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『ヒトはいつ人になるのか――生命倫理から人格へ』

村松 聡 20011215 日本評論社,245p. 2,100



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■村松 聡 20011215 『ヒトはいつ人になるのか―生命倫理から人格へ』,日本評論社,245p. ISBN:4535583145 2,100 [amazon][kinokuniya][kinokuniya] ※ b b02

<目次>
はじめに i

序論 1

第1部 ヒトの事実
 第1章 ヒト・クローン 15
  第1節 古い教訓と新しい話 15
  第2節 古い教訓は有効か 29
  第3節 二つの願いと二つの批判 36

 第2章 ES細胞とヒト胚 53
  第1節 ES細胞という名の夢の種 53
  第2節 ヒト胚という問題の種 65
  第3節 ヒト胚という問題の核にあるもの 73

 第3章 妊娠中絶と胎児 89
  第1節 生命尊重と当事者の権利 89
  第2節 障害児の妊娠中絶と安楽死 96
  第3節 ヒトと人間の境、人格 102
  第4節 可能性論争 111

第2部 人格の現実
 第1章 人格は意識をもちうるものである 123
  第1節 二つの人格――個人と尊厳の主体 123
  第2節 人格、このあまりに理性的であまりに意識的なもの 127
  第3節 人格、この可能性の存在 135
  第4節 身体へ 147

 第2章 人格は身体である 153
  第1節 身体というあたりまえの謎 153
  第2節 姿、かたち、イメージという体 161
  第3節 習慣化した能力としての体、自分の体と他者の体 167
  第4節 文化としての体 173
  第5節 体という人間の風景 道具としての体と遺体 181
  第6節 一つの答えと一つの問い 187
  第7節 体から他者へ 195

 第3章 人格は他者との関係である 203
  第1節 他者、その近さと遠さ 203
  第2節 他者に出会う 210
  第3節 承認 217

 最終章 229
  第1節 ヒト・クローン、ヒトの胚、そして胎児の地位 229
  第2節 ヒト、人間、そして人格 237

後書き 243


第一章 ヒト・クローン

 第一節 古い教訓と新しい話
「クローン技術が、そして、生物学者が私たちに投げかけている問題は、生体としてのヒトの問題ではない。ヒト・クローンで問われているのは、人間とは何かという、哲学的な問題である。」(p.18)
「ヒト・クローンと聞いて不安に思うのは、人間をメカニズムとして済ますことはできないという、常識的だが、大変つよい気持ちが私たちのうちにあるからだ。私たち自身を生物学的なヒトという枠組みで捉えるときに、すり抜け、抜け落ちていくもの、その言わばふるいにかけられてしまった残余が、重要なのである。
 この残余は、人間の独自性とか尊厳と表現されてきた。それをどのように考えるか、議論の核はここにある。」(p.18-19)

 第二節 古い教訓は有効か
「新しい話でも、古くからあった教訓は、同じように教訓になるのだろうか。残念ながら、そう簡単ではなく、古い教訓は、そのままヒト・クローンという新しい話に対する批判にはならない。」(p.29)
「自然に介入し、自然にないことをやってはならないと言っても、既に私たちは至る所で自然になかったことを行なっている。スーパーマッケットに並ぶ品種改良を重ねたトマトや米が最たる例だろう。」「もちろん、トマトや鶏の卵と人間は別である。人間に品種改良のような技術を応用してはならない、と考えたい気はする。しかし、ヒトという自然に対しても、私たちは既に介入し自然にないことをやっている。」(p30-31)
「もし、まったく同じ環境に置かれたらば、同じ遺伝情報をもつヒトは、同じ人間になるのだろうか。人間の独自性には、環境+遺伝情報という網からも、漏れ落ちていく、「残余」があるのではないか。残念なことに、生物学の専門家は遺伝情報と環境で生物を考えることに慣れているせいか、この点に踏み込んでいない。」(p35-36)

