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『母性愛神話の罠』

大日向 雅美 20000410 日本評論社,231p.


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■大日向 雅美 20000410 『母性愛神話の罠』,日本評論社,231p. ISBN-10: 4535561567 ISBN-13: 978-4535561564 1700+ [amazon][kinokuniya] 

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内容(「BOOK」データベースより)

著者のこれまでの二十数年にわたる母性研究を振り返りつつ、母性愛神話によってもたらされる弊害が女性をはじめ、社会のすべての人々にとって看過できないほど深刻な影響を及ぼしている実態に警告を発するとともに、母性愛神話からの解放をめざして執筆する。

内容(「MARC」データベースより)
子育てがつらい、子どもが可愛く見えないのはなぜ? 母性愛神話がもたらす弊害が、女性をはじめ社会のすべての人々にとって深刻な影響を及ぼしている実態に警告を発するとともに、母性愛神話からの解放をめざす。

■目次

第1章 母性愛神話にとらわれた社会とそのゆがみ
第2章 母性愛に寄せる人々の慕情
第3章 母性愛神話の罠にはまる女性たち
第4章 母の乳房にぶらさがる男たち
第5章 三歳児神話―母子癒着の元凶
第6章 人はいかに三歳児神話にとらわれているか
第7章 母親の就労を憂う世論を憂う
第8章 母親の就労は本当に子どもに悪影響を与えるか
第9章 男を父にさせない母性愛神話の罪
第10章 母性愛神話をかざす男たち
第11章 母性愛が加害性をもつとき
第12章 母性愛神話からの解放―女性の自己実現をめざして

■紹介

この本の紹介の作成:青木 敦子(立命館大学政策科学部3回生)
掲載:20020801

<著者プロフィール>(本から)
1950年 神奈川県生まれ
1973年 お茶の水女子大学卒業。同大学院修士課程、東京都立大学大学院博士課程修了。    学術博士(お茶の水女子大学)
現在 恵泉女学園大学教授。専攻は心理学・女性学。オックスフォード大学客員研究員、東京都知事参与、文部省家庭教育調査研究委員、郵政省青少年と放送に関する調査研究会委員、神奈川県児童福祉審議会委員などを歴任。
著書 『母性の研究』(川島書店)『母性は女の勲章ですか?』(扶桑社)『子育てがいやになるときつらいとき』(主婦の友社)『育児ノイローゼ』(共著、有斐閣)『母性の心理・社会学』(共著、医学書院)『子育てと出会うとき』(NHKブックス)『母性愛神話のまぼろし』(共訳、大修館書店)ほか。

はじめに―なぜ母性愛神話を問い直すのか
第1章 母性愛神話にとらわれた社会とそのゆがみ
第2章 母性愛に寄せる人々の慕情
第3章 母性愛神話の罠にはまる女性たち
第4章 母の乳房にぶらさがる男たち
第5章 三歳児神話―母子癒着の元凶
第6章 人はいかに3歳児神話にとらわれているか
第7章 母親の就労を憂う世論を憂う
第8章 母親の就労は本当に子どもに悪影響を与えるか
第9章 男を父にさせない母性愛神話の罪
第10章  母性愛神話をかざす男たち
第11章  母性愛が加害性をもつとき
第12章  母性愛神話からの解放―女性の自己実現をめざして
参考文献
あとがき

●はじめに―なぜ母性愛神話を問い直すのか
 母親が直接、間接に関与して子どもに対して起こした事件・犯罪が続くと、日本社会に広く信奉されている母性観を基準に考える人々は、その原因を「母親の異変」に求めようとする。「母親であれば誰もが上手に子育てができるはずだ」と信じ母性愛の崇高な面だけを賛美する風潮を指して著者は゛母性愛神話"と呼ぶ。そして、そのことが「むしろ虐待や事件を発生させる素地をつくり、問題解決をさぐる目を曇らせているのではないかという問題提起」(p.2)を行なう。
「子育ては生みの母親にこそ最も適性が備わっているものだと主張し、その母の愛情を絶対的で崇高なものであると賛美してきたこれまでの母親観は、母親たちの実態とかけ離れた幻想にすぎないと断言できるからである。しかも、幻想をあたかも真実であるかのように思わせる母性愛神話は、人々の生活をさまざまにゆがめている。」(p.3)
「本書がめざす母性愛神話からの解放の試みも、単なる男女平等論や女性の権利主張だけで成し遂げられるほど単純なものではない。むしろ、なぜ人々は母性愛神話に魅せられるのか、その心理に踏み込んだ分析を加えることを通して、そこにどのように巧妙な操作が働いてきたのか、とりわけ政策的な意図あるいは心理学や小児医学等がいかに関与してきたのか、経緯を辿りながら実態を解明することに重点をおきたい。」(p.4)

●第1章 母性愛神話にとらわれた社会とそのゆがみ

 母親の愛情を聖域として擁護される母性観が社会の病理になっていることの指摘と母性愛神話の内容が概説される。

○聖域のまま保たれる家族・母性
 戦後日本社会におけるライフスタイル・価値観の変化は非常に大きい。そして、そのことは家庭生活や家族のあり方、子どもの育て方にも影響を及ぼしている。しかし、家族や子育ての問題を論じる時には、画一的な家族や母親像が議論の前提となり、それらは、社会の変化とは切り離された聖域であるかのように扱われる。(p.11−12)

○一方的な母性観をせまる社会の限界
 「非行の凶悪化、いじめや不登校の増加など、子どもの成長発達に多くの問題が指摘されている昨今、家庭の教育力と母親の育児責任を追及しようとする傾向が再び強まっている」(p.12)が、「子どもの育ちの結果に特定の因果関係を求めることは難しい。」(p.12)
 「子どもは親や家族の影響を受けつつ、家族以外のさまざまな要因が複雑にかかわりあう中で育っていくものである。ましてや親や家族そのものも、社会の変化に大きな影響を受ける存在であり、一様ではありえない。たしかに、母性愛神話を定着させている社会では、母親の役割に原因と解決を求めて人々の情緒に訴える従来の方法は直截的でわかりやすさをもっている一面があることも事実といえようが、子どもに生じた問題を母親一人の責任に科していく議論は実態なき空論にほかならない。」(p.13)

