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『深淵から――精神科医物語〈第1巻〉』

蓮澤 一朗 20010410 批評社,172p.

last update:20110407

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■蓮澤 一朗 20010410 『深淵から――精神科医物語〈第1巻〉』,批評社,172p.  ISBN-10:482650330X ISBN-13:978-4826503303 \1890 [amazon][kinokuniya] ※ m.

■内容

「彼らは狂っているのではない、苦しんでいるのだ」 凄まじいエネルギーに満ちた苦悩は至って誠実だ。謎多き「病い」の深淵に挑んだ、ひとりの若き精神科医の、愛と苦悶に満ちた20のカルテ。

■目次

1 初めて受け持ったのは躁うつ病患者、彼女の半生を賭けたその孤独と苦悩に、俺は気づくことができなかった
2 大学病院屋上からのジャンピング(飛び降り)事件、俺はそのときそれをただ見ているだけだった
3 REM(レム)睡眠時行動異常という新しい診断が付けられた新入院患者は何と本物、2丁目現役のオカマであった
4 不安というのは自分ではどうにもならないものなのだ…自分を持っているだけにホントにパニックな、パニックディスオーダー
5 汚言症という奇妙な症状を持つ少年、その激しい強迫症状と内なる苦悶に、俺はなす術なく当惑する
6 世間から隔絶された慢性精神病棟、そこでひっとりとなにもなかったかのように死んでいく末期分裂病患者たち
7 電気ショックという本当にショッキングな治療法と、それを受けた精神分裂病患者の姿に俺は沈黙した
8 心優しきダウン症、洗濯場のてるちゃんと、大工組M君の精神病棟――湘南江ノ島恋物語
9 ボーダーラインと診断されたある女性患者の正義と寂しさに、俺はとことんまで巻き込まれながらの真剣勝負を挑んだ
10 余命わずか、終末期癌を患った妄想患者に起きたある奇跡

