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『精神医療論争史――わが国における「社会復帰」論争批判』

浅野 弘毅 20001010 批評社,メンタルヘルス・ライブラリー3,211p.

last update: 20110725

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浅野 弘毅 20001010 『精神医療論争史――わが国における「社会復帰」論争批判』,批評社,メンタルヘルス・ライブラリー3,211p. ISBN:4-8265-0316-4 \2100 [amazon][kinokuniya] ※ m. m01h1956. m01h1958.

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精神障害者の「社会復帰」論争の歴史的再検討を踏まえながら、地域にさまざまなネットワークを形成し、障害者一人一人の病の回復に寄り添うケアのあり方を探究。地域リハビリテーションの可能性を提示する。〈ソフトカバー〉[bk1]

■著者紹介

1946年宮城県生まれ。東北大学医学部卒業。仙台市立病院神経精神科部長兼老人性痴呆疾患センター室長。著書に「精神科デイケアの実践的研究」、共著に「精神保健」がある。[bk1]

■目次

はしがき
第1章 作業療法の原型
第2章 生活療法の発見
第3章 生活療法の全盛
第4章 生活療法・批判と反批判
第5章 生活臨床の登場
第6章 地域精神医学会の興亡
第7章 小坂理論の波紋
第8章 中間施設論争
第9章 開放化運動
第10章 生活臨床その後
第11章 地域リハビリテーションの時代
第12章 谷中輝雄とやどかりの里
第13章 「精神障害者福祉法」論争
第14章 障害構造論
第15章 生活技能訓練(SST)の陥穽
終章 分裂病の「回復」論と「治療」論
引用文献
あとがき

■引用

第3章 生活療法の全盛

1 概念の混乱

2 国立武蔵療養所の場合
 小林八郎「生活療法(くらし療法)」には「生活指導(しつけ療法)」「レクリエーション療法(あそび療法)」「作業療法(はたらき療法)」の三つがあるのだが、一つ目は二つ目・三つ目の基礎をなすとされる。
 「生活指導には低次のものと高次のものとがある。低次のものは不潔、無為、荒廃、内閉患者を対象とし日常的身辺的な暮らしを自律的にさせるよう絶えざる働きかけをする。そして失った人間的慣習を取り戻させる。
 高次のものは自発性や労働能力はあっても人間的な規範や高き慣習を失った慢性欠陥患者に対して行うものである。居住や集団生活における作法、礼儀等のしつけを行い責任感の養成をする。」(小林他[1956]、浅野[2000:34]に引用)