第三節 二つの願いと二つの批判
ヒト・クローンを推進する積極的な理由―良く取り上げられる例
 1.子供を不治の病や事故により亡くした時の、子供のクローンを求める親の願い
 2.子供が骨髄性白血病にかかっている例
 →拒絶反応が起きない骨髄細胞を持つドナーが必要なため
「問題、どのような理由で子供が生まれようとも、その子の人格を考えながら愛情をもって育てていくかどうか、ということだろう。」(p.39)
「ヒト・クローンをどう位置づけていくべきなのか、どう考えればいいのか。クローン技術のヒトへの応用に対する決定的な反対理由は、今のところない。だが、様々な議論のなかで、ヒト・クローンに対する反対論から、説得力に欠ける古い教訓や「遺伝子決定論」のような誤解を取り除き、そして感情的な反発の域を出ていないものを排除するなら、二つ、重要な観点が残ってくる。」(p.41)
 1.ヒト・クローンは「遺伝子の奴隷化」であるとする説
 2.「知らない権利」を侵害するという説
「二つの論点はともに、感情的、情緒的な反対論ではないし、また、遺伝子決定論の誤解に立ってもいない。ヒト・クローンは同じ人間をもう一人の人間を世に送り出すから人間の尊厳に抵触するなどと、どこにも主張していないことに注意していただきたい。」(p.44)
「なぜ、ヒトの場合のみ特別視するのだろうか。それは、ヒトは特別であるとはじめから考えているからで、生命の神秘の問題ではない。とすれば、人間を特別視し、その尊厳を背景にして初めて、生命の唯一無比な偶然が光を当てられていることになる。個としての人間が持つ尊厳を抜きにしては、ヒトの生誕が唯一無比であることに、自然の他の生命とはちがう何か特別な権利と神秘を見ることはできないのだ」(p.47)
「いずれも、ヒト・クローンが許しがたいのは、人間が行為をする際の自由が侵害されていると考えていることになる。つまり、人間の尊厳を考えるとき、そこに浮かび上がってくるのは、犯してはならない自由という、ありふれた、陳腐にすらみえる事態なのである。ヒト・クローン問題で何を考えていくべきなのか、その中心点はここにある。」(p.50)

第二章 ES細胞とヒト胚
 第一節 ES細胞という名の夢の種
「ES細胞の研究と応用は、大きく人間観の変動を迫る問題をはらんでいる。それは、ヒトのそして人間の体に対する見方、考え方、感受性をヒト・クローンと同等あるいはそれ以上に根本から変えるからである。」(p.54)
→キメラと呼ばれる例えばブタの細胞とヒトの細胞が混じりあった「生物」をつくる可能性がある。

 第二節 ヒト胚という問題の種
ES細胞を取り出す方法
 1.体外受精時に作成された余剰胚
 2.胎児の始原生殖細胞
 3.クローン技術
「もっとも、人間観の最高を促すような大きな問題がここにあるとは感じられないかもしれない。特に、最初の二つの方法からは、そんな強烈な印象は受けないだろう。最初の方法に関して言えば、不妊治療のために製作された胚の余りを使ったに過ぎず、ES細胞作製に使わなければ、結局その胚は処分されてしまう。第二の方法に関しては、中絶した胎児、流産した胎児の始原生殖細胞を取ってくるのだから、ヒトの胚を新たにそのためにつくっているのではない。おそらく最後の方法が、ヒト・クローンの連想も手伝って、抵抗感がもっともある方法(中略)つまり、問題の印象は薄い。しかし、印象の薄さは、一見そう見えるというに過ぎない。」(p66-67)
「一度ヒトの胚を利用することを容認すれば、もはやキメラ胚の作製を禁止できる有効な根拠はない。問題をセンセーショナルに扱う必要などないのであって、それでも問題はセンセーショナルなほど深刻である。その中心に、ヒトの胚がある。ヒトの胚は、紛れもなくヒトになる種である。だからこそ、問題の種でもあるのだ。」(p.73)

