4 社会問題をめぐる系譜
社会問題の構築主義の系譜では、(1)客観主義批判、(2)言説生産者としての専門家の批判的検討、そして(3)社会問題の実在論/唯名論の対立の3点が焦点になる。
機能的原因論アプローチは、社会システムの目標達成を妨げたり、スムーズな機能化を妨げるような現象を社会問題として同定したあとで、その原因を探ろうとする。マートンは、社会間題を社会解体と逸脱行動というふたつのカテゴリーにわけている。社会解体とは、集合的目標とメンバーである個人の目的が、他のシステムであったならば実現可能だったほどには実現されていない状態であり、逸脱行動とは制度化された規範の違反のことであるという。もしもこのようなマートン流の社会問題の定義を採用する場合には、核心にシステムの境界がどのように決定されるのかという問題が、招きよせられるようになる。
したがって、社会問題をめぐる構築主義においては、必然的に言説生産の専門家としての立場が問われることになる。社会学者が、自らのもつ知識の定義権の権力性を意識しつつ、これらの問題に取り組むなら、「ひとびとが社会問題とみなす問題が、社会問題だ」と考えざるを得ない。そのさい、研究者の果たすべき役割は、ひとびとがどのような問題を社会問題とみなし、クレイムを申し立てるのかの運動過程を記述することである。
バーガーとルックマンの主張は、「社会は人間の産物である(外化)。社会は客観的な現実である(対象化)。人間は社会の産物である(内在化)」(Berger and Luckmann[1966=1977:105]括弧内は引用者による)というフレーズに端的に示されている。バーガーとルックマンの主張と、スペクターとキツセの主張には、強調点の移動がある。バーガーとルックマンの知識社会学は、日常生活を営む普通の人びとにとって、知識がどのような意味をもつのかに焦点を当て、また、対象化された知識の相対的な自律性をも主張する。ここには、同1の専門家集団のうちに同1の知識が均1的に保持されているという仮定がある。このように知識の生産のダイナミズムに焦点があたっているわけではないがゆえに、バーガーとルックマンにおいては、言説生産において専門家が握るイニシアティブに関しての批判は、スペクターとキツセに比較すれば、相対的に弱くなっている。シュッツなどの現象学的系譜を引きながら、主観主義を超えて、主観主義と客観主義の結合こそを問題とするバーガーとルックマンにとって、社会の実在性は重要な疑問の対象ではない。この点も、スペクターとキツセとの相違点である。残念ながら、社会と人間の弁証法を主張し、主観主義と客観主義を統合しようとする彼らの試みは、成功しているとは言いがたい。最終的に変動は、個人からではなく、対象化された社会の側からもたらされると考えられてしまっているからだ。constructionismの訳語に、スペクターとキツセにおいて「構築主義」が選択されたのには、バーガーとルックマン流の構成主義とは差異化するという意味合いがある。社会学において、constructionismの訳語として、構成主義と構築主義のふたつが並存しているのには、このような経緯がある。
スペクターとキツセは、相互作用論の伝統を批判的に継承し、エスノメソドロジーの、「客観的」な状況を不問にふし、人びとの相互作用の方法を問いなおすという方法論を加味する。そして、社会問題の構築のありかたそのものを焦点化させた。つまり社会問題の「実在」論を拒否するかたちで、逸脱論をより洗練したと言ってもいい。
そこで、そもそも社会問題が「実在」するのかをめぐって提出されたのが、ウルガーとポーラッチによる「ontological gerrymandering」である。構築主義アプローチは、社会問題の「活動」に焦点をあて、「状態」についての判断を不問にふすといいながら、暗黙のうちに「状態」の想定をおこなっているのではないか、つまりある「状態」は不変であるにもかかわらず、社会問題が「構築」されたとの判断を恣意的におこなっているのではないか、また研究者の役割は「活動」の記述に専念することだとしても、研究者の活動自体も構築活動であり、ある状態や行動、それにかんする定義やクレイムを同定してしまっているのではないか、という疑問である(Woolgar and Pawluch[1985])。このOG問題にたいする対応をめぐって、客観的現実の想定をまったくおこなわない「厳格派」、客観的現実について節度ある想定をおこない、クレイム申し立て活動を社会的なコンテクストのなかに位置づける「コンテクスト派」、さらにポスト構造主義の影響下で、研究者/メンバーといった2項対立を内部から脱構築していこうという「脱構築派」に分裂していく(詳しくは、Holstein and Miller eds.[1993]、中河[1999]などを参照のこと。
これら社会の「実在」をめぐる論争は、社会問題の構築主義の問題設定から、必然的に導き出されたものである。つまりラベリング論が本来的にもっていた客観主義的な性格と、エスノメソドロジーがもっていた構成主義的な性格を統合しようとすることによって引きおこされた対立である。