○母性愛神話を二十余年前にさかのぼれば
 母性愛神話の存在の大きさに気付くきっかけになったのは、1973年から1974年にかけての<コインロッカー・ベビー事件>。「育児は母親がすべきものと決めつけられて、育児の負担を一人で担う生活自体にも無理がないとはいえない。さらにそこに経済的貧困などさまざまなマイナス要因が重なった結果、不幸にして育児に挫折した母親たちの犯行に対して、単に「母性喪失」といって糾弾して済ますべき問題とは思えない。しかし、当時は母親たちがなぜ育児に挫折したのか、その原因を見極めようとする努力を払うことなく、一斉に彼女たちの「母性喪失」を糾弾したのであった。゛母親ならいついかなる時でも完璧な子育てができて当たり前"とする母性観が厳然として存在していた時代だったのである。」(p.14)そして、そんな時代と現在を比べてみたとき、変化があるように一見みえるが、「母親の愛情の至高さと母親役割の重要性を強調する傾向を見ると、基本的に大きな差はない。」(p.14)

○母性愛神話がもついくつかの顔
(1) ゛産む能力イコール育てる能力"説
女性の生殖能力はそのまま育児能力につながるとみなす考え方で、母性は女性特有の生得的な特性であることを強調したもの。(p.16)
(2) 三歳児神話
三歳までは家で母親が育てるべきだとする考え方。(p.17)
(3) 聖母説
母性のイメージを聖母像や慈母観音像(「慈愛」や「献身」「無償の愛」「あたたかさ」などをイメージさせる)などに当てはめ、そのようでなくてはならないと思い、そうであろうとする。(p.19−20)
(4) 母親イコール人間的成長説
子育てが母親を人間的に成長させる面を強調する母性観。この考え方は、子どもを産んでいない女性を未成熟であるとみなし、「子をもたない同性を非難する凶器に変身していく」面がある。(p.21−22)

●第2章 母性愛に寄せる人々の慕情

○母性愛を疑うことへの人々の抵抗
これまでの研究によって得た実証的なデータに基づいて「母性愛は女性の本能ではないこと、また母親の愛情ももちろん必要ではあるが、必ずしも子どもにとって最善とは限らないとする考え」(p.26)を講演や新聞・雑誌の取材などで語るとき、人々から大変な抵抗を受ける。

○母なるものに寄せる人々の郷愁
「人々が示した抵抗は、おそらく胸中大切にしてきたものに土足で踏み込まれたような不快感ではなかったかと思う。それは喩えていえば、かけがいのない信仰を踏みにじられるようなおぞましさだったのかもしれない。」(p.28)
「「お母さん」という言葉に、人々は一様にやさしくてあたたかく、わが子に慈愛と献身を注ぐ母の姿を彷彿とさせ、そうした理想の母を連想するにふさわしい言葉を選んで満足するのである。仮に実の母が聖母マリアや慈母観音にはほど遠い場合でも、そうした個人的な体験である母の姿は抹殺し去って、人はあたかもふるさとを想うかのような眼差しで「あるべき母親像」に魅せられるのである。」(p.29)
「「母なるもの」は、宗教に代わる機能を果たしている。」(p.29)

○母への郷愁をかきたてる文化的装置
「日本人が大切にしてきた母親像は、「心像」としての母親像であると考える。心像とは現前の形態そのものの写しではないが、過去の経験、あるいはそれに代わるなにものかに根拠をもち、それを意識化したもののことを意味する。」(p.30)そして、日本社会は、「そうした心像をいっそう強化し、あたかもそれが普遍的な現象であるかのように錯覚させる文化的装置」(p.31)を所持している。例えば、「人々の偉業を称える場面には、必ずといっていいほどに母の喜びや貢献が添えられている。」(p.31)といったように「芸術や架空の世界のものとしてだけではなく、日常的な場面で活字や映像としてみる機会が実に多い。」(p.31)

○母を用いた見事な演出

○母を恋うる心情

○世代を超えた母への想い
この3節では、福井県丸岡町が町おこし事業として行なった「一筆啓上賞」(全国から「日本一短い母への手紙」を募集する企画)に送られてきた3万2236通の作品から、人々の「母なるもの」への想いの根強さについて考察し、「母性愛神話を打破するために疑義を提起する難しさ」(p.41)について考えている。(p.34−41)

●第3章 母性愛神話の罠にはまる女性たち

 現実の母親がいついかなる時にも「崇高な聖母」でいることなどありえないことはわかっているはずなのに、そのイメージに自らを重ねようとして失敗し、「こんなはずではなかった」とつぶやく女性たち。

○「子育てがつらい」と訴える母親たち
各地の保健所や公民館等が主催する子育て講座に参加した女性たちが口々に訴える「子育てのつらさ」。具体的にどのようなことがあるのかを、1994年に育児雑誌3誌の協力を得ておこなったアンケート(全国から6千通以上の回答)の結果から引用している。「子どもの世話に振り回される」「自我が芽生えはじめた子どもが可愛くない」「一人の時間がままならない」「夫が非協力的」「義父母との葛藤」「育児が評価されない」等。また、集計した結果をみると「子どもが可愛く思えないことがある」78.4%、「子育てがつらくて逃げ出したくなることがある」91.9%になっている。

○かつての母親も育児のつらさに苦悩していた
 著者が1976年から1977年に実施した全国調査で出会った母親たちも、オフレコで語った部分は、現在の母親たちと共通するような内容だった。(p.52)

○「いまどきの母親は……」という批判
 「いまどきの母親は子育て一つできない。」といったことを年長者が言う。「そうした人々はしばしば自分たちの母親を懐かしみつつ、「いまどきの母親」に眉をひそめる。しかし、彼らが賛美してやまないかつての母親たちもすでに同じような叱責を受けていたのである。」(p.52−53)大正時代に創刊された育児書でもまた「当時の母親が乳児の世話の一つもまともにできず、なんとも嘆かわしい」といったことが書かれている。このような母親批判の声の登場は、子育ては母親がすべきだとする母性観の登場と期を一にしている。
 「母親が一人で子育てに専念することが子どもの発達にとっても望ましいとする母親観は、資本主義体制と近代家族の維持に必要な理念として形成されたものであり、けっして自然発生的なものではない。(略)大正時代以前は、日本は村落共同体であり、子育ても村ぐるみ、家族ぐるみで行なわれていた。」(p.54)

