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『公正としての正義再説』

Rawls, John[ジョン・ロールズ]2001 Justice as Fairness: A Restatement. Erin Kelly Ed. Harvard University Press.
 =200408 田中 成明・亀本 洋・平井 亮輔 訳,『公正としての正義再説』岩波書店,402+24p.

last update:20100726

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Rawls, John[ジョン・ロールズ] 2001 Justice as Fairness: A Restatement. Erin Kelly Ed. Harvard University Press.=200408 田中 成明・亀本 洋・平井 亮輔 訳,『公正としての正義再説』,岩波書店,402+24p. ISBN:4000228463 3570 [amazon][kinokuniya] ※

■内容

現代の政治哲学・倫理学に多大の影響を及ぼした著者が、規範的理論としての正義論に向けられたさまざまな批判に応答しながら自らの理論的全貌と到達点とを簡潔に示した、最後の「正義論」。講義録をもとに加筆・編集。 <

■目次

詳細目次 
編者のまえがき
はしがき
第一部 基礎的諸概念
政治哲学の四つの役割/公正な協働システムとしての社会/秩序だった社会の観念/基本構造の観念/われわれの探究の諸限定/原初状態の観念/自由で平等な人格の観念/基礎的諸観念の関係/公共的正当化の観念/反省的均衡の観念/重なりあうコンセンサスの観念
第二部 正義の原理
二つの基本的な要点/正義の二原理/分配的正義の問題/主題としての基本構造──第一種類の理由/主題としての基本構造──第二種類の理由/誰が最も不利な状況にあるのか?/格差原理──その意味/反例による異論/正統な期待、権原、功績/生まれつきの才能を共同資産とみる見解について/分配的正義と功績に関する総括コメント
第三部 原初状態からの議論
原初状態──その構成/正義の環境/形式的な諸制約と無知のヴェール/公共的理性の観念/第一の基本的比較/議論の構造とマキシミン・ルール/第三条件を強調する議論/基本的自由の優先/不確実性への嫌悪に関する異論/平等な基本的自由再論/第二条件を強調する議論/第二の基本的比較──序論/公知性に属する諸根拠/互恵性に属する諸根拠/安定性に属する諸根拠/制限つきの効用原理に反対する諸根拠/平等についてのコメント/結語
第四部 正義に適った基本構造の諸制度
財産私有型民主制──序論/政体間の幾つかの基本的対比/公正としての正義における善の諸観念/立憲民主制 対 手続的民主制/平等な政治的諸自由の公正な価値/その他の基本的諸自由の公正な価値の否認/政治的リベラリズムと包括的リベラリズム──二つの対比/人頭税と自由の優先性についての覚書/財産私有型民主制の経済制度/基本制度としての家族/基本善(財)の指数の柔軟性/マルクスのリベラリズム批判に取り組む/余暇時間についての手短なコメント
第五部 安定性の問題
政治的なものの領域/安定性の問題/公正としての正義は間違った仕方で政治的か/政治的リベラリズムはいかにして可能か/重なり合うコンセンサスはユートピア的ではない/道理に適った道徳心理学/政治社会の善

■引用

第四部 正義に適った基本構造の諸制度
財産私有型民主制──序論/政体間の幾つかの基本的対比/公正としての正義における善の諸観念/立憲民主制 対 手続的民主制/平等な政治的諸自由の公正な価値/その他の基本的諸自由の公正な価値の否認/政治的リベラリズムと包括的リベラリズム──二つの対比/人頭税と自由の優先性についての覚書/財産私有型民主制の経済制度/基本制度としての家族/基本善(財)の指数の柔軟性/マルクスのリベラリズム批判に取り組む/余暇時間についての手短なコメント

 43 公正としての正義における善の諸観念 250-
 「公正としての正義は、平等な政治的諸自由(古代人の自由)は一般的にみて、例え思想の自由や良心の自由(近代人の自由)ほど内在的な価値はもっていないとみる(コンスタンやバーリンに代表される)リベラリズムの伝統の系譜にに賛同する。このことが意味することは、一般に、たいていの市民の(完全な)善の構想のなかでそれほど大きな位置を占めてはおらず、それどころから、そのほうが道理に適ったことかもしれないということである。現代の民主的社会では、政治は、都市国家アテネにおいて生粋の男性市民にとってそうであった☆09ほどには人生の中心ではないのである。」(Rawls[2001=2004:254])

