家研究評議会の勧告に端を発する「ヒト・ゲノム」計画である。人間の遺伝情報が書かれたDNAのすべての塩基配列を解読しようというこの壮大なプロジェクトは、[p405>その解読のスピードとあいまって、遺伝情報の応用・実用化可能性に対する期待を急速に高めさせた。
 医療領域における遺伝学のインパクトには、原因の特定と治療法の双方へのものが予期される。前者に関していえば、ハンテントン舞踏病、鎌型赤血球貧血症、嚢胞性繊維症などの「単一遺伝子病」に関して一定数の病因遺伝子が特定されてきている。多数の遺伝病が多因子の関与とされている状況からみて、診断の飛躍的な進展が期待できるとは早計にはいえないものの、3,000以上といわれる遺伝病の病因解読への期待は高い。また、後者に関しては、たとえば糖尿病に対する遺伝子組換えによるヒト・インシュリン、血友病に対する血液凝固因子、B型肝炎ワクチンなどの薬の開発、また最初の遺伝子治療として知られるアデノシンアミナーゼ欠損症(ADA)治療(1990)などを挙げることができる。あるいは、臓器移植に際しての臓器不足を補う異種間移植の障害となってきた拒絶反応を、遺伝因子の操作によって除去することが可能となれば、これも一種の遺伝子「治療」ということもできる。
 しかし「個人化」という観点から見た場合に、こうした遺伝学の医療へのインパクトが重要な意味をもってくるのは、2つの領域においてであると思われる。1つは、医療が〈疾病‐健康〉のスペクトラムに依拠した営為であるととらえた場合、「疾病」ではなく「健康」の方向における領域である(上述した領域は「疾病」に関わるものに限定されている)。従来の「治療」医学が「病理創出」(pathogenesis)にモデルに依拠していたのに対して、「健康創出」(salutogenesis)に基づくモデルが可能であるという指摘(Antonovsky 1979)になぞらえていえば、こうした遺伝工学の応用が「健康」という方向において利用される―たとえば、小人症の治療に使用される成長ホルモン(プロトロピン)を、背の低い人が利用したいという願望に基づいて利用する―という場合、選択の拡大という意味での「個人化」の問題性が顕在化してくる。もう1つの領域は、社会学において「逸脱」(deviance)とされてきた領域、とりわけロンブローゾ以来の遺伝学的犯罪学の系譜に連なる問題領域である。この場合、バージョン・アップした遺伝学的説明は、それが直接「医療化」に結びつくかどうかということとは別に、文化‐社会的な環境要因を強調する社会学的説明に対する「個人化」的説明の新たな範例となる。
 この2つの領域と密接に関連してくるのが「優生学」(eugenics)の問題である。ナチズムと分かちがたく結び付けられてきたこの用語は、20世紀末葉からの遺伝学の刷新によって再解釈を強要しているように思われる。身長、知能、体型、運動能力、性的志向といった要素が、エスニシティに対して強要されるという文脈においてではなく、個人のより良き生のあり方として、個人の自発的「選択」の問題として立ち現れた場合、それは「私的優生学」あるいは「消費者優生学」とでもいうべき領域が開示されること意味するといいうるだろう(Paul 1992;Rose 2000;Fukuyama 2002=2002)。
(p410)
 (*2)遺伝学のインパクトは近年に始まったものではない。しかし、ヒト・ゲノム計画以降の遺伝学の刷新は、新たな遺伝子産業の創出という期待と関連して、医療分野においても新たな動向を確実に生み出したということはできる。この節で取り上げる事例に関しては、コンラッド(Conrad 2000)、フクヤマ(Fukuyama 2002=2002)、リップマン(Lippman 1992)を参照。


粟屋剛, 20040423, 「人間は翼を持ち始めるのか?――近未来的人間改造に関する覚書」,西日本生命倫理研究会編『生命倫理の再生に向けて――展望と課題』青弓社:149-193.
(p160)
 次に、知的能力や運動能力に関わる人間の遺伝子セットを生殖細胞系列に導入する遺伝子操作技術を用いる場合について述べる。この場合、当該能力強化は次世代に遺伝する。なお、知的能力や運動能力に関わる遺伝子(ないし遺伝子変異)は、もちろんすべてではないが、すでに発見されている。さらにいえば、現在、知的能力および運動能力強化に関するさまざまな研究が行われている。例えば、天才マウス「ドギー(*10)」や「スーパーアスリートマウス」などである。ちなみに、これらは、「能力の劣るマウスを作り、それを正常に戻す」という研究ではなく、「通常の能力を持った(持つべき)マウスに通常以上の能力を持たせる」というものである。もちろん、これらのマウスの能力は遺伝する。
(pp163-164)
 では、IGM技術(強化のみならず治療を含めて)には問題はないのだろうか。すでにさまざまな問題点が指摘されているが、ここでは四つの問題点を取り上げたい。
 まず第一に、このようなIGM技術は富裕者しか手が出せず、富裕者と貧困者との格差が拡大するという指摘がある(24)。しかしながら、前述のように、私は必ずしもそのようにはいえないのではないかと思う。[p164>
 この点に関して、アメリカ、ジョンズ・ホプキンズ大学のフランシス・フクヤマ教授(政治学)は次のように述べている。「今日の生命倫理学者が共通して口にするのは、この種の遺伝子操作技術を利用できるのが金持ちだけに限られる、という懸念である。しかし未来のバイオテクノロジーが、たとえば知能の高い子供たちを遺伝的に作り出す安全かつ効果的な方法を生み出したとしたら、問題はかなり軽減される(25)。」
(p167)
 第四に、「人類という品種の改良」の問題がある。これは、IGM技術(治療的であれ強化的であれ)が多くの人々の自発的意思によって、また多くの世代にわたって行われることによって、その結果として起こる個人、集団を超えた種としての人類の遺伝的質の改善(改良)――「人類という品種の改良」――の問題である(*33)。
(pp184-185)
 (*10)この点に関して、ジョンズ・ホプキンズ大学のフランシス・フクヤマ教授は、生殖細胞系列への遺[p185>伝子操作についてではあるが、次のように述べている。「この種の遺伝子操作競争が展開されれば、宗教等の理由で子どもの遺伝子に手を加えたくない人々には重荷になる。もしまわりがみな遺伝子操作をしていたら、自分もその気にならないでいられるだろうか。自分の子どもにあえて不利なスタートを切らせることになるというのに?」(フランシス・フクヤマ『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』鈴木淑美訳、ダイヤモンド社、二〇〇二年、一一五ページ)。
(p187)
 (*25)前掲書『人間の終わり』九六ページ
(p188)
 (*33)この「人類という品種の改良」が本当に起こるのか、という点に関して、フクヤマ教授は、「デザイナー・ベビーの誕生に成功したとしても、人口全体にとって統計学的に重要な意味を持つほどの大変化が起こらなければ、『人間の性質』は変わるまい」と述べている(前掲書『人間の終わり』九三ページ)。


