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『ドメスティック・バイオレンスと家族の病理』
中村 正
20010525 作品社
last update:20101215
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中村 正
20010525 『ドメスティック・バイオレンスと家族の病理』,作品社,258p. ISBN-10: 4878933828 2310
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■内容 (←注3)
中村 正
http://www.jca.apc.org/~tadashi/main.htm
■目次
第T部 家庭内暴力とは、どんな問題なのか?−親密さの中の病理
第1章 <家庭内暴力>とは、どんな暴力か?
第2章 家庭内暴力は、なぜ起きるのか?
第U部 家庭内暴力における“被害者”とは誰か?
第1章 被害者は、なぜ逃げないのか?
第2章 「バタード・ウーマン」からの脱出と援助策
第V部 家庭内暴力の“加害者”とは誰か?−加害者研究と対策
第1章 加害者研究−「バタラー」とは、どんな男なのか?
第2章 加害者対策−米国での実践
第3章 日本での加害者対策の実践
第4章 男性研究からの家庭内暴力へのアプローチ
第5章 メンズサポート活動について
第W部 家族という関係性−愛と暴力
第1章 私的領域としての家族
第2章 家族政策と男性・父親問題
■引用
第T部 家庭内暴力とは、どんな問題なのか?−親密さの中の病理
第1章 <家庭内暴力>とは、どんな暴力か?
★<家庭内暴力>とは、どんな暴力か?
家庭内暴力にはいろいろな種類がある。(p14〜16)
・子供に対する暴力−チャイルド・アビューズ(子ども虐待)
・老人に対する暴力−エルダーズ・アビューズ(老人虐待)
・女性に対しての夫婦間暴力
・子供から親への暴力−思春期・青春期暴力
そのほか、兄弟・姉妹間での暴力や虐待も含めると、家庭内のあらゆる関係性の中で、家庭内暴力が発生している。
これらに共通する特性(p16)
・家庭内暴力は、「ストリート・バイオレンス」(路上での暴力のこと)とは、その特性が異なる。
・家庭内の“弱者”に向かっている。
・家庭内暴力が発生するのは「親密な関係」の中からである。
まとめると、家庭内暴力とは「親密な間柄における虐待と暴力」という内容の言葉として現在使われている。同居している血縁関係者同士だけに起こる問題ではなく、恋人同士や離婚した元夫婦などその対象は広い。
★日本の<家庭内暴力>の実態
家庭内暴力は、突然増えたわけではない。最近まで、夫婦間暴力は、単なる“夫婦ゲンカ”として、子供虐待は“しつけ”や“体罰”として放置されてきただけである。ここ数年の間に関心がもたれるようになり、各種実態調査が行なわれはじめた結果、家庭内暴力が発見された。この背景には、国際社会での人権意識の高まりがある。(p20)
自治体では、女性に対する暴力に関する調査など実態調査が行なわれている。名古屋市の1999年の調査では暴力を受けた女性、暴力を加えた男性が、ともに約6割という結果が出た。京都市の2000年の調査では夫婦間暴力を受けた経験のある女性は32.1%であった。この調査では身体の暴力に加えて、性的暴力、言葉や感情による暴力、経済的な暴力、妻を外出させず行動を制限する社会的暴力などを受けた経験のある女性も多いことがわかった。(p21〜24)
★米国の<家庭内暴力>の実態
米国でも数多くの調査が行われている。数字としては、1年間に2400万人以上の女性が家庭内暴力により被害を受けている、といった結果が出ている。さらに、家庭内暴力による社会的影響・負担がかなりのものだと指摘されている。たとえば、医療・警察・司法制度・矯正システムなどの費用を挙げている。(p26〜27)
★「男性問題」としての「加害者問題」
家庭内暴力の事例のほとんどの加害者は男性である。ここのケースにはそれぞれの背景があるが、大きな背景として「男性性役割」(“男らしさ”という意識)がある。(p28)
これまでの男性中心型社会そのものが疲弊し、男性は病んでいる。社会システム全体における男性役割の変更が必要となっている。つまり、ドメスティック・バイオレンスに象徴される出来事は、こうした家族の外側の変化と関連している。(p29)
★被害者への視点
犯罪や非行、事件や事故、災害などの被害者への心のケアと被害者救済制度の必要性から、ドメスティック・バイオレンスについては、被害者である女性への聞き取り、体験調査、カウンセリングなどを通して、そのケアのあり方、加害者対策、被害者救済のあり方などが研究されている。(p30)
被害者の多数は子供や女性で、彼女らは家族という関係の中で監禁状態に置かれている。逃走を防ぐ障壁は目に見えないもので、子供たちの場合は1人では生きてゆけないために監禁状態に置かれる。女性の場合は、経済的・社会的・法的従属によって監禁状態に置かれる。(p31)
第2章 家庭内暴力は、なぜ起きるのか?
