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『ポストモダンの新宗教――現代日本の精神状況の底流』

島薗 進 20010925 東京堂出版 p270


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■島薗 進 20010925 『ポストモダンの新宗教――現代日本の精神状況の底流』,東京堂出版,270p. ISBN-10: 4490204477 ISBN-13: 978-4490204476 \2415 [amazon][kinokuniya]

■内容

(「BOOK」データベースより)
70年代以降に発展期をもった「新新宗教」の特徴と、現代日本の精神状況を読み解く。

(「MARC」データベースより)
70年代以降に発展期をもった「新新宗教」について、その信仰世界、ナショナリズム、日本文化論など混迷し多様化する問題点などを論述。現代日本の精神状況を読み解く。

■著者略歴

(「BOOK著者紹介情報」より)
島薗 進
1948年、東京生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学科卒業。現在、東京大学文学部(大学院人文社会系研究科)宗教学宗教史学科教授。主な研究領域は比較宗教運動論、近代日本宗教史

■引用

「現代宗教と悪」 終章p241-263

オウム真理教と悪の実在の誇張・誇示

外部の悪にこだわる

オウム信徒たちは、善の使徒である自己が世界に満ちわたっている悪と戦い、最後の勝利を得て、地球を救うという夢想にとらわれた。この世の悪、自らがまきこまれざるを得ない悪からまるっきり浄められ、究極の善へと高められたいと願ったのがオウム信徒であった。

麻原彰晃は、今この世が悪にまみれた救いがたい苦の世界である事を説く事が得意だった

→麻原は外部から攻撃してくる巨大な悪の像を描き出しそれと戦っていると信じることで安らかな自己意識を得ようとした。

→そして、自らがもつ悪を外部に投影し、内に悪を抱え込むのを拒むことにより、他者との関わりの中で悪にまみれつつ生きる自己を相対化する眼差しを見失ったのであった。(現代の大衆娯楽文化の中で人気を博したものにも見出される。ex. 風の谷のナウシカ、新世紀エヴァンゲリオン、もののけ姫など)

世俗的な善悪を超える

オウム真理教が世俗的な倫理を軽々と飛び越え、あえて無差別殺人にまで至る数々の悪を犯したことをどう考えればよいのか

→オウム真理教はそれらの悪をタントリズムや密教の教説によって正当化した。殺人は無条件に否定されるべきものではなく、多くの人を救うためにやむをえざることであり、相手のためにも悪しきカルマからの解放がもたらされるのであれば、殺人も許される。

そもそも、世俗道徳を超える次元をもつものが宗教であるならば、あえて悪を犯す宗教者にいかなる基準から「否」と説く事ができるのか?(親鸞=悪人正機説)

新霊性運動と悪の不在の誇張

新霊性運動の「宗教」批判と「近代」批判

オウム真理教は悪の実在を誇張する教えを説き、世界に向かって自ら人間の悪の実在を誇張してみせた。→現代社会の精神運動には、悪の不在を誇張するような強力な流れも存在する。

→それは欧米では、「ニューエイジ」、日本では、「精神世界」とよばれることが多い潮流

両者ともに地域的な違いはあるもののグローバルな規模で発展しているさまざまな精神運動の集合体で宗教運動にも通じるような性格がある。

・霊性運動に親近感を持つ人々は「宗教」はもはや過去の存在のものとなったと考えている。そのような人たちは、近代科学や過去の宗教が陥りがちであった、固定的な分割の態度を超えていこうとするところに人類文化の希望を見ようとする。

マクレーンによる悪の不在の誇張

新霊性運動のヴァリエーションの一つの中に「悪の不在の誇張」を鮮明に表すような運動がある

・伝統的な宗教が自己から遠い超越者に向き合う事を求め、近代科学が自己の外部にある世界を分析し、支配していくことを目指したのに対し、新霊性運動は自己が自ら体験し、それを通して自己がより高次のあり方へと成長していく事を追及する。

「自己」の高い価値

新霊性運動では、自己内部にこそもっとも重要なものが見出されそれを通してさらに外部の存在や世界と自己が一致融合できるようになるという可能性が強調される。

新霊性運動の背後には、自己は善悪の対立に引き裂かれたり、超越領域から切り離されたりした小さな「我」なのではなく、それらを包み込み、全宇宙の実体とも合致しうるような何かなのである。

「近代以後」「宗教以後」の時代における自己と悪

救済宗教による悪の実在の強調

救済宗教は悪を根深いものと考え、除去不可能としながら、なおかつ超越領域において、その克服が可能であるとする。たとえば、死後の世界に永遠のいのちがあるとか、苦を繰り返す輪廻転生の末に究極の解脱があるなどという思想、超越領域の代償を示しつつ、この世の今の生の悪を避けがたいものとして受け入れるように促すものと言えるだろう。

近代合理主義とその彼方

1970年以降、世界的な規模で近代的な世界観への失望が広まった。

→近代科学は、悪の除去を広げていくはずであったが、実際には環境問題を初めとする多くの新たな悪を作り出していたということが露になってきた。

「近代以降」の思想が求められるようになった背景には、このような近代への失望の経験が、全世界の多数の住民の心を見舞っているという事態がある。そしてこのことは近代合理主義が除去すると想定したり、周辺化したりしてきた悪が再び黒々とした姿を眼前に登場させるようになったということを意味してもいる。

日本における悪の実在の誇張

日本の場合…1970年代以降、経済成長故の楽観が広まり、日本文化の自己礼賛が高まる一方、人類文化のゆきづまりへの不安が強まり、終末予言・危機予言が好まれるような雰囲気も次第に醸成されていった。(それは、オウム真理教や他の新新宗教、また大衆娯楽文化にも見られる)

・現代人の自己は、悪の克服を楽観的にしんじることに甘んじえず、悪の不可避性を受け入れつつ超越領域での悪の克服を展望するような文化装置に再びひかれるようになってきた。

悪の軽視の理由

新霊性運動に見られる「悪の不在の誇張」はどのように理解できるのか。

→新霊性運動は、自由の否定を含まないで、自己の多面性、重層性に気づきつつ、今の自己をこえていくことを目指す。その中には善なる自己から切り離されがちな内なる悪の統合ということも含まれる。悪を包み込み、抱かえ込んで高次の自己に融合すること、これが「自己変容」という語の意味の一つである。

→つまり、この自己変容において、悪は自律的自己によって克服、統合できるものであり、その実在性は低次のものにとどまるものなのである。

ポストモダン的な宗教性と悪の回帰

知性を主要な構成要素とする近代的な自立的自己(自我・主体)を信頼する近代合理主義への失望の広まりは、克服したがい悪の認知、すなわち「悪の回帰」をもたらす。この「悪の回帰」の状況の下で、悪の実在の誇張、誇示を特徴とするような宗教運動や大衆文化が目立つようになる。

→これは、救済宗教の伝統を引き継ぎ、自立的自己の限界を認め、悪の認知を強調しつつ、超越領域での悪の克服の希望を復興しようとする潮流である。

ポストモダンの新宗教という様相を持つ新新宗教が、オウム真理教が示したように軽はずみでかつきわめて重大な悪を露出させるとき、それを未成熟な宗教性をもった集団の仕業とし、自己の器を広げるよう個々人の成熟を促す企てはもちろん重要である。

→しかし、それとともに、ポストモダン的な様相を次第に深めていった70年代以降の日本社会で、なぜ悪がかくも無残に持て余され、もてあそばれる様になったのかという問いに、繰り返し立ち返る必要があるだろう。

■書評・紹介


■言及


*作成:中田 喜一
UP: 20091105 REV:
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