◆Naam, Ramez 2005 More than Human: Embracing The Promise ofBiological Enhancement, Random House, Inc(=20061130, 西尾香苗訳『超人類へ!――バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』河出書房新社).
(pp8-10)
 二〇〇四年に提出した報告書『治療を越えて』のなかで論議されている事柄を列挙してみよう。いわく、遺伝子工学や生殖工学は人生の価値を侵蝕し、親と子の自然な関係を破壊してしまうものである。人間老化を遅らせれば年寄りが頑固に権力に固執することになり、社会は停滞することになる[p9>だろう。簡単に能力を増強できるようになれば、人間はやる気をなくして勤勉さを失ってしまう。人間のこころを変えるような技術はアイデンティティを脅かすものである。人間能力を増強するテクノロジーは富める者と貧しい者のギャップをますます広げる。技術の安全性を確かめるすべはない。さらにこういった技術は強者が弱者を強制・支配し、利益を独り占めするために使われるだろう。
 評議会が言いたいのは、つまるところ、私たち人間は与えられた自然な状態を崇めるべきであり、改善する道を探すなどというのは傲岸不遜なことであり、バイオテクノロジーで精神や肉体を変えてしまえば、ユニークな人間として私たちの尊厳が脅かされることになる、ということだ。
 評議会のメンバーであるフランシス・フクヤマは『人間の終わり』で、これに同調している。「自然の秩序を尊重してそれにしたがい、人間がそれを簡単に改善するようなことはできないと考えるのは、分別あることだ」(訳註・邦訳本からの引用ではなく、独自訳。以下、同)
 これらの懸念に、社会はどう応えたらよいだろう? フクヤマによれば「直ちに禁止しなければならない技術もいくつかある。そのうちの一つは生殖目的のクローニングだ。……もしも当面、クローニングに慣れてしまったとしたら、将来、能力増強のための生殖系列(遺伝子)操作に反対するのはひじょうに難しくなるだろう」という。フクヤマは遺伝子工学だけではなくほかの技術も制限したいと考えていて、政府が技術全体に「線引きをし」「治療と能力増強とを明確に区別して、前者のための研究を唱導し、後者は制限しなくてはならない」と論じている。
 リベラル派哲学者で生命倫理学者でもあるジョージ・アナスは、遺伝子工学を「人間性に対する犯罪」と称し、国際条約で禁止するように呼びかけている。保守系雑誌『ウィークリー・スタンダード』の出版人兼編集者であるウィリアム・クリストルもそれに同意して「クローニング禁止は責任と自制[p10>へ続く道に踏み出すたった一歩にすぎない。しかしそれは重要な一歩なのだ」と書いている。
 環境学者のビル・マッキベンはさらに先をいく。科学的な基礎研究でさえ、人間の能力を増強するような技術につながる可能性のあるものは中止すべきだ、と呼びかける。(略)
 つまり、なんとしてでも現状を維持すべきであり、変化よりも安定を、未知よりも既知を選ぶべきだとする声がいまや高まる一方なのだ。フクヤマは、望ましからざる変化を避けるためには「国家権力を行使」すべきであり、現在の人間性を侵蝕するような技術、知的肉体的な制約を乗り越えることを個人に許すような技術へのアクセスは制限すべきだ、と主張する。
 本書は、こういった意見とはまったく異なる前提によって書かれたものである。私たちは変化を恐れるのではなく歓迎すべきであり、社会は新しい技術の開発を禁止するのではなく、精神や身体を変革するような力をできるだけたくさんの人々に広めるよう努力すべきだ。人間であるとはどういうことか、人々に硬直した考えを押しつけるのではなく、数十億の人間それぞれや家族たちが自分自身で下す決定を信頼すべきなのだ。
(pp13-14)
 生物学的な現状の保護者であるバイオ保守主義者たちの論議の裏には、表だって口にはされないある仮定が隠されている。つまり、一握りのエリート集団(議員、行政者、職業的倫理学者など)が最良の道を心得ていて、何万何億という大衆のためによい決定を下すことができ、個人個人に任せるよりよっぽどよい結果になる、というものである。
 たとえば、ブッシュ大統領お気に入りの御用倫理学者であるレオン・カスは、人間の寿命延長の危険性についてこう書いている。「生命に有限性があるのは、すべての人間一人一人にとって、それがわかっていようとわかっていまいとありがたいことだ」。この問題は本当にカス教授が決めてよいことなのだろうか?
 政府とは、個人の権利を《守る》ために設立されるものであり、制限するためのものではない。これは原理の問題だし、また、よき統治という問題でもある。近・現代史を見ても、個人の自由を大事にする国家が生き残る一方で、個人の権利を制限する国家は倒れて崩壊する(しかも、ひどい有様になることが多い)。
 フランシス・フクヤマは『人間の終わり』を出す前、一九九二年に『歴史の終わり』という本を書いていたが、そのなかで、ほかの歴史家と同ゼように、二〇世紀は自由民主主義が全体主義的な政府に対して勝利した世紀である、と論じている。
 二〇世紀が始まった頃、大衆に任せるよりは政府が決定を行ったほうがよいという信念のもと、共産主義的な政体が樹立された。民主主義は、多かれ少なかれこれとは逆の原則にもとついて形成された。個人個人が自己決定をすれば、総体としては、中央が一括して管理するよりは、全員にとってよい結果になるだろう、というものだ。[p14>
 二〇世紀が終わる頃、フクヤマは、自由民主主義が勝利したのは明らかだ、と書いている。個人がほとんどのことについて自己決定を行うような自由社会が、経済的にも科学的にも、そして技術的にも、中央集権的な社会を打ち負かした、というのである。それと同様に大事なことは、自由社会で生活する個人はそうでない社会の人と比べて確実に幸福で裕福である、ということだ。


