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『異種混淆の近代と人類学――ラテンアメリカのコンタクト・ゾーンから』

古谷 嘉章 20010310 叢書 文化研究2,人文書院,317p.

last update:20120410

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■古谷 嘉章  20010310 『異種混淆の近代と人類学――ラテンアメリカのコンタクト・ゾーンから』,人文書院,317p. ISBN-10:4409530240 ISBN-13: 978-4409530245 \2500 [amazon][kinokuniya] ※ ma

■内容(「BOOK」データベースより)
スピヴァクによれば、交渉とはひとが「そのなかに生きることを余儀なくされている何物かを変えようと努めること」であり、「ポジションが弱いものであればあるほど、よりいっそう交渉しなければならない」ことになる。文化的差異が構築される界面、交渉の実践のアリーナは、さまざまなところに存在している。本書では、文化をめぐる交渉と交渉のプロセスとしての文化へ照準する。

■内容(「MARC」データベースより)
ラテンアメリカでの調査研究をもとに、西洋近代が否認してきた「異種混淆の近代」を照らし出し、同時に、それを認識することを拒んできた規範的な近代人類学の暗黙の前提を批判し、真の人類学の誕生を模索する論考。

■目次
序章 (9)

第一章 異種混淆の近代と人類学 (23)
 1 人類学の窮状 (23)
 2 人類学の自己成型 (25)
 3 異種混淆の近代 (29)
 4 フィールドワークの逆説 (32)
 5 ホームとフィールドのあいだ (35)
 6 ポスト・イントラ・モダン (40)
 7 ホームワークとしてのフィールドワーク (41)
 8 人類学の可能性 (44)
 9 はじまりのために (47)

第二章 奴隷と黒人の近代――帰還と回復の神話をこえて (49)
 1 黒人であるがゆえに (49)
 2 黒人奴隷貿易と黒人奴隷制 (51)
 3 剥奪された地域・否定された歴史 (53)
 4 「転置」と切断の体験 (56)
 5 故郷のすみやかな帰還 (58)
 6 「アフリカ」の再建 (60)
 7 アフリカへの帰還 (65)
 8 「アフリカ性」の神話 (67)
 9 歴史の回復の神話 (71)
 10 帰還と回復の神話をこえて (74)

第三章 ブラジル独立後のコロニアル言説 (79)
 1 ポストコロニアル批判と人類学 (79)
 2 「一般的インディオ」としてのトゥピ (82)
 3 「われわれの他者」としてのインディオ (84)
 4 インディアニズモ――ブラジルの建国神話 (87)
 5 近代化と同化政策 (94)
 6 流用される「インディオの精神」 (95)
 7 ブラジル人類学にとってのインディオ (99)
 8 アメリカ人類学にとの岐路 (108)
 9 ポストコロニアル食人主義 (112)

第四章 ブラジル・モデルニズモのレッスン――文化の脱植民地化とは何か (115)
 1 「文化の植民地化」という問題 (115)
 2 独立という植民地化 (117)
 3 モデルニズモ――場違いなアヴァンギャルド? (120)
 4 食人主義と緑黄主義――文化の輸出入とナショナリズム (125)
 5 コンセルヴァトワールのマクナイーマ――知識人と民衆文化
 6 回顧するモデルニスタ――文芸の革新と社会の変革 (137)
 7 軍事政権下の文化産業 (139)
 8 ネオリベラリズムとポストモダニズム (144)
 9 文化の脱植民地化とは何か (146)
 10 交渉の場としての消費 (150)

第五章 近代への別の入り方――ブラジルのインディオの抵抗戦略 (155)
 1 一九八九年、アルタミラ集会 (155)
 2 近代的インディオ問題 (158)
 3 近代の言説と文化的差異 (162)
 4 表象と文化をめぐる抵抗 (166)
 5 生き残りのための戦略 (171)
 6 異種混淆的な抵抗の戦略 (173)

