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『私の精神分裂病論』

浜田 晋 20010101 医学書院,244p.

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浜田 晋 20010101 『私の精神分裂病論』,医学書院,244p. ISBN-10: 4260118528 ISBN-13: 978-4260118521 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m.

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内容(「MARC」データベースより) ほとんどの精神科医が精神病院や大学に閉じこもっていた頃、「地域医療」を目指して市井に投じ、社会の中のひとりひとりの分裂病患者との個別的関係を模索した一精神科医師の記録。

《内容》 「街角の精神科医」として、医療の第一線で常に活動してきた著者のライフワーク。60年代以降のわが国精神医療の激動期を生き、巨大病院から診療所に降りて分裂病者を様々な面から見てきた著者の20冊の日記から、患者と家族、社会をめぐる日常診療を探る。ヒューマンドキュメントとしても稀有な書であり、今日の精神医療への警鐘の本といえる。

■目次

はじめに

I. 精神病院の中で
 Mさんのこと/受け持ち看護制と小グループ活動/分裂病者と遊び
II. 東大闘争前後のこと
 医師という存在とは何か/東京下町との出会い
III. 地域精神医療というもの−私の日記抄
 昭和45年/昭和46年/昭和47年

■引用

◆はじめに

 この書は精神分裂病の疾病論や治療論を述べるものではない。
 生来、私はほとんどじっくり本を読まない。学究の徒ではなく、むしろ実践的行動派である。「精神分裂病」に関する本を読んだと言えば、E.ミンコフスキー『精神分裂病』(村上仁 訳、みすず書房、1954年)、G.シュビング『精神病者の魂への道』(小川信男、船渡川佐知子 訳、みすず書房、1966年)、R.D.レイン『ひき裂かれた自己』(阪本健二、志貴春彦、笠原嘉 訳、みすず書房、1971年)の3冊くらいしか思い浮かばない。
 幸いにして東京大学精神神経科、松沢病院での生活が長く、地方にも多くの友人を持ち、なんとなく耳からK.シュナイダーやE.クレッチュマーなどの話を聞き、私の「精神分裂病」に影響を受けたことはあろう。つまりきわめて常識的、古典的な分裂病観から出発した。
 ここで私のライフワークとして「私の精神分裂病論」をまとめておかねばならないと思ったのは、精神分裂病と呼ばれる人々との出会いが、私にとってあまりにも衝撃的であったからである。彼らからじかに学び、育てられた過程が、私の「生」そのものという思いが強い。分裂病者によって生かされてきたと言ってよい。そこで彼らの多様な「生」と重なる。私と多くの分裂病者たちとの関係性の一端をここに明らかにするのが本書の意図なのである。

 私の精神分裂病者との出会いと関わりは4期に分けられる。
第1期 昭和31年4月から34年4月(3年間)
    東京大学精神神経科、総合病院神経科(同愛記念病院)、
    市中小私立精神病院(土田病院)
第2期 昭和34年4月から昭和43年3月と、昭和47年4月から49年6月(計11年間)     公立巨大単科精神病院(都立松沢病院)
第3期 昭和45年4月から49年6月(4年間)
    都立精神衛生センター、下谷保健所
第4期 昭和49年9月から平成12年以降(25年以上)
    東京都台東区浜田クリニック(精神科無床診療所)
 なお、この第2期と第3期の間(昭和43年4月から45年4月)には空白期がある。それは東京大学精神神経科講師として在職中であり、たまたま、東大闘争の最中にあたる。そこでの分裂病者との関わりは薄かったとはいえ、それがなければ第3期以降の私(精神病院から地域への転身)はありえず、この書の基調に流れる思想性とも深く関わる。
 そしてこの4期を、研修期→学究期→(空白期→)挫折期(模索期)→成熟期としてまとめることができよう。