第三節 ヒト胚という問題の核にあるもの
「ヒトの胚は、人間とは言えないまでも特殊なものであると感じるのが普通の感性だが、私たちのこの感性や思いを、生物学的な事実によって擁護してもらうことはできないのであって、生物学的な話からこぼれ落ちるものに目を向けなければならない。ヒトの胚はなぜ単なる細胞の塊ではないか、そう問えばちょうどヒト・クローン問題の時と同様、生物学的なヒトの話に尽きないものがどうしても残る。そこに、ES細胞を巡る研究が私たちに突きつける問い、生物学的、生理学的な人体には吸収できない身体、人間の体とは何かという問いが現れる。」(p.74)
「ヒトの胚は、ごく普通に私たちが人間ということで抱いている朧げな像のもっとも周辺部分にある。輪郭が曖昧だが、確かに感じている人間の像の、さらに曖昧な部分に、ヒトの出発点というものは感じられている。曖昧さの擁護は、極めて難しい。この像が、あるいはこの感性が脅かされ、変更を迫られている。よほど鈍感でない限り、直感的に、その恐怖を素直に感じることができると思う。おそらく、私たちは変更を受けざるをえない。それならば、どのように変更するか。そのためには曖昧な輪郭をもつ人間の像を、少しばかり明確にする必要がある。曖昧にしていては、曖昧なものは擁護できないのだ。
 生物学的に収斂しない人間の体、身体について問うことなしには、ヒトの胚を捉える視点もでてはこない。」(p.86)

第三章 妊娠中絶と胎児
第一節 生命尊重と当事者の権利
中絶を語る時の出発点→プロ・ライフとプロ・チョイス
「生命尊重は出発点ではあっても、答えにはならない。繰り返し述べてきたように、生命という観点で言えば、他の動物と異なって、人間を尊重しなければならない理由はないから、人間の生命を特別なものにする何かプラス・アルファを想定しなければならない。それは、意識とか、理性とか、いずれにせよ、何か命とは別のものである。」(p.93)

第二節 障害児の妊娠中絶と安楽死
障害を発見された胎児の場合、どのように考えるべきか
→子供の幸せを考えて産むことを避けるべきではないかと考えるのも自然。
「だが、障害をもった子を、楽ではない人生に送り出すことを一概に残酷であると言えるのだろうか。彼らの人生を不幸で可哀想なものと、いったい誰が判断できるのか。両親の不安と苦悩は真実である。それと同時に、障害をもった子供の人生が、不安と苦悩に満ちているのか。」(p.97)
 安楽死問題→
「妊娠中絶と比べて、日本で生命倫理のテーマとしての社会的認知度はずっと高い」(p.99)
ex)13トリソミー、18トリソミー、連結双子

第三節 ヒトと人間の境、人格
「胎児はいつ生物学的なヒトとなるのか、ヒト以前とヒトの間の線引き問題である。この場合、境界の画定に応じて、中絶は人殺しであるかないかに分かれる。」(p.102)
「人格の線引きを巡る論争を理解するためには、まず、その前提となったある特定の人格理解を知っておく必要がある。
 人格は理性をもつ。そして意識を持つ。性格には、自分を自分として意識する、つまり自己意識をもつ。これが人格である。」(p.105)
「老いた弱者は死にゆくのだから、姥捨て山も悪くない選択となりかねない。これが許されないのは、生物の世界の住人、ヒト、とは区別された人間の特徴と尊厳があるときだけだ。その尊厳とは何か。理性的で自己意識をもつ存在こそ人格であるという理解は、まさにこの問いに対する一つの答えだったのである。」(p.110)

 第四節 可能性論争
「自己意識を現にもつことが生物学的な話に収斂しないなら、その可能性もまた生物の成長とは異なる位相をもっている、と考えるのが自然だろう。自己意識を持つ可能性は、単に成長したとき自己意識をもつようになるという以上の意味をもっている、そう考えるべきだろう。可能性論争が示唆している分岐点から続くもう一つの方向とは、ヒトの成長しは区別された次元で可能性を問うことの必要性だったのである。このあまりに素朴で、わかりやすい話にとどまる限り、可能性論争は不毛にちがいない。」(p.114)
「この現実、余りもののうちに、人間が譲ることのできないものがある。それが、私たちの感性が語っている、曖昧だが強い思想だと思う。私は、この余りものを辿りたい。そのために、人間が最も人間たらしめるもの、人格への問いを再び取り上げよう。人格は、一人の人間の個としての尊厳を表すから、譲ることのできないものもそこに現れてくるにちがいない。」(p.115)

UP:20070506 REV:0827
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