HOME > BOOK >

『医療現場に臨む哲学II――ことばに与る私たち』

清水 哲郎 20000801 勁草書房,195+6p.


このHP経由で購入すると寄付されます

清水 哲郎 20000801 『医療現場に臨む哲学II――ことばに与る私たち』,勁草書房,201p. ISBN-10: 4326153474 ISBN-13: 978-4326153473 2310 [amazon][kinokuniya] ※

■広告

内容(「BOOK」データベースより)
医療方針の選択に関わる価値観・人間観の相克と共生。医療現場を記述する書記は、言葉と人間をめぐってどのような了解をもっていたのか。

内容(「MARC」データベースより)
医療方針の選択に関わる価値観・人間観の相克と共生。現場を記述する書記としての哲学する者の「見る目」を提示する。

■目次

◆序 臨床倫理の現場から
◆第1章 コミュニケーションの射程
  1・1 コミュニケーションのかたち
  1・2 記号
 I ことばと価値
◆第2章 語彙のネットワーク
◆第3章 生をめぐる価値
  3・1 
  3・2 
◆第4章 意図と結果
  4・1 延命と宿命の狭間にて
  4・2 結果か意図か
 II 個と共同
◆第5章 言葉を交わし得る者である人間
  5・1 <人間>はどのような対応姿勢の相手か
  5・2 人格としての<私>の成立
◆第6章 共同行為の地平を拓く
  6・1 行為の共同性
  6・2 共同行為の構造
  6・3 共同行為の倫理
◆第7章 浸透し合う諸個人
  7・1 自己決定の論理
  7・2 個人主義・所有・選好功利主義
  7・3 相互独立から相互浸透へ

■引用

◆序 臨床倫理の現場から

 「前著を上梓して以来、私はなんとかこれまで考えてきたことを基にして、さらに一歩進み出し、医療の現場で頑張っている医療者の現実の問題に活かすことができる思想的営みに繋げたいと思ってきた。そして私は、<医療倫理>clinical ethicsと呼ばれて形が見えてきた問題領域こそが、それにもっとも相応しい場であると思うようになっている。」(p.1)

◆第1章 コミュニケーションの射程

  1・1 コミュニケーションのかたち
  1・2 記号

 I ことばと価値

◆第2章 語彙のネットワーク

◆第3章 生をめぐる価値

 「……この二つの価値観がどのように共在可能であるかを考えたい。」(p.54)

 「<QOL>を生活者の意識面中心に考えて満足度の評価とするか、置かれている環境の評価とするかという二つの傾向が生じている。」(p.55)

 *1 <QOL>は、生活者が生きる環境の善し悪しの価値評価である。(p.55)

 *2 QOLとは、環境がそこで生を営む人の人生のチャンスないし可能性(選択の幅)をどれほど広げているか(言い換えれば、どれほど自由にしているか)、の評価である。
 *3 医学的QOL評価はある人の身体環境がその人自身にどれほどの選択の幅・自由度を与えているかを評価する。
 *4 既に生きられている現在の生のQOLとは、人が自らが今ここに<居る>ことを肯定できるかどうかを尺度として評価される。


◎*1 <QOL>は、生活者が生きる環境の善し悪しの価値評価である。(p.55)

◎*2 QOLとは、環境がそこで生を営む人の人生のチャンスないし可能性(選択の幅)をどれほど広げているか(言い換えれば、どれほど自由にしているか)、の評価である。
 (1)…
 QOL評価は満足・不満足をデータとするという時に、「何についての」満足・不満足かを限定しているのだという点を指摘した。(p.57)
 (2)…調査の項目ごとに、その満足・不満足の対象であるものの良し悪しの評価をしていると考える方が理に適っている。(p.58)
 (3)…

