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Equality of Whom?: Social Groups and Judgement of Injustice



“Equality of Whom?: Social Groups and Judgement of Injustice”
 I. M. Young
 Journal of Political Philosophy. vol. 9 No. 1 (2001) 1-18


■内容紹介(堀田義太郎)

 平等という規範的理念をめぐる哲学的議論は「何の」平等か、という問いに焦点化されてきた。「厚生」なのか「資源」なのかといった問いである。この問題は解決はされていないが論点は明確化されてきた。
 だが、「誰の」平等か、という問いにはあまり注意がはらわれてこなかった。平等の単位は個人だと想定されてきた。だが、しばしばじつは集団が比較されている。女性は男性に比して平等ではないと言われたり、黒人と白人、高齢者と若者、労働者階級の子供とミドルクラスの子供等々。こうした「集団を意識した判断(groupe-conscious judgements)」は政府やその他、研究機関にも正当化されている。
 以下では、@社会集団という語で不平等を評価する理論および実践に対する政治的かつ哲学的な反論を概観し、(以上、1) Aもしこの観点から平等が重要だと言うならば、諸個人の比較によって平等は評価されなければならないこと、Bそのような評価が社会正義に対する何らかの主張にとってほとんどあるいはまったく基礎を提供するものではないと論ずる。社会集団という語で不平等を評価することは、制度的関係や制度的過程の重要な側面を明らかにするのに役立つ。
 集団ベースの比較は、とくに「構造的」不平等を明らかにする。構造的不平等は関心を集めてきたが、しかし明確に概念化されてはこなかった。本論では、この概念を諸個人の行動を可能にしあるいは制約するのを強める再生産された社会過程として定義する。

■反論1

 以上の問題意識に対してありうべき第一の反論として、近年の最高裁の判決がある。それは、集団に不正義をもたらすという帰結によって害を評価できるという議論を退けているように見えるからである。さらに、集団が不平等でありうるという考え方そのものを攻撃している。(3)

 「たとえば、白人、黒人あるいはアジア人といった、二つあるいはそれ以上の分類を横断してlineageしているし自己同定している人々の主張によって部分的に促進されつつ、アメリカのcensusは、人種やエスニシティによって人々をアイデンティファイするような質問をすべてやめるべきだと論ずる人もいる」(4)

つまり、全ての人は個人としてだけみなされるべきだ、という主張である。

さらに、「自由な社会の目標は、人種ブライドでジェンダーブラインドであるべきであり、劣性と排除の刻印として歴史的に利用されてきたそうした属性の特徴にブラインドであるべきだ」(4)という主張でもある。
「社会集団に基づく不平等の評価や集団の比較から不平等に関する主張を導出することは、最終的に、政治的多様性にダメージを与えることになりかねない」
 この観点からは、「政治的協同(協力)は個人の福祉の評価だけを考慮すれば、より簡単に獲得できるだろう」と想定されている。(4)

■哲学的反論

・ドゥウォーキンはロールズの正義論の基礎に集団を意識した平等評価があることを見出し、これを批判している(4)

 ロールズの無知のベールでは、最不遇に位置づけられた人々の階層を代表するような観点が想定されている(4-5)。ドゥウォーキンによれば、それは経済的な見地からの見人々の改装を比較するような、過度に「フラット」な平等概念である。諸個人間の嗜好、選択、人生の目標などから帰結する差異が取りこぼされている。ドゥウォーキンの資源の平等論はそうした差異に配慮する理論としてデザインされている。諸個人が責任のない自然の不運や他の資源の問題と、諸個人の嗜好と選択から帰結する差異を区別することがその目的にある。ドゥウォーキンは彼の理論を方法論的そして道徳的に個人主義的なものとして提示している。(5)

・ラリー・テムキンもまた集団を意識した不平等の計測に反対する議論を展開している。(5)

・ダグラス・ラエ(Douglas Rae)は、集団内の個人は多様であるのに、諸集団が不平等だと評価することは、集団間の平均や中間値の比較に依存することになる。グループ内の多様性を無視し、たとえば男性と女性の集団としての扱いは、男性の不遇者を無視する等々(6)。