 こうして振り返ってみると、私の歴史には、ふたつの屈曲点がある。第1の屈曲点は東大闘争の中から生まれた。初めは精神病院の中で分裂病者と関わった。それは「精神分裂病」という疾病(一枚岩)への挑戦の日々であった。とくに分裂病集団との関わりの中で、「一般的に治療と呼ばれているものは何か」という課題であった。その中で私は「どこかおかしい…これが果たして治療といえるものか」と考えつづけた。答えは出ない。
 そして東大闘争。それが伏線となった。たまたまとびこんだ「地域」。そこでひとりひとりの分裂病者の暮らしにじかにふれたことで、私は強い衝撃をうけた。彼らとの出会いの記録が、昭和45年から2年間の私の日記の中にある。その日々の記録は地域の中の分裂病者がどのような「生」を送り、どんな想いで生きつつあるのかを、私の「生」と重ねたものである。そこでは「分裂病」という疾病への挑戦というよりも、社会の中のひとりひとりの分裂病者と私がどう関わるのか、その個別性と関係性に主題が移っていった。精神病院の中で一般性――分裂病とは何か――からの脱皮である。
 さらに「地域医療」とは何か、「地域」とは何かと悩み続けた。それは私  昭和49年。それが第2の屈曲点である。それからすでに25年がたった。
 第1期から第4期までの記録は巻末の文献にまとめた。
 恩師、立津政順先生から「自分がやったことは、すぐその後で詳細に記述し発表しなければ自らのものにならない」ときつく言われた。先生から教えをうけた松沢一派と、その後先生が熊本大学教授となられた熊大派には共通項がある。しつこいほどの「ありのままの患者の記述」である。定点観測であろう。それを基礎に私は、私という精神科医と患者との関係性――働きかけの中での――と、さらに場の構造を重視した。しかし「私の想い」が前面に出すぎる。立津主流派からは「浜田節」とからかわれもした。科学性に乏しいという批判であろう。
 しかし私は私の立場を大切にするしかない。「これでいいのか」という姿勢をくずしたくない。患者にとって「精神科医とは何か」という問いである。そして精神病院や地域の構造も凝視したい。もっともそれはなかなか見えてこないものだから、私の「問い」は際限なく続く。その過程が本書の主題ともいえよう。
 本書は私と分裂病者との関わりの歴史の前半――第2の屈曲点までの過程の総括である。地域を拠点とした精神科診療所の記録は後にゆずる。
 ここで私としては本書のライトモチーフは、昭和45年から2年間の私の日記の中にあると思っている。矛盾と混乱にみちた賽の河原の記録が大切ではなかろうか。そこに今日の私がある。したがってお忙しい方は第V章の「日記」のみを、心ゆくままにお読みください。

 2000年5月
        浜田 晋

U.東大闘争前後のこと 35-44

 昭和44年1月19日安田講堂落城の日、私は危篤患者をかかえて東大赤レンガ病棟にいた。マスコミのヘリコプターの轟音の中、患者は息を引き取った。歴史的な瞬間、私は医師としての日常性の中にあった。
 「終わった!」という想いと虚脱感しかなかった。
 精神科医が人の死に遭うことはむしろ稀である。感傷的にもなっていたのであろう。
 当時赤レンガ病棟(精神科病棟)は東大闘争の重要な拠点であり、全共闘の諸君は勿論のこと、患者さえもが、その意味もわからぬまま闘争に駆り出されていった。病棟は重症患者も含めわずか10数名の患者と、2〜3人の医師しかいなかった。私と岡田靖雄ともうひとりくらいの医師で、交代に宿直を繰り返し、連夜の○○会議に私は疲れ果てていた。