3 烏山病院の場合
 もう一方の旗頭であった烏山病院では、1959 (昭和34)年に、生活療法の方針が西尾友三郎、松島昭、竹村堅次らによって打ち出された。
 1960 (昭和35)年には、「生活療法に関する服務要領」が定められ、その後改訂を重ね、「生活療法服務規定」(l96l年)「生活療法服務基準」(1965年)となっていく。
 医師や看護婦についても、それぞれ「医師服務規定」(1962勺年)「看護服務基準」(1962年制定、1965年改訂)が示されている。
このように、病院内の諸活動をさまざまな規定や基準で規制しようとしたのが烏山病院における生活療法の特徴である。
 もう一つの特徴は、病棟を機能別に配置したことで、1961(昭和36年)に最初の4単位8病棟の構成がとられた。
 竹村は、烏山病院における生活療法について、つぎのように説明している。
 「当院では開放下の病棟管理に重点をおき、し生活指導、2.レク療法、3.作業療法、4.社会的療法(または社会治療)に4大別しています。このため病棟区分もさしあたり、1.治療病棟、2.生活指導病棟、3.<0038<作業病棟、4.社会復帰病棟の機能別4単位(男女別計8単位)にするのが便利と考えました。このように病棟を区分すると、入院患者の流れは治療病棟からはじまり、身体的治療後の病状に応じて他の病棟へ、最後には社会復帰病棟へと移ることになります。治療の内容を模式化すれば、
     一生活指導一集団療法導入
開放管理一一作業・レク一組織化
     一社会治療一社会復帰活動
となります。
 このような病棟移動は、あくまでも生活療法中心主義ではじめて徹底できるのですが、実際にやってみますと、かなりおおきな効果があるものです。」6)
 小林との違いは、社会治療と称するものが追加されていることと、治療を段階的に捉えて病棟構成をそれに対応させていることである。
竹村がここで提起している社会治療(ないし社会療法)という概念ははなはだ奇妙である。別のところで、竹村はつぎのように述べている。
 「社会療法は社会復帰を目ざす集団療法、生活療法のなかに含まれ、広義の生活指導のなかにも拡散浸透していく」7)というのである。
 これでは、生活指導との違いが雲散霧消してしまう。
 しかも社会復帰病棟で行われた社会治療の実際は、たかだか院内作業およひび院外作業にすぎなかった。
 そのことにことさら拘泥するのは、病院のなかで行われた生活指導や作業に社会治療なる言葉を冠することによって、問題の所在をあいまいにし、しかも院内で治療が完結するがごとき幻想をばらまいたからである。
 さて、「生活療法に関する服務規定」のなかでは、生活療法とは、作業療法、レクリェーション療法、生活指導を総称したもので、入院患者の生活管理の大部分を占めると定義されている。<0039<
 なかでも「病棟管理は生活療法の根幹」であるとされた。
 また、生活指導については、「しつけを行うという、いわば生活のリズムを人なみに回復させるための再教育である。起床から就寝に、更に夜間のトイレット・トレーニングにいたる24時間の生活にあって、指導すべき項目は限りなくある。この生活指導は、レク・作業の基礎となり、またこの二者と組合わされて生活療法は成り立つ」8)と述べ、その重要性を強調している。
 このような考え方が根底にあって、病棟毎の日課表、週問予定表が作られていった。
 たとえば、生活指導病棟の日課表は以下のごとくである。
午前6.00起床〜洗面〜喫煙〜服薬
  7.20朝食〜ホール掃除〜喫煙
  9.00ラジオ体操,私物整理(ホ),床磨き(土)
  9.20作業(室内・養鶏・園芸)
  9.30グループ会
  10.30ホール掃除〜喫煙〜牛乳
  11.20昼食〜服薬〜ホール掃除〜喫煙
午後0.30入浴(火・金)
  1.00レク・昼寝(夏)
  2.00絵画(土),"コーラス泳)
  2.30点呼〜おやつ,喫煙
  4.20夕食〜服薬〜ホール掃除〜喫煙
  5.10シャワー浴(夏)
  5.45喫煙
  6.00就床準備,髭剃
  8.00更衣,服薬
  9.00消灯
 かくして判で押したような生活がくる日もくる日も続くのである。また、この患者の日課表に対応する形で、看護者の日課表が分きぎみで作成されている。
 さらに、生活指導病棟で実施された作業についてはっぎのように考えられていた。
 「一般に慢性欠陥分裂病に対しては広く生活指導が、その基本的治療であることはいうまでもない。無為、不潔、怠惰、自閉の殻に閉じこもったぼう然とした生活、欠陥とホスピタリズム、これらを打ち破るためには、基本的な日常の生活習慣の回復、人間的な生活の回復からはじめなければならない。
 患者をめぐる日常生活の中から、すぐ身近にあって、生活指導と結びっいた仕事に目を向け、治療として利用し、病棟内日常生活を治療的に有効に過ごさせる様にすべきである。」9)
 その結果、本来は病院職員の業務であるはずの各種の作業が、作業療法という名目で患者に割り当てられることとなった。
 配膳当番・配食当番・便所掃除・ホール掃除・風呂の手伝い・床みがき・布団介助・歯みがき当番・残飯係・手洗い誘導・チャイム係・洗面所清掃・べット部屋掃除・廊下掃除・ちり拾掃除・各部屋掃除・新聞当番・足洗い当番・買物運び・おむつ運び・洗濯物運び・包布運びときりがない。
 こうした作業は治療の一環と位置づけられることにより、使役が免罪されることとなった。
 ところで、烏山病院における生活療法体系を編み出したひとびとが、精神分裂病をどのように捉えていたかは興味あるところである。
 中心的役割を果たした竹村は、分裂病の成因について「遺伝原基の想定なくして成因を考えることはできない。分裂病の異種性は周知の事実として、少なくとも浸透度、表現性の異なる、かっ臨床上の特殊性を発揮する<0041<こともありうる単一(優性)遺伝子の常染色体上の存在を予告してよい。もちろん多因子性、劣性等の遺伝様式も、異種性を認める以上否定しえないが、やはり優性遺伝の根拠を否定することはできない。」10)皿と述べ、遺伝性の疾患であるという考えを強く持っていた。
宿命的な病である分裂病に期待できるのは、たかだか社会的適応である。したがって生活指導を日常生活のすみずみまで徹底して、「しつけ」をすることが重要であると考えたのであろう。