第六章 カトゥキナの隣人たち――アマゾン先住民族の現在 (179)
 1 藪の中 (179)
 2 強姦事件 (182)
 3 FUNAIとOPANのあいだで (184)
 4 ジュタイのOPAN (187)
 5 カトゥキナ社会 (190)
 6 カトゥキナ・プロジェクト (192)
 7 孤立と統合のあいだの自立 (196)
 8 ビアへ (200)

第七章 芸術/文化をめぐる交渉――グアテマラのインディヘナ画家たち (203)
 1 インディヘナ/画家 (203)
 2 西洋近代による認知と排除 (205)
 3 グアテマラのインディヘナ画家たち (218)
 4 芸術/文化をめぐる交渉 (245)
 5 真の相互性をめざして (261)

註 (273)
あとがき (287)
文献
主要文献索引
主要人名索引

■引用
「本書は、西洋近代の生みだした「近代」と「非西洋」についての言説が否認・排除してきた「異種混淆の近代(hybrid modernities)」とでもよぶべきパースペクティブを提示し、それを基礎として人類学を構想しなおす可能性を探ることを目的としている。「近代化」の言説は、「いまだ非近代にとどまっているセクター」と「すでに近代化されたセクター」へと世界を空間的に二分し、両者の「同時間性(coevalness)」(Fabian 1983)を否認して時間的な前後関係のなかに位置づける。しかし、「非近代」へと分類されてしまった人々も、そのおかれた個別的な社会的位置によって異なるしかたですでに近代を体験してきたのであり、不平等に相互連結した世界のなかで、そうしたさまざまな近代体験が交錯している状況こそが、「近代」とよびならわされている状況なのである。」
(古谷 2001:12 〔なお傍点を下線で示した〕)


「「異種混淆性(hybridity)」という概念は、本書における重要な概念である。しかし、この言葉は非常に誤解を招きやすい。それは、この用語が重層的に決定されているからである。第一に、「混血性」という生物学的概念を意味し、「純血性」との対比で、「純血種」が混ざり合った状態を指して使われている。そして、文化について比喩的に使用されるときにも、しばしば生物学的コノテーションがつきまとう。しかし、文化は豹とライオンが混血するように混血したりはしない。この語が複数の「純血種」のあいだの「雑種」という意味で使い続けられている事実に対しては、充分な注意を払うつもりである。しかし、本書における分析概念としての「異種混淆性」は、そのような「混血種・雑種」という意味ではないことを明確にしておきたい。
 第二に、すべての文化現象は、もともと異種混淆的なものだという用法がある。この用法は、異種混淆性を均質性に対置するもので、異種混淆的な現実に対して抑圧的にはたらく「均質な国民文化」のイデオロギー性を批判する文脈で、頻繁に見られる。第三に、特に(ブラジルをはじめとするラテンアメリカの)ナショナリズムの文脈で、さまざまな文化伝統に由来するものが渾然一体となった「混血の文化」という意味で、異種混淆性という言葉が肯定的に使われる。[…]第四に、グローバリゼーションの下で世界的規模でのモノ、人、思想などの加速度的で大規模な移動がもたらしている状況を指して、異種混淆という言葉が使われる。本来の場所を離れて場違いな所にあるというイメージであり、それに対置されるのは、諸文化がそれぞれのテリトリーに収納されている安定した状態である。
 このように用法が錯綜しているなかでは、混乱をさけるために、この語を使わないほうが賢明かもしれない。[…]この概念が係争的なものであるからこそ、その食い違いのなかに現代の文化を理解する重要な手掛かりが含まれていると考えるからである。異種混淆性という概念について、どのような歴史的局面で、誰によって何を目的にして使われるのかということと切り離して、論理学や哲学や美学の問題として論ずるべきではないというのが、私の立場である。[…]近代の言説が前提とするさまざまな恣意的な区分を問題含みのものにするような境界横断的な現象を指して「異種混淆性」の語を用いる。以上のような認識のうえで、本書で焦点とするのは、そのような異種混淆的な現象を「あってはならないもの、あるはずがないもの」として否認・排除することを要請する近代的な区分自体を検討に付すことである。」(13−15)