★親密さと暴力−自立と依存の連鎖
家族内での人間関係は、お互いにおぎ合いながら関係を保っている。ケアするものとケアされるものが相互に依存しあっている。親と子、妻と夫、兄弟姉妹の相互には、プラスであれマイナスであれ相互に規定し合う「相互補強」という濃密な関わりが存在している。家庭内暴力は、親密さに基づく相互補強しあう関係において起こるのである。愛情・保護・養育・介護などを介した関係であることが多いということである。(p33〜34)
★パワー(権力)とコントロール(支配)の関係
家庭内での男女間の暴力では、どちらも同じように被害者になる可能性がある。しかし一般的には、体力の違いもありダメージを受けやすいのは女性である。
家庭内暴力は「パワー(権力)とコントロール(支配)」という作用を中心において、夫婦間のあらゆる相互のかかわりの中に暴力が忍び込む。殴る・蹴る・叩く・物を投げるなどの行動の背景には、パワーとコントロールの関係が存在している。(p34〜38)
★<家庭内暴力>の多様性
家庭内暴力というと、たいていの人は、肉体的暴力を思い浮かべる。それに加え、夫婦間暴力は“性的暴力”という側面をもっていることも無視できない。(p39)
暴力にはいろいろなやり方があるが、その目的はすべて、他人の考えや行動を操ることにある。(p40)
被害者が抜け出せないということも事態を複雑にしている。悲劇的なことに、家庭内暴力が発覚するのは、被害者が死ぬか、重篤な状態にいたった時が多い。軽微な家庭内暴力事件は報道に値しないだろう。ここに<家庭内暴力>の難しさがある。(p40〜41)
★<家庭内暴力>が起こる要因−暴力にいたる“リスク要因”
老人虐待の場合の要因
・社会福祉や医療への家族の無関心や無知もしくは不信感
・堆積した家庭内ストレス
・世間体へのこだわり など
介護それ自体がリスク要因として存在している。
子ども虐待の場合
・虐待者の個人的要因(低い自尊心、怒りを統制できないなど)
・子どもの特性(あつかいの難しい子供、何らかの障害など)
・親としての特性(親であることの自覚の欠如、子供への非現実的な期待など)
・家族環境要因(慢性的な家族葛藤、夫婦間の暴力の存在など)
・社会的要因(低収入、失業、社会的孤立など)
夫婦間暴力の場合
・個別的な要因
たとえば、育った家族の中で暴力を受けた、両親の間に暴力があったことを見たりし た、家族から孤立した存在である、などである。
・社会的・文化的な要因
たとえば、男性は家族を統制するものだという考えが広がっていること、貧困、銃や刃物などが簡単に手に入ること、などである
家庭内暴力は、こうした複数のリスク要因の重なりを背景にして現われる。(p41〜44)
★愛情とコミュニケーションのギャップ
男女の“愛情”と“コミュニケーション”をめぐる問題がある。どうして男性は、愛した女性に暴力を振るうのか?という問題である。ストーキングやレイプなど、歪められた「恋愛感情」の背後には女性を所有したいという願望が垣間見える。こうした親しい者同士での暴力は男性のセクシャリティとも関連していて、男性と女性の“感情表現”や“対人関係のとり方”についての差を考えなければならない。言葉・身体動作・感じ方などのコミュニケーション能力を身につける過程で、男らしさや女らしさというジェンダー化された意識と態度が内面化される。離婚や家庭内暴力をとおして、この差が現れる。男女間にはかなりの意識の差がある。(p45〜46)
★ジェンダー・ギャップとコミュニケーション
「ジェンダー」とは、男はかくあるべし、女はこうだと考えられている役割や期待やふるまい方など、社会的に作られた意識や制度のことである。コミュニケーションの仕方に当てはめて考えれば、女性らしい言葉や会話スタイルは協調的・協同的であるのに比べて、男性らしい言葉や会話スタイルは競争的である、というものだ。(p48〜49)
★「ラブ・イズ・ブラインド」−恋と愛はすべてを覆い隠す
恋愛や結婚は好きでやっている、勝手な行動であり、すべて「自己決定」している自由で私的な事柄だから、結婚すると当然の責務であるかのように、家事・育児・看護・介護の仕事は女性に、家族を養い一家に責任を持つ役割は男性が持つことになる。
”愛”という言葉によって、本来社会が担うべき福祉的機能が女性の肩にのしかかる。”愛”という言葉で、暴力が肯定される。(p50〜51)
★閉ざされた関係としての家族・恋人
ドメスティック・バイオレンスや家庭内暴力というのは、親しい間柄で起こる暴力を意味する多様な言葉遣いの一つである。現実には、恋人関係・元夫婦関係など広がりをもっている。(p53)
★暴力と虐待の類型論を超えて
家庭内暴力を語る際に、「身体的暴力」「性的暴力」「情緒的・心理的暴力」「ネグレクト(介護や養育の必要な人を放置したり、遺棄すること)」という4つのパターンを析出するという暴力類型論が現在主流である。このレベルで明確になりつつある事柄に関しては、法的対応が急速に整備されなければならない。それに加え、家族関係に着目すると、被害者のケア、福祉的援助のあり方、加害者への対応など、非法領域での総合的対応を検討する必要がある。(p53〜54)
加害者は、「家族は他人ではない」とよく言う。「他人ではない」と思うその時点から、人権という言葉が遠のいていく。そこに暴力と虐待が起こるのである。(p54〜55)
★家族という境界
家族はほかの集団に比べて、独特の構造的な特質を有している。
・同じ家屋で過ごす時間の長さである。これは「時間特性」である。
・家族の緊張・葛藤・感情作用の密度の濃さである。これは「感情特性」である。
・家族構成員の間にある力の差異はもちろんのこと、権勢上の差異も無視できない。こ れは「不均衡特性」である。
・家族のプライバシーという壁。秘密ができやすい。これは「私事化特性」である。
・非自発的な関係である。これは「関係特性」である。
こうした構造的特質を踏まえて取り結ばれる組織体として家族があり、それは外部社会と明確な境界線をもって存在している。(p55)
★暴力を手段にする「自己顕示的暴力」と「道具的暴力」
家庭内暴力において「自己顕示的暴力」と「道具的暴力」の違いという整理は有益である。「自己顕示的暴力」は、暴力が一種のカタルシス(浄化)となっており、自己の怒りを鎮めるためにのみ振るわれることが多い。それに対し、「道具的暴力」とは、他人に攻撃を加える行為を含んでいるが、相手の行為を修正させようとして暴力が使用される場合である。虐待的な行為はあくまで“道具”として使われている。(p58〜59)
第U部 家庭内暴力における“被害者”とは誰か?
第1章 被害者は、なぜ逃げないのか?