◆島薗進, 2005, 「生命の価値と宗教文化 ――生命科学技術と生命倫理をめぐる文化交渉の必要性」『死生学研究』(2005年春号) →上田昌文・渡部麻衣子編『エンハンスメント論争――身体・精神の増強と先端科学技術』社会評論社:266-287.
(pp283-285)
 人胚研究や「心身増強」に関しては、たとえばアメリカ合衆国の政治哲学者、フランシス・フクヤマが政治的な規制が必要であることを力説している(フクヤマ2002)。フクヤマによると、現代の生命科学技術は私たちが共有していると信じている、人間性や人間の尊厳という理念を破壊してしまう可能性がある。これまでの人類社会は、人間がある基本的な特徴を共有しており、そのようなものとして人間は尊厳をもっと信じ、そこからさまざまな権利が生ずるものと考えてきた。だが、現代の生命科学技術はその限界を超え、「人間ではない存在」を産み出す可能性をもつに至った。そのためどこで超えてはならない線を引くかが、人類が直面する重大な問題として浮上するに至っている。
 フクヤマは人間性や人間の尊厳という理念こそ、現代世界の社会倫理の基礎をなしていると論じる。ところが現代の生命科学技術は人間の条件をなしてきた行為や情緒や思考のあり方を変えてしまうような薬物を作ったり、クローンやキメラを作ったり、遺伝子の操作を行ったりして、人間とは異なる種を作ったり、人間の間に種差に類するものを作り出したりする[p284>可能性ももつようになった。このことがもたらす危険は予想できないが、恐るべき帰結をもたらす可能性は否定できない。このようにひじょうに危険な可能性をもった科学技術に対しては、原子核利用の科学技術がなされているのに類するような政治的な規制が必要である。しかも、グローバル化する現代社会では、規制は国際的に地球規模でなされなければ意味がないという。
 生命科学技術につき国際的な規制が必要だというフクヤマの考えに私は賛成である。研究の自由がとりわけ強く唱えられるアメリカ合衆国で、このような議論が起こってきたことは歓迎すべきことだと考える。では、どのような基準によって科学を規制することが可能だろうか。フクヤマも属しているジョージ・ブッシュ大統領のもとの生命倫理諮問委員会は、レオン・カス委員長のもとこの問題に挑戦している(カス2005)。しかし、フクヤマやカスらの試みをみると、キリスト教やユダヤ=キリスト教の前提を直接持ち出してはいないが、西洋の哲学やアメリカの伝統的価値観にしばしば言及し、そこから議論を組み立てている。また、フクヤマはアジァの宗教文化が生命科学技術に対して許容的であることに懸念をもらしてもいる。
 前にもふれたように、日本では脳死による臓器移植に対する反対論が有力で、現在も臓器移植はあまり積極的に行われていない。その主要な理由は、「脳死は人の死とは言えない」ということだが、そのことを論証するために身体ではなく脳と理性にこそ生命の座があると考えがちな西洋の伝統に対置されるものとして、身体と精神とを分離対立させない日本の宗教・文化伝統が根拠として持ち出されもした。このように生命倫理の根本に関わる問題が論じられるとき、特定の文化的・宗教的伝統が引き合いに出されるのは、ある意味では当然のことである。「生命の価値」や「生命の尊厳」について述べるとき、私たちは合理的な推論からのみ議論を進めることはできず、生活形式と結びついた文化的・宗教的言説に依拠せざるをえないからである。しかし、そのような文化的・宗教的言説は相互に共約不可能であるかに見える内容を含んでいる場合が少なくない。では、人類社会は「生命の価値」をめぐる諸問題につき、いつまでたってもまったく合意に至ることができないのだろうか。[p285>
 そうとも言えない。環境問題について京都議定書が作られグローバルな合意に近づいたように、「生命の価値」に関わる個々の問題についても、そのつど妥協し相互理解を増しながら、より包括的な合意に近づいていくことができるかもしれない。生命科学技術が人類社会のあり方そのものを変えてしまう可能性があることが明白になった今日、私たちはそのような合意を求めざるをえなくなっている。とりあえずこの認識を共有し、生命科学や先端医療技術に関わって国際的な規制が必要な問題につき、「生命の価値」をめぐる討議の場が必要であることを合意すべきだろう。この問題の困難な点は、現代世界では競争的自由によって人類文明の進歩が達成されたと認識し、多様性を尊ぶ自由よりも競争を通して力を増す自由に多くの価値を付与する考え方が優位にあることにある。現代科学の諸前提が、そうした単調な競争的価値と親和的であると理解されているのは不吉なことである。


