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『クララは歩かなくてはいけないの?――少女小説にみる死と障害と治癒』

Keith, Lois 2001 Take Up Thy Bed and Walk : Death, Disability and Cure in Classic Fiction for Girls, Routledge, Children's Literature and Culture=200304
藤田 真利子 訳,『クララは歩かなくてはいけないの?――少女小説にみる死と障害と治癒』,明石書店, 325p. ISBN:4-7503-1716-0 2730


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■ Keith, Lois 2001 Take Up Thy Bed and Walk : Death, Disability and Cure in Classic Fiction for Girls, Routledge, Children's Literature and Culture=200304
藤田 真利子 訳,『クララは歩かなくてはいけないの?――少女小説にみる死と障害と治癒』,明石書店, 325p. ISBN:4-7503-1716-0 2730  ※[amazon]/ b

目次

序章
第一章 罰と憐れみ:障害、病、治癒のイメージとその提示
第二章 『ジェイン・エア』と『若草物語』の臨終場面:生きていくには善良すぎる
第三章 『すてきなケティ』スーザン・クーリッジ:申し分のないよい子になること
第四章 『ハイジ』のクララと『秘密の花園』のコリン:奇跡的治癒
第五章 『少女ポリアンナ』と『ポリアンナの青春』:障害、階級、ジェンダーの研究
第六章 『リバーハウスの虹』エセル・ターナー:混乱、挑戦、死
第七章 作家が次にしたこと:二十世紀後半の障害者の描写
結論


【要約】

序章
 本書で取り上げる物語は概して、生き生きとした反抗的な少女が、素直な女性へと魅力的に成長していく過程を描いたものである。しかしこれらの作品を振り返ってみると、物語の中心にあったのは実は障害や病気、そしてそれらの治癒であったという見方もできる。治癒が起きるためにはたいてい、登場人物は何か重要な経験をしなくてはならない。怪我や衰弱、心の病などによって起こされた麻痺、個人的・精神的変化が常に物語の結末の中心にある。多くの場合、登場人物は病や障害を克服し、物語は平和的に終わる。本書の「古典作品(ヴィクトリア王朝時代:1837-1901)」を通して共通した障害の概念は、以下ように認められる。
(1)障害を負うことには、いいことは何もない。
(2)障害者の人々は、忍耐、明るさ、従順さを身に着けなくてはならない。
(3)障害は、悪い行いのため、邪悪な考えのため、十分によい人ではないための罰である可能性がある。
(4)障害者は罰せられるより哀れみを受けるべき存在ではあるが、決して受け入れられることはない。
(5)もし治ることを望み、自分自身を十分に愛することができ(ただし、他人を愛するよりも愛してはいけない)、神を信じれば障害は治療可能である。
本書で扱うのは、家庭の中で展開する物語である。そこでは身体障害のある登場人物は常に子どもである。身体障害は依存と弱さの象徴で、思案し学ぶ時間を提供している。登場人物の試練、問題、苦悩は家庭や家族の中で解決され、そのご褒美が治癒であることが多い。

第一章 罰と憐れみ:障害、病、治癒のイメージとその提示
 これまでの歴史の中では(特に西欧においては)、障害のある持ち主には何かもともと「悪い」ところがある(神に背く行いをした、性格の弱さや欠点がある等)があるという考え方が強かった。その「罰」として、社会が障害者を排除し、処罰し、非難した例は、歴史上数えきれないほどある。最近でも、「障害者を罰するひとつの方法」として、施設の中に閉じ込めて社会から隔離する国がある。「罰」は障害があることで非難されるべき点があるということを暗示するのに対し、「憐れみ」は障害の原因が何であれ、もっと恵まれた人たちからの同情や介助、慈善が必要だということを示す点では、「憐れみ」はかなり穏やかなやり方である。だがいずれにせよ、身体障害者が罰せられ、同情され、正式な社会の一員として受け入れられることはなく、常に普通の人間として受け入れられる境界線の外側にいた。