4 生活療法の破綻

 国立武蔵療養所と烏山病院の生活療法は、1957 (昭和32)年に発足した病院精神医学懇話会を舞台に華々しく喧伝され、全国に広まった。
 薬物療法の出現ともあいまって、精神病院内を治療的に再編しょうと考えていたひとびとに、ひとつの方向性を示したのである。
 ある意味で、生活療法の管理形態は、病院運営に一定の近代化をもたらした。
 しかしながら、増殖し続ける精神病院のなかで、入院患者の在院日数は延長するばかりでであった。
 しかも、生活療法に積極的に取り組んだ病院ほど、患者の入院が長引くという事態が進行したのである。
 あたりまえの生活とはかけ離れた環境、生活を奪われた環境のもとで、こと細かに毎日の行動を監視されるのが生活療法である。
 治療者の意向にそうような行動が取れなければ、退院の許可はおりないということになり、社会はますます遠のくことになった。
 さらに、院内の使役作業もすべて生活療法としての意味をもっとされたため、全国各地の病院で、患者の使役と収奪が公然と行われた。<0042<
 かくして、病院内の生活を治療的に再編しようと企てた生活療法は、精神病院を収容所と化すことによって自ら破綻したのである。」(浅野[2000:38-43])

6) 竹村堅次:生活療法を主とする烏山病院5年間のあゆみ.松沢病院医医局編:これからの精神病院シリーズ.1966.
7) 竹村堅次:社会療法.小林八郎ほか編:精神科作業療法,医学書院,1970.
8) 烏山病院問題資料刊行会編:烏山問題資料し鳥は空に魚は水に人は社会に.精神医療委員会,1981.
9) 多賀谷譲ほか:生活指導作業.[文献8)所収]
10)竹村堅次:日本・収容所列島の60年.近代文藝社.1988.

 「しつけを行うという、いわば生活のリズムを人なみに回復させるための再教育である。起床から就寝に、更に夜間のトイレット・トレーニングにいたる24時間の生活にあって、指導すべき項目は限りなくある。この生活指導は、レク・作業の基礎となり、またこの二者と組合わされて生活療法は成り立つ」(烏丸病院問題資料刊行会編[1981]、浅野[2000:40])
烏山病院間題資料刊行会編 1981 『烏山問題資料T――鳥は空に魚は水に人は社会に』,精神医療委員会

「第69回日本精神神経学会総会(1972年)は、シンポジウムのテーマとして「生活療法」をとりあげた。」(浅野[2000:47])〜小澤勲による批判

第6章 地域精神医学会の興亡

 1967年設立
 すっぽん会
◇小池 清廉 1989 「一九六〇年代の精神医療運動をかえりみて」,『精神医療』18-1
◇藤澤敏雄 1983 「地域精神医療とは何であったかT」,『精神医療』12-4:9

