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『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』

藤沢 敏雄・中川 善資 編 20010810 批評社,『精神医療』別冊,215p.

last update: 20101228

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藤沢 敏雄中川 善資 編 20010810 『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p. ISBN-10: 4826503350 ISBN-13: 978-4826503358 [amazon][kinokuniya] ※ m
 →島 成郎

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追悼 島成郎(私の島成郎経験;島さん―東大精神神経医学教室入局から国立武蔵療養所を経て、沖縄へ発つまでの6年間;島先生、ありがとうございました。 ほか)
「心の輪を広げる集い」記念誌から(“心の輪を広げる集い”記念誌発刊のことば;「心の輪を広げる集い」記念誌に寄せて;“心の輪を広げる集い”記念誌に寄せて―私の体験を通して ほか)
島成郎遺稿(追悼―久良木幹雄さんへ;精神衛生法「改正」に思う;北海道・植苗病院での講演 ほか)

精神医療改革運動に心身を燃焼し尽くし、静謐のうちに彼岸へと去っていった島成郎の追悼特集号。追悼論文の他に島の講演記録などの遺稿や、生前の貴重な写真を掲載した「メモリアル・島成郎」などで構成。島博子による年譜も併載。

島は日本における戦後唯一の政治闘争、1960年反安保闘争の指導者だった。論理を超え、自からの行動をもって、亡びゆかんとする人間的情念を呼び起こす魔性こそ、島成郎の本質だった。「腰を据えて、精神病者をみつめ、共に生きることにする」との島の言葉を、私は今も忘れることができきない。以来、彼は与えられた生涯のすべてを精神医療の変革に心身を燃やしつづけ、静謐のうちに彼岸へと去っていった。(「序説」より)

雑誌『精神医療』誌、初の別冊総特集。ページ数も通常号の約2倍、B5判でカバー装という体裁です。

■目次

序説 広田伊蘇夫

●追悼 島成郎
私の島成郎経験 知念襄二
島さん 東大精神神経医学教室入局から国立武蔵療養所を経て、沖縄へ発つまでの6年間 中川善資
島先生、ありがとうございました。 新里厚子
島先生を偲ぶ 中山勲
島先生と植苗病院グループ 望月紘
島先生の伝言 仲宗根正
島さんへの鎮魂歌 森山 公夫
先達であった島成郎さんをおくる 藤澤 敏雄

●「心の輪を広げる集い」記念誌から
“心の輪を広げる集い”記念誌発刊のことば 小渡有明
「心の輪を広げる集い」記念誌に寄せて 島成郎
“心の輪を広げる集い”記念誌に寄せて 私の体験を通して 新里厚子

●島成郎遺稿
追悼 久良木幹雄さんへ
精神衛生法「改正」に思う
北海道・植苗病院での講演
地域精神医療と作業所の役割 
これからの精神保健福祉活動
連続講座 島 成郎
 第1回「これまで」
 第2回「いま」
 第3回「これから」

島成郎年譜 監修・島博子

■著者紹介

藤沢敏雄[フジサワトシオ]
1934年新潟県に生まれる。1961年新潟大学医学部を卒業。1962年東京大学医学部精神科教室に入局。1966年東京都立松沢病院に勤務。1967年国立武蔵療養所に勤務。1968年東京都地域精神医療業務研究会が発足し、代表として現在も活動する。1981年2月国立武蔵療養所を退職し、一陽会陽和病院院長となり、同時に柏木診療所を設立。1985年2月立川市に、にしの木クリニック設立。1985年10月陽和病院院長を辞し、柏木診療所、にしの木クリニックに勤務。現在、医療法人社団東迅会理事長、にしの木クリニック所長、東京精神医療人権センター代表、「精神医療」編集委員会代表

中川善資[ナカガワヨシスケ]
1935年台湾台北市に生まれる。1962年熊本大学医学部卒業。1963年東京大学医学部精神神経学教室に入局。1966年国立武蔵療養所に勤務。1983年国立療養所全生園に勤務(副院長)。1991年全生園を退職。医療法人赤城会三枚橋病院に勤務。1994年国分寺市に中川クリニックを開業し、現在に至る

■引用

広田 伊蘇夫 20010810 「序説」,藤沢・中川編[2001:3]