 もちろんドゥウォーキンやテムキンの議論は正しい。ただそれでも集団を意識した議論が重要である。それが諸個人の生活を本人の制御を越えた形で促進したり制約したりする社会構造に結びついているからである。(6)

U 不平等と道徳的判断

そもそも実質的平等が正義にとってどれだけ重要かを疑う議論もある。それによれば、自由が重要なのであり、形式的平等で十分である。物質的福祉は正義の判断にとって重要ではない。(6)
ここでそれを反駁しようとは思わない。たしかにすべての正義の主張が社会的地位や、集団間の福祉や利益の比較に依拠しているとは言えないし、自由やニード、真価をinvokeする正義の主張は、構造的な社会集団を同定する必要はない。しかし、「平等」をinvokeする正義の主張は構造的な社会集団の同定を必要とする。(7)

ある人々が最低限のディーセントな生活を営むために必要なものを欠いており、別の人々はそのニーズに対応することがその人々にとって少しのコストで可能であることは〔それでもそれが為されていないことは〕悪いことである。それはハリー・フランクファートが「充分性」と呼ぶものである。
「充分性」のベースラインを越えているとしても、たとえば他の人よりも政治的意思決定への影響力を大きく有している人がいる場合、それは不正義を示しているように見える。とはいえ、単に個人の状況を比較するだけでは、それらの不平等を不正義だと呼ぶ理由にはならない。(7-8)
なぜか? 我々はある条件や状況の不平等を同定するとしても、この不平等な条件の原因についての説明を持たないからである。何らかの不平等なパターンの原因と帰結――パターンそのものではなく――こそが、正義の問題を提起する。もし不遇な人の不平等の原因が非強制的で熟慮された意思決定や線香にあるならば、その不平等は不正だとは思われないだろう。ドゥウォーキン等は、諸個人の資源保有あるいは厚生のレベルの原因が、彼あるいは彼女が責任があると言えるものと責任がないものとを区別することに専心してきた。後者をbad luckと呼ぶ。(8)
しかし、諸個人の間にある不平等な資源分配もしくは不平等な機会の原因の大部分は、諸個人の選考や選択にも、運ないし偶然にも帰せられえない。そうではなく、諸個人間にある資源ないし機会の不平等の原因は、社会制度、そのルールと諸関係そして、比較されている諸個人の生活に影響を与える他者たちがその中で下す決定にある【Andersonへのリファー】。たとえば田舎の貧民は、bad luckの犠牲者でなく、制度的ルーティンや、〔田舎への〕輸送計画の歴史やその欠如、地域開発の不平等などなどの犠牲者である。(8)
アメリカの不平等に関心をもつ人々はしばしば、富の80%が20%の人々によって占有されているという事実を引用する。ただ、それだけで不正義の問題だということは難しい。全ての人々がニーズをある程度満たしており、また貧困から裕福への道を閉ざす障壁が特に存在せず、裕福な人々が別に社会的特権を得ているわけでもない場合、この不平等な分配は運と選択の組み合わせだ、ということになるだろう。ここで、もし不正義の問題と言いたいなら、我々はより多くの情報を知るべきである。(8)
裕福な人々が裕福な両親をもち、エリート教育を受け恵まれた大学で受けていた等などを知るならば、そして裕福な人々の生活機会をあまり裕福でない集団のそれと比較するならば、我々は正義の判断を行うことができる。(9)ここで単なる個人の集積に基づく不平等評価から社会集団に基づく不平等補評価に移行する。階級やジェンダー、人種と言った社会集団の不平等測定の意義は、構造的不平等を明らかにするところにある。(9)

