『人間の尊厳と遺伝子情報――ドイツ連邦議会審議会答申 (現代医療の法と倫理 上)』
Deutscher Bundestag Referat Offentlichkeit (Hrsg.) 2002 Enquete-Kommission. Recht und Ethik der modernen Medizin.Schlussbericht, Berlin
=20040720 松田 純 監訳・中野 真紀・小椋 宗一郎 訳,知泉書館,246p.
■Deutscher Bundestag Referat Offentlichkeit (Hrsg.) 2002 Enquete-Kommission. Recht und Ethik der modernen Medizin.Schlussbericht, Berlin
=20040720 松田 純 監訳・中野 真紀・小椋 宗一郎 訳 『人間の尊厳と遺伝子情報――ドイツ連邦議会審議会答申 (現代医療の法と倫理 上)』,知泉書館,246p. ISBN-10: 4901654357 ISBN-13: 978-4901654357 \3780 〔amazon〕/[kinokuniya] en. ss be bp g01 d07d c0201
■内容(「MARC」データベースより)
ドイツ連邦議会「現代医療の法と倫理」審議会によってまとめられた生命倫理に関する画期的な答申を翻訳。「人間の尊厳と遺伝子情報」の部分を訳出し、専門的事柄に関する訳註と、わが国の状況を踏まえた本格的解説を付す。
■【作品解説】 (知泉書館HPより)
http://www.chisen.co.jp/book/book_shosai/901654-35-7.htm
人間の尊厳に関する周到な哲学・倫理的考察と社会に広範な影響を与え始めた遺伝情報を包括的に分析,具体的で総合的な対策を提示。
わが国に圧倒的影響を与えているアメリカの生命倫理に対し、ヨーロッパにおける生命倫理を本格的に紹介する待望の書
■目次
第T部 人間の尊厳と諸権利――現代民主主義国家と生命倫理の基礎
第1章 人間の尊厳と人間の諸権利
第2章 個人倫理の準拠点と社会倫理の準拠点
第U部 遺伝子情報
第1章 〔遺伝子検査と遺伝子情報をめぐる〕状況
第2章 議論状況と評価
第3章 規制化の必要性と可能性,および規制化の提案
第4章 評価と提言
■言及
◆倉持武, 200510, 「訳者あとがき」 Kass, Leon R, ed. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York: Dana Press(=200510, 倉持武 監訳『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』青木書店).
(pp385-389)
松田氏は,2005年3月17日に行われた南山大学社会倫理研究所懇話会において,「エンハンスメント(増進的介入)が問いかけるもの――人間像と社会的選択をめぐる射程」と題する報告を行った。この中で氏は,エンハンスメントの普及による「医療化medicalization」の促進を指摘し,また,エンハンスメントは人間の条件に合致するかという人間学的・文明論的テーマに触れた。後者に関して氏は,ドイツ連邦議会審議会答申『人間の尊厳と遺伝子情報』(B)に記されている「人生の実相を見据えるならば,人間は『自由にして依存的な存在』」という言葉を取り上げ,「『弱さ』こそが相互支援連帯という人間文化の本質的条件を生み育んだ」と述べ,「弱さを根本的に克服しようとするエンハンスメント的志向には,かえって危ういものがある。エンハンスメントへの熱中は生を貧弱なものにし,連帯社会を危うくするリスクをはらむ」と主張した。これは,エンハンスメントに関してリベラリズムの原理を重視するならば,社会的連帯が破壊されていく危険性が高いとする,「自由にして依存的な存在」のうち依存的存在に重きを置く主張であるが,個人の自己決定に基づくエンハンスメントの普及が社会的連帯の破壊に至る可能性の指摘は正鵠を射ていると思う。
医療化については本書でも触れられているが,「医療化」の内実にまで踏み込めば,本書の論点と松田氏の論点には違いがある。氏は,生命現象の究極的単位の解明が,究極のアトミズムを招来する可能性と同時に,1個の細胞とそのミクロ構造に凝集しているミクロコスモスとマクロコスモスの一体性の認識を通して「エコロジカルなヒューマンケア学への道」につながる可能性を示唆している。これに対して,本書が医療化を問題にする視点は,松田氏がそこで止まっている「究極的アトミズム」,つまり医療化の1つの極北である生命の分子還元主義から出発して,これが招来する世界観,人間観の変容を通した,ひとりひとりのアイデンティティ消失の危険性とこれから帰結する責任概念とそれに伴う法および倫理概念崩壊の恐れである。