■引用

7 電気ショックという本当にショッキングな治療法と、それを受けた精神分裂病患者の姿に俺は沈黙した

 「その後も彼の幻聴はどんどん活発になっているようで、あまりの苦しさから頭を抱えて転げ回り、保護室の剥き出しの壁に強く額や拳を叩きつけたりした。
 「先生。お願いだから出してくれ。俺を呼んでいるんだ。俺を必要としているんだ。お袋が。世界が。世界平和のために。俺がやらなきゃ。お願いだ。先生」
 閉鎖病棟を世界から切り離しているのは重い金属製の扉である。この男子病棟入りロの扉が少しだけ開いた瞬間に、彼が飛び出そうとしたこともある。俺は慌てて後ろから飛びかかって取り押さえる。とにかくありったけのカで抱きついて助けを呼ぶのだ。こんなとき人は想像を絶するくらいのカを見せる。ずるずると彼の強いカに引きずられながらも俺は看護士の助けを待った。彼の熱い体温、筋繊維の緊張、心臓の鼓動がじんじんと俺の胸に直に響いて伝わってくる。放したら終わりである。俺にも忘れかけていた熱い血潮が逆流する。ようやく全力を振り絞り何とか<0117<三人がかりで病棟まで引き戻した。馬鹿になった両腕の筋肉の虚脱に安堵しながら、看護士たちと詰め所の裏で煙草を吸う。だらだら流れる汗を拭った。
 こうした離院行動、また「平和のため」と言う彼なりの理由による他患への粗暴行為などが次第に増えていった頃、ついに恐れていた決まり文句がどこからともなく出てきてしまった。
 「ESやりましょ。先生」
 ES(イーエス)と呼ばれるのは電気ショック療法のことである。抗精神病薬より歴史が古いこの治療は、電流発生器となっている古びた木の小箱を用いて行われる。箱より延びた二本の赤と黒の線を患者の両こめかみに当ててから、百ボルトの電圧をかけた電流を五秒間一気に流す。瞬間患者の全身の筋肉がぎゅっと引き絞られ、両目はカッと見開き白目を剥く。電流を止めると今度は両手足の筋肉がガクガクと激しく痙攣を繰り返す。この間二十から三十秒間、全くの無呼吸である。ようやく痙攣がおさまるとガッと獣のような一息を吸い込んでから、荒い鼾呼吸が再開される。と同時に剥いていた白目もやっと閉じられて患者は深い眠りに入る。これを毎日一回続けて一週間行って一クールとする。
 これが何の治療になるのかというと、精神病性の激しい興奮がおさまるのである。
 確かに精神運動興奮(精神病による強い興奮状態のこと)がひどく薬物を大量に使っても鎮静されない場合など、大量の薬を使い続けるよりむしろ安全ということもできるだろう。また即効性もある。強烈な電圧で瞬時に抑えてしまえる。副作用が多くて薬が使えない人にもいいだろう。だが正直いって俺はこの治療を好きではないし、なるべくしたくはなかった。ラクはラクである<0118<が、何だか暴れ牛を感電させて瞬時に麻痺させるような感じであり、また確かに患昔の混乱は治まるが、強い健忘を残すため大抵この治療の前後のことを彼らは忘れてしまっている。こうした意味では何か機械をリセットするようでもあり、精神病の病状を脳細胞ごとぶつ飛ばすようでも意味では何か機械をリセットするようでもあり、精神病の病状を脳細胞ごとぶっ飛ばすようでもある。それと痙攣のときの形相の凄まじさ。呼吸が戻らなかったらどうしようという不安もある。(実際に戻らなくて亡くなった例もあるため大学病院等では麻酔科医による呼吸管理のもとで行われている)。
 よく昔は畳の大部屋に調子の悪い患者を並べて寝かし、一日にニ、三十人次から次へとかけたという話や、麻酔で眠らせずに暴れている人をそのまま押さえつけてかける、いわゆる「生がけ」というのを日常茶飯事にやったという話などを、戦中育ちの大先輩医師たちから度々聞くこともあるのだが、何だかいつも武勇伝っぽく聞こえるのである。
 またあってはならぬことだが懲罰的に使われることも多かったようで、かつては暴力的な患者が出ると「先生、あいつにESやって下さい」と殴られた患者が電圧小箱を持ってきて、皆の前でESの刑? 施行されたなんていう話もあるぐらいだ。
 とにかく俺は好きではないこのESを、しかし自分の判断でやらないと言い張ることはできなかった。若僧である自分が、この病院ではこういうときはこうやっていたという看護長、看護婦長に必要を迫られては断ることができなかった。治療上は疑問があったが病棟の運営上やむを得ないと自分で自分に言い聞かせ、俺はESを施行した。白目を剥いて痙攣している患者を前にゆっくりと五秒問、とにかく電流を流し続けた。<0119<
 この年の東京の夏はピークには例年にない暑さを示したが、短くあっという間に過ぎ去った。たちまち肌寒く上着が必要な季節になると、朽ち果てた向日葵たちは頭を垂れて寄り添い合う。蝉の抜け殻がぽつんと裏の木に止まっていた。斜光が増した陽はくっきりとしたアスファルトの影をいつのまにか柔らかく引き伸ばした。彼はすっかりと落ち着きを取り戻し、背筋を伸ばして退院した。
 「先生。ありがとうございました。おかげさまで、すっかりよくなりました」
 しかし彼の姿は完全な機械と化していた。一本調子の声に抑揚はなく、にこりともしなかった。杓子定規のような歩き方もロボットのようだ。視線は宙に浮かび俺をまっすぐには捉えたが、張りはなく空虚だった。彼が入院していた間ずっと祈り続けていたのだろう、やつれ果てた母親はようやく重い扉の閉鎖病棟を出る彼に抱きつくと、狂ったように泣きながら笑ってこう言った。
 「大変だったろう。お前はよくがんばったからねえ。もういいんだよ」
 彼の固く結ばれた口元が少しだけ緩んだように見えた。
 「ありがとうございます。先生。ありがとうございます。先生」
 背の丸い母親は、何度も拝むように俺に頭を下げ続けている。
 俺は黙った。
 感情鈍磨。自閉。無為。つまり感情が鈍くなって自分の殻に閉じこもって何もしなくなるという症状のことである。これらは陽性症状と呼ばれる分裂病の幻聴、被害妄想、興奮などの派手な症状に対比され、陰性症伏とヰばれる。まるで激しい症状のためその人に備わる全てのエネルギーが燃え尽きてしまったかのように陰性症状は訪れるのだ。燃え滓。残渣。抜け殻。欠陥状態という無責任な呼び名まで精神医学用語にある。」(蓮澤[2001:117-121])

■書評・紹介・言及


◆立岩 真也 2013 『造反有理――精神を巡る身体の現代史・1』(仮),青土社


*作成:山口 真紀
UP: 20110407 REV:
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