霜田求, 200502, 「バイオテクノロジーをめぐる倫理と政治――G・ストックとF・フクヤマの論争を手がかりに」『レオ・シュトラウス政治哲学研究の方法による思想史研究と政治哲学の可能性』、平成13〜15年度文部科学省科学研究費補助金・基盤研究(B)(1)研究成果報告書・研究代表者:石崎嘉彦).
(pp7-11)
 バイオテクノロジーとくに生命操作技術への社会的対応をめぐる政治的立場の布置状況を確認した上で、両者の見解の相違点を明確にしておきたい。推進を主張する第一の陣営は、個人の自己決定権・選択権の尊重を核とする政治一哲学思想としてのリバタリアニズム(自由至上主義)、経済政策および科学技術政策においては自由放任ないし規制最小化を唱える市場主義および自由貿易主義、これらを軸とするネオリベラリズムが主導的役割を担っている。さらに、個人および社会の選好充足を最大化するために、リスクないしコストとベネフィットとの比較考量に基づく個々人の行動や政[p8>治・経済・科学技術政策への介入を正当化する功利主義の立場も、こちらの陣営に含めてよいだろう。両者は個々の規制論拠について必ずしも一致するとは限らないが、バイオテクノロジーを推進するという基本姿勢は共通している。
 これに対して規制強化を訴える第二の陣営には、生命についての原理主義的立場より一切の技術的介入を認めない宗教的保守派から、過度の個人主義的自由の行使が人間の尊厳や共同体の秩序・安定を脅かすがゆえに一定の歯止めを求める道徳的および社会的保守派、そして優生学の助長や差別・不平等の拡大あるいはバイオテクノロジー産業の利権追求に警鐘を鳴らす市民批判派までが混在する。こちらもそれぞれ異なる見解をもっているが、推進派から見れば、いずれの主張も合理的説得性を欠く理由を掲げて自由と権利を抑圧するという点で違いはない。
 一方で、技術開発の研究および利用の自由を擁護し政府による規制的介入を斥けるストックは、典型的なネオリベラリズムの立場をとっていると言ってよい。また、個人レヴェルでも社会レヴェルでも、投入するコスト、得られるベネフィット、そして想定されるリスクを比較考量することによる選択・決定を支持するという点で、功利主義的側面も認められる。他方フクヤマは、道徳的かつ社会的保守派として、政治権力による規制の正当性を訴える立場に立つ。言い換えると、普遍的な「人間本性」を防衛するために、個人の欲望実現やバイオテクノロジー産業の利益追求への歯止めを、そして人間の尊厳を構成する複雑な諸側面を単純な快著(選好充足)の原則に還元する功利主義に対抗することを要求するのである。(注5)
 両者ともに、宗教的信念の規範化による個人の自由および権利への介入に対しては否定的であり、そのような自由・権利は、他者ないし社会への危害がないかぎり最大限尊重されるべきとすることでは一致している。しかし危害の明白さや範囲に関して両者の見解は大きく異なる。個人(とくに生まれてくる子)への実証可能な有害影響以外は認めないストックに対し、目に見えない、あるいは未知の精神的・社会的な脅威への対処をフクヤマは求める。そうした違いの根底に存するのは、政治という営みあるいはデモクラシー(理念および制度としての民主主義)についての理解の隔たりではないかと思われる。そしておそらく、そこから両者が共通に抱える難点も浮かび上がってくる.最後にこの点を示すために、ヒト・バイオテクノロジーをめぐる政治ないし政策とその社会的影響についての両者の見解を検証してみたい。(略)[p9>
 要するに、「既得権益を打破し規制緩和による機会均等と公正な競争をもたらすテクノロジーと自由市場を推進すべきだ」というのがストックの基本スタンスある。先端テクノロジーの研究開発と日常の基礎的ニーズの充足とのバランスを配慮した、公正かつ平等な資源配分を目指すのが「政治」の役割と見なされる。個人の欲望追求を推進力とする経済システムや科学技術の進歩を前面に押し出し、政治と法をそれに従属するものと見るこうした姿勢は、実は経済的権益擁護を至上課題とする、現代の先進産業諸国を貫く政治支配を補完するものにすぎない。その前提にあるのは、「社会全体の利益」を「さまざまな行政的、宗教的、社会的制度の統合性を維持し、社会の根底にある共有された伝統および価値観を保持する必要性」と定義し、これを重視することがときには個人の利益や権利の躁躍にもつながるという、社会と個人の二項対立図式である。そこで想定される「リベラル・デモクラシー」は、「多文化的かつ世俗的」なものとして、あくまでも個人の自由と権利の擁護を主眼とするものであって、「多数者の専制」の可能性を徹底的に排除するものである。(S:appendix1)。
 これに対し(略)フクヤマにとって20世紀後半世界の大半を支配下に治めた「資本主義的なりベラル・デモクラシー」は、個人の基本的な権利の基盤をなす「人間本性」にもっとも遭った社会システムである。そこで想定されている社会の担い手は、欲しいモノは金を出せば何でも手に入ると考える自由市場信奉者ではないし、特定信念やイデオロギーに身を委ねる原理主義者でもなく、適度に利己的で他人や社会との強調性も備えた常識人である。しかもこの「リベラル・デモクラシー」は、先述の「自然権」すなわち人間が生来平等に自由・権利を享受していること、しかもアリストテレス的意味での政治(ポリス)的自由・権利を行使することをその要件としており、したがって「自然権論的リベラル・デモクラシー」と呼ぶことができるだろう。(F':chap.7,12)(略)
 さて、以上のような基本的見解の相違にもかかわらず、両者には重要な共通性が認めら[p10>れる。最後にこの点について簡単に触れておこう。
 何よりもまずそれは、ヒト・バイオテクノロジーをめぐる政治支配の問題を、〈個人の自由と権利〉とく国家権力による規制・抑圧〉の二分法で捉えようとする姿勢である。そこでは、個人と社会・政治権力が二元的に対置され、それぞれ都合のいいモデルを作り上げて自らの立論の正当化を図るということが行われる。すなわち、一方では、〈自己の欲望・選好に従って自由・権利ないし自己利益を追求する個人〉とく社会への明白な有害影響や個人の安全性の保障以外は自由放任を原則とする最小権力〉とが、他方では、<自らが帰属する共同体の価値や文化を尊重する節度ある個人〉とく社会の安定と秩序を守るために野放図な欲望・利益追求の活動に介入する規制的権力〉とが、それぞれ二項関係を形づくる。いずれの場合も、それ自身で完結したアトムとしての個人と、それとは外在的に関わるにすぎない政治との二元構造という図式が浮き彫りになる。
 しかしこの図式には、ヒト・バイオテクノロジーをめぐる公的ルール作りや研究者および技術利用者の権利、義務、責任といった規範レヴェルの問題、そして優生学や「障害」など生命の価値や質の問題について、市民相互によるさまざまな位相でのコミュニケーションおよび制度化された意思決定プロセスの中で多様な見解をぶつけ合うという、政治のダイナミズムへの視角が抜け落ちている。言い換えると、個人による自由・権利の行使ないし欲望追求・選好充足行為や関連産業の利益追求活動が円滑になされるための手段・道具として、あるいは自然権や人間本性といった実体的価値に奉仕する手段・道具として位置づけられることにより、政治の営みはその自律性と創造性を奪われてしまうのである。(注6)
 そしてここから両者のもう一つの共通点が浮かび上がってくる。それは、テクノロジーを媒介とする自己と他者の関係性についての了解、すなわち日常的ないし制度的な相互行為の中で他者をどのような存在として眼差し、また他者に関わっていくのかという基本態度である。多数者の欲求・選好を充足する市場システムは、それに奉仕する政治システム(リベラル・デモクラシー)およびそれを補完するイデオロギー・システム(教育、メディア、歴史観、道徳・宗教など)とともに、人々の思想や行為をコントロール(支配・制御・管理)可能な対象の枠内に収容する機能を果たす。それにより、人々の自己理解および他者理解は、〈正常/異常〉、〈優良/劣悪〉、〈健常/障害〉といった分類尺度に即したものとなり、人の生命はバイオテクノロジーによって選別・操作・作製可能な客体へと変容していく。具体的には、「遺伝的質の劣悪化阻止」あるいは「障害者の出生防止」という優生学的選択を挙げることができるだろう。積極的な遺伝子増強については国家による規制を求めるフクヤマも、「障害」をもった子の出生を、個々の親による自発的な生殖への技術的介入(着床前診断や出生前診断)で防止することはとくに問題としない。ストックがそうした選択を個人の当然の権利として認めるのに対し、フクヤマにとって障害者の出生防止は、現存障害者への社会的差別と違い、「人間本性」や「人間の尊厳」あるいは社会的平等といった理念に反するものとは見なされないがゆえに正当化できるのであろう。「優良な遺伝形質の増殖」という積極的な優生学をめぐっては真っ向から対立する両者も、「劣悪な遺伝形質の回避・抹消」という意味での消去的優生学は当事者(親)の自発的選択であるかぎり問題はない、という点で一致している。
 両者が前提とする個人像は、自らが抱いている欲望・選好、ライフスタイル、信念・イデオロギーといった何らかの価値コミットメントに基づいて社会(政治、経済、文化)生活を送る存在である。それを主導しているのは、自分の思い通りになる(操作可能な)対象であることを他者に求め、思い通りにならない場合は技術の力で改変するか、眼前から消し去ろうとする、〈他者コントロールへの意志〉である。「長生きしたい」「人より優れた能力を身につけたい」「わが子には少しでも有利な特性を授けてやりたい」「病気や障害はごめんだ」といった、個人および社会の中で支配的な価値観が、どのように形成さ[p11>れかつ再生産されてきた(いる)のか、バイオテクノロジーと倫理および政治の内的連関を解き明かすためには、これらの問いに向き合うことが不可避であると思われる。


◆堤理華, 200503, 「訳者あとがき」 Kass, Leon R. 2002 Life, Liberty and the Defense of Dignity: The Challenge for Bioethics, Encounter Books, San Francisco(=20050415, 堤理華訳『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』日本教文社):409-413.
(pp410-411)
 科学が飛躍的な発展を遂げるにつれ、さまざまな問題が表面化すると同時に、以前は空想科学小説の世界だったことが、にわかに現実味をおびて語られるようになってきました。遺伝子操作によって実現できる可能性――親の好みどおりに作るデザイナー・ベビー、健常人の能力増強、寿命の延長、その先にある不死などを、熱烈に支持する層もいます。「よい子供が欲しいから」「役に立つから」「いつまでも生きていたいから」「何をしようと自分の自由だから」などの理由で人間の生命を操作し、生死のあり方を決定することに対して著者は深い懸念を表明します。バイオテクノロジーがいつかもたらすであろう未来を、フランシス・フクヤマが『人間の終わり』(鈴木淑美訳、ダイヤモンド社)で説いたように人間性を喪失した「人間後(posthuman)」の世界と位置づけ、「人間であり続けるため、人間の尊厳を守るためには科学やテクノロジーに依存してはならない」と、ときには激しい調子で説き、日常生活における道徳、神への畏れなどを再び取り戻すべきだと主張します(「人間後」に対抗する意見や、遺伝子工学の現況については、グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変する――遺伝子工学の最前線から』(垂水雄二訳、早川書房)[p411>に詳しく述べられています)。