V 構造的不正義

ゲワースの議論 …… 人権アプローチはリバタリアンと自己責任論を共有しているが、しかし、リバタリアンが、既存の制度的編成の構造的不平等を看過する点で異なると指摘する。(9)
ジーン・ハンプトンもまた、構造的あるいは体系的な側面を重視している。法的制度、家族構造、教育システムが大きな影響を与えている、と。(9)「これらのシステムの力が社会を不公正な分配に向けて推進しているということを認識せずに、単に公正な分配パターンにするものを強制しようとすることは間違いである」(9-10)
ゲワースとハンプトンは、個人の属性、行為そして選択を、それらが埋め込まれているところの、そして個人の選択肢と行為を制約している、より社会的で集合的ないし制度的条件から区別するために構造的不平等に言及する。彼らは個人が責任のあるものとそうでないモノとの区別について論ずるが、それは依然、「構造的不平等」概念の意味を明快に説明していない。(10)
マリリン・フライは鳥籠への抑圧に擬えている。もしこの鳥籠が一つの針金だけでできているとすれば、それが鳥が逃げるのを妨げているとは言えない。多くのワイヤーが絡まり合ってある種の仕方で鳥を取り囲んでいることが、鳥が自由に羽ばたけない理由を説明する。
これは直観の第一レベルにおいて、社会構造がある種の人々の能力を制約しているということの意味を説明する。
スーザン・オーキンは女性の抑圧を家族内のジェンダー分業に基づいて説明する。ジェンダー役割と期待が、男性と女性の人生を体系的な仕方で、多くの女性とその子にとって不利益と脆弱性を与えるように構造化されていると論ずる。社会は、子どもや他の依存者はまずは家族成員によってケアされるべきだという期待に沿って組織化され続けている。そして女性は子どもや他の依存者のケア提供者だと考えられている。(10)
 〔家族内分業、ジェンダー規範、職場の構造等々が結合し、また規範を内面化した女性の選択を通して、ジェンダー経済格差が形成されているという説明〕(10)

 家族と経済という社会構造が、文化的規範とともに組み合わさって女性とその子どもの選択を形成しており、またその不平等な状況を説明する。こうした説明なくして、女性の不平等な地位を不正義の問題として描写することは困難である。(11)
 人種についても同じことが言える。
 ジェンダーないし人種的不平等を主張に説明するのは構造的なものである。それは、様々な想定とステレオタイプ、制度政策、様々なルールに従ったあるいは自己利益に基づいて選択された行為、それらの集合的帰結などのなかで形成される一連の関係性を記述する。両親や隣人や友人の経済階層における地位が、階層という構造的不平等ゆえに、人生の選択の条件になっていることについて同じような物語を語ることができる。
 ピーター・ブラウの「社会構造」の社会学的定義…… 「人口が配分されているところの差異化された社会的地位に関する多次元的な空間」(12)
ロールズの「社会の基礎構造」が重要だということになる。

 ただ、「構造」というメタファーを個々の行為者から独立した実態として考えることは間違いである。社会構造は人々の行為と相互行為のなかにのみ存在する。状態としてではなく過程として実在している。ギデンズの構造化理論が示すように。(13-14)

W 集団と不正義の判断

 最初の問いに立ちかえろう。福祉ないし地位のさまざまな測定において社会集団を比較することを正当化するのは何か。それが構造的不平等を同定するのに役立つからだ。諸関係やルール、期待、そして集合的行為の累積的帰結がその集団の成員の生活に特殊な条件となっているといえる場合、そこには集団の成員がある種の不正義を被っているというための基盤が存在することになる。(15)
 これは再帰的な方法である。我々が不正だとして社会的条件を批判する際、我々は、たとえば彼らの音楽や骨格などといった個人のランダムな属性を、彼らをグループ化する基盤として選択することはない。私たちは比較のための集団を、私たちがすでに知っているところの一般的に認知された社会的ポジションに沿って構成しており、そのポジションは、人々お互いに関係をもつ仕方に広く影響力をもつものである――階級、人種、エスニシティ、年齢、ジェンダー、職業、能力、宗教、カースト、市民としての地位などなど。不正義についての判断を下すために集団の不平等を評価するプロセスは、諸集団の幾人かの成員の平均的地位の比較が、不平等のパターンを明らかにするだろうという仮定をもって開始される。(15)パターンとは、特定の時点でのすべての社会的地位を横断してある財がどのように分配されているか、そのあり方を指す。(15)