 基本善(財)の指数の柔軟性 293-307
 「51.1
 基本善(財)の指数の実際の用いられ方と、こうした指数が与える柔軟性とを例証するために、そのような指数に対してセンが提起している反論を幾らか詳しく検討しよう。その反論とは、この指数ではどうしても柔軟性がなさすぎて公正でなくなってしまうというものである☆293。この反論を議論すれば、個人間比較はセンが個人の「基本的潜在能力」と呼ぶものの尺度に少なくとも部分的に基づかなければならないという彼の重要な考えと、基本善とのつながりを示すことによつて、基本善の観念がはっきりするだろう。
 センの反論は二つの論拠に依拠している。第一の論拠は、基本財(善)の指数を用いることは実△293 は間違った空間で作業することになり、従って、誤りを招く測定基準を含んでいるということである。つまり、利益は実際には、個人と財(善)との関係に依存するのだから、基本財(善)そのものを利益の実現形態とみなすべきではない。反論はさらに続く。すなわち、個人間比較の受容可能な基礎は、個人の基本的潜在能力という尺度に、少なくともかなりの部分、依拠しなければならない、と。
 説明しよう。センは、財(善)をもっぱら個々人の欲求や選好を充足するものとみなす点で功利主義は誤っているとみる。彼の考えでは、財(善)と基本的潜在能力との関係もまた不可欠である。すなわち、財(善)とは、例えば自分で服を着たり自活するとか、手助けなしにあちこち移動するとか、地位に就いたり仕事に従事したり、政治や共同体の公的生活に参加するといった、一定の基本的なものごとをするのを可能にするものである。基本財(善)指数というものは、財(善)と基本的潜在能力との関係を捨象し、基本財(善)のみ着目することによって、間違ったものに焦とを当ててしまっているのだと、センは考える。
 51.2
 この批判に応答するにあたり、強調されるべきことは、基本善(財)の説明は基本的潜在能力を現に考慮に入れており、捨象などしていないということである。つまり、二つの道徳的能力をもつが故に自由で平等な人格である、そのような者としての市民たちの潜在能力を考慮しているのである。彼らが、全生涯にわたって十分に協働する普通の社会構成員であり、自由で平等な市民△294 という地位を維持することを可能にしているのは、二つの道徳的能力なのである。われわれは、市民の潜在能力と基本的ニーズについての一つの構想に依拠しており、諸々の平等な権利と自由は、これらの道徳的能力を念頭において特定されている。すでにみたように(第三二節)、そうした諸々の権利と自由は、大きな重要性をもつ一定の根本的な場面でこれらの能力を適切に発達させ十分に行使するために必要不可欠な条件なのである。次のように言うことができる。
 (i)平等な政治的諸自由、言論の自由、集会の自由などは、市民の正義感覚の発達と行使にとって必要であり、正義に適った政治的目標を採用したり実効的な社会政策を追求するにあたり、市民たちが合理的な判断をするべきなら必要ときれるものである。
 (ii)平等な市民的諸自由、良心の自由と結社の自由、職業選択の自由などは、善の構想への市民たちが合理的な判断をするべきなら必要とされるものである。つまり、(完全ないしは部分的に)包括的な宗致的・哲学的・道徳的教説に照らして理解された、自分が人間生活において価値あるとみるものを形成し、修正し、合理的に追求する能力にとって必要なのである。
 (iii)所得と富は、それが何であれ広範な(許容される)諸目的の達成にとって、とりわけ二つの道徳的能力を実現し、市民が肯定ないし採用する善の(完全な)構想の諸目的を増進するという目的の達成にとって必要とされる一般的な汎用的手段である。
 こうした所見は、基本善(財)の役割を、公正としての正義の枠組全体のなかに位置づけている。この枠組に注意を向ければ、公正としての正義が地本善(財)と個人の基本的潜在能力の間の根本的関係を現に承認していることがわかる。実のところ、基本善(財)の指数は、自由で平等な者と△295 しての市民という(規範的な)構想に含まれる基本的潜在能力が所与だとすれば、自由で平等な者としての地位を維持し、十分に協働する普通の社会構成員であるためには、市民にどのようなものが必要とされるのか、これを問うてみることによって作成されているのである。当事者たちは、基本善(財)の指数が正義原理の一部であり、正義原理の意味のなかに含まれているということを知っているのだから、もし彼らが代表する人々の必要不可欠の利害関心を保護するために求められると彼らが考えるものをその指数が確保してくれないなら、当事者たちはそのような正義原理を受容しないだろう。
 51.3