「第10章 生活臨床その後

1 方向転換

 1984(昭和59)年には「生活療法の復権」1)と題する論文を発表した。この論文が与えた衝撃は小さくなかった。
 第1は、1969(昭和44)年から東京大学精神科で展開されていた医局講座制解体−自主管理闘争 2)のいっぽうの当事者として、また日本精神神経学会では「人体実験」3.4)の実施者として、批判の矢面に立たされた当の人が、退官後雌伏10年目にふたたび筆をとったことへの衝撃であった。その不撓の精神によって、臺は復権を強く印象づけたのである。
 衝撃の第2は、論文の内容に関することがらである。臺は、論文の中で、生活臨床と生活療法の区別をあいまいにし、すべてを生活療法に溶融させてしまった。また、生活臨床に対する批判者の言説をつぎつぎ取り込み、違いを不鮮明にして、臺がいうところの生活療法に包摂しようとしたのである。あきらかな方向の転換であった。

2 「生活療法の復権」

 「生活療法は、その一部をなす作業療法を含めて、わが国の精神科医療 <0109<に古い伝統をもつ治療活動である。にもかかわらず、近年不当におとしめられた時期があった」との書き出しで臺の論文ははじまっている。

  「精神科医療体系の貧困から、生活療法や作業療法の名のもとに、多くの非医療的行為が行われたから、治療以前の問題までからんできた。そしてこの弊害を批判の出発点とした若い人達の中には、生活療法概念の否定こそ正しいと思い込んでしまった人びとがある」「生活療法批判には、価値の転換論と反体制運動が混同され、技術主義がおとしめられて精神主義が叫ばれ、漸進と急進という路線上の相違、手直し論と世直し論がからんでいた。そこでは原則論principleと優先性priorityと実行可能性feasibilityの区別も明らかでないままに、政治的、感情的、利害関係の対立の渦が建設的な論議を阻んでいた」

 と述べて、当時の生活療法批判をあらためて非難した。
 そして「10余年が空しく過ぎたという痛みが強い」という歴史認識を示して、ルサンチマンを吐露している。
 臺は、生活療法が批判を受けた烏山病院問題は、生活療法の本質に由来したものではなく、組織と個人の矛盾にすぎなかったので、技術的に処理可能だったとしている。しかし、この問題については、本書でさきにふれたように、決して技術的な問題に還元できない本質的な思想の相違が含まれていたのである。
 また「初期の生活臨床に、表現のうえで訓練面が強く表れていたことも否みがたい」「作業療法、生活療法は、働け働け、世渡りをうまくこなせと気合をかけすぎたきらいがある。そこに画一主義、生産第一主義、治療者の価値観の押しつけなどという批判の生まれてきた理由の一つがある」と批判の背景を分析しながら、続けて「だが生活療法にたずさわる者は、患者は押しつけられて動くものでなく、それには『きっかけ』が必要で、患者も治療者も自分で実際にたずさわってみて、『こつ』をつかむものであることを早くから知っていた」と言う。そのことと訓練を強く勧めて気<0110<合をかけることとの撞着については認識されていないかのようである。
 つぎに臺は、批判者たちの主張をとりあげている。たとえば小澤の論文 5)を引き合いに出して「批判者たちも現実路線に立ち戻れば、生活療法の実践にとりくまざるをえなくなった」証左であると述べている。これは小澤論文の誤読でなければ、意図的な歪曲である。
 小澤は論文のなかで「〈療法〉として〈生活〉が与えられるという構造を逆倒せしめよ、患者が自らの〈生活〉を奪還する闘いとわれわれがいかに共闘し得るのかという視点こそ、われわれの立場でなければならない」と記したうえで、「現実の精神科医療の構造、さらにはそれを生み出した社会構造・生活構造が根底的に変革されない限り、生活療法の普遍的のりこえは不可能である」と述べ、それに続けて「これは要するに、いかに生活療法を批判しつづけてきた私とて現実の場面では〈生活療法家〉として機能せざるを得ない状況にいるということである」と言っているのである。
 おそらく最後の文言を逆手にとって、臺は上のように引用したものと思われるが、小澤の論文には病院における彼の反生活療法的実践の具体例が提示されているのであって、趣旨がまったく違っている。
 臺は、中井 6.7)や神田橋 8)の論文についても「精神病理、精神療法の側かの発言は、一見、生活療法とは反するような形でそれとは言わずに、障害の受容をとりあげるようになった」と似たように牽強付会を行っている。
 結論として、臺は、作業療法は生活療法の一部であり、生活臨床は社会のなかでの生活療法であると述べるに至り、作業療法と生活臨床の独自性をあいまいにしてしまった。
 そして「生活療法は一方の極に、狭い意味での行動療法、神経症的性癖、行動異常などの変容に用いられる技法を持ち、他方の極に、障害克服のための啓発、自己発見などの精神療法と重なり合う幅広いスペクトルを持っている」とした。
 このようにありとあらゆるものを包含しているのが、生活療法であり、<0111<わが国の精神科医達は自分たちが実践していることが生活療法であることに気づいていないだけのことであると主張するのである。
 臺が主張する生活療法がそのようなものであれば、やはり「生活療法概念の否定こそ正しいと思い込んで」しまわないわけにはいかない。若者たちが治療以前の問題と生活療法とを混同していると批判した当の人が、作業療法も生活臨床も生活療法と混同しているのである。
 この論文で、臺は復権したが、生活療法は復権しなかった。