★★ コメント …… メタル好きの集団や浪曲好きの集団が好きな音楽へのアクセスが難しくなっているとして、それは不平等の兆候とは見られないし、前者の集団はその他のたとえばJポップ好きの集団と比較して不正を被っている、とは言われない、ということ。

 一つのパラメーターに基づいてある種のパターンを明らかにすることは、しかし、いまだ不正義の判断には至らない。その不平等が地位ないし福祉のレベルにおいて、他のいくつかのパラメーターに沿って平均的に異なったパターンをとっているという意味で「組織的systemic」であることを明らかにしなければならない。(16)私たちが、ネイティブアメリカンを、集団として低所得であり、新生児死亡率が高く、低教育等などがあるということを発見するとき、この集団の成員はおそらく不正義を被っているということを許される。私たちは、もしある種のパターンを生みだす「もっともらしい構造的物語」を語ることができないならば、完全な評価を行う理由はない。 集団の不平等のメジャーは、鳥籠のワイヤーのようなものである。つまり、一本だけを見ても、人々の自由あるいは福祉について、何も明らかにならない。だが、一本一本のワイヤーを離れて、相互に強化し合っている様を見れば、それは非常に多くのことを説明する。(16)
 したがって不正義の判断は究極的には分配パターンについてのものではない。それぞれの分配パターンは、単に、パズルのピースを提供するにすぎず、一般化された社会的過程――それがある種の人々が自らの能力を発展させ利益にアクセスする機会を制約し、他方、他の人々のそれを促進する過程――の説明の一つの手掛かりを与えるにすぎない。(16)
 多くの平等理論は、こうした状況の主要な源泉を不運として解釈する。この点で私はエリザベス・アンダーソンが平等理論の目的は、不平等の不運な源泉を同定することではなく制度と社会的諸関係にあると述べる点に同意する。不平等が社会的に原因をもつ程度に従って、この正義概念は民主主義政治共同体は手段的にそのような不平等の保障に責任があると主張する。それが仮にいわゆる「brute luck」の結果の保障のための負わされるものを超えているとしても。こうした不正義の判断は、その対象(目的)として分配パターンそのものを超えて、制度的組織と社会的実践を採用する。(16)

X 反論への応答と政策的含意

集団や構造が問題だとして、判断と政策の最終的な目標が個々人の福祉を生みだし改善することであり、またそうであるべきだということとは矛盾しない。(17)
集団意識的不平等の尺度は集団内の個々人の多様性を抑圧するのではないかという心配は根拠がない。というのも、集団間の不平等評価の目的は、集団内の諸個人の相対的地位への考慮ぬきに、集団をブロックとして平等化することではないからである。機会の平等が目的だからだ。(17)
集団を意識した不平等尺度を使うことは、補償要求の同定の程度をめぐる政治的抗争を煽るかもしれない。とはいえそうだとしてそれは集団に基づく不平等評価の実践に反対する理由にはなりえない。(17)
たしかに色々な要求がでてくるかもしれない。とはいえ、それらの要求の根拠を問う基準は構造的不平等概念とその分析方法のなかにある。(18)
集団間の不平等の派遣に基づく不正義の判断は、特定の原理や戦略を含意しない。したがって本論の目的は、単にアファーマティブ・アクション政策の擁護や、特定の集団を標的とした分配政策の擁護だけにあると解釈されるべきではない。(18)
それは特定の分配パターンを生みだすことにあると考えられるべきでもない。むしろ、平等化する行為の目的は、個々人の実質的機会を制約するような制度的プロセスと個人の行為と相互行為に介入することにある。状況次第で、集団標的的政策も子の手段として正当化しうる。構造的不平等の暴露は、それ以上の介入手段を明らかにすることもしばしばあるだろう。(18)


*作成:堀田 義太郎
*このファイルは生存学創成拠点の活動の一環として作成されています(→計画:T)。
UP: 20110202 REV:
自由・自由主義 リベラリズム
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