 「あらためて記すまでもなく、島は日本における戦後、唯一の政治闘争、1960年安保闘争の指導者だった。しかし、私にとっての島は、砂川基地反対闘争以来、心の奥底に居座り続けた信頼の星だった。年月を経て、精神病院の開放運動に一石を投じつづけた私の朋友、石川信義と共に、当時、砂川小学校の講堂に寝泊まりし、降り続く雨の中、デモ隊の一員として国家権力に対峙し、反安保闘争の前哨戦として、1959年11月の国会突入時には、これも石川と共に国会の横柵を越え、正門の鉄扉を叩きつづけた。いずれも島の信条に共感した行動であった。論理を越え、自らの行動をもって、亡びゆかんとする人間的情念を呼び起こす魔性こそ、島成郎の本質だった。」(広田[2001:3])
 →石川 信義

◆中川 善資 20010810 「島さん――東大精神神経医学教室入局から国立武蔵療養所を経て、沖縄へ発つまでの6年間」,藤沢・中川編[2001:34-41]

 「当時の教授は秋元波留夫先生で、島さんの復学にお力添えがあったと聞いている。然し、精神科志向は学生の頃から決めていたと後で島さんから聞いた。秋元先生と島さんとの関係は以後島さんの死に至るまで続いていたが、島さんの沖縄行きへの重要な契機の一つに秋山先生の存在がある。」(中川[2001:13])

浅野 弘毅 20100510 「藤澤敏雄論――「生活療法」批判を中心に」,精神医療編集委員会編[2010:81-88]

森山 公夫 20010810 「島さんへの鎮魂歌」,藤沢・中川編[2001:34-41]

 「それでも1964年春、島さんは無事医学部を卒業し、1年間のインターン奉公ののち、65年春、東大精神科に入局しました。その入局の動機を彼は、「森山公夫と秋元波留夫(元東大教授)がいたから」、とどこかで述べています。だがこれには伏線があります。
 実は安保闘争の直前の1959年暮れ、専門科の選択に迷ったわたしはくそ忙しい島さんをまた自宅に訪れ、相談をしていたのです。元来漠然と内科医になろうと思っていたわたしは、インターンで各科を廻っている間に、内科そしてそして医学一般に幻滅してしまったのです。ならばいっそのこと基礎の大脳生理学に進み研究者になるか、それとも当時惨状を呈していたがなにか魅力を秘めている精神科に進むか。悩みに悩んだわたしに対し島さんはえらく明快に、精神科医になることを進めました。理由は、「あんたは人間が好きだろう」でした。これは自分自身を語っているな、とわたしは直感しました。結局精神科に進んだわたしの後に、自治会仲間だった鈴木良雄や宇野正威、そして石川信義や広田伊蘇夫なども続き、外からも藤澤敏雄・中川善次なども集まってきて、けっこう面白い場ができていました。こうしたことから、島さんの精神科選択にはおそらく迷いはなかったと思います。一方、秋元先生については、わたしたちが東大闘争以降対立し続けたのに対し、島さんは一貫して敬愛の念を抱いていました。おそらく、亡きお父さんに面影が似ていたのではないか、とわたしはひそかに思っています。」(森山[2001:38])

 「島さんは幸か不幸か、ちょうど前年の67年春に東大病院を出て、国立武蔵療養所に常勤医の職をえたばかりでした。さらに68年の5・6・7月の3ケ月間、派遣医として沖縄にこだわっています。だがそれ以外の時期、彼ははるばる小平から本郷までかけつけ、終始この東大精神科の若手が主導する運動にかかわり、節目節目の大きなところでその運動の基本方針をリードしてきた、と云えます。4つにわけてその活動ぶりを語ってみましょう。
 まず、その活動スタイルです。若手医師は常にラジカルに問題をつきつけ、連合員すべてに対しても告発調になります。島さんはそれを受けながら、できるだけ多勢を糾合しようとし、できるだけ連合を割らないように努めていました。だがいざどうしようもないと判明すると、断固として進みました。つまり彼は、可能な限り構成員民衆の意見を聞き取ろうとし、その上に皆を納得させうる方針をうち出そうとしていたのです。
 だが一方で彼は、一般のわれわれの予想を超えた大胆な方針を提起しました。そもそもおそらく後世に残るであろう「赤レンガ病棟自主管理」闘争の発端を提起したのは彼でした。ただし準備は入念で、半年以上も前から若手の活動的医師を集め、東大精神科医師連合の闘いを継続させるために東大病院への「乗りこみ部隊」を組織し、それが闘いを担う主題になるべきことを力説し、その責任者に当時外に出ていたわたしになれと云ったのです。これが後に、「自主管理闘争」に発展していくもとにになります。
 さて次に島さんは、持論である新たな理論的活動の重要性を説き、自分たちの手で理論誌をつくるべきだと主張しました。わたしもその必要を感じていましたので応じ、1970年1月、東大精神科医師連合の名でつくつたのがいまのこの「精神医療」誌の創刊号です。タイプ印刷で、わたしが「発刊の辞」を、島さんが編集後記を書き、そして表紙は博子さんが装幀してくれました。
 最後に島さんは、精神神経学会に対する対策として、早い時期から学会の評議員に若手の代表を送りこむべきことを主張してきました。69年6月の金沢学会で全国の若手精神科医のすさまじい反乱が起こり、学会理事が総退陣する中で、やはり島さんの、今度は理事を送り込むべきだという意見が入れられ、島さんや私も含めて多数の若手が理事となり、理事会活動をリードしていくもとになったのです。
 いまこの間の運動を想起して改めて感銘をうけたことは、島さんの終始変わらない民衆的な「革新的運動」への熱情です。そしてその運動の渦中にありながら島さんは、われわれより常に一歩先を読み、その地点から大きな方針を打ち出していったことです。」(森山[2001:39])