3 生活臨床の危機と分岐

 湯浅は1987(昭和62)年の時点で、生活臨床運動の「外なる危機、内なる危機」についてとりあげている 9)。
 外なる危機には3つの原因があるという。
 第lは、社会変動に由来するものであり、生活の変貌によって、生活臨床の職業指針・結婚指針は時代に即応しなくなっており、見直しの必要を迫られている。
 第2は、生物学的研究が時代の主流となったために、長期の臨床研究が許容されなくなった。
 第3は、学会紛争や精神病院の不祥事などの精神医学界の混乱によって、精神医療関係者の士気が低下したというのである。
 内なる危機は、1974(昭和49)年の江熊の急逝であった。その結果、まとまりのあった生活臨床グループは「ポスト江熊の多極化の時代」に入り、精神療法派、家族史研究派、長期経過研究派等へと分岐した。沈滞から拡散へと向かったのである。しかし「百家争鳴転じて百鬼夜行がまかり通り、分裂病研究者が分裂するのは一生活臨床の問題ではなく、本病研究に携わる者の自戒すべき通弊と思われる」ともいう。<0112<
 ところで、1985(昭和60)年、神田橋を司会者として行われた座談会 10)でも、湯浅はしきりに「生活臨床のアイデンティティ・クライシス」を強調しているが、出席した生活臨床同人たちの間では、必ずしも危機意識が共有されなかったことは興味深い。
 これより前に行われた「若手医師による報告」11)はやや深刻である。それによると、群馬における地域活動は、「放置患者をへらし、通院患者をふやし、軽快者を大幅にふやした。しかしながら入院数を減らすことができなかった。その主因は、活動開始時にすでに入院中であった長期入院者を退院させることができなかった故である」という。
 そして「統計でみるかぎり、地域精神衛生活動は無力であったといわざるをえない」「保健婦を中心とした精神衛生活動は、この10年余の間に大きく発展した。しかし、その活動の伸びは、ここ数年芳しいものではない」「地域精神医学は、群馬においても、精神医療の様相を変えるまでにはなっていないというのである。

 こうした現象は群馬に限ったことではなく、生活臨床に限った話しでもない。日本の地域精神医療全体に通じることがらである。

 「『放置患者』を『医療にのせる』という対応が家族、住民のニードのみで行われるとき、患者の地域からの排除を結果したと同じように、『再悪化防止』の活動が『医療中断への働きかけ』として、病院、医療者からの要請で行われるとき、それは病院内処遇、管理の地域への延長となり患者をより苛酷な状態に追いやることになるのである」 「『気軽に往診してくれたり、相談に行ける』ことのない精神病院をそのままにして行われる『地域精神医療』は、ただ幻のものであるだけでなく、現在も拡大し続ける精神病院への大量長期収容化を病院の外から促し、この『病院』ならざる『病院』の矛盾から目をそらす点で、またこの『病院』の影響を積極的に地域=病院外にまで延長するという点で大きな罪があるといわねばならない」<0113<

