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『チョムスキー、世界を語る』

Chomsky, Noam 20011028 Deux heures de lucidité: entretiens avec Noam Chomsky, Editions des Arènes, 184p
=20020905 田桐 正彦 訳,トランスビュー, 229p

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Chomsky, Noam 20011028 Deux heures de lucidité: entretiens avec Noam Chomsky,Editions des Arènes,184p. =20020905 田桐 正彦 訳 『チョムスキー、世界を語る』,トランスビュー,229p ISBN-10:4901510096 ISBN-13:978-4901510097 2200+ [amazon][kinokuniya] ※ p

■内容

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グローバリゼーションのもとに振りかざされる“正義”、“自由と平等”の虚像。そこに隠れる「覇権国家」アメリカ。知識人とメディアの責任、言論の自由などを軸に現代世界の政治・経済・社会、あらゆる問題を語り尽くす。巨人チョムスキーの思想の全貌!
◇2002年9月刊行・現在(2009年8月)第3刷◇

「BOOK」データベースより

比類なき知性が照らし出す衝撃的な世界像。20世紀を代表する言語学者にして最もラディカルな思想家が、メディア、権力、経済、外交、言論の自由、グローバリゼーションなど現代世界の主要な問題を語り尽くす。

「MARC」データベースより

20世紀を代表する言語学者にして最もラディカルな思想家チョムスキーが、メディア、権力、経済、外交、言論の自由、グロ-バリゼーションなど現代世界の主要な問題を語り尽くす。比類なき知性が照らし出す衝撃的な世界像。

■目次

知識人
言論の自由
権力の中心
資本主義
闇の経済
民主主義
メディア
外交政策

■著者略歴

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著者について

ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)[著者]
1928年生まれ。マサチューセッツ工科大学教授。
変形生成文法の理論により「チョムスキー革命」を起こした、20世紀最大の言語学者。リベラルな思想家としても知られ、グローバリズムの名のもとに世界を軍事力で侵略し続けるアメリカを徹底的に批判し、アメリカにおけるもっとも重要な「アメリカ批判者」といわれる。
] ドゥニ・ロベール(Denis Robert)[インタビュア]
『アクチュアル』紙、『リベラシオン』紙を経て、フリーのジャーナリスト・小説家。贈収賄、国際犯罪組織、地下銀行などを追う社会派作家。多数の著作のほか、ドキュメンタリー映画の作成にもたずさわる。
ヴェロニカ・ザラコヴィッツ(Weronika Zarachowicz)[インタビュア]
『リベラシオン』(フランス)、『ラ・スタンパ』(イタリア)、『エル・パイス』(スペイン)、『南ドイツ新聞』、『ル・ンワール』(ベルギー)の各紙が参加する国際的な新聞の組織「ワールド・メディア・ネットワーク」の元編集責任者。現在はフリーのジャーナリストとして最新テクノロジーの分野を追う。

田桐正彦(たぎり まさひこ)[訳者]
1953年生れ。東京大学大学院博士課程修了。専攻、中世フランス文学。1985年から翌年までフランス給費留学生としてパリ第三大学留学。現在、女子美術大学教授。編著書に『小学館ロベール仏和大辞典』(共編)・『プログレッシブ仏和辞典』(共編、小学館)、『フランス語 語源こぼれ話』(白水社)など。翻訳に『虚無の信仰-西欧はなぜ仏教を恐れたか-』(トランスビュー)『天才たちの子ども時代』(M.サカン編、共訳、新曜社)など。

「BOOK著者紹介情報」より

チョムスキー,ノーム
1928年、アメリカ、フィラデルフィアのユダヤ人家庭に生まれる。ペンシルヴェニア大学卒業。1961年よりマサチューセッツ工科大学教授。生成文法理論により20世紀言語学に「チョムスキー革命」をもたらし、心理学・哲学・政治学・文学などに広範な影響を及ぼす。政治・社会問題への発言・著作も多く、その言動は絶えず世界の注目を集めている