 これまでのところでは、一つの重要な背景的前提をおいてきた。つまり、政治的正義が考慮に入れるべき種類のニーズや必要については、市民たちのニーズや必要は十分に類似しているため、政治的正義の諸問題における個人間比較のための適切かつ公正な基礎として、基本善(財)の指数が使えるという前提である。
 もしこの背景的前提が本当に成り立つなら、センは、少なくとも多くの場合は、基本善(財)の使用を受け容れるかもしれない☆56。だから、彼の反論は、十分に協働する普通の社会構成員の重要なニーズや必要が実は非常に異なっているため、基本善(財)の指数を伴う正義の二原理ではどうしても柔軟性がなさすぎて、これらのニーズや必要における差異に対応する公正な方法をもたらすことができないとい、つ、も、つ一つの論拠に依存している。これに応えて私は、基本善(財)の指△296 数を作成することで、かなりの柔軟性がもたらされるのだといううことを示すよう努めたい。
 まずはじめに、深刻な障害をもつために社会的協働に貢献するる普通の構成員では決しててありえないよ、つな人々という、極端なケースはわきにおいておく。その代わりに私は二つの種類の事例だけを検討するが、そのいずれもが、私が通常の範囲と呼ぶもの、つまり、誰もが協働する普通の社会構成員であることと両立するような、市民たちのニーズや必要における差異の範囲内におの社会構成員であることと両立するような、市民たちのニーズや必要における差異の範囲内に求軟性が例証されることになろう。
 51.4
 第一の種類の事例は、二つの道徳的能力の発達と行使や生まれつきの才能の実現における差異に関わる。これらは、十分に協働する社会構成員であるために求められる最低限不可欠なものを越える差異である。例えば、裁判上の諸徳性は正義感覚という道徳的能力が秀でていることであるが、これらの徳性を備えための能力にほかなりのばらつきがあるとしよう。こうした能力には、知性と想像力、公平であったり、より広くてより包含的なものの見方をする能力、並びに他人の関心や状況に対するある程度の感受性が含まれている。
 正義の二原理は、そのなかに純枠で背景的な手続的正義の概念を組み込んでいるが、配分的正義の概念を組み込んではいない(第一四節)。市民の道徳的能力における差異は、それだけでは、諸々の基本的な権利と自由を含め基本善(財)の配分における、対応する差異に帰着するわけでは△297 ない。むしろ、市民たちの潜在能力が通常の範囲内にあるものとして、彼らの基本的潜在能力か訓練し教育するための一般的な汎用的手段や、それら能力を十分に使用する公正な機会が市民たちの手に入るために必要な背景的正義の諸制度を含むように、基本構造が整えられているのである。公正な基礎の上で何人にも保障された機会をどう利用するかは、諸々の基本的な権利と自由が確保され、自分自身の人生を引き受けることのできる、自由で平等な人格としての市民たちに委ねられている。
 先に触れた裁判上の徳性への能力における差異を考えてみよう。通常の範囲内では、こうした差異は、自由で平等な者としての市民たちに正義の二原理が適用される仕方に影響を与えはしない。誰もが依然として同じ諸々の基本的な権利と自由や公正な機会をもっており、また誰もが格差原理の保証するものの対象となる。もちろん、裁判上の徳性へのより高い能力をもつ人々は、他の事情が等しいなら、そうした徳性の発揮を要する責任を伴なう権威ある地位を占める機会がより多い。一生を通じて、彼らは基本善(財)へのより高い期待をもつかもしれず、また、彼らのより大きな能力は、適切に訓練され行使されれば、彼らの立てる計画や彼らの実績次第で異なって報いられるかもしれない。(これらの最後の所見は多かれ少なかれ秩序だった社会を前提してのことであり、例によって、とくに断りのない限り、理想的理論の枠内で話を進めている。)