○なぜ同じ罠にはまるのか
 「女性もこれからは社会参加すべきだ」「結婚しない生き方があってもいい」「子どもを産むだけが女性の幸せとは限らない」といったように、女性のライフスタイルに関する意識調査において、女性の生き方の多様性を許容する数値の上昇がみられる一方で、「家事、とくに育児は、やはり女性の、母親の責務だとする意識は少しも変わっていないのである。」(p.56)「女性にこうしたライフスタイルを強いるのは、男性であり社会である。効率優先を至上価値としてきた戦後の日本企業にとって、産休や育休、育児時間を要求する女性は生産性の低い二流の労働力とみなすところが大半であろう。」(p.57)「一方、男性たちにとっても企業の中で思う存分にはたらくためには、家事・育児に専念してくれる妻の存在は好都合である。」(p.57−58)さらにそれだけではなく、女性自らにも「男並みに働く困難を如実にみている昨今の若い女性たちは男並みに働くことよりも、家庭に入り女性にしか担えない大切な仕事(すなわち家事・育児を指す)をしたいと志向する者のほうが多数派になっている。」(p.58)といった傾向がみられる。

●第4章 母親の乳房にぶらさがる男たち

 子どもの世話に献身するのを当然のこととして求める従来の母親観は、母子癒着を生む。特に母と息子の関係で顕著である。(p.61)

○息子に執着する女としての性
・思春期の電話相談に最近増えているのが、男子の性欲の処理に母親が関与していることに関する相談であるという。「おそらく乳児におむつを当ててやった感覚から抜け出せず、乳幼児の排泄の世話をするのと同じ感覚で思春期の息子の性欲の処理に当たっていると思わざるを得ない。母と子は一体であって、懸命に子どもの世話に尽くすことこそ母の務めだとする母性観に馴れすぎた末路であろうか。」(p.64)
・母と息子の心理的な癒着の関係は、小説や童話の題材としてもしばしば登場する。<例>安岡章太郎『海辺の光景』グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』(p.65)
・二つの物語の比較から、日本社会は「男性に自立を求めない」(p.67)ということを説明。

○男性にとって母と妻とどちらが大切か
・「大なり小なり日本の男性はマザコン的要素をもっている」(p.68)欧米では家族の基本を夫婦の愛情関係に置くが、日本では親子の絆に置く。パーソンズの理論やフロイドのエディプス・コンプレックスの概念が、日本でもあてはまるかどうかは疑問。「両者の議論の背景には、父は子どもの親である以前に母の夫だという強烈なメッセージが存在しているのに比べて、そうした男性観こそ日本の家族や夫婦に最も欠落してきたものだからである。」(p.69)
・<荒れた海で妻と母の二人が溺れて助けを求めていて、どちらか一人しか助けられないとしたら、どちらを助けるか>といった質問に対して、「日本の男性はおおむね母を選ぶ傾向にある。」(p.70)*有吉佐和子『華岡青州の妻』における青州の選択、母と妻の壮絶な戦いについて。
・一方、妻も夫に選んでもらえるという期待をしていない。それと、同時に息子には選んでもらえるとも思っている。(p.73)

○妻に母を求める夫と、夫をあきらめた妻
日本の男性は妻に対して母を求める。結婚をすると女性として見てもらえなくなる妻たち。そして、夫の前ではよい母親を演じ、夫のいないところで日々の鬱憤をこどもに晴らす。(p.76−77)

○母子癒着が生み出した悲劇
・母子癒着がもたらした悲劇――新潟で発覚した少女誘拐監禁事件
「無自覚な癒着は、母性愛という美名に甘えて自身を省みることを忘れた母親の無知が招く結果に他ならない。それが一方で息子に母への無自覚な甘えを増長させている」(p.80)
「夫婦関係を重視する欧米の家族関係では、子どもがいつまでも乳房にぶらさがることを許さない父性的な機能がはたらいている」が「日本社会には、母子癒着を寸断する機能が希薄である。」(p.80)

●第5章 三歳児神話――母子癒着の元凶

・「女性の就労継続の前に立ちはだかるのがこの三歳児神話であり、乳幼児期は母親は仕事も何も捨てて育児に尽くすのが望ましいという考え方の基になっている。現代の女性のライフスタイルは多様化しているといわれながら、実態はこの三歳児神話の影響によって、子どもをもった女性が育児に専念する傾向は変わっていない。そして、それが母親の生活を狭め、子どもに密接にかかわることだけが「よき育児」とする母親観をもたらして、結果的に母子癒着の温床を作っている。」(p.83)
・1998年版『厚生白書』では、少子化問題を背景にしつつ、三歳児神話には合理的根拠がないと断言している。(p.84)その背景には、「少子高齢社会対策が見え隠れしており、いつの時代も子育ての理念作りは社会的要請と表裏一体である」(p.84)

○三歳児神話に寄せる人々の思いとその弊害
・「子どもが小さいうちは母親が育てるべきだ」という考えを前提にして、子どもができたら仕事を辞めて家庭に入るという意向を持つ、あるいは逆に、仕事を続けたいために子どもを持つことに消極的になる、といった女性が多い。このような考え方を支持する男性も多い。三歳児神話を信じきっている。(P.85−86)
・仕事を辞めずに共働きを続けると、「子どもがかわいそう。子どもをよそに預けてまでなぜ母親は働くのか」といった周囲からの干渉を受ける。このプレッシャーによって結果的に仕事を辞める女性も少なくない。(p.87)

○三歳児神話のルーツ
「幼少期の子育てを人智のコントロール下に置き、しかもその責任の大半を母親に託すという考え方が登場したのは、大正期の半ばである。折りしもこの時が日本に資本主義が導入され、都市に勤労者世帯が登場した時である。職住分離の形態で男性は仕事に出向き、女性が家を守り、育児に専念するという家族形態が、資本主義体制の維持に不可欠のものとされた時代が到来した」(p.90)その以前はどうだったかというと「人々の生活が村落共同体のシステムにのっとって営まれていたように、子育てもまた村ぐるみ、家族ぐるみの営みであった。農家の嫁は子どもの母親である以上に嫁としての労働力を期待されていた。したがって乳幼児の子育ては田畑の労役に追われる母親に代わって、現役の農作業を退いた祖父母らに託されていた」(p.91)

○三歳児神話に行政はいかに関与したか
三歳児神話は、大正時代に登場した後、「その時々の社会的経済的要請の下で繰り返し強調が行なわれて今日に至っている。とりわけ戦後の高度成長期と1973年以降の低成長期は三歳児神話が意図的に強調された」(p.92)