ロベール,ドゥニ
『アクチュエル』紙、『リベラシオン』紙を経て、フリーのジャーナリスト・小説家。贈収賄、国際犯罪組織、地下銀行などを追う社会派作家。多数の著書のほか、ドキュメンタリー映画の製作にもたずさわる
ザラコヴィッツ,ヴェロニカ
『リベラシオン』(仏)、『ラ・スタンパ』(伊)、『エル・パイス』(スペイン)、『南ドイツ新聞』、『ル・ソワール』(ベルギー)各紙が参加する国際的な新聞の組織「ワールド・メディア・ネットワーク」の元編集責任者・現在はフリーのジャーナリストとして最新テクノロジーの分野を扱う

田桐/正彦
1953年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。専攻、中世フランス文学。現在、女子美術大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■引用

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抜粋
序文―ノーム・チョムスキーのために

 わたしは一九八〇年代の初めに、心理学を勉強していてノーム・チョムスキーに出会った。米国でも屈指の名門校、マサチューセッツ工科大学の教授であるこの言語学者の名前はすでに知っていた。また、詳しいことは知らなかったが、チョムスキーが政治問題の「アジテーター」であり、名うての「絶対自由主義者」で「ラディカル」な人物として名を馳せているということも知っていた。

 あるとき、いまから九年前のことだが、わたし[訳注1]はメスでチョムスキーのドキュメンタリー映画を観た。『チョムスキー――メディアと不可欠の幻想』というタイトルの作品である。これはショックだった。ちょうど同じころ、パリのジャーナリスト、ヴェロニカ・ザラコヴィッツも、まったく同じことを感じていた。カナダのふたりのジャーナリストが撮ったこのドキュメンタリーは、チョムスキーをやや神格化しすぎているきらいはあるものの、しかし完璧なまでに光り輝いていた。そのなかでチョムスキーは、たとえばこういう明快な考えを述べた。「あるグループの力が増大すると、それに応じて、彼らは自分たちの利益のために働いてくれる政治家どもを前に並べておくようになるのです」。

 じつはそのころわたしは、数年がかりで、多国籍企業の政党への闇献金を追っていた。このわずか一行のセリフの中に、わたしが数年かけて証拠をつかもうと苦労しながら調査を進めていたことが、ぎゅっと詰め込まれているではないか。

 しかし、チョムスキーがおもにやってみせたのは、メディアのしかけた罠を分解するという仕事だった。つゆほどの興奮もまじえず、まったく物静かな口調で、こういう解説を口にしたのである。「社会的な問題にかかわるコメント――たとえばテレビのドキュメンタリー番組、政治解説、ラジオのニュース速報などのコメント――は客観性を装っていますが、その背後には、最初から決まっている判断の前提とかイデオロギー的な原則とかがひそんでいます。それは、もしもその存在が暴かれたら、とうていそのまま存続することが許されないような性質のものです」。

 わたしも、何年も前からずっとテレビのニュースや時事番組を観てきたわけだが、この奥のほうでつながっているショーウインドーの中に登場する、高いギャラを取るキャスターたちが、たいていは多国籍企業の社員であり、その高収入を、多かれ少なかれ公共性をもつ市場の売り上げから得ているのだという事実を、いつのまにかすっかり忘れていたのだった。言われてみればなるほど、報道とはまずそれ自体ひとつの商品価値であり、第二に影響力を悪用することのできる手段であって、結局のところ、その争点があまりにも複雑に絡まりあっているために、わたしたちの目にはすぐには見えてこないような、隠された利害がぶつかりあい、火花を散らす舞台なのである。

 ヴェロニカ・ザラコヴィッツはすでにチョムスキーにインタビューをした経験があり、この米国のラディカルな思想家がフランスでかくも認められていないことに驚いていた。わたしたちにとってチョムスキーとは、逆説をちりばめながら、さまざまの思想の問題を小気味よくかたづけ、すっきりと整理してくれるひとであった。わたしたちは、こんな人物がいるんだよと広く世のひとたちに知ってもらいたい、まわりのひとたちにかたっぱしから「この本を読んでごらんよ!」「この映画を観てみなよ!」と言ってまわりたくてたまらなかった。