という島の批判 12)は今も生きている。
 1984 (昭和59)年、宮ら 13)は、分裂病者140名を対象に、追跡期間が16〜21年におよぶ、長期経過研究を発表した。 
 この長期経過研究の前半10年は、組織だった生活臨床的働きかけが精力的に行われ、後半は一般的な精神科臨床のなかで治療された分裂病者についての経過と転帰である。
 それによると、社会適応が「半自立」と「家庭内」という中間の群は、時間経過とともに連続的に減少し続け、最終的には「自立」かしからずんば「入院」または「死亡」という厳しい分極化が起こっていた。この現象を彼らは「鋏状現象」と名づけた。そして、当初より良好な社会適応を示した「自立」の群が時間経過のなかでもっとも変動が少なかったのである。
「20年後転帰では、再び心を揺さぶられるような成績をみることになった。亡くなった人たちを除いて、半数の人たちが自立しているのは心強いことだったが、他方にはまた約1/3の人たちが入院していたのである。これでは昔と変わらないではないか」14)と臺を嘆息させる結果となったのである。

4 外なる批判・内なる批判

 湯浅と鈴木 15)は、生活臨床と治療共同体という2つの治療法の比較共同研究を行った。
 それによれば、生活臨床と治療共同体の違いは、結局のところ、個人療法と集団療法の差異に行き着いてしまうという。「当時の生活療法の画一的、没個性的な弊害への強い反省から、生活臨床が発足した経緯もあり、その反動として、一時、個人療法的色彩が濃厚な時期があった」と2人は述べている。 <0114<
 ところで「生活」の概念をめぐっては、両者につぎのような相違があるという。生活臨床においては、「仕事とつきあい」を中心におき、睡眠、食事などの比較的生物学的な側面まで含めており、はなはだしく包括的で、概念規定の境界があいまいである。一方、治療共同体は、社会的な「人間関係」のある場を生活の場としてとらえる。したがって、親子、夫婦関係、友人との関係、病棟内の患者間の人間模様などのすべてが、生活として把握される。そしてそれらのsocial interactionのhere and nowの持続的検討がliving-learning(生活における学習)あるいはsocial learning(社会的学習)といわれる治療の中心となる。
 いいかえると患者と治療者の関係を含めた人間関係のありように着目するか否かが大きな相違点と言えよう。
 ところで臺は「生活療法の復権」1)のなかで、治療共同体を批判してつぎのように述べている。「治療共同体の理念は、組織対個人の矛盾を治療的に活用しようとする野心的なものであるが、治療者の裁量と障害者の自己決定をきわどく使いわけるので、二重に欺瞞的である」と。
 神田橋ら 16)は、自閉療法と生活臨床を比較検討した。自閉療法と生活臨床には共通点もあるが「一見小さな差異のように見えるものの中に、実は両者の重要な差異がひそんでいる。そしてその差は、両者の出発点の差、いいかえると先入観の差に起因するようである」という。
 決定的な相違は治療者の役割についての治療者側の認識にあるという。それは、自閉療法では治療者の存在が原則として有害であると考えるのに対して、生活臨床ではつねに有益と考えている点にある。自閉療法では、患者が他者との感情的接触を結ぶときに、危機状況が生まれるととらえる。「尽力的」な相手は、患者のなかに近寄りたいという気持ちをかきたてる故に、ひときわ有害である。したがって、治療者患者関係のなかにも危機状況や有害なものが内包していると考えるのである。一方、生活臨床では、治療者患者関係を「信用関係」と規定する。 <0115<
 もうひとつの決定的な差異は、治療目標の問題である。自閉療法において、第一義的に追求されているのは、あくまでも患者の外界認識(主として対人関係)と自己洞察の深化であり、行動の変化は二次的なものとみなされている。ところが、「生活臨床においては、危機状況の回避の経験をとおして、患者が生活の安定を得るための生活上の知恵を得、新しい、より適応的な行動を獲得し、生活水準が段階的に向上することを第一義的に目ざしている」という。
 臺は「生活療法の復権」1)に、この論文を引用して「このような所説は、従来の生活療法の虚を突いた形で問題の所在を明らかにした」と述べながら、結局「これは生活障害の現状認識、障害の受容に通ずることを示している」と読んでしまうのである。我田引水とはこのことである。
 宮内ら 17.18)は、東大精神科のデイ・ホスピタル(DH)で、生活臨床と治療共同体を統合する試みを行った。「DHが生活臨床の適用の可能性を豊かに持つ場となるために、治療共同体の理念を採用することが有益」17)と考え、「実行委員会方式」を採用して、「生活臨床の分野で立ち遅れていた治療的集団作りを可能とした」18)という。そして実際に「患者はDHの主人公として生き生きと振る舞い、DHの集団が持つ『誘引』も飛躍的に強まった 17)と報告している。その実践のなかから、生活臨床の働きかけの手法、すなわち、(1)時機を失せず、(2)具体的に、(3)断定的に、(4)反復して、 (5)余分なことは言わない、の5原則で働きかけても奏効せず、かえって混乱する分裂病の一群があることを発見し、この群を「自己啓発型精神分裂病患者群」(略して「啓発型」)と名づけた。そして生活臨床的働きかけが奏効する群を「他者依存型精神分裂病患者群」(略して「依存型」)と呼んで区別した 19)。
 そのうえで、この類型と生活臨床にいう生活類型とは次元が異なるということを強調している。「いわゆる能動型、受動型は生活の枠に対する本人の態度のとりかたで判別するのに対し、『依存型』『啓発型』は『具体的 <0116< で断定的な指示的働きかけに対する本人の反応の仕方』で判別し、生活の枠に対する態度は問わない。したがって、理論的には『依存型』『啓発型』のいずれにも能動型、受動型が存在しうる 20)と述べている。
 また、治療的接近法としては、「啓発型」には「役割啓発的接近法」(自己啓発を支持・促進する)が求められ、「依存型」には「役割指示的接近法」(具体的・断定的に教える)が適切であるという 21)。
 宮内は、生活特性を類型化し5原則に基づいて働きかける生活臨床を「著者ら東大の者は、『従来の生活臨床』と呼ぶ。広く知られている生活臨床が、生活臨床のすべてであるはずがないということを強調したいがためである」20)と書いている。