◆虫明茂, 200509, 「エンハンスメントの倫理問題」『生命倫理』15(1):12-18.
(p15)
 向精神薬の問題としてよく取り上げられるもう一つの例が、プロザック(Prozac)のような抗響剤(antidepressant)である。もともと、ある欝状態が病的なものであるかどうかの判断が難しいケースがあることは想像に難くない。その結果、日常的な抑轡が「病理化(Pathologisierung)」され、「生活世界の医療化」が進むといわれるのである。
 向精神薬のこのような用法を批判する論拠としては、「真正性(authenticity)」の問題が持ち出される。我々が通常喜ぶのは、喜ぶべき出来事があったからである。したがって、喜ぶべき出来事がないにもかかわらず薬物によって「明るい気分」になることは偽りの喜び、虚しい喜びではないかという批判である。あるいは、悲しみゃ苦しみにも人生における洞察に導いてくれる積極的な価値がありうるのだから、これを薬物によって消してしまえば努力や向上の原動力を失ってしまうという懸念である。このような批判に対して、これを反批判する立場からは、技術によって緩和しうる苦しみの除去を許さないのは問題の不当な「道徳化(Moralisierung)」であるといわれる(*8)。
(p18)
 (*8)向精神薬の問題についてはF.Fukuyama,Our Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution,2002,pp.41-56(フランシス・フクヤマ(鈴木淑美訳)『人間の終わりバイオテクノロジーはなぜ危険か』ダイヤモンド社)、Kass,pp.71-100,pp.205-273およびFuchs,pp.59-71参照。


◆島薗進, 200509, 「増進的介入と生命の価値――気分操作を例として」『生命倫理』15(1):19-27.
(p20)
 1990年代以降、次第に重要性を増してきている生命倫理の問題に、増進的介入の是非や限界をめぐる論議がある。増進的介入(エンハンスメント)は通常の医学的介入(トリートメント・キュア)である治療に対置されるものである。病気を治療するのが元来の医療の目的だとすると、現代医療は「治療を超えて(ビヨンド・セラピー)」心身の「改善」に介入する力を格段に高めている。先端医療や生命科学の研究の中には明らかに増進的介入を視野に入れたものがあり、急速に増大している。生殖細胞や遺伝子のレベルでの選別、ひいては組み替え、改造の可能性も研究の日程に上ってきている。増進的介入により、次世代に増進的変化が持ち越されるような例も増えていくだろう。科学的にそれが可能であることを示して反響をよんだ書物も刊行されて反響をよんだ。これまでのように、人類が同じ種として「人間性」を分かちもっているという認識が掘り崩されるかもしれない。フランシス・フクヤマやユルゲン・ハーバーマスのような現代世界の著名な社会科学者や哲学者が、危機感をもってこの問題に取り組み、生命の価値をめぐる論点の明確化に挑戦している(*3)。

 (*3)フランシス・フクヤマ『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』(鈴木淑美訳)ダイヤモンド社、2002年(Francis Fukuyama ,Our Posthuman Future: Consequence of the Biotechnology Revolution, Farrar, Straus&Giroux,2002)、ユルゲン・ハーバーマス『人間の将来とバイオエシックス』(三島憲一訳)法政大学出版局、2004年(Jnrgen Habermas, Die Zukunft der Menschlichen Natur: Auf dem Weg zu einer liberalen Eugenik? Suhrkamp,2001)。