★「バタード・ウーマン・シンドローム」−被虐待者の心理的特性
被害者の特性として、「バタード・ウーマン」(殴られつづけている女性)の共通の心的傾向が指摘されてきた。その代表的なものが、「バタード・ウーマン・シンドローム」(被虐待女性症候群)という捉え方である。
バタード・ウーマンに共通する性格
・殴られている女性は自己評価が低い。
・伝統的な家庭主義者で、家族の絆を重要視し、女性の性的役割について固定観念を持 っている。
・加害者の行為について責任をとり、自分に非があると考える。
・罪悪感に悩んでいるが、彼女自身が恐怖と怒りを感じていることを否定する。
・社会に対しては受身であるが、それ以上の暴力を受けたり殺されたりしないように環 境を操作する強さを持っている。
・重度の精神的重圧感があり、心理生理学的な苦情を訴える。
・加害者とセックスに基づいた親密な関係をつくりあげる。
・自分以外に自分の苦境を解決できるものはいないと信じている。
彼女らは自分が我慢をし、家族全員が安全に暮らせる環境を作ることを自分の義務と考えているが、実際には家庭内暴力が発生している環境を自分では変革することができないので、「自発的コントロールの喪失」という事態が起こり、「学習性無力感」が彼女たちを支配してしまう。(p62〜65)
★暴力のサイクル
家庭内暴力が発生している家族であっても、絶えず暴力が振るわれているのではなく、被害者たちは一定の「虐待サイクル」を経験しているということである。(p65)
虐待サイクルは3つの相からなる。緊張が高まる第1相(緊張形成期)、爆発と虐待が起こる第2相、穏やかな愛情のある態度になる第3相(開放期)である。このように暴力と愛情が循環しつつ、そうした事実を公表するのは家族の恥だという意識も生まれ、問題の表面化が遅れる。(p65〜67)
★犠牲者への非難
家庭内暴力を考えるときに「犠牲者への非難」の問題も無視できない。被害者を責めることは、せいにまつわる犯罪被害にはよくみられる傾向である。特に、米国のような自己責任と個人主義が強調される社会においてよく見受けられる傾向である。被害は、自らが招き寄せたものなので本人の責任で何とかすべきだ、という社会の意識をさしている。(p66〜68)
★被害者への責任の分散ー「共依存」「アディクション」
「共依存」とは”必要とされることを必要とする”という入り組んだ関係性のことを意味する。家庭内暴力という現象を捉えるために「共依存」という言葉が使われると、双方に暴力の原因があるということになりかねない。二者関係にある暴力を「共依存」として捉えるのは「責任の分散」という考え方になってしまう。
「共依存」の背景には、やはり人間関係・行動の病理としての「アディクション」がある。これはやめることが困難な悪循環を引き起こす習慣的行動のことである。人間は自己実現できる何かを見出し、そこに没入し、生きることの充実感を得る。それが病理現象となるまで極端化してしまったのが「アディクション」である。
しかし、家庭内暴力を「共依存」、「アディクション」として捉えていくのことは、暴力の責任を分散化したり曖昧にすることにつながりかねない。(p69〜71)
★「ストックホルム・シンドローム」
ある特殊な条件のもとで成立する、歪みをともなった親密な関係を捉えるのに、「ストックホルム・シンドローム」という考え方がある。1973年にストックホルム市にある銀行で立てこもり事件が発生した。この事件では、人質は犯人とある特殊な条件のもとで生成する関係のなかで、精神的な絆をつくってしまったのである。この逆説的な関係性は、家族も含めて社会生活場面に適用可能である。たとえば、子ども虐待、家族のなかで殴打される妻などである。(p72〜74)
★どんな関係が「ストックホルム・シンドローム」となるか?
「ストックホルム・シンドローム」が成立する際の4つの条件。
・犠牲者の生存を脅かすことを意図して関係が構築されている点
・恐怖が支配する中で、加害者の小さな親切が目に見える形で示される点
・加害者以外の眼差しから、犠牲者が孤立している点
・逃げることが不可能な点
「ストックホルム・シンドローム」に陥った被害者は、自分の愛情をもっと加害者へ注ぎ込むことが暴力の解決策だと思ってしまう。虐待者への愛と世話をすることが自分を生かす道だと思い込み、虐待者が自分を殺さずにいることに感謝するのである。(p75〜78)
★「ストックホルム・シンドローム」であるかどうかの指標
その関係が「ストックホルム・シンドローム」であるかどうかの潜在的可能性をみるための指標の一部をここに示す。
・被虐待者は、加害者による苦痛を感じないようにしようとして、身体から自己を解離 させる。
・被虐待者は、加害者の小さな親切に強く感謝するようになる。
・被虐待者は、加害者の肯定的な側面に絆を感じる。
この他にも指標は多々ある。
家族をめぐる社会制度が大きな変化を遂げないとすると、家庭内暴力の被害者は、家庭内暴力が発生する日常環境を生き延びるために、自らが置かれた虐待的環境に適応する戦略をとる。(p78〜80)
★虐待的環境への反応
「ストックホルム・シンドローム」のような関係が成り立つ要素を、家庭内暴力のある環境はもっている。(p80)
第2章 「バタード・ウーマン」からの脱出と援助策
★「犠牲者」から「生き抜く者」への過程を支援する
周囲からの援助があれば、もちろん「暴力のサイクル」から脱出できる。被害者への救助策にも、発展の過程がある。(p82)
第1段階 家庭内暴力への関心と啓発。何よりも実態調査が大事である。
第2段階 家庭内暴力で被害を受けている事態への、既存の制度を活用した対策。
第3段階 独特な心的特性を形成する被害者へのケアを含めた、立ち直り支援である。
第4段階 加害者対策を含めた総合的な家庭内暴力対策の法制度の確立である。
★「シェルター」の機能
「シェルター」とは”避難所””駈込み寺”という意味である。直面する危機から逃れるために必要な施設で、「犠牲者(ビクティム)」から「生き抜くもの(サバイバー)」への地位変容を支援する役割を担う。(p83)
★「バタード・ウーマン」という把握のもつ意義と限界
バタード・ウーマンという捉え方は、虐待のある環境に対して適応していく側面を捉えたものなので、ここから抜け出る側面を表す言葉も同時に必要だと考える。必要な社会資源と効果的な支援の機会があれば、虐待的環境から逃れられるという視点を持つべきだろう。(p85)
★「サバイバー」という見方の必要性
「サバイバー」の理論と仮説による特徴づけ
・激しい暴力は、バタード・ウーマンが事態に対処しようとする戦略を立てることを促 す。
・サバイバーは、虐待社のもとを離れる際に、不安を経験する。選択肢の欠如、ノウハ ウ・お金の欠如などが、虐待者から逃れようとすることについての恐怖をもたらす。
・サバイバーは、積極的に支援を求めている存在である。公式・非公式の支援を求めて いる。不適切で断片的な支援のサービスは、犠牲者を虐待者のもとへ戻してしまうこと になってしまう。
・サバイバーへ、包括的でより規定的な支援へのアクセスがうまくいっていないと、虐 待が続き、エスカレートする。不適切な支援は「学習性無力感」を高めることになってし まう。
・バタード・ウーマンはサバイバーとして存在すべきだ。地域でのサービスがあれば、 虐待から逃れることを支援できるのである。(p86〜87)
★ある「バタード・ウーマン」からの手紙
「犠牲者」から「サバイバー」へと地位変容を遂げた女性が書いた手紙である。この女性は家庭内暴力を受け、恐怖、不安を感じながらも、自分のために、子どものために、そして夫のためにも、離婚を決意した。
★被害者サポート政策として
「DVに反対する全米連合」は、被害者が虐待的環境から脱出する際に、次のような具体的提案をしている。
・情報を入手すること。自らの状況を拠りよく知るためにあらゆる情報を得ること。
・法律相談で話すこと。
・理解できる年齢の子どもに、よく話をすること。 など
生き抜くためには、被害者自身の意識の変革も必要である。
・あなたは、敬意ある人間関係をつくる権利があります。
・親しい人の問題ある行動について、あなたに責任はありません。
・あなたは「怒る権利」をもっています。
・あなたは交渉する権利があります。 など(p90〜93)
第V部 家庭内暴力の“加害者”とは誰か?−加害者研究と対策
第1章 加害者研究−「バタラー」とは、どんな男なのか?
