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『公共性』

齋藤 純一 20000519 岩波書店,120p.

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last update: 20170508

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■齋藤 純一 20000519 『公共性』,岩波書店,120p. ISBN-10: 400026429X ISBN-13: 978-4000264297 1400+ [amazon][kinokuniya]

■内容

(「BOOK」データベースより)
公共性とは,閉鎖性と同質性を求めない共同性,排除と同化に抗する連帯である.現在さまざまなかたちで提起されている「公共性」の理念は,異質な声に鎖され,他者を排除してはいないだろうか.開かれた公共性への可能性は,どこにあるのだろうか.互いの生を保障しあい,行為や発話を触発しあう民主的な公共性の理念を探る.

■目次

■引用

アイデンティティ(同一性)の空間ではない公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属 (belonging) を求めない。公共的なものへの献身、公共的なものへの忠誠といった言葉は、明白な語義矛盾である。公共性の空間においては、人びとは複数の集団や組織に多元的にかかわること (affiliations) が可能である。かりに「アイデンティティ」という言葉をつかうなら、この空間におけるアイデンティティは多義的であり、自己アイデンティティがただ一つの集合的アイデンティティによって構成され、定義されることはない(p. 6)。
「親密圏」 (intimate sphere) という人間の関係性は、近代になってはじめて登場する。その一つの形態は、ハーバーマスが『公共性の構造転換』のなかで描く「小家族的な親密性の圏」である。小家族は、貴族の親族関係や一般民衆の大家族と区別される仕方で、18世紀中葉市民層にとって主要な家族形態として登場する。ハーバーマスがその特徴として挙げるのは、自由と愛と教養 (Bildung) である(p. 89)。
ギデンズによれば、近代初頭に親密圏を成立させるのは男ー女の「ロマンティック・ラブ」である。それは、親族関係の束縛や生命の再生産から相対的に解放された愛の形であり、人びとが「純粋な関係性」 (pure relationship) 、すなわち「性的・感情的に対等な関係性」を形成していくポテンシャルを宿している。とはいえ、そうした小家族は近代家父長制の権力に満たされた空間でもあり、「ロマンティック・ラブ」は女性を家族に縛り付ける鎖としても機能する(p. 90)。
公共圏が人びとの〈間〉にある共通の問題への関心によって成立するのに対して、親密圏は具体的な他者の生/生命への配慮・関心によって形成・維持されるということである。「具体的」というのは二重の意味においてである。第一に、親密圏の他者は見知らぬ一般的な他者、抽象的な他者ではない。親密圏の他者は見知らぬ一般的な他者、抽象的な他者ではない。親密圏の関係性は間ー人格的 (inter-personal) であり、そうした人称性を欠いた空間は親密圏とはよばれない。第二に、親密圏の他者は身体性をそなえた他者である。(pp. 92-93)。
親密圏においては愛という感情が人びとを結びつけることもあるが、それがすべてではない。親密圏と小家族と「愛の共同体」とを同一視するとらえ方は、いくつかの問題性を含んでいる。問題はまず、家族と「愛の共同体」との等置にある。家族と愛を結合する「家族愛」については、そのイデオロギー性をあらためて問うには及ばないだろう。それは、ある成員にのみ一方向的な奉仕と献身を要求する装置としてはたらいてきた(p. 93)。

近年提起されている別様のアプローチ

1
家族の多元化…さまざまなライフ・スタイルをとる同居の形態、たとえば友人どうしが老後の生活を共にすべく同居する。障碍を抱えた人びとが共同の生活を営むといった形の「グループ・ホーム」なども家族として積極的に再定義しようとするものである(p. 93)。
2
親密圏は家族という形態(血縁/同居/家計の共有)には還元されえない。親密圏は、具体的な他者の生/生命への配慮・関心をメディアとする観点からすれば、たとえば「セルフヘルプ・グループ」は明らかに親密圏の形である。これは、同じような生の困難を抱えている人びとが、孤立のうちに困難を抱えつづけねばならないという苦境を打開するために形成する集団である(p. 94)。
3
親密圏の定義には、これよりももっと緩やかな結びつき、折に触れて訪ね合う友人たちの関係や議論・雑談を楽しむための「サロン」的な関係も含まれる(p. 94)。
具体的な他者の生/生命に一定の配慮や関心があるということが、親密圏のミニマルな条件である(p. 94)。
栗原が、親密圏に見いだすのは、他者を自らのコード(規範・話法)に回収しない。むしろ他者性に対してより受容的な人ー間の関係性であり、それは既存の文化的コードを再生産しがちな「市民的公共性」のコミュニケーションから区別される(p. 97)。
新しい政治的ポテンシャルは、他者に対する「決定」を求めない親密圏のコミュニケーションのなかに育まれる、と見るのである。了解に達するのをあきらめること、他者が他のありようにあり、他のようにあろうとするのを肯定すること、関心を寄せながらも距離を縮めないこと、親密圏はそうした他者との間の弛やかな関係の維持をも可能にする(p. 97)。
親密圏が相対的に閉じられていることは、一方では差異と抗争を欠く、したがって政治性を失う条件であると同時に、他方では、外に向かっての政治的行為を可能にする条件でもありうる。親密圏は、「相対的に安全な空間」(グロリア・アンザルドゥーア)として、とくにその外部で否認あるいは蔑視に曝されやすい人びとにとっては、自尊あるいは名誉の感情を回復し、抵抗の力を獲得・再獲得するための拠りどころでもありうる(p. 98)。
「アーレントは,公共的空間に自らの行為や言葉において現われでる勇気を「政治的徳性」として重視するが……,否認や蔑視をも恐れないというこの徳性はどのように育まれるのだろうか.それは,自らがどこかで――家族であるとはかぎらない――肯定されているという感情を背景にもつはずである.」(p. 99)
親密圏は、そこでの人びとの〈間〉がどのような感情の機制を生み出すかという視点からもとらえ返されるべきだろう。それは愛情の空間とよぶにはあまりにも多義的であるし、また、ナショナリズムやショービニズムの隠れた水源地であるという単純な還元論もそこには妥当しない。親密圏を理解するためには、アダム・スミスのひそみに倣えばきめの細かい「政治感情論」が必要になる(p. 100)。

■書評・紹介


■言及


*作成:中田 喜一
UP: 20091208 REV: 20170508
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