・コンタクト・ゾーン
「たんに複数の文化が遭遇する場面を指すのではないという点である。それは、文化が争点となる界面、文化的差異が構築される界面、文化的差異によって形成される界面のことである。それは、植民地主義的暴力が、征服・植民地化の過程のみならず、独立後の国民国家形成と従属的経済構造のなかでも行使されつづけてきた領域であり、五百年にわたるこれまでの抑圧の歴史(植民地主義、奴隷制、ナショナリズム、開発主義、ネオリベラリズムなど)が重層的に上書きされている領域である。そこは、さまざまな社会的セクターの相互連結が、支配と不平等とコンフリクトによって特徴づけられている領域であり、それはまた、少なからぬ国々で、人権侵害や軍事独裁や内戦が深く書き込まれてきた領域でもある。」(15)
●コンタクト・ゾーン=文化的差異が生まれる場。もともと文化的差異のある2つの文化や主体が出会う場、ではない。

「インディオに対して、「文化的差異を捨てて近代に参入するか」、あるいは「文化的差異に固執することによって非近代にとどまるのか」という二者択一を迫る「近代の言説」が、インディオを無力化してきた過程である。そして第二に、そのような言説に対して、近年インディオが展開してきた抵抗の実践について検討する。それと同時に、そのような実践が一方では、ある種のポストモダニズムの視点から「本質主義」として葬り去られ、他方で、「異種混淆性の無批判的讃美」に回収あれてしまう危険に直面していることに注意を喚起する。これまでにも、研究者の異論が「議論のための議論」へと横滑りしてしまうことが、どれだけ多くの現実の問題から目をそむけさせてきたであろうか。コロニアル言説は、装いを変えながらも、一方的に意味を押しつけて理解=消化してしまうことをやめようとしていないのである。」(19)
●ポストモダンな差異の讃美が、差異が生まれる政治的・歴史的・経済的コンテクストを洗い流してしまう可能性。また、本質主義批判を抵抗する民衆に当てはめる学問的議論が、知のコロニアリズムとして民衆を抑圧する可能性。

「芸術が「差異・アイデンティティ・文化的価値が生産され争われるスペース」(Marcus and Myers 1995)だという認識である。まず第一に、西洋の芸術界による認知と否認のポリティックスについて考察し、「近代的な芸術=文化システム」(Clifford 1988)が個々の具体的な交渉を通じて再生産されることに注目する。第二に、彼らの絵画の生産・流通・消費のプロセスを、「インディヘナ芸術」と「インディヘナ文化」をめぐる交渉の場として分析する。そこで交渉されているのは、たんにひとつの作品の価値ではなく、インディヘナのアイデンティティと彼らの文化そのものなのである。さらに第三に、「コンタクト・ゾーン」で商品=作品を生産する芸術家に共通する問題について、他の地域の事例をも視野に入れて検討する。焦点に据えられるのは、西洋近代の生み出した「文化・芸術についてのイデオロギー・制度」による非西洋の先住民族の芸術家に対する認知と排除、それに対する芸術家の側の交渉というプロセスである。」(20−21)
●「交渉」において、芸術=文化システムというヘゲモニーが再生産されるだけでなく、別の意味やアイデンティティ、文化が算出されもする。