★加害者研究とは?
米国では「ドメスティック・バイオレンス」対策がある程度進んでいるため、加害者研究もかなり行なわれている。(p96)
ダットンの<家庭内暴力>の加害についての3つの説明(p96〜100)
・医学的説明
「脳がダメージを受けている」という考え方である。しかし、傷ついた神経組織を持つ 人が、なぜ妻だけを、しかもプライベートな場所のみで攻撃するのかはうまく説明でき ない。
・フェミニスト的説明
男性の一般的な横暴さを強調する見方である。暴力は、力のヒエラルキーの中で、男性 がその頂点にいるという状態を維持させる。男性が妻を虐待する理由は、個人にではな く社会にあるという見方である。これに対し、ダットンは、フェミニスト的説明は家庭 内暴力の社会的背景に対する指摘としてはきわめて重要であるが、殴る男性と殴らない 男性がいることを説明できないと言っている。
・社会的学習
社会的学習論の基では、男性は自分が得意な暴力を通して女性に勝つ。男性達は1つの 優位性、すなわち肉体的優位性に頼る。社会的学習論は、妻の虐待に関するほかの解釈 よりも分かりやすい。行動におけるそれぞれの多様性を説明しているからである。
★「バタラー」の共通の特性
「バタラー」とは殴る男の事である。その特性は次の通りである。(p100〜101)
・バタラーは家庭のトラブルの責任を、殴る対象となる相手に向かって転嫁する。
・バタラーは、相手の自律性を否定する傾向がある。
・バタラーは妻を1人の人間としてみるのではなく、シンボルとして見る傾向がある。
・バタラーは、結婚して生活し、夫婦でいることへの期待に固執している。
・バタラーは妻が自分に対して魅力を感じ、必要としていると信じている。
・バタラーは夫婦関係において、親密な関係を築けないか、または歪んだ親密性しか築 けない。
★「虐待者シンドローム」
バタラーは、虐待と暴力によって、何らかの感情的で感覚的な自己の統一性を満たしているとする「虐待者シンドローム」がある。(p102)
・暴力や虐待を通して、自律性の感情を満たしている。
・防衛するという感覚を満たしている。
・確認と賞賛という感情を満たしている。
・他社を自己の内部に取り込んでしまう勝手な感覚をもっている。
★「中和化」の技術
バタラーは、<家庭内暴力>を正当化する社会意識によりかかって、暴力の責任を無視する。これを「中和化の技術」と呼んでいる。これを用いる際に男らしさイメージが活用され、男性性役割が家庭内暴力を肯定する関係が、言いわけを見ると分かる。(p103〜104)
★日本の離婚裁判における「バタラー」のタイプ
日本のドメスティック・バイオレンス加害者の特性(p104〜105)
・妻への依存欲求が非常に強いタイプ。
・家族以外の対人関係が苦手で、言葉によるコミュニケーションが下手なために暴力を 振るうタイプ。
・育った環境において暴力を身近に経験してきたために、暴力を振るうことへの抵抗感 がもともと乏しいタイプ
・アルコールや薬物への依存とも関わって、病的な人格の現われとして暴力を振るうタ イプ
★ジキルとハイド的二面性
カリフォルニア州にある、おもにバタード・ウーマンを支援する市民団体の調査した加害者の実態は以下のようなものである。(p105)
・自己評価が低い
・病的に嫉妬心が強い。
・自分の行動を他人のせいにする。
・ジキル博士とハイド氏的人格 など
また、暴力は病んだ個人の問題であり、精神に異常のある男性の問題だという認識を強調する立場と、暴力は背景にある男女関係や上下関係を考慮に入れるべきだという認識の2つがある。(p106)
★「世代間連鎖」
バタラーの特性に関して、暴力の「世代間連鎖」があると言われている。バタラーの多くは、育った家族で暴力や虐待を受けたことのある人である。しかし、殴られた子供が必ず殴る大人になるわけではなく、男女間・夫婦間で、暴力・虐待が成立し、許容されていく過程で、その意味づけが子どもに内面化されていく。(p107〜109)
★加害者のタイプ分け
ホルッワース=ムンローとスチュアートは加害者を3つのタイプに分けている。(p109〜111)
・家族の中でだけ暴力を振るう男性 妻とのコミュニケーション・スキルの貧しさ、妻への依存の高さや妻を占有していたいという感情、衝動を押さえる事が困難、さらには、拒否されたり、見捨てられる事を恐れる感情などを持っている。
・家族の外でも、つまり一般的に暴力を振るう男性 常に攻撃的で、衝動的で、反社会的な行動をともない、育った家庭において暴力を体験している。また性別役割分業の意識を強く持つ保守的なタイプである。
・人格障害的であり、精神病理的な背景があり暴力を振るう男性 両親からのネグレクトや暴力的な虐待を経験している。また、適切な愛着を親との間に形成しておらず、女性に対しても敵対的な意識や態度を示す。
第2章 加害者対策−米国での実践
★米国での心理教育プログラムの研究
米国では、家庭内暴力の加害者対策が作られており、家庭内暴力を犯罪として捉える体制があるので、その結果、バタラーが加害者化される。その制度のひとつが、加害者向けの「心理教育プログラム」である。(p116〜117)
★「ダイヴァージョン・プログラム」(刑罰代替策)としての加害者心理教育プログラム
ダイヴァージョン・プログラムは、一定の条件つきで、「保護観察処分」となった加害者が暴力を克服するためにうける教育プログラムである。ダイヴァージョン・プログラムは加害者の社会への再統合を目的としている。うまく機能するためには、社会内処遇(コミュニティ・トリートメント)の条件が整備されなければならない。もし、社会的処遇がなければ、統制の対象となっていなかった領域までをも社会統制のネットワークに取り込む機能を果たしてしまう。国家をとおして家族への介入が行われることになる。だから明確なルール化が大切である。(p118〜120)
★DV加害者プログラムの基準
<ドメスティック・バイオレンス>に関して、「カリフォルニア州刑法」はDV加害者プログラムを定めている。法律に基づき、判決が下され、最終的には、罰金、懲役、DV加害者プログラムでのカウンセリング参加、地域奉仕活動などの判決が言い渡される。プログラム期間中、加害者は、いじめ・嫌がらせをする、攻撃する、殴る、罵る、付きまとう、性的暴力を振るうなど、被害者の平穏を妨げるいっさいの行動を禁じられる。期間中に、こうした何らかの行為があれば裁判のシステムへと戻されることになる。(p120〜121)
★カリフォルニア州の刑法における「ダイヴァージョン・プログラム」の規定
