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『マルクスを読む』

植村邦彦 20010213 青土社,334p.

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last update:20120108

■植村邦彦 20010213 『マルクスを読む』,青土社,334p. ISBN-10: 4791758668 ISBN-13: 978-4791758661 [amazon][kinokuniya]※ *

■出版社/著者からの内容紹介
世界資本主義が隆盛するグローバリゼーションのもとで、マルクスの思想が果たす全く新しい役割とは?
マルクスを歴史的コンテクストにおいて根底から読み直し、民族とナショナリズム、アソシアシオン、マイノリティの新たな連帯といったアクチュアルな問題へと押し開く。

■目次

序章 いまなぜマルクスか
第一章 歴史認識の方法――『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』を読む
第二章 「世界史」の可能性――『経済学批判要綱』を読む
第三章 社会変革の構想――「アソシアシオン」論を読む
第四章 プロレタリアートの「国民性」をめぐって――『共産党宣言』を読む
第五章 ナショナリズムと人種主義
第六章 ユダヤ人問題

参考文献
用語解説
読書案内
あとがき


■引用


▼序章 いまなぜマルクスか
「いま求められているのは、「大きな物語」の解体の後に残るマルクスとはいったい誰なのかを明らかにすることであろう。しかし、そもそもマルクスの本来の「批判」対象は、言うまでもなく歴史的存在としての資本主義であり、世界市場を通して地球全体を「文明化」する主体としての資本であった。一九九〇年代以降の「グローバリゼーション」と呼ばれる歴史的過程が、いわば「社会主義」体制を消去してリセットされた「資本の文明化作用」にほかならないとすれば、マルクスの資本主義批判の思想も、もう一度はじめから点検してその構造と意味を確認する必要があるし、そのような手間をかけるだけの価値がある。そう私は考えている。」(11)


▼第二章 「世界史」の可能性――『経済学批判要綱』を読む
「マルクスの言いたいことは、もう明らかであろう。イギリス国内における工業化=文明化を全面的に肯定しながら、その一方で「イギリスのインド支配」を批判するのは矛盾している、ということである。逆に言えば、「イギリスのインド支配」とは、イギリス国内ですでに生じた「牧歌的」小農民経営の暴力的解体(つまり、資本の本源的蓄積)の世界的規模での反復=再現の一部にほかならない、ということである。」(61−62)

「「歴史的」という形容詞は、現に存在する諸関係を発生史的に理解する認識の仕方を意味する。」(62)

「マルクスは「オリエンタリスト」ではない。彼の認識図式は、「西洋」対「東洋」でも、「進んだヨーロッパ」対「遅れたアジア」でもなく、そもそも「われわれ」対「彼ら」ではないのだ。問題は、「資本」対「資本に先行する生産諸段階」なのであって、そこではインドは現在のスイスやかつてのイギリス自体と等価なのである。」(63−64)

「マルクスにとっては、資本主義的生産と対比させた場合の、インドや中国とヨーロッパとの共通性=同質性こそが関心の対象なのである。問題は、ヨーロッパと対比される「アジア的特殊性」などというものではないのだ。」(64)

「つまり、単線的な発展段階論というのは、「最後の形態が過去の諸形態を自分自身にいたる諸段階とみなす」一つのイデオロギーだ、ということである。」(66)

「「諸形態」が解体して「市民社会」が成立することは、単純な「進歩」を意味しない。なぜなら、労働する側にとっては、「低次の諸形態」こそ、他面では「より恵まれた諸形態」(Gr., S. 372)にほかならないのだから。」(73)

「けっして単線的=継起的な諸段階なのではない。つまり、アジア的生産様式が古典古代的生産様式へと「段階移行」するのではないのだ。
 しかし、現実には多くのマルクス主義者がここに単線的=継起的な発展段階論を読み込んでしまった。それは、まさに「等質的連続性をもつ歴史的時間」というイデオロギー的幻想の罠に陥ることにほかならないのであるが。」(78−79)