 しかし、結果として生じる特定の分配は、基本的潜在能力の尺度を用いる(配分的なものであれ手続的なものであれ)正義原理に従うことによって生じてくるのではない。こうした潜在能力のすべてにわたる(規範的なものと対比される)科学的な尺度を作ることは、理論上も不可能だと△298 いうわけではないとしても、実際問題としては不可能である。公正としての正義においては、潜在能力におけるこうした差異に合わせた調整は、純粋で背景的な手続的正義のもとで進行中の社会過程を通じて進められるのであり、そこでは個々の職務や地位にふさわしい能力適性が分配の役割を果たすのである。しかし、例のごとく、(通常の範囲内の)基本的潜在能力におけるいかなる差異も、個人の平等な基本的諸権利と詣自由に影響を与えるものではない。秩序だった社会では、そうした進行中の社会過程が政治的不正義に至ることはないだろうというのが、公正としての正義の主張である。
 51.5
 次に、第二の種類の事例に移ろう。つまり、市民たちの医療へのニーズにおける差異である。こうした事例は、市民が一時的に――しばらくの間――十分に協働する普通の社会構成員であるために最低限不可欠な能力を下回っている事例と性格づけられる。政治的正義の構想を作り上げるにあたっての最初の一歩としては、(これまでやってきたように)病気や事故を完全に捨象して、政治的正義の根本問題は、もっぱら自由で平等な者としての市民問での協働の公正な条項を明確にする問題だと考えてよいだろう。しかし、公正としての正義は、この間題を解決する助けとなることができるだけでなく、病気や事故が引き起こすニーズの差異をカバーするように拡張することもできると私は望んでいる。この拡張を試みるために、市民が全生涯にわたって協働する普通の社会構成員だという前提は、市民がときには重い病気にかかったり、ひどい事故に遭遇△299 するかもしれないということを許容するものとわれわれは解釈する。
 こうした拡張をするに際しては、次のような基本善(財)の指数の三つの特徴に依拠する。これらの特徴が、医療へのニーズにおける市民間の差異に応じた調整をするための、ある程度の柔軟性を正義の二原理に与えてくれる。
 第一に、これらの善(財)は、原初状態で入手できる考慮によってすみずみまで特定きれるわけではない。このことは、基本的な諸権利や諸自由とそれ以外の基本善(財)のいずれについても明白である。例えば、原初状態では、基本的な諸権利と諸自由の一般的な形式と内容の輪郭を描くことができ、それらの優先性の根拠を理解することができることで十分である。そうした権利と自由の一層の明確化は、ょり多くの情報が人手可能になり、特殊な社会的条件を考慮に入れることができるに応じて、憲法段階、立法段階、司法段階に委ねられる。基本的な諸権利と諸自由の一般的な形式と内容の輪郭を描くにあたっては、後続の各段階で明確化の過程が適切な仕方で導かれるのに十分なほどに、これらの権利や自由の特別な役割と中心的適用範囲を明らかにしておかなければならない。
 第二に、所得と富という基本善(財)を、個人の所得や私的な富だけと同一視してほならない。というのも、われわれは、個人としてばかりか結社や集団の構成員としても、所得や富を支配したり、あるいは部分的に支配しているからである。ある宗派の構成員は教会の財産を幾らか支配しており、教授会の構成員は、彼らの奨学金や研究といった目標を達成するための手段とみなされた大学の富を幾らか支配しているのである。われわれはまた、市民として、医療保障の場合の△300 ようにわれわれに権原があるさまざまな個人的な財やサービスの、政府による支給の受益者であったり、(澄んだ空気、汚染されていない水などといった)公衆衛生を確保する措置の場合のように(経済学者のいう意味での)公共財の政府による供給めの受益者でもある。これらの項目のどれも、(もし必要なら)基本善(財)の指数に含めることができる☆57。
 第三に、基本善(財)の指数は、一生を通じてこれらの善(財)がどれだけ期待できるかについての指数である。これらの期待は、基本構造内部の有意な社会的立場に付随するものとみなされる。これによって、人生の通常の行程のなかで病気や事故から生じるニーズにおける差異を、正義の二原理が考慮に入れることが可能になる。個々人の基本善(財)の期待値(それらの期待指数)は事前には同じでありうるが、彼らが実際に受け取る善(財)は、さまざまな偶発的事情次第で――今の場合、彼らに降りかかる病気や事故次第で――事後的には相異なる。
 51.6
 以上を背景にして、協働する普通の社会構成員ではあるが、その能力がしばらく最低限度を下回ることもある者としての市民たちの医療や健康上のニーズに、正義の二原理がどのように適用さされるかを簡単に述べておこう。ここではこれ以上のことはできない。
 この間題は、立法段階で決定きれるべきものであって(『正義論』第三一節)、原初状態や憲法制定会議で決められるぺきものではない。なぜなら、この事例への正義の二原理の実行可能な適用は、さまざまな病気の広まりとそれらのひどさとか事故の頻度とそれらの原因その他の多くのこ△301 とに関する情報に部分的に依存しているからである。こうした情報が入手できるのは立法段階であり、それ故、公衆衛生を保護したり医療を提供する政策はそこではじめて取り上げることができるのである。