 教祖ではないし、哲人というのとも違う。政治運動の闘士、でもない。わたしたちが自分で考えるのを助けてくれる、ひとりの知識人である。信じられないほど鋭い批判的な目をそなえた、自由闊達な精神の持ち主であって、わたしたちに大切なことを教えると同時に、大切なことを質問しようとするのだ。

 チョムスキーの最初の教えのひとつは、出来合いの思想を信じてはいけない、ということである。それから、ひとを言葉だけでかんたんに信じてもいけない。どんなことでも、けっして、もうそれはそうに決まっていることだからという受け取り方をしてはならない。たしかめてみること。じっくり考えてみること。自分自身の判断基準で考えてみることだ。そして、既知のものを捨て去ること。チョムスキー自身はこういうふうに説明している。

「わたしは自分の言うことを、ただ一方的にひとびとに信じ込ませるというようなやり方はきらいです。それに、ひとびとが党の方針とか、わたしが正体を暴いているようなもの――大学の権威ある先生たちとか、メディアとか、国家公認の宣伝工作員とかいったもの――に黙って従うのもやめてほしいですね。わたしとしては自分がなにを正しいと信じているのかを伝える。そこに聞き手めいめいの自分なりの判断を加えてもらい、自分自身の知性をはたらかせてもらう。そうすればきっと、政治や社会の世界でわたしたちの目から隠されているものが、いろいろと見えてくるようになるはずだ――しゃべったりものを書いたりすることを通じて、わたしが語りかけようとしているのは、そういうことです。ひとびとが、わたしのこの挑発に乗ってくれて、自分自身で知りたいという気を起こしてくれたら、そのとき、わたしはなにかしら役に立つ仕事をすることができたような気がします」。

 チョムスキーの仕事は、現代のアメリカの政治を明快に、しかも厳密さを失わずに分析していくということなのだが、中心となるのは、われわれ西洋の民主主義体制下の知識人やメディアの役割と、イデオロギーの問題である。その分析は、われわれが生きているこの混沌とした時代の、曇ることのない明晰な観察に満ちている。

「ビジネスで結ばれた共同体(その半分は米国が占めています)が組織し推進している巨大な規模の宣伝工作のために、大衆はいやでも、むりやり害のない目的のほうを向かされているというのが現状です。このビジネスの共同体は、とほうもない資本とエネルギーを注いで、ひとびとを一個の原子のように孤立した――お互いに切り離され、人間らしい生活とはいったいどういうものであるべきかをまるで考えない――一個の消費者に仕立てあげ、また、従順で使いやすい生産の道具に仕立てあげようとしているのです(もっとも後者は、そのひとたちに仕事にありつくチャンスがあればの話ですが)。

〔ビジネスの共同体にとって〕重要なのは、人間的なノーマルな感情を圧殺することなのです。なぜなら、人間的感情は、特権階級と権力に仕えるイデオロギー、つまり利己的な利益を至高の人間的価値であるかのようにまつりあげるイデオロギーとまっこうから衝突し、この両者はけっして両立しえないからです」。

 わたしたちは、チョムスキーの著作のフランス語訳が見つからないことに驚いた。わずかに古い書物がほんの少し見つかっただけで、八〇年代初頭以降のものとなると、アゴーヌ書店、青春叢書、EPO出版といった、少数の限られた読者を対象とする特殊な出版社と、『ル・モンド・ディプロマティッ[訳注2]ク』誌が活字にしたいくつかの論文以外、ほとんどなにひとつ見あたらなかった。
 わたしたちは、どこへ行っても、フランスでチョムスキーのものが全然見つからないのはあたりまえだ、なにしろノーム・チョムスキーという男は、せいぜいよくいって「いかがわしい」物書き、はっきり言えば「ガス室否定論者」なのだから、という説明を聞かされた。でも、チョムスキーはユダヤ人ですよ、とわたしたちは応じた。すると返ってきたのは、「だからなんなんだ」というにべもない応答であった。どこでも、わたしたちは(ていねいな口調で)、チョムスキーはもう過去の人だよと言われたものだ。さもなければ、いまでもなお、あいもかわらず、あのコケの生えたフォリソンの一件をむし返されたものだった。反ユダヤ主義者チョムスキーという決まり文句、耳にたこができるほど聞かされたので、もううんざりの、あの話を。

