『自己への物語論的接近――家族療法から社会学へ』
浅野 智彦 20010622 勁草書房,258p.+18
■浅野 智彦 20010622 『自己への物語論的接近――家族療法から社会学へ』 勁草書房,258p.+18 ISBN-10: 4326652543 ISBN-13: 978-4326652549 2940 [amazon]/[kinokuniya] ※
■目次
第一章 「自己」への物語論的接近
1 自己と物語
2 「私」は自己物語を通して産み出される
(1)視点の二重性
(2)出来事の時間的構造化
(3)他者への志向
3 自己物語と語り得ないもの
4 これまでの社会学的自我論との対比
第二章 物語論の諸潮流
1 物語としての歴史――歴史哲学の視点
2 物語としての認識――心理学の視点
3 物語としてのイデオロギー――イデオロギー批判の視点
4 物語としての自己――臨床心理学の視点
5 物語の形態と機能
第三章 家族療法とその物語論的展開
1 家族療法の物語論的展開――システム論から物語論へ
2 物語療法の理論と技法
(1)会話としてのセラピー
(2)脱構築としてのセラピー
3 物語療法から社会学へ
(1)自己物語が自己を構成する――会話的アプローチに学ぶ
(2)自己物語は語り得ないものを含みかつ隠蔽する――脱構築的アプローチに学ぶ
4 物語療法の限界
第四章 社会学的自己論は物語療法に何を学ぶか
1 社会学的自己論の二つの認識
(1)自己とは他者との関係である
(2)自己とは自分自身との関係である
2 関係論的アプローチの困難
(1)対他関係を変えることの困難
(2)対自関係を変えることの困難
3 物語療法の視点
(1)「関係を変えても自己は変わらない」というという問題について
(2)「主我は自己を変えるための足場をもたない」という問題について
4 社会学的自己論を書き換える
(1)対他関係は物語を通して自己を生み出す
(2)対自関係はパラドクスであり、自己物語はそれを前提にすると同時に隠蔽する。
第五章 構成主義から物語論へ
1 物語論は構成主義である?
2 構成主義は何か
3 構成主義のパラドクス
(1)語る自己についての奇妙さ
(2)語りの時間についての奇妙さ
4 物語論とパラドクス
(1)「語り得ないもの」は、自己の成り立ちに対してどのような関係にあるのか
(2)物語論的アプローチは「語り得ないもの」をどのように問題化するのか
第五章への補論 ガーデンの自己物語論
1 ソシアル・コンストラクショニズムの概観
2 自己物語論
3 自己物語論の拡張
あとがき
文献
索引
■引用
太字見出しは、作成者による。
語り得ないもの
それに対してここで強調したい「語り得なさ」とは、まさに自己物語のただ中に現れてくるようなものであり、自己物語が達成しようとする一貫性や完結性を内側からつき崩してしまうようなものだ。どれほど首尾一貫しているように見える自己物語にも必ずこのような「語り得なさ」がはらまれており、これを隠蔽し、見えなくすることによってはじめて一貫した自己同一性が産み出される。逆に自己物語を書き換え、これまでとは異なった自分を産み出すためには、この「語り得ない」ものを見えるようにすることによって、一貫性や完結性を揺さぶっていけばよいということにもなる。(p.15)
物語論的アプローチと関係論的自己論との違い
だとすると<自己が変わる>ということは、<関係が変わる>ということと単純に同じなのではないと考えるべきではないか。関係を変えることと自己を変えることとの間に右で見たような循環関係が生じてしまうのだとすると、それら両方の変化が起こるためにそれらとは別の変化要因を考慮しなければならないと考えざるを得ない。物語論的アプローチは、この別の要因を自己物語の「語り得なさ」に求めるものだ。すなわち、自己が自己物語を通して産み出されるのだとすると、自己の変化とは自己物語の書き換えであると見ることができる。そして、自己物語が完全に固定的・閉鎖的なものではなく、ときに書き換え可能なものとなるのは、それが必ず「語り得なさ」をはらんでおり、したがって必ず不確定・未決定なものであるほかないからだ。語り直し、書き直しとはこのような語り得なさ(不確定性・未決定性)をあらわにし、活性化させることによって行われるものである。(p.28)
物語療法の商品性
物語療法をこの文脈に置いて眺め直してみると、それもまた自己を語りたいという人々の欲望を満たす商品の一つであると見ることができる。自己物語を語る(語り直す)という作業は、物語療法という商品へとパッケージ化され(そこには会話的アプローチというブランドや脱構築的アプローチというブランドがあり)、購買され、消費される。小林の言葉をかりれば、それもまた「物語産業」なのである。自己の主題化を消費に結び付けているということからいえば、それは高度消費社会のもっとも典型的な商品であるとさえいるだろう。(p.116)
このような共振に無自覚なまま理論を用いた場合、理論によって対象を分析しているつもりでいて、その実対象の欲望を繰り返し模倣しているだけであるということが起こり得る。例えば「機能不全家族」理論によって「アダルト・チルドレン」の増大という現象を分析する場合、もしかすると、その理論こそアダルト・チルドレン(自称する人々)によって欲望されているものであり、分析者がそれを用いて説明を行うことは彼らの欲望を繰り返しているだけ、ということがあるかもしれないということだ。(pp.116-117)
物語への欲望はこの「語り得ないもの」を見ずにすませたい、という欲望でもある。もし自己への物語論的アプローチが「語り得ないもの」への問いを打ち捨てるとするなら、やはりそれは対象の欲望を繰り返していると考えざるをえないのである。(p118)
自己物語と構成主義の奇妙さのまとめ
ここまで「語る自己」のありかたと「語る時間」という二つの側面からの構成主義(の奇妙さ)を眺めてきたが、それらはいずれもひとつの問題、すなわち自己構成が自己言及であることのあらわれである。自己自身を構成するということは、自己が自らを構成するということであり、構成の前提が、構成の結果として現れてくるということだ。構成の前提(構成する「自己」)と構成の結果(構成された「自己」)との間には必ず決着のつかない循環の関係があらわれる。「決着がつかない」というのは、この循環を解消して、自己の成り立ちにしっかりした基盤(構成されたものではなく、構成するものでしかないような純粋に主体的・能動的な「自己」)を与えようとしても、それは無理だということを意味している。(p.201)
作成:篠木 涼