第二章 『ジェイン・エア』と『若草物語』の臨終場面:生きていくには善良すぎる
 この2つの物語には共通して、強くて気難しくて反抗的なヒロインと、優しく受動的で人を許す病人という対照的な人物が登場する。『ジェイン・エア』の中でジェインは、ヘレンから復讐心と怒りが自分自身の破滅になりうることを教えられ、『若草物語』のジョーは、ベスに我慢と自分自身を抑制することを教えられた。このように信仰心が厚く、従順な登場人物の死が、いわゆるおてんばな性格のヒロインの生き方に影響を与え、結果的に社会で望ましいとされる女性の姿に成長する過程が描かれている。文学作品の中で、死につながる病はきれいで純粋なものとして表現されていた。

第三章 『すてきなケティ』スーザン・クーリッジ:申し分のないよい子になること
 この物語においても、おてんばな少女が主人公である。主人公ケティは皆に愛される美しく気立てのよい子になることに抵抗を感じ、そのことに罪の意識を持ちながらも人生において何か大きなことを成し遂げたいという願望を持っていた。しかし、ある事故によって身体に障害が残り、部屋に閉じ込められた生活を余儀なくされる。ここで生きることに絶望しているケティを救ったのが、完璧で愛情にあふれた天使のような少女であるヘレンだった。ヘレンもケティと同様に身体障害者であったが、自分たちがより良く生きるためには忍耐やほがらかさを身に着けなければならないと話す。他人への思いやりの心を持ち始めると同時にケティの症状は徐々に良くなり、麻痺していた身体が、最終的には歩ける状態にまで回復する。

第四章 『ハイジ』のクララと『秘密の花園』のコリン:奇跡的治癒
 この2つの作品の中心にあるのは、歩くことのできない子どもが、豊かな自然の中で信仰によって奇跡のように治癒するというテーマである。だがこれらの物語では、神への信仰・服従だけでなく、意思の力でものごとをより良く変えることができると信じることも、病の治癒のためには大切な要素であると示している。『ハイジ』のクララはアルプスでヤギに餌を与えること、そして『秘密の花園』のコリンは子ども達の庭で植物を育てることをきっかけに、世話をされるばかりではなく世話をする喜びを得、他人に頼らず、自分自身を支配する感覚を持つようになる。彼らは生きることに対し以前より前向きになり、その経験によって奇跡的に回復し、歩くことができるようになるのである。逆を言えば、これらの作品では病気や障害の原因を人間の心の中に帰していた。車いすは依存的な状態の象徴で、それが不要になることによって、彼らが自立した大人になったことを示していたのである。

第五章 『少女ポリアンナ』と『ポリアンナの青春』:障害、階級、ジェンダーの研究
主人公のポリアンナは楽天家で、活発で生き生きとした独立志向の少女である。物語の初めの部分では、ポリアンナの明るさや無邪気さが、病を患っている人や孤独に生きている人を救っていく。しかしある時、ポリアンナは事故で足の力を失い、身体障害者になる。彼女は二度と歩けないことを知って落胆するが、持ち前の前向きな思考で少なくとも手と足が動くことを喜ぶ。物語の終わりでは、治癒する場面は明確に描かれていないものの、周囲の人々からの愛情によって結果的に治っていく。
続編の『少女ポリアンナ』では、貧困によって身体が不自由になった人々の現実の生活と、発展途上のアメリカにおける動かしがたい社会的不平等という問題に取り組んでいる。 歩くことができず、治癒の希望もないままに大人になる人物としてジェイミーが登場する。二十世紀前半においては、貧困、食べ物の欠乏、非衛生的な環境、適切な治療を受けられない環境から、身体障害者のほとんどは子どもであった(現在でも貧しい国では同じ状況である)。また、この物語では、ジェイミーと対照的な人物であるジミーが登場し、両者の違いが浮き彫りにされている。何よりも第一に挙げられるのが、ジェイミーが障害者であるのに対し、ジミーは背が高く身体的に完璧であることだ。そして両者とも男性だが、名前も容貌も、ジミーのほうがより男らしく表現されている。さらにジェイミーは出生が定かでないが、ジミーは由緒ある家柄であることが物語の終わりになって明らかにされる。また、どちらの青年もポリアンナを愛していたが、物語の終わりで結婚し、ヒーローとなるのはジミーであった。
ジェイミーの障害の記述は現実的である。『ハイジ』のクララや『秘密の花園』のコリンのように、障害の原因が心の中にあると考えず、ジェイミーが心の変化や意思の力によって治ることはなかった。また、常に他人から向けられる同情の目によって対等な立場として見られていないことを自覚しており、不自由な身体を通してしか自分を見ることができず、唯一自由なのは精神だけだと述べられていた。