 この本の意図を誤解されないように、ひとつだけ楽屋話を聞いていただこう。二年前のことである。ヴェロニカ・ザラコヴィッツは、フランスと外国の日刊紙で作る国際的な新聞の組織、「ワールド・メディア・ネットワーク」の編集長を務めていた。一九九九年九月、流血沙汰となった東チモールのあの国民投票の翌日、彼女はチョムスキーのインタビューをとることになった。チョムスキーのそれまでの足どりを知っている者からみれば、彼こそ、チモール紛争の解説をするのにもっともふさわしい人間のひとりだったのである。一九七九年、東チモール問題についてはじめて発言して以来このかた、チョムスキーは終始一貫してこの地域に対する米国の政策を批判し続けてきたのだ。

 このときのインタビューは、ヨーロッパ中の日刊紙十紙に掲載された。ただしフランスをのぞく各国の、である。フランスでは、ネットワークに加わっている新聞がチョムスキーの掲載を嫌がった。記者たちの反応は、「誰だ、それは」から、「チョムスキーが東チモールを語るって、いったい何様のつもりだ!」まで、さまざまだったが、そのなかには、「外信部」のスタッフの、ぶっきらぼうなこういうセリフもまじっていた。「君、どうかしてるぜ。あんな反ユダヤ野郎に、紙面の一行だってくれてやるもんか!」。
 しかし時が経つうちに、さすがにこの種の反応は弱ってくるものだ。結局は、チョムスキーについての本、チョムスキー自身のかかわる本の刊行の話を受け入れ、待望する声がどうしてもあがってくるのである。しかし最近でも、さまざまの場所でわたしたちがこの本の計画を打ち明けるたびに、敵意のこもった、はっきり言えば恫喝めいたご意見を頂戴した。

 著名な歴史家である某大学教授は、わたしが「ジュネーブ・アピール」の裁判官たちに協[訳注4]力したことをほめてくれたが、あの「チョムスキーのげす野郎」の本を出そうなどとは「まったく愚かですっとんきょうな話」だとこきおろされた。

 書店員をしている友人は、この本のアイディアは「バカげている」し、「考えがなさすぎる」という意見だった。彼の教えてくれたところによると、チョムスキーは札つきの反ユダヤ主義者(フォリソン)の弁護を買って出たばかりでなく、極右の出版社から、とくにイタリアで、本を出しているという話なのだ(わたしはぜひその出版社の連絡先を教えてくれと頼んだが、なにも教えてはもらえなかった)。しかし、それだけのことで、チョムスキーをネオ・ナチのイデオローグと決めつけ、わたしたちのことを「ナチかぶれのアカ」と決めつけるのはいかがなものか……。

 チョムスキーにはいまさら論戦をむし返す気はない。チョムスキーとしては、この件について言うべきことはすべて言った気でいる。もう、この話は聞きたくない。フランスでもどこでも、名誉を回復しようがしまいが、関係ない。チョムスキーは、チョムスキーだ。変わることのない、その良心、欠点、頑固さ、精神の高揚、確信とともに。

 彼にとっては、たぶんどうでもよいことなのだろうが、しかし、この本の企画にかかわるわたしたちとしては、やはりどうしてもあの事件に触れておかないわけにはいかない。

 著作のなかで、チョムスキーは、同じことをくり返すことを恐れるなと教えている。とくに、この件の場合のようにしぶといデマが相手の場合は、なおさらである。ガス室否定論者というあの告発がひろまり、いくつかの文章で好き勝手に扱われ、それが、はがそうとする指先にまたベタベタとくっついてきて始末におえない古いセロテープのように、しつこくつきまとってくるようになってから、まもなく二十年になる。チョムスキーは人生の一部を、同じことをくり返すことに費してきた。たいへんなエネルギーを使って、説明し、自分の考えを述べ、あざけりや軽蔑や攻撃――ときにはほんものの暴力をふるう攻撃――を受けながら、なんとか自分のメッセージを、自分の考え、なにものにもとらわれない立場、思考の正確さを伝えようとしてきた。