 「個人の生の可能性を身体環境だけで見て、「五体満足がいい」とする価値観に対するもう一つの価値観は、身体外の環境をも含めて生きる環境全体を見て「いろいろなことができるという選択の可能性が広がっていれば良い」とするものなのだろうか。もし、そうであれば、ここでは別に二つ目の価値観があるわけではなく、ただ<できる>こととしてのQOLを多面的に考えて高めるという一つの(p.65)方向があるだけになる。だが、……」(pp.65-66)
 「…例えば若くして死に直面した人が、今後のそう長くはない日々を生きることに価値を見出し、「よし」と肯定することができるような価値は、環境の評価ではないところにあるのではないだろうか。」(p.66)
◎*3 医学的QOL評価はある人の身体環境がその人自身にどれほどの選択の幅・自由度を与えているかを評価する。

◎*4 既に生きられている現在の生のQOLとは、人が自らが今ここに<居る>ことを肯定できるかどうかを尺度として評価される。

 「自分で自分を肯定する」ことは「他人によって私が肯定される」ことによって裏打ちされる(どうしてそういうことになるのかは、価値評価の原初的あり方をめぐる前章の考察が示している)。もろちん、誰が何と言おうと、自分は自分の道を行くという言い方もある――…。だが…
 この時の、存在をラディカルに肯定する<よい>は(前章の分析に従えば)、満足の文脈でも、賞賛の文脈でもなく、ゲームを受けて立ち、ともかく相手を肯定的に受け入れる発話<よし>に遡源す(p.70)る、と私は思う。」

 ※ QOL(クオリティ・オブ・ライフ)は医療の領域では「ある人の身体環境がその人自身にどれほどの選択の幅・自由度を与えているか」の評価だとする。だがこのレベルが徐々に落ちていくなら、この尺度では「すくわれない」気もする。もう一つ別の尺度のQOLがあるのではないかと筆者は論を進めていく。ただ…
 その手前で、筆者はQOLを「主観的満足度」ではなくて「置かれている環境の評価」とし、その根拠も示そうとしている。これは地味に見えるが、A・センらの主張にも関わる大きな論点だ。なぜこれが問題なのかの説明は十分ではないように思う。

◆第4章 意図と結果

4・1 延命と宿命の狭間にて

「人工呼吸装置によってかろうじて生命を保っている患者の希望に基づき、延命による苦痛を取り除くために装置を外す、という行為は患者の死を直ちに招くであろうが、それでも「死を意図したわけではない」ということになるのか」(p.83)

 「私は前著では、スピリチュアルケアの対象であるといった理解で済ますことができないような患者の苦痛の極限状態を想定して、そこでもなお安楽死を拒否し得る根拠は見出せないと言った(清水1997:163ー204)。つまり、少なくとも論理的には、「死なせることが唯一の緩和の途である時に、死なせる行為をする」ことが倫理的に正当化される場合があり得るということである。現在でもこの結論を私は保持している。ただし、次の点を確認しておきたい。  1 このような論理的には想定できるケースにおいて、安楽死が選択の対象となるが、それはあく(p.85)までも、苦痛緩和を意図して、やむをえず選択するものであって、「死を目指して、死なせる」ものではない――この区別については以下で論じる。
 2 この場合、安楽死はあくまでも医療行為としてなされる、緩和医療の論理内のものである。したがって、「患者の自殺を医師が幇助する」というPASは、この論理からは認められない。PASは少なくとも医療として行なわれるものではないからである(であればこそ、患者自身がいわば最後のボタンを押すように設定されているのである。)
 3 ここで私は、安楽死について、「それが妥当になるケースが論理的にはあり得る」と認めた。このような安楽死の可能性をオープンにしておくことは、真に耐え難い苦痛に苦しむ患者に対して必要なことでもある。とはいえ、これまでの筋からして明らかなように、私は「嫌々ながら」「しぶしぶ」認めているのである。つまり、実践的には、これが妥当となるようなケースが現実化しないようにと、あるいはそういうケースが限りなく0に近くなることを望んでいるのである。そしてそのためにも緩和ケアの更なる発展を期待している。」(pp.85-86)