本書の医療化に関する議論が,医療と個人のアイデンティティそして社会という三者関係を視野に収めた議論になっていることを示すために,本書で展開されているその道筋の概略を記しておく。治療を超える目的に関しては,医師といえども,その本質についても,それが望ましいものであるか否かについても,専門家としての知識も技術もない。他方,製薬会社の宣伝などによって欲望を肥大化させた消費者は,ますます多種多様な技術サービスを医師に要求するようになり,医師‐患者関係の倫理が崩壊して,医療は技術サービス業と化し,GNPのおよそ6分の1を占めるまでになっているアメリカの健康管理システム費用はますます肥大化していくことになる。また,医療化の拡大を通して,人間を理性的・霊的存在,責任主体として見る観点が弱まり,人間活動が分子の運動に還元されることによってかえって,これまで医療とはまったく関わりを持たなかった側面も含めて,人間のすべての状態が治療という意図を持ったまなざしで見られるようになっていく。このまなざしを通して,バイオテクノロジーの与える手段が人生の運命を改善するための王道だと見なされるようになり,この結果として,「人間の儚さ,失意,死そのものだけではなく,人間関係,誇りと羞恥,愛と哀しみ,すべての自己不満といった,人間生活で生じるあらゆる事態を病気と障害のレンズを通して見る」という危険性が生じ,また同時に,これとは言わば方向性が反対の「何はともあれ人間の限界となっているものなら,それが何であれ一切のものに攻撃を仕掛けるという危険性,つまり,病気がないだけでなく,弱点,疲れ,欠点,そして愚かなところもない人間以上の存在者を生み出そうとする危険性が生まれてくる」のである。
究極のアトミズムということからではなく,エンハンスメント技術の過剰利用という視点からのものであるが,松田氏もアイデンティティの問題について論じている。氏が論じるアイデンティティの問題は個人ひとりひとりのそれではなく人間一般のアイデンティティの問題であるが,これは人間の条件という人間学的文明論的問題につながっていく。氏は,バイオテクノロジーの過剰使用が人間のアイデンティティの崩壊に至る危険性を,ハーバーマスの言う「人間の自己了解の危機」を引き合いに出して指摘し,これを防止するために,ハーバーマスが援用するハンナアーレントのNatalitat概念を示して自然性の尊重を主張する。
確かに,自然性の尊重には「ハイパー・エージェンシーの誘惑」や「プロメテウス的願望」を宥和する働きがあるように見えるかもしれない。しかし,本書が指摘するところによれば,自然の恵みはよきものばかりではない。「「自然の恵み」には,天然痘,マラリア,がん,アルツハイマー病,老化や衰弱もまた含まれている」のである。つまり,自然性の尊重は「それ自体で,どれが手を触れてよいもので,どれが手を触れてはいけないものなのかを教えてくれはしない。多くの「恵み」に対する敬意の気持ちから,どの恵みはそのまま受け容れるべきなのか,どれが使用し訓練することを通して向上させるべきなのか,どれが克己心や薬物治療によって正されるべきなのか,また,どれが疫病のように撲滅すべきなのか,区別がつくようになるわけではない」のである。さらに,人間は「イチジクの葉から始まって,……自然が与えてくれたままのものを作り変え,あるいは何かを付け加え,境遇を改善する術を駆使する動物」なのである。もちろんその基盤は自然の恵みなのだけれども,人間のアイデンティティはむしろ自然を乗り越えたところ,不自然性にあるのであって,自然性の尊重ということだけでは守ることができないのである。自然なもののうちでだけではなく,不自然なもののうちでもよきものとそうでないものを見分ける文化的な価値観の確立が必要なのである。
本書が示唆する文化的価値観確立への道は,人間的な成果をもたらす上での人間的な努力」の重要性の認識から始まる。元来,人間的活動は,自然的所与を乗り越えようとする不自然なものなのだが,それが「自分の行為を自分の意志,知,自分という魂から自覚的にあふれ出させ,そして自己がそのように振る舞っていることを自覚している,鋭敏な主体を明確に示す」行為であるか否か,が重要なのである。そして,行為がこの条件を満たすためには,少なくとも「行為と向上という結果の関連や使われた手段と求められた目的の結びつきが感じら」れ,「手段と目的の間には経験的に理解可能な結びつきが存在」しなければならないのである。