○三歳児神話には「科学」も加担
・高度成長期の「ホスピタリズム研究」――1951年のボウルビィの研究報告:施設の乳児の発達の遅れや異常の原因が「母親の不在」にあるという結論を出した。「しかし施設児の発達を歪めていた原因が果たして母親の不在であったのか、それとも施設の生活環境であったのかは議論の余地が大いにある点であった。」しかしながら、「このボウルビィ研究の日本での紹介にあたって、批判的な面が見過され、母親不在が乳幼児の発達を阻害するという一面が強調された」(p.95)
・低成長期の「母子相互作用研究」――「母子関係は母子の双方が生来的にもち合わせている特性が寄与しあって両者の絆を形成するという視点に立った研究」「出産後間もない時点の子どもの成長が母と子の生理学的特性によって保障されている仕組みを解明した」しかし、「当時の母子相互作用研究の中には研究手法や結果の解釈において、当初から母子関係の特性を強調する方向に偏在したものも少なくなかった。」(p.96)「たとえばネズミやヤギの母親行動が、分娩後の一定期間のホルモン分泌に規定されている知見にヒントを得て、人間も分娩後の三日間、新生児とのより濃密な接触をもった母親のほうが半年後、一年後の母性行動が優れているとした研究(クラウスとケネル、1979)が日本にも紹介され、大きな話題を呼んだ。」(p.96)「たしかに産後の母児の接触がスムーズに行なわれれば、その後の母子関係も良好なものとなるであろう。しかし同時にそこには夫や周囲のサポート、子どもを育てようとする母親自身の意欲、さらには生まれてきた子どもの個性など、多くの要因が複雑に関与しながら人間の子育ては長期にわたって展開されて行く。そうした諸要因を捨象するほど強力に分娩後の短期間のホルモンの影響力を過大視するのは、この研究をしたクラウスらにとっても本意でなかったようである(アイヤー、2000)」(p.97)

○三歳児神話をめぐる攻防
1998年版『厚生白書』で、三歳児神話は合理的根拠がないと断言したが、人々の脳裏にしっかりと焼きついてしまった神話を崩すのは簡単なことではない。(p.99−100)

●第6章 人はいかに三歳児神話にとらわれているか

○人々のこころの中の三歳児神話
ある育児雑誌の子育て相談コーナーに寄せられた相談をもとに、人々の三歳児神話へのとらわれ方を探る。多くの人は子育ての性別役割分業を当然の前提としていることがわかる。(p.102−111)

○保育現場にみる三歳児神話
・働く母親の生活を間近にみることができる保育現場でも三歳児神話の罠に陥っている人が少なくなく、働く母親や共働き家庭を苦悩に陥らせている。(p.112)
・「子どもがかわいそう」「―――のときぐらいお母さんが家でお子さんをみてあげて」などという言葉が母親に向かって発せられる。「それは無意識のうちにも、子どもは本来は家庭で母親と過ごすのが幸せだという前提に立っている。」(p.112)

●第7章 母親の就業を憂う世論を憂う

○男女平等はいい。しかし……
男女が「仕事」にも「家庭」にも「社会」にも対等に参画する方向へ法整備が進められているが、その中で、そのことに対する反発を母性を語ることによってあらわす人々がいる。「母親が皆働くことばかり考えたら、いったい子どもはどうなってしまうのだ」といったように。たいていは男性で、職業は医師や教師が多い。(p.118−119)

○冷静な議論ができない
著者は乳幼児期の子育ての大切さを否定しているわけではなく、ただ、その担い手が母親でなくてはならないということがないということを、客観的データーに基づいて言おうとしているのにもかかわらず、理解しようとしない人が多い。(p.120−121)○母親意識の研究が示唆したもの
二十余年前に実施した母親意識の世代差に関する調査結果(お茶の水女子大の卒業生を対象に、昭和の初めに子育てをしたA世代と調査当時に子育てをしていたC世代の「育児に対する評価および育児中の気持ち」について調査を行なったもの)からの考察。この調査ではA世代の就労率が62.0%でC世代が24.5%だったが、「働いていたA世代が子どもにみずみずしい感性を保ち、家で育児に専念しているC世代は、かえって子どもが見えなくなってしまっている」(p.127)ことがわかった。

○育児に専念した結果、いま
1998年に実施した同様の調査では、前回の調査でC世代にあたる50代の女性たちが、子どもを産み母となり、就労をあきらめて家庭に入った結果、人生に生き甲斐と充足感を覚えることができなかったと語る。(p.128−129)

●第8章 母親の就労は本当に子どもに悪影響を与えるか

 女性が働きながら子どもを育てる場合に、子どもにどのような影響を及ぼすかという問題を心理学的な研究知見に基づいて検討する。

○三歳未満児の保育入園はなぜ危ぶまれるのか
・三歳未満児の保育園入園を子どもに分離不安を与えるという観点から問題とする議論がある。その端緒はフロイドの「発達初期に精神的な傷害を受けた子は、生涯その傷を癒せず、後の社会的な不適応行動の原因を形成する」という指摘である。その考え方に理論的な根拠を提供したのは、ボウルビィの愛着行動制御理論(1976、1977)とエリクソンの漸成説(1977)であるが、それらの理論を乳幼児期の子どもを持つ母親の就労を否定的に捉える根拠にするのは不適切である。なぜなら「@人間は生涯にわたって発達し変化する可能性をもつものであり、三歳までの母子関係がその後の不適応行動の原因と考えることは一概にはできないA乳児の愛着の対象をなぜ母親として考えなければならないのかその根拠が明らかではない」からである。(p.135−138)
・人々が乳幼児期の母親の就労に難色を示す原因としては、精神医学的な理論からでは必ずしもなく、保育園に入園した当初の子どもが、母親から離れるのを嫌がって泣き叫んだり、後追いする現象が見られるからである。そこに理論が提供されて、母親の就労を悪とする信念が堅固となったのではないかと考えられる。(p.138)
・「保育園保育児の場合には親子関係が緊密であり、互いに愛情を基本とした信頼関係を築いていこうとする気持ちがあれば、母子分離によって親子関係の質にはさほど影響を受けない(柴田:1990)」(p.139)
・三歳未満児が保育園に適応できるか否かは、保育園での保育の質も重要な要因である。
・主たる養育者が複数存在するため、子どもと養育者との関係が不連続になり、乳児にとってどちらが自分の母親か特定できず、精神的に不安になるのではないかとの疑問を持たれる<複数マザーリング>(ヤーロー:1961)の問題については、「子どもの微妙な反応に敏感に応じながら、子どものコミュニケーション欲求に適切に応じていける者が、その子の最優先の愛着の対象になる」(p.140)ので問題ないということである。

