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『所有のエチカ』

大庭 健・鷲田 清一 編 20001010
ナカニシヤ出版,叢書思想のフロンティアIII,243p. 2200円+税
http://www.nakanishiya.co.jp/
http://www.nakanishiya.co.jp/books/mkj590-9.htm

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大庭 健・鷲田 清一 編 20001010 『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版,叢書思想のフロンティアIII,243p. ISBN:4-88848-590-9 2310 [amazon][kinokuniya] ※

■内容説明[bk1]
「所有」とは何か? 「所有」の構造を思想史的・政治的・概念的分析的に捉え直し、現代社会の中で問題化している「所有」をエチカの問題として浮き彫りにする。

◇高橋 洋児 20001215 「二〇〇〇年の収穫」,『週刊読書人』2366:2
 「根源に立ち返って「確かさ」をつかみ出そうとする所有論。具体事例(知的所有権、家族と所有、死の自己決定権など)も織り混ぜて平明。所有の肥大化と個人の卑小化が所有論を盛んにしている。」

 

  立岩「死の決定について」が収録されています。

 「「死の自己決定権」について、他者の手を借りて自らの死を選ぼうとする「安楽死」について考える★01。考えるにあたり、小松美彦の本(小松[1996]*)をとりあげる。「自己決定」を言いさえすればそれで済んだ気になる人達がいるとして、第一に、彼は少なくともそんな人ではなく、むしろその人達に反論を試みようとしている。しかし第二に、私は小松と同じ考えではない。両方の理由から、その論をとりあげる。そして小松が(小松も)述べていること自体から、その論を否定する。すなわち、別の場に立つのではなく、同じところから出発して別のところに着こうとする。
 その後に別のことを述べる。述べることは二つである。…」(p.149)

小松 美彦  1996 『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』、勁草書房

 なお立岩が上記の文章と前後して書いたもの、インタヴューに応えたものとして、「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」(『仏教』42:85-93・特集:生老病死の哲学)、「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」(『ヒポクラテス』2-5(1998-8):26-31)があり、これらはいずれも、立岩『弱くある自由へ』(青土社、2000年)に収録されています。合せてお読みいただければさいわいです。

 cf.
 ◆安楽死・尊厳死
 ◆立岩 2001/04/25  「死の決定について・1」 (医療と社会ブックガイド・4)
  『看護教育』2000-4(医学書院)

 *この章は立岩『唯の生』に再録されました。

[目次]

 I 問題としての所有

鷲田 清一 20001010 「所有と固有――proprieteという概念をめぐって」
 大庭・鷲田編[2000:004-041]
大庭 健 20001010 「所有という問い――私のものは私の勝手?」
 大庭・鷲田編[2000:042-080]

 II 所有が/を浸食する――所有と近代

◆水谷 雅彦 20001010 「知を「所有」するとはいかなることか――「研究業績」という奇妙な制度についてのノート」
 大庭・鷲田編[2000:082-102]
◆藤野 寛  20001010 「家族と所有」
 大庭・鷲田編[2000:103-123]
斎藤 純一 20001010 「集団と所有――生の所有から生の保障へ」
 大庭・鷲田編[2000:124-148]
 1集団による生の所有/
立岩 真也 20001010 「死の決定について」
 大庭・鷲田編[2000:149-171] 注・文献 ↓
大川 正彦 20001010 「所有の政治学――所有的個人主義批判」
 大庭・鷲田編[2000:172-194]

 III 存在と所有――所有の思想史

◆大庭 健 20001010 「所有というナウい神話――間柄の私有化の思想史」
 大庭・鷲田編[2000:196-223]
◆田中 久文 20001010 「無所有の系譜――日本における所有観の歴史」
 大庭・鷲田編[2000:224-243]


■言及

◆立岩 真也 2005/06/25 「死/生の本・6」(医療と社会ブックガイド・50)
 『看護教育』46-06:(医学書院)[了:20050427]

 
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立岩 真也 20001010 「死の決定について」,大庭・鷲田編[2000:149-171]
 *この章は立岩『唯の生』に収録されました。

□書かれていないが前提されていること
□私・対・私達、でなく
□決定を駆動するもの
□変更すること・言うこと

付記:この原稿は一九九八年七月に書かれた。その後、小松と議論する機会もあった(また彼は『思想』二〇〇〇年二月号・三月号に「安楽死」に関する論文を書いている)が、内容変更の要はないので、約二年前に書かれたままのものが掲載される。他に筆者がインタヴューに応えたものとして「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」(『ヒポクラテス』一九九八年八月号)があり、註(7)に記したホームページで読むことができる。この主題についてはもっと長いものをいずれ書こうと思う。