 私は理は学生、全共闘側にあると終始思っていた。「東京大学とは社会の中でいかなる存在であるのか」「わが国家権力の中枢にあるのは東京大学卒のエリートたちでないか」「その自己批判から始まらない限り東大闘争は無意味である」、そして「医療の権力機構、封建制度への根底的打倒」には共感を感じていた。
 何度か対話集会なるものに出てみたが、権力側の対応は全く体をなしていなかった。「私には責任がない。私は権力者でない。私はそんなこと言っていない」と逃げの一手と形式論理、場あたり的な答えでしかなかった。
 東大闘争の時の「進歩的」教授たちの関わりを象徴しているのが、昭和43年12月23日全共闘が法学部研究室を封鎖した時の丸山眞男の言葉であろう。「君たちを憎んだりはしない。軽蔑するだけだ。軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」14)と、歴史に残る名言を吐いた。
 「学問の自由」とは何かが根底から問われている時に、彼はそれに一言も答えていない。その狼狽ぶりが滑稽でさえあった。
 少なくとも京大闘争の時、高橋和巳が「私は全存在をかけてここに来ています」「学生たちがもっとも激しく渇望していたものは、優れた対峙者の存在であった」15)と言ったというが、東京大学には高橋和巳がいなかった。<0037<自ら問われている本質を理解できず、ただおろおろするばかりで、結局は機動隊の力を借りて事態は「収拾」された。
 私がこの闘いから得たものは「患者にとって医療とは何か?そして医師は時として敵となりうる。その時、私はいさぎよくありたい」ということであった。
 私は人間の弱さを知っている。東大全共闘の諸君や一般学生(東大闘争をもり立てた)が、数年を経て次々と転向していったことを責めることはできない。「泰山鳴動して鼠一匹」も出ぬのみか、それを期に「大学」という組織がほぼ完全に解体し形骸化したことに対して、怒りもない。
 もともと私は「組織親和性」に乏しく、「権力」というものの正体に幻想を持ち合わせていない。戦前戦後を通じて、私の血となり肉となっているものだから、今さら変わりようもない。それが深いところで、社会から疎外され続ける「精神分裂病者たち」への共感につながっているのであろうか。
 東大闘争を経て「東京大学」は変わったか。「医療の世界」は変わったか。「日本国家」は変わったか。「日本人のありよう」は変わったか。「ノン」である。16)
 しかし私自身は変わったと思っている。鼠が1匹東大から逃げ出し、東京下町に住み着き、チョロチョロしている。少なくとも私があのまま松沢病院に居続けたら、今日の私はなかったことだけは確かである。そして「精神科診療所」が今日のような姿では存在しなかったであろうという自負だけは持っている。それが私のアイデンティティといえば言い過ぎであろうか。
 私を東京下町と出会わせてくれたのは、ひとつは東大闘争である。そして東大闘争の内包する思想性(志と言うべきか)の延長線上に、今の私の活動があると思っている。これもまた幻想なのだろうか。
 その頃、私が学んだふたつのことを付け加えておこう。

 医師という存在とは何か
 昭和43年11月から45年4月まで、上田敏先生の要請を受けて私は東大リハビリテーションセンターで精神科的相談に応じてきた。それは週1回<0038<半日わずかふたりの患者を主に診察室場面で診るという限られた経験であった。しかし東大闘争のさなかでもあり、ヘリコプターの騒音を耳にしながら、私は戸惑いとある種の気負いを胸に、今まで経験したことのない新しい状況下で診察を行った。そこは上田敏先生を中心に、PT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ケースワーカーたちが新しい医療を目ざして熱心に活動をしていた(それは東京大学の各科の診察依頼にこたえ病室を訪れた時のうさんくさい視線とは対照的であった)。それにリハビリテーション医学の理念に私は共感するものがあった。コメディカル・スタッフとの交流も初めてであり、新鮮であり刺激的であった。
 精神科医は従来ともすれば精神病の殻に閉じこもってはいたが、もっと身体医学の中に足を踏み込み、さらには極度に専門化した身体医学のかかえる諸矛盾に対しても積極的に発言せねばならないことを学んだ。各科から集まってくる患者たちから「東大病院の病理」を知ることもできた。それをここで述べるつもりはない。ただひとり私の忘れられない患者の話だけにしておこう。私の診察態度そのものに関わるからである。