カリフォルニア州刑法第1203・097条では、こうしたドメスティック・バイオレンスの加害者への保護観察処分としての「ダイヴァージョン・プログラム」の内容を詳細に定めている。
・最低36ヶ月の保護観察
・更なる暴力、脅迫、ストーキング、性的暴力、ハラスメント、排除をしないという条件で、一定の要件を満たす場合に、ダイヴァージョンとする。
「ダイヴァージョン・プログラム」は、講義、グループ討論、カウンセリングなどを含めたDV加害者プログラムとすることとされている。プログラムの目標は、家庭内暴力を止めることである。(p122〜123)
★DV加害者プログラムの具体例
カウンセラーのダニエル・ソンキン氏はプログラムには「怒りのマネジメントやコミュニケーション・スキルの獲得」が必要だという。そして、単に男らしさ役割に直結させて男性の暴力を捉えることは短絡的だという。広く男性をして暴力という行動をとらせしめる「家族という関係」の心理学的な把握に基づくプログラムの構築の必要性を彼は主張している。
男性性、家族役割、怒りマネジメントという3つの、それぞれについての変容を促すために効果的なカウンセリングの手法とグループワークを組み合わせてプログラムが開発されていく。具体的には、交流分析によるコミュニケーション・パターンの歪みや特性の理解、エゴグラム(自己の性格特性を把握するための心理テスト)による自己洞察、ロールプレイング(役割を演技して多用な表現手段を身に付ける体験学習の手法)によるコミュニケーション・スキルの学習をとおした行動変容などである。(p125〜126)
★「マンアライブ」(カリフォルニア州)のプログラム
「マンアライブ」はサンフランシスコ市周辺で活動する非営利団体である。「ドメスティック・バイオレンス・ダイヴァージョン・プログラム」を提供している。(p127)
マンアライブがDV加害者プログラムに必要だと考えることは、第1に男らしさの問題行動という正しいメッセージを加害者に送ること、第2に本当のリハビリテーションの機会を与えることである。(p129)
プログラムの具体的内容(p130)
・パート1 「一人ひとりの暴力克服」
第1段階 「私は暴力を止める」
第2段階 「アサーション・トレーニング」(相手を批判したり自分を偽ったりしないコミュニケーションの仕方を学ぶトレーニング)
第3段階 「責任ある親密さの回復」
・パート2 「コミュニティへの働きかけ」
第4段階 「ホットライン。トレーニング」(電話相談の受け手として活動する)
第5段階 「DV加害者教室での活動」(教室のプログラム進行をサポートする活動)
第6段階 「コミュニティへの働きかけとコミュニティでの教育活動」(高校や刑務所に出かけて体験を語ることや、ドメスティック・バイオレンス関連の集まりで話す活動)
パート1は義務であり、パート2は任意参加である。(p131)
マンアライブの取り組みは、年々、教室数が増え、刑務所や少年院での常習者向けプログラムや青少年向け予防プログラムとして拡大されている。(p132)
★「メンズリソース・センター」(マサチュセッツ州)のプログラム
「メンズリソース・センター」は「MOVEプログラム(暴力を克服する男性のためのプログラム)」を実施している。
プログラム参加者は、毎日「怒り日誌」と「1週間の感情コントロール記録」を記すことが義務である。メンズ・リソースセンターは「チェックリストを通して考える自らの行動」を重視する。(p133〜134)
「MOVEプログラム」参加者は2種類いる。(p135)
・自発的参加者(自分の暴力に悩む男性は、家族の勧めや自発的な意志により任意に参加できる) 20週間のプログラム
・裁判所の命令による参加者 40週間のプログラム
最終的な目標(p136)
・ドメスティック・バイオレンスとはなにか? についての基本的教育を行うこと
・暴力的な行動を止めるための戦略を提供すること
・男らしさの態度や思い込みを変化させること
・親密な関係の中での平等とはなにか? について考えさせること
★「エマージュ」(マサチュセッツ州)のプログラム
「初心者クラス」は2時間で、「セカンドステージ」は11か月から24か月間にわたる。
プログラムは、男性特有の暴力の態度と意識を克服することを目的にしている。その態度と意識とは、第1に否認、第2に過小評価、第3にはぐらかしである。(p136〜137)
プログラムは、パートナーへの暴力の影響、短期と長期の中で何をすればいいのかを考えることや、コミュニケーションの仕方を学ぶ。(p138〜139)
★DV加害者プログラムの特徴
上の3つのプログラムに共通する特徴(p140〜141)
・プログラムがマンツーマンの一般的なカウンセリングではないこと。明確に「男らしさと暴力」に焦点を合わせている。
・DV加害者プログラムの定義が広いこと。物理的暴力、言葉による暴力、感情面での暴力、性的暴力、ネグレクト行為などがある。
・教育プログラムとして組み立てられているということ。
・単に家族関係の調整でもなく、当該の男性個人の精神保健上の問題でもないという性格付けを正確にしていること。
★男らしさのハビットの変革ー4つのポイント
DV加害者プログラムは、男らしさのハビットの組換えを目標としている。男らしさの行動様式は変えられる、後天的に獲得したものだという考え方を前提にしている。(p144)
暴力的な行動を組み変える際の4つのポイント(p145)
・何が暴力なのか、被害者が暴力を誘発したのではないという点での「認知の歪みを克服すること」
・怒りの感情だけが肥大化していることを自覚し、感情面でのバランスの回復を目指した「感情の豊かさを取り戻すこと」
・それを表現することの大切さ
・怒りの感情を”殴る”という行動に結びつけないことの学習という点での「行動変容を促すこと」
効果的なDV加害者プログラムには、この4つのポイントが不可欠である。
第3章 日本での加害者対策の実践
★日本社会の問題へ−加害者向けの取り組みへ
米国での取り組みとその効果を踏まえ、日本社会において加害者対策を考える上で重要なことは、ドメスティック・バイオレンス加害者のための法制度の整備や現行法や制度を活用した対策、ダイヴァージョン的なプログラムの実施などの側面とあわせて、事後的な措置だけではなく、予防的なプログラムの実施である。当面は、「家庭内暴力の犯罪化」という視点での取り組みが必要である。さらにその上で、「家庭内暴力の予防と防止」、そして「家庭内暴力を克服するための教育プログラムの参加」ということをまとめた総合的な加害者対策が打ち立てられるべきである。(p147〜148)
★男のための非暴力グループワーク