 ※ 1での「苦痛緩和」には――その前に記されている言葉では――「精神的な理由」による苦痛が含まれるか。含まれないと清水は主張したいのだが、しかし、1にはそのことを示す言葉はない。苦痛とはあらかじめ肉体的な苦痛に限定されているのだろうか。とすると、それはどうしてか。
 2での「医療行為」とは何か。苦痛を緩和しようとする行為は、医療行為のすべてではないとしても、その一部ではあるだろう。とすると、1について記した疑問がここでも残る。

4・2 結果か意図か

 「*Aを望まない/Bを望む
  *Bを実現させようとすると、Aが伴って生起せざるを得ない(と予想される)
   から   *Aが伴うBを望む/Bの実現を望み、Aを許容する。」(p.91)

  縮命=A、緩和=B

 ※ 言いたいことはわかる。が、これが現在問題になっている問題の中核なのだろうか。

 「B=「苦痛緩和」の(p.92)ために、A=「死なせる行為」を行なう、が入る場合[…]安楽死を選択する医療者は、「苦痛緩和のためにやむを得ず死を意図する」のではあるが、端的に「死を意図する」とはいえないのであった。したがって同じく安楽死であっても、端的に死を選択するようなあり方と、苦痛緩和のために死を選択するあり方との区別が出て来る。
 現在安楽死とされている事態の理由は必ずしもこういう構造をもっていない。本人の死を選択する決定や、生きていても意味がない、といった理由では、Bが「死ぬこと」そのものになってしまいそうだ。そういうあり方をよく示しているのがPAS(医師に幇助された自殺)であり、PASができないときに医師自らが手を下すものとして描かれる安楽死であろう。それと、先に緩和医療のぎりぎりの行為として可能性を認めた「苦痛緩和のための手段が死なせる以外にはない」というので選択された安楽死との間に、意図という観点では倫理的な線が引かれることになる。」(pp.92-93)

 「余命の短縮という副作用を免れないにもかかわらず疼痛緩和を行なう場合(消極的行為)や、延命を意図する治療が当人の耐え難い苦痛を増しあるいは続行させる結果にしかならないという理由でそれを中止する場合(消極的行為)、「苦痛の緩和を意図し」て、「死が早まることを許容し」ていることになる。」(p.94)

 ※ いわゆる「安楽死」に関わり、死のための積極的な処置をすることは許容されないが、死ぬにまかせることは認められると言われることがある。わかる気がしつつ、しかしなにかしら詭弁のようにも思う。筆者はこのところを考えてみる。
 延命治療や安楽死という主題に関わるP・シンガーの論を吟味し、積極的行為/消極的行為の区分が有効でないことを確認する。この点はその通りだと思う。
 さらに「意図」を考慮した別の軸で捉えるべきことを示す。さてその仕事はうまくいっているか。
 「死ぬことそのものを意図しているのではない」ということが、PAS、積極的安楽死についても、あるいは自殺の多くについても言えてしまうのではないか。べつに死にたいわけではないが、しかし現在の精神的苦痛を取り除いてくれる「手段」は死だけである。ゆえに、私は死を望む。というような場合。

4・2・2 シンガーに抗して
 cf.Singer, Peter

 「積極的行為と消極的行為の間に線を引くことは成功しないという点で、私はシンガーに賛成する。つまり意図が同じであれば、行為者がその意図の下で行なうことを積極的行為として記述できるか、それとも消極的行為として記述できるかということは問題ではないからである。加えて、しばしば消極的行為に分類される治療停止などは、実施する側からいえば決して消極的なものなどではない。機具を外す、スイッチを切るといった一連の積極的所作なのである。」(p.93)