他方,バイオテクノロジーは,「人間の心と身体に直接働きかけ,受け身の主体に影響を及ぼす。受け身の主体は何の役割もほとんど,あるいはまったく演じない。受け身の主体は,せいぜいのところ,その影響を《感じることができるだけで,そうした影響が人間という文脈でどのような意味を持つことになるのか,まったく理解することができない》」のである。バイオテクノロジーが普及すれば,「人間の経験は次第にわけの分からない力や手段によって媒介されるようになり,人間の活動もひどく変わってしまい,それが元来持っていた人間的な意義からは切り離されることになってしまう。知る主体とその活動との関係,知る主体の活動と目的を達成する喜びとの関係は引き裂かれてしまう」のである。
このような書き方をすれば,本書の基本的立場はバイオテクノロジーの否定にあるのかと受け取られてしまうかもしれないが,そうではない。バイオテクノロジーの力や個人の自由な欲望実現のための努力を否定しようという意図はまったくないのである。本書では,バイオテクノロジーが発展し,多くの人に利用されるようになることで,「万人のための自由,繁栄,正義というアメリカンドリームをますます多くの人が実現できるようになる社会」が生み出される可能性さえ認められている。しかし,同時に,「きわめて不純で,遺憾としか言いようのない」社会が生み出される可能性も否定できないので,「古くからのなじみの,また大方は善意に基づく欲望を実現してくれるはずの新しくて途方もない力が,我われの理想が持っている意味の大きさを見失わせ,生きること,自由であること,幸福を求めることに関する我われの感性を狭めてしまう恐れがあると感じさせる」さまざまな懸念が体系的かつ詳細に検討されているのである。
B松田純監訳,ドイツ連邦議会答申『人間の尊厳と遺伝情報――現代医療の法と倫理』知泉書館,2004年,46頁。
◆堂囿俊彦, 20070220, 「ドイツにおける遺伝子診断の規制について」,福島義光・玉井真理子編『遺伝医療と倫理・法・社会』メディカルドゥ:177-191.
(pp185-186)
近年、法制化も含めた審議を包括的にしたものとして挙げられるのが、アンケート委員会「現代医療の法と倫理」によって出された最終報告書(*28)である。もともとアンケート委員会とは、連邦議会が「広範かつ重要な難問について決定するにあたり準備をするために」((*29)設置するものである。そして、「現代医療の法と倫理」委員会は、「関連する社会のグループ、制度、集団、ならびに教会に対して適切な配慮をしたうえで、医学が将来もたらす問いに関して、倫理的な評価、社会上の取り決めの可能性、そして立法上および行政上の行動に対して助言をすること」(*30)を目的に、2000年3月24日に設置された。
具体的な審議対象としては、@着床前診断、A遺伝子情報、Bバイオテクノロジーにおける知的財産、CES細胞研究などが挙げられていた。しかし、最後の2つについては、議会での決定を急ぐ関係上、中間報告書として個別に出され(*31)、2002年5月に、遺伝子情報と着床前診断を扱った最終報告書が連邦議会議長に手渡されている
すでに述べたように、この報告書では、包括的な「遺伝子診断法」(Gentest-Gesetz)が提言されている。(略)
このような法的な規制を前面に打ち出した背景には、親子鑑定のような非医学的なものも含めて、遺伝子診断が急速に普及していること(*32)、そしてそれによって、「遺伝子差別」の生じる可能性が高まっていることが挙げられる。差別が、基本法第3条の平等原理(*33)に反し、この原理が第1条第1項の人間の尊厳に基づいていることを考えた時(*34)、人々を遺伝子差別から保護することは「国家権力の義務」とされるのである。
しかし、この報告書で提案された遺伝子診断法はいまだに成立していない。この報告書が提出される以前から、緑の党は遺伝検査法の成立を要望しており、医療制度改革において取り上げられることもあったが、十分に話し合われていないという理由から(文献28)、あるいは公聴会や議会での審議の必要性から(文献29)、実現には至っていないようである。
(p189)
(*28)なお、本報告書の全体像については、訳書(参考文献23)に付された松田純による解説(213-227ページ)、参考文献24が参考になる。
23)ドイツ連邦議会審議会:人間の尊厳と遺伝子情報、知泉書館、2004.