 36歳、女。31歳頃から心弁膜症で加療中であった。35歳の時、軽い頭痛とともに、はいていたサンダルが脱げ、体が右に倒れた。やがて意識を失い、すぐ東大病院○○内科入院となる。意識が回復してからも右片マヒと口がきけなかったという。1年半後リハビリテーションセンターに通いだし、理学療法が始められた。ところが意欲に乏しくやる気を示さず、2か月後に精神科受診となったものである(精神科医に診てもらうことが患者には了承をとられていなかったらしいし、私も精神科医であることを名乗ることなく、すべては曖昧な中で診察は開始された)。
 彼女は礼容保たれ、表情も自然で、笑顔も見せる。ただ素っ気ない印象はあるものの、身体的診察には素直に応じた。その時の反応から痴呆は前景になかった。問われていたのは、やる気のなさに対する心理的背景、病気に対する構え、巣症状の有無である。それなりの問診が必要である。私は不用意に物品呼称を調べようと懐中電灯の名前を問うた。彼女の表情が<0039<変わった。しばらくの間があり、「知りません!あたし、そんなもの初めて見ました!」と、切り口上となった。それでも私はさらにセロテープの名を問うたところ、彼女は切れた。「先生!私、記憶なんか確かなんです。全然どこも悪くありません。そんなの知りません!」と叫んだ。「そんなことで私をテストなさろうとするんですか!」と言ったままうなだれてしまった。
 私は狼狽しつつ、しどろもどろに「あなたの心を傷つけたこと」を詫び、(よせばいいのに)医学的にその必要性を説明したものの、彼女は沈黙したまま、やがて大粒の涙を流し約3分、急に頭をあげ「もう大丈夫です。すみませんでした…」と笑顔を作って見せた。私はほうほうの体で問診を打ち切り、彼女をそのまま帰してしまった(その時点でこそ彼女への接近の新しいチャンスがあったはずなのに!)。
 その時の私の病歴には「抑制に乏しく、感情易変、強情でプライドが高く、自己中心的、医療への期待と依存性に乏しい。生来性の性格特徴か、器質性の関与があるのか。家族を呼んで確かめるか」と記載されている。
 1週間後、彼女は私の面接をすっぽかした。

 その時私は初めて、私自身が彼女にとって加害者であることを知った。私の技術の未熟さでもあり、医の奢りである。
 学生たちが私たちに問うていることはこのことではないのか――と初めて気がついた。
 東大闘争で問われたことは、私自らの中にあった。「なぜ彼女が私に対して、ああいう態度をとったのか」を考える余裕が私の中になかった。医者が心ならずも日常的に加害者となりうることはあろう。それに対する自己洞察とアフターケア(フォロウアップ)なしには「医」は死ぬ。彼女を傷つけてしまったことと、その後処理をしなかったことへの反省が東大時代私が得た貴重な臨床的収穫といえよう。
 分裂病者とばかり関わっていると、「そのこと」に気づくことは稀である。彼らは彼女のように医者を攻撃せず、ただ黙って我慢するからである。<0040<より深く傷ついていながら。

 東京下町との出会い
 私を東京下町に引き寄せたものに、東京荒川区での小坂英世、松浦光子の活動がある。昭和40年に始まる彼らの活動は、私を大きく変えた。彼はその地域活動の中でどうしても「地域精神科診療所」が必要であると思い、荒川区町屋にある峡田診療所(院長茂木啓一、生協母体)に夜間診療所を開設した。昭和43年1月のことである。
 ナイトクリニックについてはすでに昭和34年以降、大阪の長坂五朗の先駆的な業績がある。しかしその成り立ちは違う。長坂は精神病院退院患者のアフターケアとして自宅を開放してのそれであった。峡田診療所はすでに活発な地域活動の中から生まれるべくして生まれたものである。「初めに地域活動ありき」であった。
 今日、雨後の筍のようにできる精神科診療所は、そのほとんどが落下傘降下のごとく、取りあえずどこかへ…というものであり、医療側の好みが優先し、したがって東京でいえば新宿区、渋谷区、豊島区などに集中する。診療所はなぜその地に「今」…が必要であろうものに。
 さて峡田診療所のナイトクリニックは昭和43年に始まり、吉岡眞二、長谷川源助、松下正明、竹中星郎、高橋浩史(松沢病院)、浜田晋(東京大学)が交代で週2回、夜間(6〜9時)まで行われ、昭和47年から岡田靖雄(常勤)へと受け継がれた。
 東京下町荒川区の峡田診療所はほとんどスラムといえるような地域にある木造2階建ての粗末な有床診療所である。事務所わきの診察室はカーテンで区切られた狭い空間であり、後ろには内科医が診察をしていた。
 しかしそこに来る患者たちは松沢病院で診る患者とは違って貧しいながらも生き生きとして個性的であった。私たちは小坂のメモを見ながら、時には松浦光子が付き添ってくれながらの診察で、松沢病院(巨大精神病院)の外来診察に比して鮮烈な印象を残した。
 その第1報は「「入院の適応」が地域側と診療所側でくいちがった症例に<0041<ついて」17)にある。そこで7例の具体例から「地域に根差した精神科診療所」の私の理念がまとめられている。
 原文のまま「考察」から引用しておこう。