1999年5月から6月にかけて「男の非暴力グループワーク」と称して、米国のDV加害者プログラムをもとにしたプログラムで、グループワークを行なった。このグループワークでは、男性のコミュニケーションの仕方を改善する効果を期待している。(p148〜149)
これは、ドメスティック・バイオレンスの加害者の特性に依拠したグループワークである。自発的に暴力に気づいて集まる男性たちが、少なからず存在している。もちろん、深刻な暴力については刑罰で対応すべきだろう。しかし、刑罰の論理よりも教育の論理が有効な層もある。この取り組みは、こうした層を対象としている。(p152)
★非暴力グループワークの内容
男のための非暴力グループワークは、週に1回、6週間のプログラムである。
各回のテーマ(p152)
第1回 出会いのグループワーク−お互いを知る、自分を知る
第2回 感情を伝える(その1)−自分の感情を知る
第3回 感情を伝える(その2)−感情を言葉で表す
第4回 感情を伝える(その3)−見方を変える
第5回 行動を変える−暴力を振るわずに暮らす
第6回 新しい自分へー豊かなコミュニケーション能力を養う
まず、初めての男性同士が、話し合いながらグループを形成していく。毎回、同じように感情を表す言葉を聞き合い、1週間に暴力があったのかどうかの反省を行い、怒りの感情に焦点をあわせて自己を語る。そのきっかけとなる多様なワークを取り入れながら進行する。(p153〜156)
そして、「エゴグラム」(自分の性格特性を知るための質問に答えていく検査の道具)を使い、自己分析を行なう。また、夫婦の会話を想定して、暴力にいたるようなコミュニケーションとそれを回避するような練習を行なう。「アサーション・トレーニング」である。とにかく気持ちを語り合う「やりとり」のコミュニケーションを取得してもらう。(p160)
それぞれのワークは単純な行動であるが、男の非暴力ということに焦点を合わせて相互に関連がつけられているので、参加者は日常生活の中に自己を見出し、暴力の体験を客観的に見つめなおす。(p160〜161)
★非暴力グループワーク参加者の感想
このグループワークに集まった人に共通しているのは、男性であり、暴力の悩みを抱えているということだけである。
感想の一例(p161〜164)
・安定が得られたような気がする。
・言葉で表現して、暴力なしでケンカができるように、ちょっとづつ変わってきた。参加してよかった。
・自分の中にあるものが原因と気づいた。下の自分に戻りたい。
★非暴力グループワークの仮説
男のための非暴力グループワークで導入されている仮説は4つある。(p164〜165)
@認知に関して。ドメスティック・バイオレンスについて、夫婦ゲンカではなくて<家庭内暴力>であるという認識を獲得する。
A感情に関して。喜怒哀楽などの自分の感情を知る。特に怒りの感情のパターン。
B表現に関して。それを、言葉・文字・絵など、何かで表現してみる。
C行動に関して。具体的な行動の変化に結びつける。タイムアウト法・電話・外出・話し合いなどの脱暴力のスキルと思想と行動を身につける。
この4つの課題に即して、男性たちの暴力にいたるコミュニケーションの仕方に気づき、変容を促し、相互に語り合い、自分や暴力と向き合う時間と空間を共有する。
★加害と向き合う
グループワークには常に語り合いがある。おそらくは、他人の前ではじめて語る暴力の現実である。それぞれの語りの背景にある夫婦間・家族間の葛藤や暴力の現実に圧倒されながらも、参加者たちは自分の姿に重ねながら2度と暴力をふるわないことを誓い合う。今までとは異なる時間が流れ、暴力を止めることができたという男性がほとんどであった。(p167)
★男性性役割の変化
男のための非暴力グループワークで、男性は感情を吐露し、事実を正確に見極め、他人に語り合い、傾聴しあい、暴力の原因を他人に転嫁しないというコミュニケーション環境に身をおくことにより、参加者たちの男性性役割が変化する。(p168)
男性も、社会的に構築された男性役割でがんじがらめにされている。人生の上り調子のときは、男性役割も上昇志向に相乗効果を発揮するが、挫折体験の際に、男性役割はマイナス効果となる。傷ついた男らしさをクールダウンさせる方法がなかった。そして、暴力、虐待などにはしっていた。もちろん、きちんと挫折に向き合い、何とか自分と折り合いをつけながら、自分らしく生きていく男性も多い。そんな男たちを支援する取り組みが非暴力グループワークである。(p173〜174)
第4章 男性研究からの家庭内暴力へのアプローチ
★ジェンダーと言葉
男性たちは暴力的な行動を、より平和的へと変容させることを求められる。グループワークでは、新しい言葉と感情表現の仕方を身につけることが目標として設定されている。そうした自発的な意識変容の核にあるのは、“ジェンダー”意識そのものである。男性たちは性別役割分業に則した意識や家族観、男女観の変容を迫られる。(p175)
★男たちのコミュニケーション問題
男性は、性別役割分業意識をもち、大黒柱的役割を担い、密室化した家庭内での関係が閉じており、男らしさの自尊心の砦として家庭がある。悩みを見せたり、人前で泣いたりして、自分の感情をきちんと表現することができない。若い男性たちの「むかつく、いらいらする」などの感情のあり方は危険な行動に結びつきやすい。男性たちは、あたりまえのように男らしさのアイテムが提供すると規制に則して振る舞い、話し、感じる。その背景には生物学的な“オス”を“男性”に仕立てていく社会制度があるし、それが求める行動様式やパターンがあり、なかには暴力と親和的な場合もある。(p178)
★男らしさと男性役割の研究の必要性
男性性にかかわる社会病理という視点もジェンダー研究の際には必要である。支配する性である矛盾と困難と病理と責任を語ることをとおして、肯定的な男性性のあり方を示さなければならない。(p179)
DV加害者プログラムの多くは、ジェンダー構造を内面化した男性性役割と暴力的行動との親和性を問いなおすことに力点を置いている。
★「“男らしさ”を憎んで“男”を憎まず」
生物学的な男性と、ジェンダー的な男性性もしくは男性役割とは区別して把握しておくことが必要である。(p180)
男性や男らしさが問題になる背景は2つある。(p180)
・女性学のインパクト 女性という差別された性からの告発を受け、男性という差別する性は反省を迫られる。「加害者としての男性」という発想である。
・男らしさそれ自身をあつかい、性としては、男性も抑圧されたせいであるという点を強調する考え方である。「被害者としての男性」という発想である。
★メンツとは?