 わたしたちは、この序文のなかで、フォリソン事件のことなどにいつまでもかかずらっていないで、さっさと本題に入りたいと考えていたのである。しかし、そういうわけにもいかない。いまではすっかりデマに包み込まれてしまっているので、もともとの事件の輪郭をはっきりさせ、それをデマから切り離して理解することがぜひとも必要なのである。

 そのために、ここで簡単に事実をふりかえっておこう。一九七〇年代末、リヨン大学のフランス文学教授ロベール・フォリソンは、第二次大戦中の〔ナチスの〕ガス室の存在を否定したかどで免職となった。チョムスキーは、他の五百人以上の署名者にまじって、表現の自由擁護の請願書に署名を頼まれた。その反響たるや、信じがたいほど暴力的なものである。フランスのジャーナリズムは、その請願書を「チョムスキーの請願」として報じ、まもなくチョムスキーは、フォリソンの主張に同意したという非難を浴びせられる。問題の請願書は、フォリソンの主張の具体的な中身にはまったく触れておらず、厳密に表現の自由の擁護のみを目的とするものであったにもかかわらずである。

 自己弁護のために、チョムスキーは短い文章を書いた。ヴォルテールのものとされる次の引用文の精神を、そのまま受け継ぐ文章である。「小生、貴兄の書き物ははなはだ不愉快に存じ候。されど、貴兄がそれを発表する権利を行使しうるよう、全力をあげて尽力を惜しまぬ所存」。チョムスキーは、その短い文章のなかで、こう述べている。だれかに思想を表明する自由を認めるということと、その思想に共鳴するということは、まったくべつのことがらである。

 チョムスキーはまた、自分はフォリソンの書いたものを読んだことはないと明言したうえで、こうつけ加えている。自分の知りえたわずかのことから「わたしの見るかぎりでは、フォリソン氏はどちらかといえば非政治的で、リベラルな立場の人物である」。チョムスキーは、この原稿を好きなように使ってよいと言い添えて、当時は友人であった研究者セルジュ・ティオンに渡した。すると、わたしたちが事実と信じるところによれば、ティオンと、ピエール・ギヨームという編集者のふたりが、事前になんのことわりもなしに、いきなりこの文章を、フォリソンの著書『私を歴史改竄罪に問う者に対する弁護趣意書――ガス室の問題』の序文というかたちで発表したのである。チョムスキーは知人たちから警告を受けて、その出版を差し止めようとしたが、すでに手遅れだった。

 この事件でチョムスキーは、おそらくいくつかの誤りを犯している。その最たるものは、原稿を好きなように使ってよいとセルジュ・ティオンに許可してしまったことだろう。それに、どうも分別に欠けたところもあったようだ。これは、誤りである。

 しかし、チョムスキーを誹謗するがわの攻撃の激しさ、執拗さは、いったいどう解釈すればよいものか。彼らが請願書ひとつ――くり返すが、その中ではフォリソンの主張の具体的内容そのものは、まったく触れられていないのである――だけを理由としてチョムスキーを有罪と決めつけ、彼の仕事の総体をみようともしないのは、いったいどうしたわけなのか。チョムスキーはつねに一貫してナチズムを否定断罪してきた。何十年も前から、何百回もくり返して――著書、手紙、論文、公の宣言などで――彼はこの態度を頑として曲げずに表明してきた。ホロコーストは「人類史上もっとも異様な集団的暴力の噴出」である。そうだとすれば、チョムスキーの論敵は、彼がフォリソンのことなどなにも知らないと強調しているにもかかわらず、ひとつの戦術的ミス、いいかげんさを責めているのか、それとも、ひょっとすると、チョムスキーの表現の自由の絶対的な擁護それ自体を標的としているのだろうか。