 この7例とも従来の精神医療の常識(診察場面で患者の現症を中心に)からすると、すぐ「入院」という症例ばかりである。時には患者を見ないで家族の話だけ聞いて入院を決めていた。これに対し、小坂、松浦はこれと全く視点を異にした。そして入院させないで地域においたまま治療を続けられないものか、とぎりぎりの努力を積み重ねていた。両者の間にはしばしば意見の対立があった。しかしお互い仲間である。月1回の定例会議(といっても飲み会)で十分話し合った。このようにして7例中6例は危機を脱した。ここで患者の見方の基本的な課題、家族の問題、地域医療チーム網の組織の問題、そのチームと患者・家族も含めた複数の人間関係(人間模様というべきか)、診断と治療関係などが個別に討論された。
 荒川(医療過疎地域)と三多摩(医療過密地域)の精神病院の間を10数年間ピンポン球のごとく往復させられていた症例も、私たちの関わりで安定した。慢性疾患に対する一貫した継続的な医療の確立である。特に東京都の精神病院の著しい偏在という現状の中で、今何が必要なのか、「医療の責任性」について熱っぽく語った。入院の決定は、1)いつ、2)誰が、3)どこで、4)どういう状況の中で、5)いかにして決定されるのか、また、6)今、長期的にみてなぜ入院なのかを考えよう。社会の中での患者の生活のありようを探りつつ、関わりつつ、時間軸を加えて決めねばならないことを知った。医者1人の眼で狭い医療的な視点からのみ重大な決定はできない。患者は診察室場面と生活の現場とでは別人のような印象を受けることがしばしばであった。いかに1人の精神科医の眼が研ぎ澄まされようとも限界があろう。その有限性に対する自己洞察を失った時、精神科医とは患者にとってもはや危険な存在となる。患者の生活に立ち返り、まずそこから出発すべきであろう。
 実例は無数にあった。ある理髪業を営む妄想患者、日頃仕事の上で全然<0042<間違いはないが、時々皇居を訪れ警察につかまる。最寄りの署でも要注意人物。しかし一方では、患者は一家の支柱であり、入院させると、母、妹、弟の3人の生活に大きな変化を来してしまう。1人の患者の生活は重い。警察も保健所が間に入ることによって一応収まる。少なくとも時聞は稼げる。今日1日1日の勝負なのである。やがて時が解決してくれることもある。そこに医療保健チームが存在することに意味がある。
 入院の方法にも問題があろう。その多くは入院を拒否している。どうしても手荒な方法をとらざるを得ないことが少なくない。しかし全然知らない白衣を来た男たちが現れ「入院」を迫れば警戒的拒否的になるのは当然であろう。押さえ付けられ、暴力的に入院させられた傷跡は大きい。その事実があとの医療をどれ程困難にしてしまうか、長い眼で判断したいものである。1人の患者の生活は長い。それは医者1人のある時点での(診察場面)判断で覆いきれるものでもあるまい。
 家庭問題が地域医療の鍵を握っている。家族はおおむね患者に対する構えとして、1)不関、放置、2)過保護的、3)お手上げ、方針なし、4)疎外、反発(今すぐ入院させよ)などがある。
 比較的物わかりがよくて私たちに協力的な(医療チームの一員として役割をもつ)構えの家族はむしろ少数派である。他の多くは戦力にならないのみか、反治療的な影響力をもつ。不関であってくれた方が楽である。
 しかし家族も変わる。私たちの熱心な活動と説得で入院させないでしのぐことができると新たな信頼関係を生む。家族にとっても、かつてなかった体験であり、自信を持つに至る。家族の知らない世界で治療が進行し、「はいよくなりました。あとはよろしく」というだけでは、家族は何のことかわからず、成長はない。いざとなればすぐとんで来てくれる人がいるだけでも家族は安心である。家族を上記4型に分類した責任は医療側にもある。遠い遠い八王子の精神病院の医者と家族とはなかなかつながらない。生活の中から生まれた新たな人間関係を模索するのが地域活動であろう。治療者側がどこまで地域で支えきれるのかという力量(技術も含めて)にかかってくる。
<0043<
 そして一方ではすぐ緊急に対応できるために緊急体制を整えることが必須であろう。それが確立しておれば、ぎりぎりまで地域でねばれるであろう。それは相互効果をもたらす。緊急時、地域側の要求にすぐ反応してくれる精神病院もまた不可欠である。
 その点、一流病院は役に立たない。これは松沢病院や一流精神病院のあり方の問題でもあろう。地域側にとって事態は差し迫っている。今緊急に受け入れてくれる病院(良いも悪いもない)が必要なのである。病院を出てみてはじめてそのことが身にしみた。