「支配的ポジションにいる人々は、二重の意味で「聞く耳をもたない」ことを許されている。つまり他者の声に耳を傾ける必要がなく、他者の声を理解する能力・知識・感性をもたなくても、それを意に介さずに済ますことが許されている。それに対して、他者の声に耳を澄ましていなければ被害を受けてしまう人々、他者の頭のなかにあることや声に含まれている意図を察知する能力知識・感性をもたなければ、ときには生き残ることさせ危ぶまれるような事態に直面しつづけている人々は、従属的ポジションにいる人々ということができるだろう。彼らは、むきだしの暴力の犠牲になることを回避できる僥倖に恵まれているかぎりにおいて、これまでも、そしていまでも、そしてこれからも、彼らに対して抑圧的にはたらくヘゲモニックな言説に対して交渉しつづけているのである。「交渉する」とは、スピヴァク(Spivak 1990: 72)の言葉を借りれば、「そのなかに住むことを余儀なくされている何者かを変えようと努めること」であり、そのなかでの「ポジションが弱いものであればあるほど、よりいっそう交渉しなければならない」のである。」(21)
●支配的ポジションと従属的ポジション。

「多種多様な場で展開する具体的な交渉において、さまざまな意味生産の実践が競合しあい、それをつうじてヘゲモニックな言説が、押しつけられ、受容され、反駁され、翻訳されているという点である。したがって、それを双方向的なプロセスとして見ること、つまり「交渉(negotiation)」という視点を導入することが必要になる。」(204)
「交渉とは、あるもの(モノ、概念、イメージ、表象、ポジションなど)をどのように意味づけ、それを他とどのように接合するのかをめぐっての、複数の意味生産の実践のあいだのせめぎあいのプロセスを意味する。」(217−218)
「画家たちは、自らの生産物である絵画について、日々交渉しつづけることを余儀なくされている。それは同時に、自分がどのような意味で画家であるのかをめぐる交渉であり、画家である自分が所属する「われわれ」と「われわれの文化」が何であるのかをめぐる交渉でもある。その交渉は、象徴的であると同時に経済的な交換であり、自己表現であると同時に商品生産である。そして、その交渉は、一方で認知をもとめ、他方で異議を申し立て、一方で消化=理解される差異として消費されることを甘受しながら、他方で、挑戦する差異を生産する実践なのである。」(261)
●交渉=意味生産の競合。ヘゲモニックな言説の再生産、それへの抵抗。真正な芸術と土産絵画という線引きの再生産と侵犯。

「ペドロ=ラファエルは、そこに別の意味を込める。彼にとって「コーヒー摘み」の絵には、インディヘナの人々が体験してきた差別の苦しみが表現されている。つまり、コーヒー・プランテーションへの出稼ぎを余儀なくされ、そこで重労働を強いられ、しかしわずかな収入しか得られない底辺の人々の「歴史」がそこで表現されているのだという。そのことを、例えばアメリカ合衆国のレストランで一杯のコーヒーを飲む人が、彼の絵を通して感受してくれることを彼は望んでいる。」(238)
「一言で言えば、彼はコストゥンブレを描くことに、征服と抑圧の歴史に対する批判を込めているのである。彼のそうした姿勢は、サンティアゴで1990年に起った駐屯部隊による住民虐殺事件への、画家としての対応のしかたにも見て取れる。」(239)
●絵画に別のものを込め、送り出す。

「収入のみを目的に顧客の需要に応えているという、経済的な観点からだけみるのは不充分である。[…]本来の意味で「二文化間的」な、つまり双方向的な交渉が展開する場としてとらえることが必要である。非西洋に主体と能動性(agency)を否定して、西洋から非西洋への一方向的な働きかけとして見るのではなく、非西洋の芸術家の声を聞き取ることが必要なのである。」(259)
●経済的観点から一方向の関係に、豊饒な関係性を押しこむことの暴力。双方向の交渉を見る目。

「「歴史的主体かつ能動的存在としての彼らの実在を消し去らないこと」(Fabian 1996: 190)が私たちに課せられた問題である。」(262)

■書評・紹介

■言及


*作成:野口 陽平・大野 光明
UP:20081027 REV: 20120410
人類学/医療人類学   ◇身体×世界:関連書籍 2000-2004  ◇BOOK
 
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