「請願書事件」の根底には、根本的に異なる米仏それぞれの政治的伝統の、その違いを生む要因となっているひとつの文化的誤解が横たわっている。フランス人とちがってアメリカ人は、表現の自由の保護を憲法の土台、不可侵の大原則としているのである。絶対自由主義者チョムスキーは、だからこそ、生涯を通じて、ありとあらゆる種類の事件で、表現の自由を擁護する請願書に何十回となく署名してきたし、米国にはそのことで驚くような人間はひとりもいなかったのである。ガス室否定論の表明を処罰するゲ[訳注5]イソ法のごときフランスの法律は、米国では絶対に陽の目をみることはありえなかったであろう。そういう趣旨の法律は、ただちに米国憲法と矛盾することになるからである。

 本書は、すでに二十年にもなるフォリソン事件の論争から生じたあらゆる疑問に、網羅的に答えるわけではない。この問題に割くのは数頁のスペースにすぎない。この件に関してチョムスキーはきわめて頑固である。誤りを認めることは、彼にはできない。「パリの小さな知識人グループ」に対しては、激しい口調も辞さず、とりつくしまもない。このくだりは、インタビューのとき、チョムスキーが唯一いらだった表情をみせたと思われた瞬間である。これではチョムスキーのせっかくのフランスへのカムバックが難しくなるとか、あるいは、これではわたしたちの評判がずたずたになってしまう、というような口実を立てて、この部分を削除してしまうこともできただろう。しかしわたしたちとしては、このくだりを、チョムスキーがわたしたちに向かってしゃべったとおりに、そのまま残すほうがよいと思った。チョムスキー本人には、そんなことはないと言われそうだが、このくだりは、たぶん、誹謗中傷を浴びせるがわのひとびとのあまりにもひどいやり口に深く傷ついた、ひとりの人間の応答なのだと思う。

 しつこいようだが、最後にもう一度くり返しておく。ノーム・チョムスキーは反ユダヤ主義者でもなければ、ガス室否定論者でもない。これまで一度たりとも、そんな立場に立ったことはない。ただ、彼は、表現の自由なるものを、あらゆるもののうえに置いているだけのことなのである。

 本書『チョムスキー、世界を語る』は、中立公正を装う公用文書や思いもかけないニュースが次から次へと溢れかえるばかりに氾濫しているなかで、真正なひとつの資料として読まれるべきものである。これは、一九九九年十一月、シエーナ近郊の丘の上に建つ古い修道院の、心地よい雰囲気のなかで録音された会話を活字にしたものである。

 本書の刊行がインタビューから二年遅れとなったのは、チョムスキーの触れた数多くの点について、電子メールを利用して確認をとる手続きを踏んだからである。だいたいチョムスキーというひとは、七十三歳という高齢にもかかわらず、いまでもなお精力的に研究と講演をこなし、その合間を縫う空き時間も、六カ月先までスケジュールがびっしり詰まっているという状態なのである。

〔二年前には〕ジョージ・W・ブッシュはまだ合衆国大統領ではなかったし、ワールド・トレード・センターのツイン・タワーはまだそびえ立っていた。だがしかし、チョムスキーがわたしたちに語ってくれたことの本質的な部分は、いまなお、いささかも古びてはいない。チョムスキーがここでわたしたちに差し出しているのは、フランスではほとんど味わうことのない読書体験である。これは、自由で、傲岸不遜で、正鵠を射抜く精神の内省録なのである。

 それが銀行家の権力についての話だろうと――いま思い浮かぶままに例をあげれば――、各国中央銀行の政府に屈しない異常なまでに強い立場についてだろうと、金融・経済界を牛耳る少数の支配者についてだろうと、外交手段ではなくてかならず戦争のほうを選ばせる理由となる経済的メリットについてだろうと、米国のテロリズムについてだろうと、多国籍企業のあらたな役割とひそかな戦略についてだろうと、宣伝工作に利用されているメディアのコードについてだろうと、民主主義体制下の知識人の役割についてだろうと、はたまた、つねに情報をキャッチしていることの絶対的な必要性についてだろうと……、チョムスキーとのインタビューは、始めから終わりまで、いっさいの社会通念をしりぞけてゆく知的な格闘だった。それを一冊の書物にまとめないでおくようなことは、とうていできなかったのである。