 しかしその時はまだ「地域」というものの実体を私は知らずにいたのである。

   * * *

 昭和45年3月、私は東京大学精神神経科教室を後にする。私にとっては「医療改革」という政治運動よりも日々の医療――患者さんと向き合った仕事が大事と思えたからである。とはいうものの、「転向」にはいつも苦い感慨が伴うものである。「逃げた」と言われても頭を垂れるのみである。新しい職場にも初めから幻想は持っていなかった。
 その時1冊の本を手にして私は大学(精神病院も)を去った。
 高橋和巳『わが解体』。15)そして闇。」(浜田[2001:37-44]
 cf.東大闘争:おもに医学部周辺

14)東大全共闘経済大学院闘争委員会『炎で描く変革の論理―東大全共闘の心情と行動と』自由国民社, 1969.
15)高橋和巳『わが解体』河出書房新社, 1971.
16)浜田晋『心をたがやす』岩波書店, 1994.
17)浜田晋、小坂英世、松浦光子ら「「入院の適応」が地域側と診療所側でくいちがった症例について」『地域精神医学』5:14-19, 1970.

 V.地域精神医療というもの―私の日記抄―
 昭和46年

◆「家族会・小坂英世の活動
 〔1971年〕2月24日
 三多摩C保健所の家族会で小坂が話をするというので聞きに行く(その頃小坂はまだ基本的には生活臨床学派〔群馬大グループ〕と大差なかった)。
 「分裂病者には弱点がある。特定の事象に過敏で、その弱点を刺激すると再発する。その弱点を本人に指摘し、くすぐり、自己洞察に至らしめるのが治療というもの。家族でもできる」と。
 「1)金銭に関すること、2)男女関係に関すること、3)面子に関すること(学歴・役職)、4)身体的故障に関すること、患者によってこの4つの弱点のうち1つに特異的に過敏であり、それを知ることが第一」
 話は具体的であり説得力がある。ちょっとうさんくさいが、明快、断定的で家族はうっとりと聞き入る。カリスマ性が大きい。
 「学歴にこだわる人は通信教育を。何か資格を…」「結婚にこだわる人は…『あなたを結婚させてあげたい…だから家事をきちんとできるように、明日から家事をお母さんに習いなさい』」「体にこだわる人はちょっとけがしても大きな包帯をまいてやれ、専門医にみせよ。頭から『気のせいだ』といってはいけない」「金にこだわる人は家計簿をつけさせて1円でもはっきりさせる。親があいまいにごまかしてはいけない。小使いをやったらその収支をきちんとチェックした方がよい。患者から金を借りたら必ず返すか、もう少し待って…とはっきりいう」などなど。具体的な話だから保健婦の体質にあうのだろう。
 F市の薄暗いバーで飲む。ふたりとも暗い。彼はだまってウイスキーをがぶのみする。孤独な男。別れて午前1時帰宅。」(浜田[2001:95])