◆美馬達哉, 20070530, 『〈病〉のスペクタクル――生権力の政治学』人文書院.
(pp.x-x)(*4章の「生殖技術とヒト胚の保護」の終わりのあたり)
ワーノック勧告のなかでは、生殖技術の問題は、中絶論争の際のように人間の生命の起点はどこかという哲学的問題ではなく、(子宮内ではなく)体外にあるヒト胚にどのような「一定の法的保護」を与えるかという実際的問題として扱われている。それは、法律による直接的規制は「寛容な社会における最低限の要求」であり、さらに厳しい道徳的ルールを定めるかどうかとは切り離して考えるべきだという理由からである。だが、なぜ、それ自身は人間としても権利を持たないヒト胚という生きた細胞の塊を、特別に保護の対象とする必要があるのだろうか。そして、ヒト胚を保護すべきだという思想的な根拠はどこに求められるのだろうか。
ワーノック勧告は、その問いに直接答えようとはしていない。だが、その一つの解答を示しているのは、ドイツでの「胚保護法」(一九九○年)である。そこでは、「人間の尊厳」の不可侵性という原理に基づいてヒト胚を用いた研究を規制している。先進国のなかでもっとも厳しい研究規制といわれる「胚保護法」では、生殖目的以外でヒト胚の作成や利用が禁止されている。この根拠とされているのが、ドイツの憲法である基本法の第一条(「人間の尊厳は不可侵である。それを尊重し保護することはすべての国家権力の義務である」)なのである。ドイツ連邦議会の「現代医療の法と倫理」審議会の最終報告書(二○○二年)でも、権利主体である成人へと連続した存在であり、成人になる潜在的能力をもっている存在であるという理由から、「この保護義務は、生まれでる前のいのちについても当てはまる」と認めている(*42)。人間の尊厳の厳格な重視は、「生きる価値のある生命」と「生きる価値のない生命」を区分することが大量虐殺へとつながったナチスドイツという過去への反省に由来している。ただし、この答申では最終的な結論を出さず、ヒト胚は無条件の保護に値するという立場と、発達段階に応じて保護に値するという立場の両論併記となっている。
立法府である連邦議会がこうした方向に向かう一方で、シュレイダー首相率いる行政府は、科学研究の発展とバイオテクノロジー産業振興という観点から、ES細胞研究に積極的な姿勢を示していた。そして、首相直属で設置された「国家倫理評議会」は、「現代医療の法と倫理」審議会とは異なり、二○○一年に「ヒト多能性幹細胞を厳格な条件と結びつけて当面期間を限定して輸入する」という答申を出した(*43)。この結果を受けて、二○○二年に、連邦議会は、「ヒトES細胞の輸入及び使用に関わる胚保護を確保するための法律」を可決した。そこでは、ドイツ国内でヒト胚を破壊してES細胞系列を作成することは認めないものの、他国で二○○二年一月一日以前に合法的に作成されたES細胞を輸入することを審査委員会の許可のもとで認めている。ブッシュ大統領によるES細胞研究容認の政策が、中絶の権利を拒否する「生命の文化」哲学と矛盾をきたしているのと同様、ドイツでの妥協案もまた、少なくとも「胚保護法」の精神に反していることは確かだ。そもそも人間の尊厳が真に重要だとすれば、それは国境によって区切られるべき原理ではない。
(*42) 松田純監訳『ドイツ連邦議会審議会答申 人間の尊厳と遺伝子情報――現代医療と倫理(上)』知泉書館、二○○四年(原著二○○二年)、一八頁。
(*43) 松田純『遺伝子技術の進展と人間の未来 ドイツ生命環境倫理学に学ぶ』知泉書館、二○○五年、三七頁。
*作成:植村 要