男らしさ意識が問われる場として、家族がある。男性は育児や家事という他人をケアする行動を通して、自分の中の女性的役割とされる側面を意識する。子供中心の生活や対応の仕方、つまり受け身の立場となる。かつて自分の母親が自分に対してしていたのと同じような行動をすることに、男性が育児と家事をすることを嫌がる根本がある。女らしくないことが男らしさだとすれば、それに逆らわなければならない。これが“メンツ”の問題である。(p184)
第5章 メンズサポート活動について
★「メンズサポートルーム」へ
非暴力グループワークをとおして、サポートすることは「加害者化」(DVの加害者であることを自覚すること)を支援することがもっとも大事なことだと考えている。怒りを鎮め、暴力を止めさせ、必要な責任を引き受け、離婚や養育料や慰謝料請求に応じ、失業の恐れと長時間労働による疲労にも目配りしながら、男性役割と暴力と攻撃性の連鎖を断ち切るという、やっかいなサポートである。(p186)
もう少し広く男性役割を考えていくと、何をサポートすればいいのかが見えてくる。(p187)
・男性役割のストレス。特に仕事面でのストレスが大きい。
・変化する家族生活や親密な関係における問題。離婚で直面する感情的問題、父親役割のあり方などである。
・男性問題という意味づけ。特に、思春期から老年期のライフサイクルに対応した男性問題への支援体制を作ること。
・具体的な対人関係スキルやコミュニケーション能力の形成に関する場が必要だということ。
★「臨床社会学」という見方
<ドメスティック・バイオレンス>や<子ども虐待>は、社会的な側面が前面に出てきて、個人対個人のカウンセリングや臨床心理実践ではフォローできないものがたくさんある。(p188)
自分が学習してきた暴力を繰り返すことなく、暴力を克服するための再学習の場を提供する。社会全体には男性問題を主張する。そして、個別のグループワークや相談を通して、一人ひとりの内側にも自己を見つめる物語を作り出す。こうして男らしさからの自由という洞察が可能になる援助モデルを規程して取り組みをすすめている。(p190)
★男のための対人援助講座
2000年3月、対人関係で悩む男たちに「男のための対人援助講座」という6週間のプログラムを実施した(暴力を焦点にしたものではない)。自分の“ライフイベント(挫折体験)”を振り返りながら、自分の感情に気づいていくワークを実施した。対人関係で悩むというのは自分のことで悩んでいるわけである。人との関係がうまくいかないのは、自分の中に折り合いをつけていないものがたくさんあることだと理解がすすむ。(p191)
男たちが“男らしさ”という意識に呪縛されることなく、そして何よりも暴力なしで暮らす方法を身に付けるためのサポートが、メンズサポートの内容だと考えている。(p192)
★資料「DV防止への法政策提言」
神戸の長谷川京子弁護士が中心になって活動している「DV防止法研究会」が体系的な政策提言を行なっている。提言の全体構想は、以下のとおりである。(p193〜199)
はじめに
第1章 DVの構造と対応の基本方針
第2章 DV犯罪についての処罰規定
第3章 保護命令手続
第4章 警察の役割と刑事司法
第5章 婚姻・離婚法の改正
第6章 被害者と子供の避難の援助
第7章 被害者と子供の健康回復・生活再建への援助
第8章 加害者の再教育プログラムについて
第9章 DV防止推進のための体制
第W部 家族という関係性−愛と暴力
第1章 私的領域としての家族
★家族をめぐる緊迫したドラマ
「家族が危ない」という安易な一般化は、いたずらに不安を増幅させるだけである。しかし、家族関係が変化の時期にあるということ、あるいは、家族をめぐる社会の制度や意識が変化をしているという実感は否めない。現に、個々の問題に対応して、社会制度が改変されている。「成年後見法」「児童虐待防止法」「ストーカー規制法」が施行され、DVについては「配偶者からの暴力の防止および被害者の保護に関する法律」が2001年4月に国会で可決された。これらはライフスタイルの変化に対応した社会制度のデザインの仕直しであり、ここには明らかに家族や親密な私的関係をめぐる位相転換が見られる。(p203)
家族という私的領域は、現在“現代社会の病理現象の争点”として注目されていると言える。こうした問題構造をもつ主題は、さらに拡大しつづけるだろう。筆者はこれを、「家族をめぐる緊迫のドラマ」と呼んでいる。(p204)
★家族という関係性の特徴−「感情共同体」としての近代家族
近代家族は、家族の機能や類型から説明するべきではなく、情緒的結合・親密さ・プライバシーなどをもとにした特殊な「感情共同体」として捉えるべきである。(p207)
家族の感情は3つの側面から成り立つ。男女関係・母子関係・家族愛の創造である。しかし、この家族の内側には、感情だけで絆を結ばなければならないという不安定さがある。この不安定さが揺らぐと、個別の出来事がストレス源になり、家族の危機へといたる契機になりやすい。(p208〜210)
★舞台裏としての家族−感情の解放区
社会生活を営むために必要な能力の一つは、公の場で自らの感情をコントロールできる事である。感情をコントロールするということは、感情を抑制することを基本としている。しかし、感情は抑制されるだけではストレスとして溜まっていくばかりである。感情をうまく処理する仕組みが必要となる。そのための場として家族がある。私的な空間としての家族は、感情を直接吐き出すことのできる「感情の解放区」である。(p210〜211)
★家族空間の情動的強度化・親密化
フランスの思想家、ミシェル・フーコーは、「社会の中の私的領域としての家族が形成され、その家族は、性の欲望の対象を特定化する制度としてある。家族が情動と感情と愛情の唯一可能な場になった」、「家族空間の情動的強度化=親密化」と考えている。つまり、フーコーのいう家族は性的関係を起点として、愛情・情動・感情というものを同心円状に配置した私的空間という意味である。(p212〜213)
★「家族の自然さ」の崩壊