5 自己批判

 臺は1990(平成2)年に、みたび生活臨床に言及した。「生活臨床のその後 22)と題された論文には「自己批判の立場から」という一章がもうけられている。
 そのなかで、第1に生活概念のあいまいさをとりあげている。生活慨念があいまいなために、集団生活、対人関係のダイナミックスを治療体系にくみこめなかったし、院内生活臨床が弱体であったという。
 第2に、生活臨床には、開放看護、短期入院をもって十分とする見切りの速さがあって、長期入院にはあまり関心を示さなかった。
 第3は、能動型・受動型という生活類型の概念を厳密に分析することも、操作的に規定することもしなかった。「色・金・名誉・身体」という生活特徴についても吟味がされていない。それぞれの特徴についての特異性が本当にあるのかといえば、あまりなさそうだとも言っている。生活特徴と生活史との関係も重要な問題であると述べている。<0117<
 いずれも、生活臨床批判のなかで、くりかえし指摘されてきたことがらである。臺の自己批判は、全面的である。
 そして、生活臨床は1つの治療法ではなく、生活療法と精神療法と薬物療法の3つを総合したものであり、その総合の仕方が生活臨床であると臺が述べる時、生活臨床の独自性はどこに存在しうるのであろうか。生活臨床は、30年の時間経過のなかで、外なる批判と内なる批判にさらされて解体した。
 しかし考えてみれば、わが国において、1つの運動体が30年の長きにわたって命脈を保ち続けたことのほうが希有なことと言わねばならない。 <0118<」(浅野[2000:109-1118])