○母親の就労が子どもに与える影響
・「母親の就労が子どもに何らかの影響を及ぼすとしたら、それは母親の就労それ自体よりも、母親が働くことに伴う家庭環境の変化に負うところが大きいと考えられる。」(p.142)
・ゴットフライドらのプロジェクトチームの研究(1996)によると「全般的結論として、母親が働いている場合と働いていない場合とで、乳幼児期の発達状況、児童期の認知発達、社会性の発達、行動上の適応や問題点、学業成績等において、いっさい差違が認められないことが明らかにされている。むしろ、働いている母親は子どもに対してより高度な教育的態度を持ち、それが子どもの認知発達や学業成績、社会性の発達を促進していることが明らかにされている。」また、妻が働くことにより家庭への父親の関与が大きくなり、それが子どもの発達にプラスの方向に作用している傾向が示されている。(p.142−143)
・妻が働くことにより、日常の家事をより多く処理しなければならない父親はストレスが高まり、幼稚園時期の子どもに対する見方が否定的なものになるというゴールドバーグとイースターブルークスらの研究もある。(p.143)
・「母親の就労が父親に与える影響に関して見られた二つの研究の差違は、妻の就労に対する評価の違いと考えられる。そしてそこには、母親自身の就労に対する態度や就労状況、収入等も関与しているのであろう。そうしてみると、母親の就労が子どもに及ばす影響は、母親自身の意識の問題であると同時に、女性の就労環境に対する社会政策のあり方までもが問われる問題といえよう。」(p.143−144)

○子どもたちは働く母親をどのように見ているか
・小学生と中学生を対象に母親が働くことに対する評価を聞いた調査(岩男・杉山編、1984)によると、「母親が働くと「さみしい」「ゆっくり話せない」「家事を手伝わされる」「お母さんがくたびれている」などが困る事項としてあげられている一方で、「自分のことは自分でやれるようになる」「お母さんをいたわる気持ちになる」「お母さんが生き生きしている」といった良い点もあげられている。」(p.144)
・「実際に母親が働いている子どもたちは、こうした是非の両面をバランスよく捉えているのに対して、専業主婦を母にもつ子どもたちは、もし母親が働くようになったとしたらとする仮定の下における設問に対して、否定的な項目をより多くあげている。母親の就労を否定的にみなす傾向は、このように母親が働いている実態を基にしたものというよりも、むしろ想像で回答されたものも少なくないと考えられる。」(p.144−145)
・成人した子どもたちもまた、幼少期の回想では「さみしい」と感じているものの、母親の就労には肯定的で、自分の進路や生活設計のモデルだとする回答が多い。(p.145)

○働く母親への周囲の干渉
・三歳児神話を盲信する人々は、働く母親に対する干渉をする。「育児休暇が明けて会社に復帰しようとすると、舅姑や実父母が孫が哀れだといって泣くという。お母さんが働いていて子どもがかわいそう、さみしい思いをさせているのではないかという近所の人の目もある。」(p.147)

●第9章 男を父にさせない母性愛神話の罪

 母性愛神話はまた一方で、男性の育児からの疎外の原因にもなってきた。「子育ては母親のものだとする文化は、男性に父親としての成長を求めない文化でもある。」(p.152)

○父子家庭の父の戸惑い 
・母性強調の文化によって男性がいかに非人間的な生活を強いられているかということは、なかなか気づきにくいが、「離婚や死別等の理由から父子家庭になって、男性が家庭の仕事をみずから担わなければならない状況におかれてみると、日本の職場は男性には家事・育児の負担がないことを前提として成り立っていることを嫌でも痛感させられるという。」(p.154)
・会社人間として失格者にならざるを得ないことに加えて、「子どもがかわいそう」という周囲の声が父子家庭の父親を追いつめる。(p.155)

○砂上の楼閣に気づかないのんきな父親たち
・性別役割分業下で家庭生活を営んでいる男性であれば、だれもが父子家庭の父親と同じくらいに危うい地盤に立っていることに気づいていない男性がほとんどである。(p.156)

○育児をしろといわれた男性たちの抵抗
・「育児をしない男を父親と呼ばない」という厚生省のポスターへの男性たちの反発。
「育児にかまけていては仕事ができないではないか」「子どもの世話をする以外にも父親として果たす役割は別にある」「何よりも乳飲み子は母親を求めている」等など。(p.159)

○育児を許さない企業社会の厳しさ
長引く不況の下、かつてないほど企業は厳しい状況におかれている。そうした環境の中で働く男性は、良い父でありたいと希望しながらも、育児に関しては第三者的な立場を崩すことができない。(p.160−161)

○混戦模様の父親像
・一方で、文部省作製の家庭教育ビデオにみる「いざというときの父親像」からは、強い父に対する憧憬の強まりが感じられる。しかし、毅然とした厳しい父親像は、今の時代には現実離れした父親像である。(p.161―163)

○父親論のゆくえ
・ドイツの精神分析学者ミッチャーリヒの『父親なき社会』が日本で翻訳された1972年から「父親論」が始まった。
・父親の弱体化は就業構造上の問題とする見方以外に、女権向上を要因の一つだとする論調もあった。「働く主婦層の増加が、父親の家庭内での支配的な地位を危うくしたこと、さらには共稼ぎ家庭で家事・育児を分担する父親の増加が、「父親の母親化」を招いているという批判をする論者が少なくなかった。父親不在論の下で父親の権威失墜が嘆かれる一方で、父親の育児参加が必ずしも歓迎されていたわけではないのである。」しかし、こうした風潮は1990年代に入り、少子化問題を背景に変わりはじめた。(p.164)

○虚構の父親像
現状は、乳児期から父親も母親と同じように育児に参加する父親像も、厳しく叱ってしつけ、親としての威厳を示そうとする父親像も現実離れしている。しかし、これからの社会の変化を考えると、育児をする父親像の虚像を実像に据える努力が必要である。「女性が働きつづけることが可能な社会にするためには、男性も女性と同等に家庭責任の担い手としての位置付けを与えられなければならない。そのために男性がこれまでのような形で仕事に専念できなくなることをロスと考えるならば、それは男性の現在の居場所が砂上の楼閣だとする認識があまりにも乏しいといわざるを得ない。妻が働き、一家の家計を男性だけに頼るリスクが分散されれば、男性の働き方を今以上に人間的なものとする可能性をもたらすものであり、家庭内での父としての居場所も確保されよう。」(p.166)