◆「小坂グループの忘年会で
 12月9日
 夜、小坂英世一派との忘年会に出てみる。大熊一夫、大熊由紀子、吉岡眞二(上川病院)、上妻善生(上妻病院)、尾崎新(現立教大学教授)、小坂派の保健婦3名など11名。小坂が話しだす。

 「私の子どもが2歳半の時、ある夏の夜、妻が風呂上がりの子どもに下着を着せていた。パンツをはかせたとたん、ギャッ!と大声…さあ、あなたならどうする」と。もったいつけて得意な顔して「正解はこうです。パンツを脱がせた…蜂が入っていた…子どもの睾丸が赤く腫れ上がっている…。さ、あなたならどうする…。ちがうちがう。まず蜂をたたき殺す。そして妻にアンモニアをを買いに走らす。私が子どもを逆さにして傷口をチュウチュウと吸った。実はその子は今小学1年になっている。その記憶が残っている。『お父さんが蜂を殺して、毒を吸ってくれた…』と。そこでだ。この症例は家族教育に使える。医者を呼ぶ前に親としてやるべきことがある。原因ははっきりしている。それは親にしかわからない。蜂だ。それをまず見つけて殺す(原因をとりのぞく)。そして医療の手配をする。<0180<そして傷口をチュウチュウすう。果たして毒がどれだけ吸い出せるかはわからないが、その行為が重要である。子どもに『お父さんに毒をすってもらった!』という記憶がいつまでも残る」
 「精神分裂病でも同じことだと思う。分裂病を発病してしまいました。『ハイ、あとは先生にお願いします』と。全然ほったらかしにしているのがいる。パンツを脱がせることをしない親。子どもが泣きわめくので『どうしたの、どうしたの、何かおっしゃい…』と怒ったりなだめたりする親。布団をしいて寝かせる親。医者のところへ連れていく親。医者は熱を計って、胸や腹を診て、普通は睾丸まで診ないよ。『大したことないでしょう…』と。薬を与えて注射して終る。子どもは本当に痛かったことを誰にもわかってもらえず、我慢するしかない。原因は3つある。蜂。親。医者」

 そう断定的にあの小坂の太いドスのきいた声とジェスチャーで言われると、「なるほどそうか」と思って感心するしかない。しばらくたって分裂病まで拡大するのはちょっとおかしい。しかし一般的な育児、教育論としては説得力もあるし、「よう!小坂!」と大向こうから声がかかるだろう。
 とにかく小坂は酒をガブ飲み。「この男死ぬ気か!」と直感する。
 小坂は走る。翔ぶ。日々説が変わる。そして常に自信にあふれでいる。後ろを振り向かない。
 (彼に対する私の両価的な気持ちは1972年10月日本看護協会出版会で出した「精神分裂病読本」26)で、小坂英世、浜田晋、外間邦江の座談会によく出ている。3人とも熱っぽく本音で語っている。)」(浜田[2001:180-181])
26)小坂英世『精神分裂病読本』改訂版・精神衛生活動の手引き,日本看護協会出版会, 1972.