第六章 『リバーハウスの虹』エセル・ターナー:混乱、挑戦、死
 これは、反抗的で自由奔放な性格の持ち主である主人公のジュディと、その個性的な6人のきょうだいの物語である。ジュディはきょうだいの中心となってありとあらゆるいたずらを企て、周囲の人たちを困らせる。それを見かねた父親が、罰として嫌がるジュディを1人だけ家から離れた寄宿学校に行かせる。だがジュディは当時不治の病とされていた結核を患い、家に戻ることになる。ジュディの病状は徐々に回復し、以前と変わらない、おてんばでいたずらな彼女に戻る。ここでは『すてきなケティ』のように、わがままで不適当な行動を改めるための変化の時期にはならなかった。
 しかしながら、ジュディは再び危険な状況に陥る。病気の療養のために移り住んだ土地で、倒れてくる木から赤ん坊の弟を庇い重傷を負ってしまったのだ。結局ジュディは、当時の他の作品のように、回復するチャンスが与えられずそのまま死に至ってしまう。
ジュディはおてんばで手の付けられない少女だったが、その身体に溢れる行動力とエネルギーは、やがて彼女を気高く聡明な、素晴らしい女性につくりあげる可能性もあった。しかし作者のターナーは2度も変化する契機をつくりながらも、最終的にジュディに洗練された女性に成長するきっかけを与えず、ジュディが成長を遂げる可能性を否定したと考えられる。

第七章 作家が次にしたこと:二十世紀後半の障害者の描写
 過去数十年間で、障害者の問題に対する認識と理解に大きな進展があった。医療技術の進歩により障害を持って生まれた子どもが幼少期に死ぬことはほとんどなくなり、また障害のある子ども達を普通学校に入れる動きも出ている。しかし、こうした社会的変化が子どもの本に完全に反映されるまでには至っていない。多くの作家は、障害のある子どもの生活は制限され依存しているものだとういう自分自身の認識を打ち崩すことができず、前向きな解決を与えることができないままでいる。また、障害そのものの知識や認識が浅く、誤った描写が含まれていることも、物語の混乱や不完全な結末になることを助長している。
 本書で取り扱った作品以後、1920年から1955年に発表された物語では、実際の生活では強い意思や宗教的奇跡によって障害が治癒することはないという現実を示している。この時代の作品は、障害を持ちながらも、夢や希望を持ち自らの可能性を広げていく人物が登場する。1960年以降になると物語の中に新しい現実主義が登場し、差別や虐待、そして障害などの社会問題をテーマにした話が書かれるようになった。そして若者達は、宗教や親の忠告に従うというより、自分の意見に責任を持つことが求められた。また、登場人物をロマンチックではなく、怒りに満ちた現実味のある人物にし、社会的不公平や健康状態と戦う姿が描かれる。しかしながら、自立的な姿と依存的な姿の葛藤、自らの身体に対する誇りと憎悪という相反する複雑な感情が描かれ、障害者自らの自己受容、あるいは同情からではなく、対等な立場の上で他人から受容されることの難しさについて触れられている。
 今後は、障害のある作家が自らの経験を活かし、これまでとは異なる視点から書いた作品がより一層求められるだろう。

結論
 これまでに挙げた古典作品の作家は、子ども向けの文学は、読者を社会で必要とされる人間に形作るためのものであると考えていた。例えば、男の子は元気で強くなくてはならない、女の子は結婚に順応するために従順でなくてはならない、障害はよくない行動の罰であり、病気は十分な意思やよい思想によって乗り越えられるといった信念で、当時の物語は強化されていた。だが、社会的進歩が積み重ねられてきた現代社会でも、我々は治し、癒すために霊的あるいは個人的なありとあらゆる「力」にすがっている。人々は、癌や脊髄損傷など未だに不可解で治りにくい病気であるほど、意思の力や、「精神が肉体を支配する」という考えを信じて非科学的な方法に頼ろうとする傾向がある。これは文学においても言えることで、上記のような信念のもと、奇跡的治癒という道具が未だに用いられている。このような比喩の使用は、障害は消極的で不幸な状態であり、このような状態からの解放は何をおいても手に入れたいものであるという考えを反映している。

UP: 20070827


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