◆注

★01 私的所有について著書(立岩[1997])にひとまず書けることを書き、自己決定について論じた。立岩[1998a]〜[1999]も「自己決定」に関わる。特に[1998a]と本稿の基本的な主張は同じであり、そこではここで記さなかった事例や文章も紹介した。カナダで(医師の)幇助による自殺の合法化を求めて裁判を闘ったALS(筋萎縮生側索硬化症)の女性スー・ロドリゲス、日本ALS協会会長松本茂の文章、等。この文章と合わせて読んでいただければと思う。なお立岩[1998a]と同じく、本稿で主に念頭に置かれるのは死のための積極的な処置を行なわせる積極的安楽死である――「死なせること」と「死ぬにまかせる」のと違いがあるかという議論のあることは承知しているが、この点についての検討はここでは略す。
★02 この種の議論について、もう少し詳しく立岩[1997:278-280]で述べた。これらにはマルクス主義的なものの影響があるはずである。例えば廣松渉から大庭健へ、廣松渉から小松美彦へという線。
 ところで、小松も自らの論の「多大な危険性」(小松[1996:222])を指摘してはいる。しかしその危険は、彼の心配する「絆の単位」(の大小)の問題、共同性が国家という単位に至ったならば、といったこと(だけ)ではない。
★03 「リベラリズム」対「コミュニタリアニズム」という対称があるという。本文に書いたことは、多分、それに関係がある。少し勉強して、もっとよく考えてみたい。
 そして脳死。その膨大な言説の堆積にもかかわらず、脳死についてまだ考えることは残っていると私は思う。私自身も立岩[1997:191-195]でわずかのことを述べただけなのだが、誤解されやすい言い方で言うなら、脳中心主義から本当に私達は抜けることができるのかという問いをもっと考える必要があると思う。小松(および森岡正博)に対する美馬達哉の批判(美馬[1998:154-155])がこの論点に関係する。
★04 決定に関わる外的条件――「環境」の側に見込まれる――と決定に関わる選好――「主体」の側に見込まれる――とをはっきりと区別することはできない。これは当然であり、ここでの議論には影響を与えない。むしろ、以下に述べることに整合的である。
★05 自己決定が自己責任を帰結するものでないことは立岩[1998c][1998d]で述べた。
★06 「ありうる」と言うのは、私にはその悦びはわからない、あるいは少しわかるような気がするにしても、それで死のうとは思わないからである。フーコーの論については市野川容孝による検討がある(立岩[1997:318]に文献とともに紹介)。市野川の議論については別に検討したい。
★07 中村・石原編[1993]に収録されている。これがもっともまとまった資料集だが、少なくともここ五年ほどの情報は、当然、収められていない。ホームページhttp://www.arsvi.comで「五〇音順索引」→「安楽死」、「人」→「太田典礼」等と辿ると、書誌情報(日本語で書かれたものだけでも、主に法学の分野にかなりの数の論文がある)、文献からの引用等、ある程度の情報が入っている。このホームページへの情報提供、発言を歓迎する。日本安楽死協会、日本尊厳死協会等の活動、そこで言われたことの歴史的な検証の作業は別の課題としたい。なお、一貫して安楽死を問題にし続けている人に清水昭美がおり、多くの文章がある。最近のものとして清水[1998]だけをあげる。

◆文献表

Foucault, Michel 1979 "Un Plasir si simple", Gai Pied 1979=1987 増田一夫訳、「かくも単純な悦び」、『同性愛と生存の美学』、哲学書房 :184-190
加賀 乙彦  1997 「素晴らしい死を迎えるために」、加賀編[1997:9-38]
加賀 乙彦 編 1997 『素晴らしい死を迎えるために――死のブックガイド』、太田出版
小松 美彦  1996 『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』、勁草書房
―――――  1988 「「死の自己決定権」を考える」、山口編[1998:109-152]
美馬 達哉  1998 「脳死と臓器移植」、佐藤・黒田編[1998:135-157]
中山 研一・石原 明 編 1993 『資料に見る尊厳死問題』、日本評論社
佐藤 純一・黒田 浩一郎 編 1998 『医療神話の社会学』、世界思想社
清水 昭美  1988 「「安楽死」「尊厳死」に隠されたもの」、山口編[1998:79-108]
立岩 真也  1997 『私的所有論』、勁草書房
―――――  1998a 「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」、『仏教』42:85-93(特集:生老病死の哲学)→立岩[2000]
―――――  1998b 「一九七〇年」、『現代思想』26-2(1998-2):216-233(特集:身体障害者)→立岩[2000]
―――――  1998c 「自己決定→自己責任、という誤り ――むしろ決定を可能にし、支え、補うこと」、『福祉展望』23:18-25(東京都社会福祉協議会)
―――――  1998d 「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」、『現代思想』26-7(1998-7):57-75(特集:自己決定)→立岩[2000]
―――――  1999 「自己決定する自立――なにより、でないが、とても、大切なもの」石川准・長瀬修編『障害学への招待』、明石書店→立岩[2000]
―――――  2000 『弱くある自由へ』、青土社
山口 研一郎 編 1988 『操られる生と死――生命の誕生から終焉まで』、小学館


第1刷 20001010
第2刷 20010130


REV:...20040818,27 20050427, 20090401
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