 基本善(財)の指数は期待によって特定されるから、市民のさまざまなニーズに対応する際のかなりの柔軟性が、正義の二原理の特徴である。単純化のために、最も不利な状況にある集団に焦点をあて、その構成員たちに見込まれる医療ニーズの総量と、さまざまな水準の治療や看護でそうしたニーズをまかなう費用とに関する情報が手に入るものと仮定しよう。格差原理の与えるこうしたニーズをまかなう費用とに関する情報が手に入るものと仮定しよう。格差原理の与える指針の枠内では、これ以上供給したら最も不利な状況にある人々の期待をかえって下げることになってしまうところまで、こうしたニーズをまかなうための供給をすることができる。この推論は、社会的ミニマムを設定する際の推論と同型である(『正義論』第四四節、二五一−二五二頁)。唯一の相違は、目下の場合、(見積もられる費用によって計算された)ある水準の保証された医療供給への期待が、社会的ミニマムの一部として含まれているということである。今度もまた、事前の同じ期待が、事後的なニーズの相違に応じて、受け取られる給付の幅広い分岐と両立する。
 医療や健康上のニーズに費やされる社会的生産物の割合に上限を定めるものは何かと言えば、それは、私的資金で支払われるものと公的資金で支払われるものとを問わず、社会が支出しなければならない、他の不可欠の諸費用であるということに注意されたい。例えば、活発で生産的な労働力が維持されなければならず、子供たちは育てられ適切な教育を受けなければならない。年間生産量の一部は現実資本に投下され、別の部分は減価償却に算入されなければならない。また、△302 引退した人々のための支給もしなければならない。諸々の国民国家からなる世界における国防や(正義に適った)外交政策に必要なもののためにも、支出しなければならないことは言うまでもをい。これらの要求を立法段階の視点から眺める市巾民の代表昔たちは、社会の資源の分配にあたり、それらの間で比較衡量してバランスをとらなければならない。
 ここで、市民たちが全生涯にわたって一つの公共的(政治的)アイデンティティをもつとみなし、また彼らが全生涯にわたって十分に協働する普通の社会構成員だと考えることが大きな重要性をもつということがわかる。立法段階で市民の代表者たちは、今や手に入る一般的情報を所与とすれば、正義の二原理がどのように一層細かく特定されるべきかを検討しなければならない。もちろん、市民をこのようにとらえても、正確な解答が選び出されるわけではない。例によって、われわれの手にあるのは、せいぜい熟議のための指針だけである。しかし、市民の代表者たちは――子供時代から老年期に至る人生の全段階でわれわれが掲げる要求を含む――先に挙げたさまざまな要求のすべてを、人生のすべての段階を生き抜くことになるひとりの人物の視点から眺めなければならない。ここでの発想は、各段階での人々の要求は、いったんわれわれが人生の全段階をみずから生き抜くものと考えたなら、われわれがそれらの要求の道理に適った比較衡量をするであろうその仕方から出てくるというものである。
 これまでの論述は、医療の問題を格差原理の指針のもとで眺めている。このことは、医療の供給は、最も不利な状況にある人々が自分の選好する医療の費用を自分でまかなうことができない場合に、彼らの所得を補うためのものにすぎない、という誤った印象を与えるかもしれない。し△303 かし、その反対である。すでに強調したように、医療の供給は、基本善(財)一般の場合と同じように、自由で平等な者としての市民のニーズと必要を充たすためである。そのような医療は、機会の公正な平等を保証し、諸々の基本的な権利と自由をわれわれが利用できることを保証するために、だからまた、われわれが全生涯にわたって十分に協働する普通の社会構成員であるために必要な一般的手段に属するものなのである。
 このような市民の構想は、われわれが二つのことをするのを可能にする。すなわち、第一に、さまざまな種類の医療の緊急性を評価することを可能にし、第二に、他の社会的ニーズや必要と比べた医療や公衆衛生一般の要求の相対的優先度をはっきりさせることを可能にする。例えば、第一の点については、人々を回復させて健康にし、彼らが協働する社会構成員としてその普通の生活を再関するのを可能にする、そのような治療には大きな緊急性がある――もっと正確に言うと、機会の公正な平等の原理によって特定される緊急性がある。その一方、例えば美容のための医療は、直ちに必要だなどとは決して言えない。われわれが普通の社会構成員である能力を維持し、いったんその能力が必要な最低限度を下回ったらそれを回復することと結びつけて、医療への要求の強度を考えることによって、(先の議論で大まかに述べたように)そうした医療の費用を、正義の二原理によってカバーされる、社会的生産物に対する他の諸要求と比較衡量するための指針が提供きれる。しかしながら、これらの困難で錯綜した事柄についてこれ以上の議論はしないでおく☆58。