◆Sarah Franklin(サラ・フランクリン), 2006, 「デザインでよりよく?」 2006 Better Humans? (DEMOS collection 21)(=20080731 上田昌文・渡部麻衣子編『エンハンスメント論争――身体・精神の増強と先端科学技術』社会評論社):84-93.
(pp84-87(
 2003年5月3日。「ガーディアン・ウィークエンド(Guardian Weekend)』誌のきらびやかな表紙には一枚の刺激的な写真が掲載された(1)。それはデザイナー・ベビーの時代を危惧するビル・マッキベン(Bill McKibben)の文章に添えられていて、超音波診断機で撮影された胎児がプルーストの本を読んでいる。その刺激的な視覚表現は、遺伝子操作とオーダー・メイドによる「優れた」子供の誕生、という来るべき新しい時代の考えを表現している。
 クローン人間と同じようにデザイナー・ベビーは、新しい遺伝子技術がもたらすジレンマやリスクの象徴的な記号表現になっている。表紙の見出しはこうだ。「超人になることへの批判:明日の赤ちゃんが直面する恐るべき真実」――デザイナー・ベビーの誕生により、われわれの人間性が脅かされるのはほぼ間違いない。このよくある見方は、遺伝子科学が手の届かないところに行ってしまったという、メディアの簡潔な表現であるだけではない。フランシス・フクヤマ(*2)(Francis Fukuyama)やユルゲン・ハーバーマス(Jurgen Habermas)といった知識人も、近著の中で同じような見方をしている。
 いずれの著者も、着床前遺伝子診断★11(PGD)を「デザイナー・ベビー」と考えている。フクヤマは「両親が自分たちの胚がなにか病気を持っていないか自動的に検査してもらい、"正しい"遺伝子を持った胚を母親の子宮に埋め込むことが、いずれは日常的に可能になるだろう」と書いている。そしてそのような予測に基づき、遺伝学的な検査と診断とエンハンスメントの境界が崩れざるをえない、と警告する。IT(「マウスを何回かクリックする」)と「日常的」に行われる遺伝子プロファイリングのイメージを重[p85>ね、胚を「自動的に解析」して「増強」するシナリオを想像している。フクヤマによると、重要なことは、PGDによって両親は「自分たちの子供を遺伝学的に作り上げることができる第1歩」を踏み出せるようになり、生殖と遺伝学が決定的に接続されるという点だ。
 同様にユルゲン・ハーバーマスは、PGDによってわれわれが遺伝子を選ぶことができるようになり、人間の本質が将来危険にさらされると警告している。(略)
 「自動化」された遺伝子が、人間という種に対していったい何をもたらすのかに関して、フクヤマやハーバーマスはいくつかの不吉な予測をしている。その予測の中で、遺伝子操作というものがあまりにも大きな影響力を内在しているため、社会の秩序や調和を崩しかねないと繰り返している。(略)[p86>
 フクヤマやハーバーマスと同じく、マッキベンもこれまでの遺伝子操作の変遷がもはやわれわれの手に負えないところに来ており、これからは制御する必要があるといっている。(略)[p87>
 マッキベンのスキャンダラスで非難がこもった表現は、フクヤマやハーバーマスの論調と似ている。彼らはいずれもクローニングや遺伝子操作が邪悪で「気づかれないまま」に進むことに待ったをかけようとしているだけではない。それに加えて、遺伝学的デザインが望ましくないこと・そしてすでに日常的に用いられ自動化されて、制御できなくなっているという事態の進み具合を強調している。この著名な3人が訴えるのは、遺伝学における「デザイナー」革命が私たちの知らないところであまりにも早く進行しており、それは本来の私たちの姿を破壊しかねないので私たちが本当に望んでいるものではないというものである。
(pp88-90)
 それでは、なぜ彼らの主張は「デザイン」という考え方に特化するのだろうか。なぜ「デザイナー」が遺伝子「操作」と同じ意味を持つのだろうか。技術的な点からするなら、PGDと体外受精★12(IVF)は、胚を選択するときに、遺伝情報と形態の両方を手がかりにするか、それとも形態だけに頼るのかの違いでしかない。そして、すでに知られている単一の、そして特定の変異があるかどうかを診断することは、遺伝情報の操作にはあたらない。「人間の本性」というよく知られた不明瞭な概念に加えて、これまで述べてきた議論の中にある混乱の主たるところは、「制御不能なもの」として描かれる遺伝子操作の中で、人々の願望、要求、そしてデザインすることが、どのくらい寄り合わされているのかという点にある。
 マッキベンやハーバーマス、フクヤマは遺伝子「操作」はよくないもので、科学的な願望のもと、われわれが「気づかない」うちに技術が発展してきたと考える一方、ストックやジェームズ・ワトソン(James Watson)などの著名な科学者が主張するのは、両親がいったい何を望んでいるかである。それはきっと、「この発見により享受できるもの」を使って、「子供に最良のものを」与えてあげたいということ以外のなにものでもない。では、変化をもたらすものは、正しくはいったい何で、変化それ自体とはいったい何なのだろうか。その変化とは、マッキベンが言うように、たえず技術が進歩していくことに伴うものなのだろうか。むしろそれは、親としての自然な願いの中に見出されるものなのだろうか。技術をどんどん進化させていくことこそ、人間の本性なのだろうか。それとも、「自動化」さ[p89>れ絶えず進歩していく科学と技術の進歩によって、人間の本性そのものが消滅の危険にさらされているのだろうか。ハーバーマスは「人々が感じる最大の不安は、バイオテクノロジーが私たちの人間性を奪うことである」と警告している(11)。しかしそれは次のことを混同している。すなわち、なにかがわれわれの人間性をどこかに追いやるのか、それとも・それは私たちが自分で行っていることなのか。
 「デザイン」もしくは「デザイナー」という言葉を使ってわざと論点をぼかしているのか、それともがPGDという略語で、普通にメディアがやるような誇大広告をやるようなものなのか(もしくはそれらが一緒くたになったものなのか)どうかはわからない。だがデザイナー・ベビーという言葉をめぐって激しい意見の対立があり、それらの意見の多くは、お互いに混乱していて矛盾していて、そして相反している。哲学者、ジャーナリスト、科学者そして生命倫理学者といった人たちからの「こむずかしい」解説を見聞きすれば、さまざまな意見を目にすることができる。デザイナー・ベビーがいずれは破滅の原因になるだろうというものから、少しも恐れるものではなく、むしろ両親としては当たり前のものだ、というものまで、さまざまな主張がなされる。そのような説明は、イギリスであれドイツであれアメリカであれ、デザイナー・ベビーについての議論における以下の三つの重要な傾向を反映している。
 1.PGDを願望とデザインの混ざったものとして描く
 2.PGDをよりよい(もしくはよくない)未来への道を開く、技術の入り口、もしくはインターフェースと位置づける
 3.将来起こりうることを考え、「デザイナー・ベビー」技術について葛藤や戸惑い不可解さを表明する
 それゆえ、「デザイナー」そして「デザイン」という用語が、PGDを表すものとして、技術的に間違って使われたり(遺伝子のデザインや操作が入っていないのだから)、誤解を誘ったり悪意のこもった表現として使われているとしても(多くの親がPGDを行っているのだから)、それらの用語は、説明したり、時にははっきりと言うことすら難しいであろう問題の[p90>「記号」として、文化的・社会学的な見地から、いまだ重要なものである。これからも考えていく必要があるのは、「デザイナー」という言葉がとてもあいまいに、そしてあまりにもよく使われているからに他ならない。


粟屋剛, 20070920, 「エンハンスメントに関する小論――能力不平等はテクノ・エンハンスメントの正当化根拠になるか」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』,新曜社:76-89.
(pp81-83)
 さて、そのようなテクノ・エンハンスメントが実際に行なわれ始めるとどうなるか。これまで高い能力は一部の優れた人々の独占物――究極の独占物――であった(独占禁止法違反ではない)が、その「能力」という武器を多くの人が獲得するなら、何が起こるであろうか。
 まず第一に、個人レベルでは、その能力を駆使して自己実現のチャンスをつかむ人が増えるだろう。(略)
 第二に、個人のレベルで行なわれる(かつての軍備拡張競争のような)際限なき能力強化競争の結果、社会のレベルでは、能力主義社会という名の競争社会がますます加速(激化)するであろう。(略)[p82>
 第三に、同様に社会のレベルで、社会における人々の役割分担に関する秩序――職業階層――が崩壊する。(略)
 第一の点はメリットである。しかし、第三の点はおくとしても第二の点は明らかな弊害である(*16)。では、そのような弊害があるがゆえにテクノ・エンハンスメントをやめるべきであろうか。優れた能力のない人々がそのような能力の獲得に乗り出すのを禁止すべきであろうか。
 私は次のように考える。個人のレベルで、かなりの程度に、遺伝的に知的能力や運動能力が決定されているのであれば、それらが低い(ないし高くない)人に、せっかくテクノロジーがあるのにそれを利用せずにそのまま低い能力に甘んじろとはいいにくいだろう。私も、現にそのようなテクノロジーを利用するかどうかは別にして、そのようにはいって欲しくない。
 社会のレベルでは、能力不平等の現実と能力主義社会が存在し、能力不平等を是正・解消するテ[p83>クノロジーが現われたのに、「社会秩序(職業階層)の維持のために能力不平等のままにしておくべきである」などとはやはりいえないだろう。
では、同様に社会のレベルで、「競争社会の加速という弊害を避けるために能力不平等のままにしておくべきである」と言えるであろうか。テクノ・エンハンスメントを認めた上でそれを適切に規制(コントロール)することによってそのような弊害を除去することもおそらくは可能と考えられるので、そうはいえないのではないか。
ここでは、「能力へのアクセス権」の平等な保障が問題とされざるをえないだろう。もしそれが実現されるなら一部の人の独占物であった優れた能力が一般人に開放されることになる。これはまさに「能力の市場開放」といえる。
(pp87-88)
 (*16)弊害に関して、フランシス・フクヤマは次のように述べている。「遺伝子増強を認めてしまえば、人類は『増強された者』と『増強されない者』とに分裂し、人々および国家はいやおうなく『遺伝子競争』に巻き込まれ、自由で民主的な社会を支える『普遍的な人間の平等の原則』が危機に陥るおそれがある」(Francis Fukuyama,“Nietzschean Endgame:Self−enhancement and‘immense wars of the spirit’”[http://urielw.com/refs/020323.htm またはhttp://www.reason.com/news/show/32078.html,2002])。訳は霜田求「バイオテクノロジーをめぐる倫理と政治――G・ストックとF・フクヤマの論争を手がかりに」(http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/mspaper/paper18.pdf)による。
 ここで、「遺伝子増強を認めると人類が増強された者と増強されない者とに分裂する(してしまう)」という主張は、リー・シルヴァーの「将来、人類はジーンリッチ[ジェンリッチ]階級とナチュラル階級に二極化する」という未来予測(リー・シルヴァー『複製されるヒト』東江一紀ほか訳、翔泳社、一九九八年)と軌を一にするものである。私には、増強された者とされない者とに分裂するとかジーン・リッチ階級とナチュラル階級に二極化するとかという言い方は、いかにもアメリカ的発想に基づくもののように思われる。そのような分裂ないし二極化が起こるとは私には思えない。確かに、遺伝子操作やサイボーグ化のテクノロジーは当初は高価で一部の富裕層しか手が出せないかもしれないが、あらゆるテクノロジー(といっても、核兵器や生物・化学兵器などの製造技術は別だが)がそうであるように、[p88>遺伝子操作やサイボーグ化のテクノロジーも、やがて市場経済のレール上で半ば必然的に「人々」(大衆)に行き渡るようになるのではないか(『ガタカ』というSF映画〔一九九八年〕はそのような時代を描いていた)。これは、次の例とパラレルに考えることができそうである。かつて日本では(日本でも)自動車を持つ者と持たざる者がいた(その差は大きかった――自動車の所有はステータス・シンボルだった)が、現在では日本全体が豊かになり、多くの人が自動車を持つようになった。ただし、ベンツ(メルツェデス)を持つ者とカローラ(トヨタ)を持つ者の差はあるが。
 「人々および国家がいやおうなく遺伝子競争に巻き込まれる」という点は、その程度は別にして、確かにそうであろう。そして、その結果、前述のように、競争社会の加速という弊害が現われるだろう。
 では、「遺伝子増強を認めると普遍的な人間の平等の原則が危機に陥る」という点はどうか。ここで、「人間の平等」が人間の法的、社会的取扱いの平等を意味するとして、私は、人間の平等の原則は遺伝子増強を認めても危機に陥ることはない、と言いたい。なぜなら、現在でもすでに、優れた能力を持つ者もいればそうでない者もおり、それにもかかわらず、そのような意味での平等原則は立派に妥当しているからである。