●第10章 母性愛神話をかざす男たち

○妻の人生を狂わす男性の母性愛神話
・「父親と母親の役割は異なるとする育児・教育の性別役割分業論は、無意識のうちに妻の人生を狂わせ、「こんなはずではなかった」という不満をもたせる元凶である。」(p.168)
・アメリカの社会学者コマロフスキーの男子大学生62人に対する調査からの「男らしさ」をめぐる心理的な葛藤についての検討からみえたこと――女性の社会参加や知的能力の発揮を認めて対等な関係を築くという新しい規範にスムーズに対応している。しかし、対等な男女関係を歓迎する意識は、キャンパスライフまでで、妻になる女性に対して求めることは微妙に変化する。回答から4群に分類されているのだが、第一群が「伝統主義者」(専業主婦になってくれる女性がいい)で、24%。第2群が「フェミニスト・タイプ」(就労も家庭生活も、男女のいずれにとっても権利であり義務であると考え、妻がそれらを両立させるために喜んで家事を平等に分担する)で、7%。第三群が「インチキ・フェミニスト」(妻の就労に一応好意的な回答をするが、家事・育児をパーフェクトにこなし、夫にも子どもにも一切迷惑をかけないことを就労の条件とする)で、16%。第四群が「修正伝統主義者」(基本的に女性の知的、社会的生活の意義を認め、男性に依存しない自立した女性を求めつつ、子どもが生まれたら子育てに専念するべきだと考える)で、48%。(p.170−171)
・この第4のタイプの男性が、女性に「こんなはずではなかった」と言わせている。

○父親論はブームだが
厚生省のキャンペーン(「育児をしない男を父とは呼ばない」)に対する男性たちの反発からは、育児は母親がすべきだと信じて疑っていないことがわかる。(P.173−174)

○巧妙な反対論
・「男に育児をさせるとはけしからん」とはいわず、父親の育児協力を「威厳を示し、社会性を伝える」ことであるとして、結局日々のこまごまとした育児は妻にまかせようとする主張がみられる。根強い父親と母親の分業支持者。(P.174−175)

○父親は生きる厳しさを毅然と伝えうるのか
・父親が必ず、「社会に生きる厳しさを伝える役割」が担えるかどうかについての疑問について、童話『ヘンゼルとグレーテル』からの考察。この物語で、「社会の厳しさを教える役割」を担ったのは母親だった。(p.177−178)

○強い父親は幻想
・日本の厳格で強い父親像は、家族制度下の家長の姿。「父としての威厳や権威ではなく、家族制度という制度的な保障に支えられていた家長権にすぎなかった」(p.179)
・共同体的基盤を失い、複雑で変動が大きい情報社会である現代においては、「子どもに毅然とした指針や社会性を示す役割をひとり父親に求めようというのは、酷なことではないか」(p.180)

○父親の出番は「いざ」というとき?
・「いざという時」を知ることもない。(p.182)

●第11章 母性愛が加害性をもつとき

 「子どもを産み母となった女性は、育児負担に喘ぎつつも、いつしか母性愛神話に身を委ね、母性愛賛美を唱和する立場に身を置くようになる。みずからを賛美しなければやりきれないほど、育児の責務が重いという理由もあるのであろう。単に賛美に留まっているうちは被害は少ないが、賛美に馴れて、母親役割を担っていない同性に向ける眼差しに非難や侮蔑を込め、ある時は優越感をひけらかして相手のことをいたぶる言動に走る場合も起こりうる。」(p.185−186)

○子どもをもたない女性を対象とした研究
・「「母となることが女性の幸せとは限らない。産む産まないは個人の自由」とする意見に対する賛意は世論調査レベルでは高い。しかし、当事者やその周辺の人々の生活にかかわる切実な問題となると、世論調査の回答とは異なるせめぎ合いが展開されていることが珍しくない。」(p.187)
・子どもを欲していてできないことにたいするプレッシャー、跡取りを求められるプレッシャーは大変なもの。「一般論とは別に、身近な人に対しては結婚した夫婦には子どもがいて当たり前とする価値観を強要する傾向がある」(p.188)このような風潮は、子どもをもたない女性に大変な苦悩を強いる。 
・子どものない女性の苦悩を増幅させる原因の多くは、母となった同性の態度。(母親側に必ずしも悪意・故意があるとは限らず、単に日常習慣的な言動をとっているだけの場合もある)(p.188)

○母性愛に分断される女の悲哀
・「子どもをもたない女性にとっては、二重の責め苦が待ち受けている社会であるといえよう。一つは母となることに価値があるとする母性観をかざされて、母とならない生活に不当な干渉が加えられ、時として半人前であるかのような非難の声に晒される。他方、そうした声に対しては仮に毅然とし得たとしても、なお産みたいという欲求にとらわれる時、今度は母性観からの解放を主張する立場の人々から視野の狭さや自我の未成熟さを責められる。」(p.196)

○母性愛が凶器となるとき
・数年前に起きた事件から――妻子のある男性と被告の女性との交際が妻の知るところとなり、その後の様々な経緯のなかで心身に異常をきたした被告が相手方の家に放火し、幼児二人が焼死した事件。事件を起こした女性を追いつめた「凶器」は妻からの「母性を武器とした言葉」(p.198)だった。(例えば、「女性の中絶をなじる」、「母として我が子を胸に抱き乳を与える至福を語る」など)
・「母性愛はそれを語る背景は問われることなく、常に正義のものとして、賛美され続け、母とならない女性のうめきや悲哀に目が向けられることは少ない。」(p.202)

●第12章 母性愛神話からの解放―女性の自己実現をめざして

 「母性愛神話を問い直す作業は、母性愛からの解放を主張して終るものではない。むしろ、それに代わる新たな理念の提唱なくして、納得を得られるものではない」(p.204)

○母性愛喪失の危機感
・最近、子育てに対する人々の関心が高い。その背景には少子化への危機感や、子どもたちの問題(「いじめ」「非行」「不登校」「学級崩壊」「キレル子ども」など)がある。そして、その原因として家庭、とくに母親の子育て能力の低下がいわれる。母親たちは、なぜ子育てに戸惑い、悩んでいるのか。(p.205−206)

○母となることは、すべてを犠牲にすること?
・母となり子育てをすることによる人間的成長を否定するものではないが、それが母となった女性にだけ許される特権であるかのように特別に意味付けされることには問題がある。「滅私的に育児に埋没」(p.208)しなくてはいけないように思わされてしまう。

○「母親以外の私」を求める女性たち
・「すべてをなげうって子育てに励んでいる」母親も「子育てだけの毎日はいや」と悲鳴をあげる母親も、その背後にあるのは、「本来は母親以外の私もいる」という主張であるという点で共通している。(p.209)
・「子育て以外の自己を確立しつつ子どもの存在をも視野の中に入れることのできる母親像を当然とみる視点をもつ社会になれば、子育て以外の自分を求めるとしても、それはけっして自己の肥大にはなり得ない。むしろ子育てにだけ関心を集中する姿勢は、女性の生き方を狭める弊害が指摘されることになろう。」(p.210−211)