現代においては、家族であることの結びつきは情緒的・感情的な絆の中で実感されている。息のつまるほど密着する。家族だからといって許容されてきた、ウェットで、距離感のない、「自然な共同体」という家族像ではうまくいかなくなってきた。それぞれの生きがいの追求が、「家族の自然さ」の限界あるいは臨界を見出したとも言える。(p213〜214)
★「家族関係の危機」という関心
現在ほど、家族に関心が集まる時代はない。家族という私的領域が独自なものとして存在し、他者を寄せつけないほどである時代だからこそ、家族にまつわる病理が増えてくる。家族に関心が集まっている現在という時代は、家族関係が希薄になりつつある、というよりもむしろ、密接になりすぎて適度な距離感を保てずにいる、と見たほうがいいだろうと思われる。(p214〜215)
★物語家族と心の傷
現代の物語は、内面に向かっていて、人々は癒しを求める。家族も同じような空間として存在している。(p216)
★家族のなかの役割
社会の中にも家族の中にも性別の役割分担がある。男性は家族の中で、女性に人間関係調整の役割を期待する。(p217)
家庭内暴力の加害者と被害者では、あまりにも異なる世界ができあがっている。加害者の行動に敏感になる脅えながら生きている被害者。そして、夫が妻を殴って何が悪いと非を認めない加害者。この落差を産み出す意識は、性別役割分担のなかにある。(p218)
★男性役割を問題にすることの意味
集団としての男性は支配的な地位にいるので、男たちがこうした制度に内在する男らしさの価値を懐疑しはじめたとき、システムは大きく変容する可能性を持つ。男らしさを問い直すことは、個人的な体験のレベルにとどまらず、こうしたチャンネルをとおして社会全体の価値の見直しにつながる。(p220)
★“支配的な男らしさ”を問い返すことの社会的意味
性差別が集団としての男性に有利になるように仕組まれている男性中心社会での男らしさ像の問い直しは、男と女・男と男の力関係の中心部への問いかけとして意味がある。(p220〜221)
自分らしく生きたいと願う男の支えあいが必要になる。揺らぎのなかの支えあいという社会の中の大きなテーマを、男の問題を通しても垣間見ることができる。(p221〜222)
第2章 家族政策と男性・父親問題
★スウェーデンにおける男性問題対策
スウェーデンの政府委員会は、男性問題に敏感な家族支援やシステムの改善に取り組んできた。委員会は「男性役割の変化のための行動は、経済・労働市場・政治・家族という領域において引き起こされなければならない。男性役割の変化は個人的なレベルを超えて拡張される、層をなしたものとしてある。」と言っている。(p224)
★日本における父親政策の必要性
分かりやすい男性役割の変容は、父親政策をとおしてもたらされる。無数の政策が考えられ、仕事時間も減らし、家族参加の時間が増え、自分を見つめることができる機会となるだろう。父親政策により、新しい父子関係が形成され、このことによって情緒的絆が形成される。(225〜226)
★さまよう父親−「父性の喪失」という見方
男性の家族への責任を問うやり方にはいくつかのアプローチがある。離婚の増加、非行の増加、しつけの欠如、傍若無人な若者たちの現実が「父性の欠落」に由来しており、今こそ「権威ある不正」の回復が必要であると言う。(p226)
★閉じた家族と開いた家族
現在は、人間関係が希薄になり、地域のなかに家族は開かれていない。(p228)
妻や母親と機能的に等価なあり方を夫や父親にもとメルだけの男女共同のあり方は、単なる役割交代でしかない。問われているのは家族のあり方、つまり開いた家族論か、閉じた家族論と言うことだろう。家族のまとまりを強調するような、閉じた家族論につながる男性の家事育児分担論を回避する必要がある。(p229)
★男性役割−「道具的役割」と「表出的役割」
父親の役割は他者に比較して、力と「道具性」の両方において高く、「表出性」において低い。(p229)
道具的な役割を持つ父親役割が変容するという事は、男性は父親となることをとおして表出的役割を身につける。こうした回路をとおしてシステム問題へと行きつく。(p230)
★「男制」−制度が作る男性性
日本の企業・学校のように制度化された組織は、男のライフスタイルに、競争・所有・闘争という意味を与える。
一人ひとりの意識を超えた制度をとおして、オスは「男」になっていく。こうした家庭を、制度が作る男らしさ、つまり男性は「男制」であると筆者は造語した。(p231)
★家族政策のあり方とかかわって
家族という意識や観念は、私たちのライフデザインを形づくる社会制度によって形成されている。(p232)
★「パターナリズム」の克服
これまでの家族病理に介入する政策的前提は「バターナリズム(画一主義)」と特徴づけられる。しかし、既に家族病理の現実は、バターナリズムでは解決できなくなっていた。
新しい家族政策は、第1に、性別役割分業を可能な限り縮減させると言うことに力点を置いたものでなければならない点、第2に、多様な家族病理を解決できる危機管理型の合意形成的な政策でなければならない点、が核となる。(p236)
■書評・紹介
■言及
*作成:鎌田 弘子
UP:20020731 REV: 20101215(
青木 千帆子
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中村 正
◇
暴力/DV(domestic violence)
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フェミニズム
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身体×世界:関連書籍
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BOOK
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2002年度講義関連
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
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