◆島薗進, 20070920, 「先端科学技術による人間の手段化をとどめられるか?――ヒト胚利用の是非をめぐる生命倫理と宗教文化」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』,新曜社:168-197.
(pp185-186)
 D胚の利用が進めば、不老長寿に近づき、超高齢まで生き延びたり、高齢で出産したり、個人の容貌や能力を高めたりというように、豊富な医療サービスで人体改造を進め、これまでの人間が避けることができなかった限界を超えていく人々が出てくる可能性がある。それは過剰医療というべきものだが、現在のように医療がクライアント個々人の欲望に従うことを原則とするような体制では、過剰医療の拡充は避けられない。再生医療はこの可能性を大いに高めるだろう(島薗 二〇〇二)。だが、このような過剰な医療を発展させることは、人類の福祉に貢献するのだろうか(フクヤマ ニ〇〇二、カス ニ〇〇五)。また、そのために利用される胚の、生命の萌芽としての地位に見合うものなのだろうか。[p186>
 また、こうした医療が発展すると、そのような過剰な医療の恩恵に浴する人とそうでない人の間の格差が増す可能性が高い(シルヴァー 一九九八)。富裕国の人々や他の国の富裕層が得られる医療サービスと、貧困国の人々や他の国々の貧困層の人々が得られる医療サービスの間に今も存在する格差がさらに拡大していき、はなはだしい隔たりが生じるかもしれない。そうなれば、社会正義の根本への疑いが強まるし、富裕者と貧困者の間で同じ人類同士であるという意識が薄まってくる可能性もある。人類の平等の理念が見失われた身分制社会や奴隷制社会に類するものとなり、社会的な敵対意識も強まる結果を招く可能性がある。そんな危険をはらんだ医療技術開発に力を入れるよりも、まずは基礎的な健康の方にもっと力を注ぐべきではないだろうか。


◆片桐英彦, 20080425, 「出生前診断・着床前診断と生命倫理――リスクの視点から考える倫理的な問題」山崎喜代子編『生命の倫理 2――優生学の時代を越えて』九州大学出版会:271-295.
(pp279-280)
 体外受精後の受精卵に遺伝子診断を行うことの是非についての意見は、出生前診断と同様なものも多いが、検査の対象が胎児ではなく胚の細胞であるため、出生前診断の場合よりもさらに、生命の本質や人間と社会のあり方に踏み込んだ意見が多く見られる。その典型的な反対意見としては、遺伝子で人を評価することへの疑問、臨床家としての視点から生命を問うもの、科学技術そのもののあり方を批判するもの、遺伝子診断が商業化されることへの警戒などがある。
 一方で、正しい情報さえ開示されるなら、遺伝子診断そのものは価値が認められるとする意見や、遺伝子情報は他の臨床的な情報と変わらないとするもの、賛否両論の中から市民の合意に向けて法的な道筋を創ろうと[p280>するもの(*23)、人としての自由の観点から、遺伝子診断の未来に希望を託すものもある。
 このように様々な意見が交わされていて、どの意見が最も正当なものであるかの判断は難しいが、文脈を読み解くキーワードは、妊娠中絶、優生思想、遺伝子であり、出生前診断でも着床前診断でも、賛否両論は、要するに人のありかた、社会のありかたをどのように考えるのかということに集約される。そのことが、これらの問題を倫理的な問題だとする理由である。
(pp282-284)
 自律とはどのようなことなのかを考えずに、医療現場での患者の自己決定をそのまま自律だとして尊重する[p283>のは誤りである。医療上の比較的ささいな問題については、自分の利益だけの功利的なものであったり、科学的合理主義に対抗してどれくらい自我を押し通すことができるかというくらいのものに過ぎないし、生死に関わるような重大な問題では、患者は自分の感情と、高度な知識に裏付けられた医師の間で迷ってしまうのである。そのような混乱を避けるために臨床の現場で使われている「インフォームド・コンセント」という言葉も、患者の自律を尊重するという建前でとりあえず作られた医療者側の「ルール」であり、必ずしも患者の自律が反映されたものではない。医師が選んだ選択肢の中から、言わば、妥協せざるを得ない状況の下で、交わされた契約である。したがってそれを患者の自律の表れだとするのは医療者側の論理に過ぎない。「インフォームド・コンセント」の理念は、本来の医療の理想に近い立派なものであるが、その考え方をそのまま医療現場の患者に当てはめるならば、そこに現れる患者像もまた、医師のパターナリズムによって創られた理想的な患者でなければならず、悩み苦しむ現実の人間ではない非人間的なものでなければ実現できない危うさがある。現実の医療の場でなされているインフォームド・コンセントの形式は、そのような危うさを潜在的に持つ、「ルール」に基づいた手続きであって、無反省にそのルールに従うことは、本来の患者の自律にとってはむしろ危険なものにもなり得るリスクが含まれているのである。
 自律はもともと、患者の主観に基づいて経験的に獲得されるものだと考えられる。その主観的なものが客観的なものにまで高められ、社会的に共通の概念として受け入れられて初めて自律が個人の中に出来上がるものである。したがって、自律に基づいた自己決定は、他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいというのではなく、そこには社会的な枠が存在するのである。自律は主観的な個人の好みの問題でも、過剰な権利意識によるものでもなく、道徳として社会に認められるはずのものである(*31)。そのような意味での自律を医療者は尊重しなければならない[p284>というのが自律尊重の理念であろう。その理念は、現在の社会が持つ価値観と共通したものであり、医療はその社会的な価値観の上に成立しているのである。