藤澤 敏雄 20010810 「先達であった島成郎さんをおくる」,藤沢・中川編[2001:42-46]

 「私が沖縄にいる間に、日本の精神医療、精神医学を改革しようとする気運が全国に拡がっていたのでした。療養所に戻った私は、改革へのうねりとは離れたところで、長期在院者の退院促進の仕事に没頭していましたし、東京の基地の街立川の保健所の嘱託医となったことを機に、多摩地区の地域精神衛生活動に関わるようになっていました。
 そして、1969年5月、金沢。第66回日本精神神経学会相対で、若手精神科医を中心とした人々の告発が展開されました。強制収容所的精神病院の悲惨な状況、手配師的な人事支配で精神病院をコントロールすると同時に、それに寄生している教授を頂点とした医局講座制、唯々諾々と状況に従う精神科医総体、製薬資本との癒着、研究至上主義……が自己批判を込めて告発されたのです。この告発は、関西精神医師連合、東大精神科医師連合などとの人々を中心として準備された反乱だと知りました。
 経験7年、ひたすら臨床に埋没しながらも、「どこか変だ」「どこか間違っている」と感じてきた私にとって、全て納得のいくことでした。貴方はその先陣を切った人々の中に居ました。精神医療改革運動に私が関わることをインスパイヤーした先達の一人だったのです。自分が精神科医として生きるということは、臨床医としての着実な実践は当然のこと、病者がこの日本という社会で置かれている状況とも切り結ぶことなのだと思い決めました。過重な負担であっても、過渡期の時代の中にいる精神医療従事者の一人として、やむを得ないのだと考えられたのです。」(藤沢[2001:43])

◆島 成郎 20000314- 「連続講座」,於:ノーブルメディカルセンター→藤沢・中川編[2001:130-207]

 「私が初めて沖縄に来た1968年の翌年、1969年は私にとっては非常に記憶に残る大事な年です。
 日本の精神科の医者の集まりである日本精神神経学会という一番大きな学会があります。それが金沢で大会を行い、その時に、日本の精神病院の実状、これに対して精神科医の医者はどう答えるか、ということが若い医者を中心に激しく告発されました。<0144<
 総会はまる2日間、学会発表を全部やめて、その問題だけに集中して討議した。それは若い人がやんや騒いだ訳ではなくて、古くからずっと真面目に民間病院で医療をやっていた古い年取った人たちもいた。
 それまで威張っていた大学の教授を中心とする学会の理事会というのは、投票により不信任されました。そして学会の体質、そういう精神病院を支えている体質を無くそうではないか、そのために新しい執行部体制を選ぶということで総選挙を行うという決議をやった。金沢学会として知られている学会が行われたのが、1968年です。
 私はまだ精神科医になりたてで3年ぐらいだから、まあちょっと図々しいことをやったと思いますけども、あまりにもひどい精神病院の状況に抗議を発して、新執行部を選ぶ選挙に立候補して評議員になり、理事になり、そして全国の精神病院改革の運動を心ある医療者と一緒にやることにした訳です。その運動は医者だけじゃなくて、その後は看護者に広がり、或いは心理士に広がり、OTに広がり、一般の市民運動にもなり、病院の開放化、患者の人権を守るという運動となってずっと全国に広がっていった、そういう大きなうねりのあった年です。」(島[2000→2001:130-207])

■言及

◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2): 資料

◆立岩 真也 2011/05/01 「社会派の行き先・7――連載 66」,『現代思想』39-5(2011-5):- 資料


UP:20101230 REV:20110113
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