 ※ ここはその通りだと思う。

◆第5章 言葉を交わし得る者である人間

5・1 <人間>はどのような対応姿勢の相手か

5・2 人格としての<私>の成立

◆第6章 共同行為の地平を拓く

 「医療の現場で、インフォームド・コンセントと呼ばれるプロセスが倫理的に必要なこととして強調されている。尊厳死や臓器の提供といったトピックにおいても、医療者の裁量権を侵さない限り患者本人が決定権を持つという考え方が主流である。しかし、そこで描かれている医療者−患者関係は対立ないし緊張関係にあるものであり、医療者の裁量権と患者の自己決定権を軸とする考え方は、両者を調停し、両者が主権を持つ領域の境界を定めて、争いが起こらないようにするという発想によっている。これは法的な発想であっても、倫理的な発想ではない(あるいは喧嘩をしないための倫理ではあっても、仲良くするための倫理ではない)。そこで、両者のよりよいあり方、理想的なあり方を探るためには医療者−患者が信頼関係にあるときの医療行為の進み方を描き、そこでは両者がどのように行為に参与することになるかを分析しなければならない。」(p.122)

6・1 行為の共同性

6・2 共同行為の構造

6・3 共同行為の倫理

◆第7章 浸透し合う諸個人

7・1 自己決定の論理

7・2 個人主義・所有・選好功利主義

 「まず、「決定的に取り返しがつかないことになる選択については、自己決定を優先するというルールが有効でなくなることもある」という論理…」(p.163)
 「例外規定を認めることは、そこに、自己決定第一主義の理論と両立しない理論を忍び込ませていることになる。」(p.164)
 「他者危害のルールに触れるとする道があり得る。」(p.169)
 「以上の検討を通して、自己決定優先の原則が有効ではなくなる場合を何らか認めようとすると、結局、人間のあり方について、個人を基礎にする人間像に対立する論になることが見えてきた。そこで、次に議論の基盤にある人間像に目を向けて、検討することにしよう。」(p.171)

 ※ 問題はA「自己決定優先の原則」とB「個人を基礎にする人間像」との対応関係だと思う。
 AとBとが同じもので、あるいは強くつながっているもので、Aを否定する、あるいは限界づけるためには、Bを否定する、つまり、「共同性」を言うということに必ずなってしまうのか、あるいはなるべきなのか。
 ※ もちろん、すぐに指摘されることは、現実には人はそんなに「相互浸透的」ではないということである。

7・3 相互独立から相互浸透へ

 「その病にどう対処していくかという選択は、患者本人だけではなく、家族のそれぞれに関わる事柄である。そうである以上、選択には関わりのある家族が皆参加しているべきことになる(もちろん、その選択への相談の過程で、一番関わりのある者――通常本人――の意思を皆が大事にすることが期待されるには違いない)。」(p.178)
 「…個人のことがまた皆のことでもあるような事柄であるとなれば、自己決定が決定的なのではなく、共同の決定が決定的であることになる。」(p.182)
 「しかし、少しおせっかいな社会の方が、他人行儀な社会より、居心地がいいのではないだろうか。」(p.182)

■言及

◆立岩 真也 2000/10/06「書評:清水哲郎『医療現場に臨つ哲学II――ことばに与る私たち』(勁草書房)」,『週刊読書人』2356:4
◆立岩 真也 2004/11/01「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」,『現代思想』32-14(2004-11):085-097
◆立岩 真也 2008 『唯の生』,筑摩書房 文献表
 第6章 より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死 [2004.11]
 1 積極的行為/消極的行為の区別は怪しい→賛成
 2 緩和のために死が早くなることは認める→賛成
 3 緩和のための死/死のための死の区別が有効である→反対
 4 生と生の間の選択と生と死の間の選択は違う
 5 まとめ
 [補] 近刊の教科書から [2005.07]
 [補] 書評:清水哲郎『医療現場に臨む哲学II――ことばに与る私たち』[2000.1]  *上掲「「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」を再録+α


UP:20070701 REV:
清水 哲郎  ◇生命倫理学  ◇哲学・倫理学  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME(http://www.arsvi.com)