 (*23)フランシス・フクヤマ、鈴木淑美訳『人間の終わり』(ダイヤモンド社、二〇〇二年)二四七〜二四八頁。
 (*31)フランシス・フクヤマ、鈴木淑美訳、前掲書、一四四〜一四五頁。


美馬達哉松原洋子, 20080601, 「ニューロエシックスの創生」『現代思想 (特集:ニューロエシックス――脳改造の新時代)』36(7)(2008-06):50-68.
(p55)
美馬 ニューロエシックスという言葉は使っていないけれどもエンハンスメントを論じていた、二〇〇二年のF・フクヤマの『人間の終わり』(ダイヤモンド社)と、二〇〇三年のアメリカの大統領生命倫理委員会の報告『治療を超えて』(青木書店)が、ニューロエシックス的な問題系を登場させる起爆剤だったと言えるでしょう。


◆土屋敦, 20080731, 「エンハンスメント論争をめぐる見取り図――歴史的源泉と現在的争点を中心に」上田昌文・渡部麻衣子編『エンハンスメント論争――身体・精神の増強と先端科学技術』社会評論社:150-176.
(pp166-168)
 エンハンスメント論におけるこの「ポスト・ヒューマン」論争は、政治学者F.フクヤマや宗教学者L.カス、環境倫理学者B.マッキベン、ドイツの社会哲学者J.ハーバーマス等のエンハンスメント規制派と、遺伝学者L.シルバー、生命倫理学者J.サバレスク、哲学者N.ボストロームなどのエンハンスメント推進派との間で展開されている、一大トピックである。
 フクヤマは、米国における向精神薬の利用拡大や、遺伝学・ナノテクノロジーなどの発展状況が、民主主義社会の根幹である「人間の本質的なあり方」を動揺させる「ポスト・ヒューマン」の段階に突入させるとして警鐘を鳴らす(Fukuyama 2002=2002)。また、L.カスも、エンハンスメント領域への医療技術・医薬品利用の普及が、「自然としての人間的なもの、人間的であるとして尊重されるものへの挑戦、あるいは、自然的であり、尊厳を有する人間的なものに対して適切な尊厳の念を払う態度」への脅威であるとして、慎重論を展開する(Kass2002)。また、Jハーバーマスは、着床前診断やニューラル・インターフェースなどのエンハンスメント的利用が、コミュニケーション的行為の根幹である「類的存在としての我々の自己了解」を崩壊させることへの危惧感を呈する(Habermas 1998=2004)。
 他方、こうした「人間の自然的本質」擁護論に対しては、その論理構成[p167>自体に人間の「本質」なるものが所与の前提とされていることに対する批判(例えば、J.ハーバーマスに対するE.フェントンの批判(Fenton 2006)など。)がなされることもある。また、エンハンスメント技術の発展の先に展開されつつある「ポスト・ヒューマン」的論点は共有しつつも、それを積極的に許容し、さらにそれを展開することを肯定する論者も多く存在する。(略)
 上記のエンハンスメント推進論を、最もラディカルなかたちで展開させているのが、世界超人協会(WTA:World Transhumanist Association)を中心に活動する論者達である。WTAは、先端技術利用によって人間のエンハンスメントを促進・普及させるために1998年に設立された、国際的なNPOグループである。そこでは、遺伝学及びナノテクノロジーなどの先端科学を最大限に活用し、疾患・老化・死といった「ネガティブ」な要素を極小化させながら、《現在の人間組織における身体能力や認知能力そして精神機能の臨界点を超えて》、より賢く、よりすぐれた身体能力を獲得し、[p168>よりよい生活を送ることが目的として掲げられる(Bostrom 2003)。WTAの超人主義(Transhumanism)自体には、多分に未来学的・空想的要素が含まれており、また似非科学的な評価を下されることも多い。また、その実現可能性という観点から彼等の主張を検討した場合には、疑問符がつく主張も少なくない。他方で、F.フクヤマが、この運動自体を「最も危険な運動」(Fukuyama 2002)と呼んで警戒していることにも見出されるように、エンハンスメント論においては無視できない勢力になっている。

 Fukuyama, F., 2002, "Toward a Posthuman Future? -How to Regulate Science" Public Interest.(146) 3 -22.
――, 2002, Our Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution.Farrar Straus & Giroux.(鈴木淑美訳『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か」ダイヤモンド社.)


◆植原亮, 20080825, 「薬で頭をよくする社会――スマートドラッグにみる自由と公平性、そして人間性」信原幸弘・原塑編『脳神経倫理学の展望』勁草書房:173-200.
(pp173-174)
 集中力・注意力・記憶力といった認知機能を増強させる効果をもつ薬物、つまり頭のよくなる薬を[p174>スマートドラッグ(以下ではSDと略記する)という。SDは、SF的な想像の産物ではなく、米国などにおいては、認知機能の増強に一定の効果があるとされる薬物が現実に使用されており、普及の兆しをみせている。
 その典型例がリタリン(物質名:メチルフェニデート)である(*1)。もともとリタリンは、ADHD(注意欠陥・多動性障害)の症状緩和を目的とした薬物である。ADHDに効果があると考えられている理由は、シナプスから放出される神経伝達物質(ドーパミンとノルエピネフリン)の活性を高めるとされているからである。そして、おそらくこうした作用のために、ADHDではなくても飲めば注意力が増強すると信じられるようになった。これが、病気の治療という本来の目的ではなく、勉強の効率化や試験の成績向上を目的とする服用につながるわけである。しかし、リタリンが脳に作用するメカニズムの詳細については不明な点もあり、それだけに現段階では、服用すれば誰もが成績向上を望めるなどとはとてもいえない。また、副作用の問題もある(注2)。
(pp195-196)
 (*1)米国におけるADHDおよびその治療目的でのリタリン服用の現状についてはGarber et al. 1996などを参照。教育補助目的でのリタリン使用にかんしては、伝統的な教育方法の軽視・生物学的決定論の優勢[p196>化・服用の強制・保険適用の範囲・精神疾患の定義・治療と増強の区別、などの問題点が挙げられる。これらにかんしてはGreely 2006によって概観が得られる。個々の論点にかんしてはCooper 2004; Farah 2005; Fukuyama 2002; Parens 1998; Schwartz 2005; Singh 2005; Wolpe 2002 などもみよ。


*作成:植村 要
UP:20090216 REV:20090316, 0330
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