○起こるべくして起きた「文京区幼児殺害事件」
・「育児は女性が最も適しているとする母性観によって、母親たちが社会から閉ざされた狭い環境に置かれている。そうした中で母親たちは育児だけを生き甲斐とし、良い母親にならなければと思い詰めている。そうして子どもの成長は母親次第とみなす母性観が高じると、育児の成果は母親たちの通信簿とならざるを得ない。自分のすべてを注いで、よき母親ぶりを競い合う母親たちにとって、子どもはあたかもハンドバッグのブランドを競い合うように自己表現の道具と化してしまう。同じような境遇に置かれた者同士が狭い環境のなかでつきあう日常は、互いの所有物の差異に神経を尖らせ、嫉妬心を募らせていく。子どもの出来不出来にいらだち、攻撃の矛先を子どもに向けてしまう危険性も孕んでいる。」(p.212−213)
・「罪のない幼い子の命を奪うという容疑者が犯した罪はけっして許されるものではなく、大人としての贖罪がもとめられる。しかし、こうした母親の行動を裁く際には、子どもを産んで母となると、そうした閉鎖的な集団にしか身を置く以外に生活の場が見いだせないという日本社会の現状も同時に問題とされるべきだと考える」(p.214)
・母親が子育てをしながら「女として」「妻として」「社会人として」の自己も確立できるような社会制度や家族関係をいかに育成していくかが問われるべき。

○「マディソン郡の橋」に涙する中年女性たち
・母になることで「女として」の自己を捨てざるを得ない女性たちが、『マディソン郡の橋』の主人公フランチェスカに我が身を照らし合わせて胸震わせているのではないか。(p.216)

○男も女も仕事も家庭も
・性別役割分業体制の下に営まれる家庭が一般的な現状にあっては夫婦の絆の確率は難しい。「夫の家事・育児への参加を望めない家庭生活は、子育てを通した夫婦の絆を深めるのが至難であるばかりでなく、そもそも夫婦の会話ももちにくいと想像されるからである。」(p.218)
・「男性の家事・育児参加を促すには、女性もまた相応の経済的負担を分かち合わなければならないのである。」(p.218)
・「経済的にも社会的にも自立をめざす男女が、家庭にあっては夫婦として子育てにも協力しあう生活が今以上に実現できるならば、日本の夫婦関係も大きく変わるであろう。」(p.219)

○母性・父性に代わる「育児性」
・「共に働き」「共に育てる」ことの大切さ。
・両立支援策が打ち出されているが、子どもにとって最善の利益がもたらされる方向を視野に入れてなされるべき。現在の働き方に合わせる形で長時間保育を求めるよりも、子どもが小さいときは、男女共に家庭でゆったりと風呂や食事を子どもと共に楽しめるようなゆとりのある働き方ができるような勤務形態への配慮などが必要である。(p.220)
・新たな子育ての理念、それは「母性を理由として女性が育児に閉ざされる生活から解放されることであり、一方男性は仕事だけの生活から解放されて育児にもかかわれる社会の実現である」(p.221)
・子育ての性差へのこだわりを離れて、親も社会も育ちゆく子どもを支援しようとする共通認識を主張する新たな理念としての「育児性」。


……以上。コメントは作成者の希望により略……

 

紹介:田中麻由子(立命館大学政策科学部・4回生)
掲載:20020804

日本社会に広く信奉されている母性観「母親とはわが子を守り、慈愛と献身を尽くす
存在」「命を産む母はその命の健やかな成長を見守り、保障する存在」など、母性愛
を一方的に賛美してやまない従来の母性観、母性愛の崇高な面だけを賛美する風潮を
指して、「母性愛神話」と呼んでいる。確かに、わが子の健やかな成長を願い、献身
を尽くして慈しむ母親も大勢いる。しかし、わが子でも愛せない母親がいることも事
実である。また、母親自身はわが子への愛と信じていても、それは自己愛の化身に過
ぎず、かえって子どもの健やかな成長を脅かしている場合もある。そこで本書は、母
親の愛情を聖域として手厚く擁護される母性観が社会の病理の原因になっていること
を指摘している。子育ては産みの母親にこそ最も適性が備わっており、その母の愛情
を絶対的で崇高なものであると賛美してきたこれまでの母性観は、母親たちの実態と
かけ離れた幻想にすぎない。しかも、幻想をあたかも真実であるかのように思わせる
母性愛神話は、人々の生活をさまざまにゆがめていると主張する。

子育てや子どもの教育に関する問題が発生するたびに、その原因と解決を家庭の教育
力、特に、母親の役割に求める世論の動きが生じるのは、戦後の日本社会に一貫して
みられてきた傾向である。神戸市の少年による幼児殺害事件、下校途中の少女を拉致
し、9年余にわたって自宅に監禁した事件などで強まった母親批判のムードは、子育
て中の母親たちをいたたまれない心境に追い込んでいる。育児は母親がすべきだとす
る母性観は、女性の人生設計に迷いを与え、育児に専念している母親たちの育児スト
レスの度合いを増幅し、父と子の絆の形成を妨げ、家庭でも職場でも対等に向き合え
ない男と女の溝を深めている。そうした育児のストレスや夫婦関係の不満、社会から
疎外されるさみしさをまぎらわすために、母親が子どもに心ない仕打ちを繰り返すと
いう悲劇はあとを絶たない。

しかし、子どもの育ちの結果に特定の因果関係を求めることは難しい。家庭や親が子
どもの教育に責任を持つべきことは当然だが、一方で子育ては結果論である。子ども
は家庭以外のさまざまな要因が複雑にかかわりあう中で育っていく。子どもの問題の
原因をとりわけ母親の子育てのあり方、母親の責任に求めようとする風潮・議論は実
態なき空論であり、社会の限界を痛感する。。

ひとくちに母性愛神話と言っても、そこで何が強調されているかによって、神話の内
容も人々に及ぼす影響もさまざまである。まず、最も素朴な母性愛神話として、女性
の生殖能力はそのまま育児能力につながるとみなす考え方がある。若い女子学生たち
の専業主婦願望、母性回帰現象は数年顕著になっている。その背景として考えられる
のは、男性並みに働くことが難しいことを察知し、男性並みに働くことを降りる代わ
りに、それ以上に価値ある仕事として、母親役割を位置づけたいとする女性たちに
とって、格好の収まりどころを見出している。