 チョムスキーを読み、まわりのひとたちに伝えてもらいたい。考えるだけでなく、口に出して言ってほしい、チョムスキーは、この新しい千年紀の、真に反骨精神をもつ最後の著作家、生きている思想家のひとりだと。(ドゥニ・ロベール)

■書評・紹介

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○預言者たち‐チョムスキーとチェーホフ‐ 田桐正彦――PR誌「トランスビューNo05」より

『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』 の国際コンクール最優秀作をあつめた短編集がある。 クイーン編 『黄金の13/現代編』 というそのアンソロジーに、 H・F・ハード作 「名探偵、 合衆国大統領」 という一九四七年の作品が入っている。

 海洋潮流の研究者が大統領に面会をもとめる。 北氷洋の氷が溶けだし、 潮流に変化がみられるというのだ。 このままだと海面が上昇し、 合衆国が水没する。 じつは、 これはソ連の陰謀だった。 大統領は世界地図をにらみ、 大胆に反撃する。 その結果、 この地球環境の変化はむしろ合衆国に有利に働くことになる……。
 なんとも妙な話である。 書いた作者も不思議だが、 それよりも不思議なのは、 無数の佳作を押しのけて、 この奇妙な小説を一席とした編者クイーンである。

 さて、 米国は地球温暖化防止の 「京都議定書」 から勝手におりてしまった。 大統領はヨハネスブルク環境サミットにも背を向けた。 米国政府はともかく、 一般の米国市民の環境保護意識が、 低すぎはしないか。

 そう感じていたが、 『チョムスキー、 世界を語る』 を読んで謎が解けた。 危険など存在しないという宣伝工作のせいで、 危機感が薄められている。 いや、 それどころか、 環境危機が実在するとしても、 その危険はむしろ米国を利するとさえ、 言われているという。

 あきれかえった話である。 環境危機が米国に有利という、 あまりにも荒唐無稽な話から、 くだんのマンガ的な 「名探偵」 を思い出した。 好戦的な大統領を。
 十九世紀末の文学には、 ときおりもうすこし深刻なエコロジー思潮のようなものが現れる。 たとえばイプセンの 『野鴨』 では、 森林の伐採がすすんだと聞いた登場人物エクダル老人が、 次のような不安をもらす。

  伐きった、 え? (声を落とし、 おびえるように)
  危ないな、 そりゃ危ない。 厄介なことになるぞ。 森は復讐するからな。 (原千代海訳)

 チェーホフの 『ワーニャ伯父さん』 は、 ひょっとするとこのイプセンの影響を受けているのかもしれない。 『ワーニャ伯父さん』 には森林の保護育成に熱心な医師アーストロフが登場するのである。
 恐るべき先見性をもつようにみえるこの医師の環境保全思想は、 しかし、 文字どおりに受け取るべきものではあるまい。 チェーホフは、 当時の植林や環境保護を、 差し迫った現実からみれば理想主義の、 夢想的で現実逃避的な行動としてむしろ否定的にみているのだろう。

 この作品の主題は、 知識人批判である。 単純化をきらうチェーホフらしく、 「知識人」 といってもいくつかのタイプを描き分けている。

 痛烈な知識人批判という点は共通だが、 チェーホフとチョムスキーでは正反対のところがある。 チョムスキーは現象の差異を超えて、 ものごとの最下層に横たわる単純な原理を直視するタイプの思想家だろう。

 わたしはどちらかといえば、 チェーホフ流の飛躍のない現実認識が肌にあうが、 しかし、 チョムスキーは別格と感じている。 なにごとにも欺かれないという点で、 チェーホフに通じるものがある。
 両極端のようだが、 両者とも観念の遊戯をきらい、 現実だけを相手にしているということだろうか。(たぎり まさひこ/女子美術大学・フランス文学)

■言及



*作成:今井 浩登
UP:20191220 REV:
哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学 身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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