引用文献

「第10章 生活臨床その後

1)臺弘:生活療法の復権.精神医学,26;803,1984.
2)富田三樹生:東大病院精神科の30年.青弓社,2000.
3)日本精神神経学会「石川清氏よりの台氏批判問題J委員会(仮称)(委員長,小池清廉)報告書−人体実験の原則よりみた台実験の総括と人体実験の原則の提案−.精神経誌,75;850,1973.
4)小澤勲:「台弘氏による人体実験」批判.精神医療, 3 (1);47,1973.
5)小澤勲:精神病院における生活療法.臨床精神医学, 3;25,1974.
6)中井久夫:世に棲む患者.川久保芳彦編:分裂病の精神病理9,東京大学出版会,1980.<0199<
7)中井久夫:働く患者−リハビリテーション問題の周辺−.吉松和哉編:分裂病の精神病理11.東京大学出版会,1982.
8)神田橋條治,荒木富士夫:自閉の利用−精神分裂病者への助力の試み−.精神経誌.78;43,1976.
9)湯浅修一:解説.臺弘,湯浅修一編:続・分裂病の生活臨床.創造出版,1987.
10)神田橋條治,臺弘, 湯浅修一,宮真人,伊勢田堯,中沢正夫,菱山珠夫,宮内勝:「続・生活臨床の歩み」座談会.臺弘, 湯浅修一編:続・分裂病の生活臨床.創造出版. 1987.
11)宮真人、山岡正規,伊勢田堯,井上新平,長谷川憲一:群馬の地域精神衛生活動 10年の分析−若手医師による報告−.社会精神医学,2;471,1979.
12)島成郎:地域精神医療批判の序.精神医療.5(1);2,1976.
13)宮真人,渡会昭夫,小川一夫,中沢正夫:精神分裂病者の長期社会適応経過(精神分裂病の長期経過研究,第l報).精神経誌,86;736,1984.
14)臺弘:解説.臺弘編:分裂病の生活臨床., 創造出版,1978.
15)湯浅修一,鈴木純一:生活臨床と治療共同体.安永浩編:分裂病の精神病理6.東京大学出版会,1977.
16)神田橋條治,荒木富士夫,福田秀次:自閉療法と生活臨床の対比.九州精神医,24;79,1978. [神田橋條治著作集:発想の航跡.岩崎学術出版社, 1988.所収]
17)太田敏男,亀山知道,平松謙一,安西信雄,宮内勝:デイ・ホスピタルにおける治療システムと治療過程−生活臨床と治療共同体の統合の試み−.季刊精神療法,6;354,1980.
18)宮内勝:生活臨床と治療共同体の統合の試み−デイケアの運営システムおよびデイケアの治療上の位置づけ−.集団精神療法,2;121,1986.
19)宮内勝,安西信雄,太田敏男ほか:治療的働きかけへの反応の仕方にもとづく精神分裂病圏患者の臨床的類型化の試み−「自己啓発型精神分裂病患者群」と「役割啓発的接近法」の提唱−(第1報).精神医学,29;1297,1987.
20)宮内勝:分裂病と個人面接−生活臨床の新しい展開−.金剛出版, 1996.
21)宮内勝,安西信雄,太田敏男ほか:精神分裂病圏患者に対する役割啓発的接近法−「自己啓発型精神分裂病患者群」と「役割啓発的接近法」の提唱(第2報)−.精神医学,30;149,1988.
22)臺弘:生活臨床のその後.精神科治療学,5;1307,1990.」(浅野[2000:109-120])

■書評・紹介

◇今日、考えたこと:「『SST批判』について《精神医療論争史 : わが国における「社会復帰」論争批判 》から」(2011年7月20日)
http://tu-ta.at.webry.info/201107/article_9.html
◇今日、考えたこと:「《精神医療論争史》メモ、その2 」(2011年7月24日)
http://tu-ta.at.webry.info/201107/article_13.html

■言及

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.


UP:20041118 REV;20110709, 0713, 0725, 30, 20130402, 1229
浅野 弘毅  ◇精神障害/精神病  ◇生活療法  ◇生活臨床  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK 
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