 51.7
 結論を述べよう。基本善(財)の指数は柔軟性がなさすぎて公正ではないという反論に応えて、私は二つの主な主張をしてきた。
 第一は、基本善(財)の観念は、一定の基本的潜在能力をもつ者としての市民という構想と密接に結びついており、そうした潜在能力の最も重要なものに、二つの道徳的能力が含まれるということである。そうした基本善(財)が何であるかは、二つの道徳的能力を備えており、また、これらの発達と行使に、より上位の関心をもっている人格としての市民という基礎的な直観的観念に依存している。これは、個人間比較をする際だけでなく、道理に適った正義の政治的構想を設計するにあたっても基本的潜在能力が考慮に入れられなければならないというセンの見解と合致している。
 第二に、基本善(財)の使用によって可能になる柔軟性を示すためには、二つの種類の事例を区別しなければならないということである。最初の事例は、通常の範囲内に収まってはいるが、十分に協働する社会構成員であるために求められる最低限不可欠なものを越えているような、市民の潜在能力の差異に関わるものである。こうした差異は、純粋で背景的な手続的正義のもとで進行中の社会過程によって考慮に入れられる。この種の事例では、潜在能力における市民の差異を測るいかなる尺度も必要ではないし、また実行可能な尺度が可能であるようにも思われない。
 第二の種類の事例は、病気や事故のため市民がしばらく、最小限不可欠なものを下回ってしまうような潜在能力の差異に関わる。ここでは、われわれは、基本善(財)の指数が、立法段階で、△305 また例のごとく期待でもって、より具体的に特定されることになるという事実をあてにする。これらの特徴によって、基本善(財)の指数は、病気や事故から生じる医療のニーズにおける差異に対処できるほど柔軟であることが可能になる。ここで重要なのは、全生涯にわたって協働する社会構成員としての市民という構想を用いることであり、これによって、ミニマムを越える潜在能カや才能における差異を無視することが可能になる。この構想は、病気や事故によって人が最低限度を下回ってしまい、社会で自分の役割を果たすことができない場合には、その潜在能力を回復させたり、あるいは適切な仕方で補償するように、われわれに命じるのである。
 このかなり単純な――最低限必要なものを越える差異とそれを下回る差異という――二つの事例の区別は、私の信じるところ、民主的政体において重なり合うコンセンサスの焦点となる何らかの見込みのある、いかなる政治的構想にとっても決定的であるような種類の実行可能な区別の一例である。われわれの目標は、諸々の困難を回避し、単純化が可能なときは単純化し、常識との接点を見失わないことである☆59。
 51.8
 これで、財産私有型民主制の主要な諸制度についての概観を終える。そうした制度には、次のような他の重要な取り決めも含まれる。
 (a)政治的諸自由の公正な価値を確保するための施策。もっとも、こうした施策が詳しくはどんなものかは検討していないが(第四五節)。△306
 (b)さまざまな種類の教育や訓練における機会の公正な平等を実現するための、実行可能な限りでの施策。
 (c)すべての人に供給される基礎的水準の医療保障(第五一節)。
 労働者が管理する協同組合型企業というミルの考えは、そうした企業は国家によって所有も支配もされないのだから、財産私有型民主制と完全に両立できるということにも注意されたい。次に、われわれとマルクスとの簡単な比較をするなかで、この点に触れることにしよう」

「☆59 私はもっと極端な事例を検討していないけれども、このことは、そうした事例の重要性を否定するものではない。私は、いかに深刻な障害をもっていようと、すべての人間に対してわれわれが義務をもつているということは自明であり、常識によって受け容れられてもいると考えている。問題は、こうした義務が他の基本的要求と衝突する場合のこうした義務の重みに関わる。その場合、どこかでわれわれは、こうした事例のための指針を提供するように公正としての正義を拡張することができるのかどうかを見極めなければならず、また、もし拡張できないのなら、公正としての正義は、別の何らかの構想によつて補完されるのでなく、むしろ拒絶されなければならないのかどうかを見極めなければならない。ここでこうした事柄を考察するのは時機尚早である。」([390])

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2018/09/01 「無能力の取り扱い・1――連載・149」,『現代思想』46-(2018-09):-

◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社


UP: 20100726 REV:20180808
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