◆「東大闘争とは何であったのか
 〔1971年〕12月11日(土)
 東大で一緒に働いてきた岡田靖雄と久しぶりに会う。彼も来年3月東大をやめるという。それにしても東大闘争とは何だったんだろう。「医療」という立場からみて新しい医療改革の動きが生まれたか?「彼らは闘争のための闘争しかしなかったんですよ」と岡田。「しかし今は利敵行為になるから何とも言えない」と。
 私が東大闘争で学んだことはただひとつ。「東大とは社会の中で何であったのか。結局日本の支配機構(政・官・財・学問)と直結し、民衆を支配し続けた。それに対する自己批判ではなかったのか…そして私はあの時東大にいなかったら、今の私の地域活動はなかっただろう。ぬくぬくと松沢病院にいてどこかの大学教授にでもなっていたか。しかし今は患者にとって医療とはなんだったのかを現場に立って凝視する視点を追求したい…」と私は言う。
 岡田は冷笑的に「あなたは切替えが早い。変わり身が早い。ぼくは不器用な人間だから…2〜3か月浪人するよ…」と。
 (でも彼はその後私が関わっていた下町のH診療所に勤務して継いでくれることとなった。」(浜田[2001:182])

◆おわりに 238-239

 「この日記はまだほとんどの精神科医が精神病院や大学に閉じこもっていた頃の記録である。
 そして世は今頃になって「地域」「地域医療」の大合唱である。しかし、「地域」とはそんなバラ色なのか、患者に幸せをもたらすものなのか、「ちょっと違うのではないか」という想いも根底にあったのだろう。彼らは本当に「地域」の中で悪戦苦闘したことがあるのか。その本質をどこまでとらえているのだろうか。
 「この日記はもう30年も昔のことだろう。今は違う」という反論もあろう。しかし私はその本質はそんなに変わらないと考えている。
 日記は本来自らのために書くものかもしれない。しかし私という一精神科医が「地域」の中で苦闘し、ひとりひとりの分裂病者とまともに向き合った記録は、今でも、今だからこそ重要な意味を持っているという自負がある。
 上から、たてまえから「地域」を論じる手法への怒りにも似た感情がある。それがこの日記を恥ずかしくもなく本書で取り上げた理由のひとつである。この2年の日記は、後から思えば私の中に強い動機――今ここで記録に残しておきたい――という執念があったのだろう。
 私が精神科診療所を開業した時は、大げさに言えば私は「死」さえ覚悟していた。当時は、町で「精神科」診療所は経営的になりたたないのが常識であった。
 そしてこの20年、世は大きく変わった。
 今、若い人はなんのとまどいもなく精神科診療所を開業する。そして利潤をあげさえする。「どこかちょっとおかしいのでないか」という思いが、<0238<この日記を今、私のライフワークの冒頭にかかげる所以でもあろう。

 今思えば筆を入れたくなるようなところが少なくない。医者の奢りも目につく。「地域活動とはみんなで力を合わせてやる仕事だ」との認識に之しい。初め大学や病院で学んだ精神医学をそのまま地域に持ち込もうとしていた。それが少しずつ変化してはいるものの、気負いとあせりがある。今、私は地域活動とは「自らの中に他者を取り込むゆったりとした作業」であると思っている。地域の中で必死に生きている患者さんや家族、地域で働く人々と私の相互関係の中で生まれるのであろう。また、この日記は保健婦や保健所への認識も偏っている。これを読まれた保健婦さんはきっと嫌な思いをされるだろう。多くの家族の方々とてそうであろう。それは総じて他罰的である。その奢りは精神科診療所を開業し25年経ち、老い、恥じるばかりである。しかしその挫折と混乱の2年が私のその後の診療所活動に生かされたことも事実である。
 論語の言葉がある。「何如せん何如せんと言うことなき者、我これを何如せん」(高橋和巳『わが解体』46)(⇒前掲 15))58頁)。
 私はこの言葉を高橋和巳とともに反芻していたのである。25年たっても未だ迷いの中。
 しかしこれもまたひとつの真実であろう。
 私も74歳。『私の精神分裂病論』をまとめるだけの力はあまり残されていなかった。医学書院の樋口覚氏の強い勧めがなければ、そして編集・制作をしていただいた樋口氏、松永彩子さんと浜田クリニックの重松敏子の力なしには、未完成に終わったであろう。「ありがとう」と言っておきたい。

 そして最後にこの書を思師立津政順の墓前に捧げる。

 2000年 秋

       浜田 晋」

■言及

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.