次に、少なくとも三歳までは家で母親が育てるべきだとする考え方の三歳児神話があ
る。「三つ子の魂百までも」「雀百まで踊り忘れず」といった諺が残されているよう
に、幼少期の養育の重要性を認める考えは昔から存在していた。しかし、現代の女性
のライフスタイルは多様化しているのに、この考え方は女性の就労継続の前に立ちは
だかり、女性が育児に専念する傾向は変わっていない。そして、子どもに密接にかか
わることだけが「よき育児」とする母性観をもたらして、母子癒着の温床を作ってい
る。この考え方は近代以降の社会政治的要請に応じてつくられた社会的産物である。
つまり、近代に導入された資本主義体制と、それを支える近代家族を維持するために
必要な思想として奨励されたイデオロギーに他ならない。

3つめに、母性という言葉への反応はきまって「慈愛」「あたたかさ」「献身」
「無償の愛」である。人々が連想するのは幼な子を胸に抱く聖母像であり、女性に
とっても子どもにとっても至福の姿の象徴と捉える聖母説がある。しかし実態は、母
性愛の崇高さを信じて子育てに入った女性たちまでもが、育児負担の重さに耐えかね
て悲鳴をあげている。聖母像を生身の女性と一体化して捉えようとしても、すべての
母親がいつでも聖母のようにやさしさと慈愛に充ちているはずがない。育児の困難に
直面している母親を、聖母ならぬ生身の人間の偽らざる姿として受け止めなければな
らない。もっとも、母親は人間だと宣言する前に、子どもを愛そうとする努力を放棄
する母親が昨今、一部にみられる。母性愛神話開放の難しい所である。一方で、母親
が自身を聖母と思い込み、子どもにせまる母親も多い。そして、人々は聖母の仮面に
隠されたモンスターを見ることなく、仮面の聖母を称える。

 4つめは、母親=人間的成長説。“子をもってはじめて親のありがたさがわかる”
男女問わず多くのひとが共感する感覚である。しかし、女性の場合“子育てを通し
て、人間的に成長した”という言葉が添えられる。例えば、住民参加型の委員会や会
合には、母としての顔で参加し、子育ての経験を活かして役に立ちたいという声が多
い。確かに、母として子育てから得るものは少なくないが、同時に失ったもの、ある
いは、不要なものをまとってしまうこともある。子育てが母親を人間的に成長させる
面ばかりを強調しすぎる母性観は、年と共に身につく贅肉を見ようとしない点で、大
いなる神話といえる。

 さらに問題なのは、この神話に依存した母親たちが子どもをもたない同性に対して
このうえなく厳しい目を、むけ差別的な言葉を発することがある。「女性は母親に
なって人間的に成長する」とは、母性賛美の常套句でもあるが、それは「子どもを産
んでいない女性は未成熟。人格に丸みがない」という言葉となって、母親が母性愛を
かざして、母とならない女性を非難する凶器に容易に変身していく一面もあることを
見逃してはいけない。

 以上のように、母親の愛情を賛美する従来の母性観が母親たちの実態と乖離して多
くの弊害を招いているのはゆゆしい現象であるが、反面、子どもの健やかな成長発達
に豊かな愛情が注がれなければならないという必要性は否定すべくもない。むしろ子
どもは愛されてこそ人間らしく育つともいえる。しかし、子どもにとってそれほどに
大切な愛情を、果たして母親一人で担えるかとなると問題は別である。母親もまた一
人の人間としての弱さや限界をもっている。そうした現実を認めることもなく、母親
を慈愛と献身の象徴と祭りあげ、子どもの成長に絶対不可欠なものとする扱いが、果
たして今日の社会においていかなる必然性をもつのであろうか。就労機会等、女性の
社会参加がきわめて制限されていたかつての時代に、従来の母性観が女性に生きる意
味と社会的地位を保証した事実は否定できない。しかし、今はそれが女性の人生に大
きな負担を与えているばかりか、男女の関係や社会のあり方をゆがめる元凶となって
いることを察知すべきである。

 さらに、母親の崇高さを称える日本社会の母性強調文化、母性観による弊害は女性
だけではない、男性の問題でもある。子育てを母親のものだとする文化は、日本社会
が男性たちから父親となる機会を奪っており、男性に父親としての成長を求めない。
男性を父親にさせるためにも、女性は働くべきである。経済的にも社会的にも自立を
目指す男女が、家庭にあっては夫婦として子育てにも協力しあう生活が今以上に実現
できるならば、日本の夫婦関係も大きく変わる。しかし、「男は仕事、女は家庭」と
いう性別役割分業は、男性からは家事や育児に携わる生活者としての能力を発揮する
機会を奪い、女性からは経済的な自立の機会を奪っている。性別役割分業で成り立っ
ている家庭の幸せとは、砂上の楼閣である。そうした危うい立場にいることにも気づ
かずに「育児は母である妻の仕事だ」と信じ、妻が就労することに躊躇している男性
が依然として大勢を占めているのは、母性強調社会に責任の一端がある。そして、良
い父でありたいと希望しながらも、育児に関しては第三者的な立場を崩そうともしな
い男性たちの背景には、長引く不況の下、人員削減を余儀なくされ、さらには自由化
や規制緩和の波をうけて「企業はボランティアをしているのではない」という企業環
境の厳しさがあることも認めなければならない。

 前述したように、母性愛神話は決して普遍の心理ではない。近代社会の要請の下で
作られたイデオロギーである。母性愛神話の経緯を理解すれば、社会の変動ととも
に、子育ての理念にも変容が求められるのは当然である。21世紀を迎えて男女参画社
会の実現が緊急課題とされている今日、新たな子育ての理念が求められる。そして、
それは母性を理由として女性が育児に閉ざされる生活から解放されることであり、一
方男性は仕事だけの生活から解放されて育児にもかかわる社会の実現であることは、
いくたび繰り返しても尽きないほどに基本的な視点である。

 「男も女に仕事も家庭も」という理念を可能とする社会体制の整備を推進するため
には、子育てにも性差を強いてきた従来の母性・父性に代わる新たな概念が求められ
ていると考えられる。すなわち子育ての性差へのこだわりを離れて、親も社会も育ち
ゆく子どもを支援しようとする共通認識を主張する新たな理念が必要であり、かねて
より「育児性」という新しい用語を採用した。もっとも「育児性」は、性別役割分業
制度が残存している現段階では、まだ人々の生活実態と乖離を持つがゆえに神話であ
るとするならば、「育児性」もまた神話である。しかし、従来の母性観がもはや時代
錯誤のものとして、前時代的な遺物となりつつあるのに比べて、「育児性」は21世紀
の社会とって、必要かつ実現可能な道標と考えられる。

……以上。コメントは作成者の希望により略、以下はHP制作者による……

■言及

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※


UP: 2003 REV: 20140824
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