「「資本がどのようにして、手工業的労働、労働する小土地所有、等々を滅ぼしていくのか」(Gr.,S. 414)という問いは発せられたが、それに対する答えは、先送りされてしまった。
『要綱』から推測できるのは、マルクスがこの過程をおそらくは二つの局面に分けて考えていた、ということである。最初の局面では資本主義と接合した「先行する諸形態」は、資本に形式的に支配されたまま保存=利用され、場合によっては、新たに創出されさえする。つまり、「資本の基礎の上に以前の生産様式および所有様式を再生産する」(Gr., S. 472)事態を、彼は想定している。資本によって支配された地域は、全面的に資本主義化するのではない。西欧的市民社会が一挙に移植されるわけではないのだ。」(87)
→cf. 奴隷制やプランテーション

「世界市場論の再構築という課題は、そのまま私たちに手渡されている。『要綱』というテクストから、書かれずに終わったマルクスの『世界市場と恐慌』というテクストを想像=創造すること。そのためには、アミンの不均等発展論やイマニュエル・ウォーラーステインの「世界システム」論の読み直しが今改めて必要だ、と私には思われる。」(91)


▼読書案内
『経済学批判要綱』
1957〜58年に8冊のノートにつづられた草稿。
第二次世界大戦中(1939・1941年)にモスクワではじめて公刊。
ひろく知られるようになったのは、1953年にモスクワ版の写真製版によってベルリンで復刻されて以降。

「貨幣論から世界市場論/世界史論まで、カヴァーしている理論的領域は「経済学批判」草稿群の中でも最大である。」(326)

「『要綱』の独自性と魅力は、世界市場において「資本の文明化作用」が、「資本主義的生産に先行する諸形態」を破壊・解体・再編成して「世界史」という全体の構造を創りあげることの指摘にある。イギリスで成立した資本主義は、世界各地で伝統的な生産形態や生活様式を破壊・解体し、世界を資本主義化していくが、場合によっては、伝統的生産様式と接合してそれを保存=利用するだけでなく、再生産しさえする(アメリカの奴隷制やプランテーション、植民地インドにおける高利貸的資本主義など)。しかし、それらも長期的には市民社会の発展とともに消滅する、とマルクスは考えた。」(327)

「資本にとってはたんに成案に必要不可欠な手段にすぎない「社会的個人の発展」をも促し、資本という「局限された基礎を爆破するための物質的諸条件」を自ら整備していくことにある。「資本はこのように、生産を支配する形態としての自己自身の解体に従事しているのである」。
 このように世界市場の成立を「資本の文明化作用」として描く空間的視野の広さと、「社会的個人」という革命的主体の形成を見通す時間的展望の深さは、『資本論』をはるかに超えている。アントニオ・ネグリが『要綱』の著者を「マルクスを超えるマルクス」と名付けたのは、そういう意味である。」(327)

『資本論』
1968年第1巻がハンブルグで出版。
1850〜 大英博物館図書館での調査
→1857〜58年 『経済学批判要綱』
→1861〜63年 『経済学批判草稿』
→1963〜65年 『資本論草稿』
スミスやリカードなどの古典派経済学の文献に内在しながら格闘する過程。

「労働力が商品となるのは、伝統的な社会組織が解体し、独立自営の農民たちが土地や道具などの生産手段を失って、自分の労働力を商品として売る以外には生活の道がなくなったからである。他方、資本家が労働力を買い入れるのは、「労働力の価値」と労働力の消費の結果として創造される価値との差異のためである。「労働力の価値」とは、労働者の「生活維持のために必要な生活手段の価値」であるが、自分自身の価値以上の価値を想像しうるということが、労働力という「独特な商品」の使用価値であり、その商品の消費過程、つまり労働過程は、同時に「価値増殖過程」なのである。
 労働力が自分自身の価値を超えて生み出すこの超過分を、マルクスは「剰余価値」と名付ける。これこそ、古典経済学の利潤・利子・地代といったカテゴリーを批判的に解析しながら、マルクスが独自に概念化した、「経済学批判」の中心的概念である。労働者が生み出した「剰余価値」は、労働者から取り上げられて資本家の利潤となる。なぜなら、労働者と資本家は、労働市場において形式上「自由な、法的に対等な人として」そのように契約したからである。自由で対等な契約に基づく「工場内部での専制支配」、等価交換に基づく「搾取」、この二重構造こそが資本主義的生産様式の歴史的特徴である。」(329)


■書評・紹介


■言及



*作成:大野 光明
UP: 20120108 REV:  
社会運動/社会運動史  ◇グローバリゼーションマルクスBOOK
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