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『記憶/物語』(思考のフロンティアシリーズ)

岡 真理 2000221 岩波書店,123p. 1260


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岡 真理 20000221 『記憶/物語』,岩波書店,123p. ISBN:4000264273 1260 [amazon]

■出版社/著者からの内容紹介
或る出来事-しかも,暴力的な-体験を言葉で語ることは果たして可能だろうか.もし不可能なら,その者の死とともにその出来事は,起こらなかったものとして歴史の闇に葬られてしまうだろう.出来事の記憶が,人間の死を越えて生き延びるために,それは語られねばならない.だが,誰が,どのように語り得るのだろうか.

■内容(「BOOK」データベースより)
或る出来事―しかも、暴力的な―体験を物語ることは、果たして可能だろうか。もし不可能なら、その者の死とともに、その出来事は起こらなかったものとして、歴史の闇に葬られてしまうだろう。出来事の記憶が、人間の死を越えて生きのびるために、それは語られねばならない。だが、誰が、どのように語りうるのか。記憶と物語をめぐるポリティクスを、パフォーマティヴに脱構築する果敢な試み。

■目次

はじめに――記憶を分有するために

T 記憶の表象と物語の限界
第1章 記憶の主体
 1 到来する記憶
 2 余剰と暴力

第2章 出来事の表象
 1 小説という語り
 2 表象しうる現実の外部

第3章 物語の陥穽
 1 虚構のリアリズム
 2 出来事の現実
 3 物語への欲望
 4 物語の欺瞞/欺瞞の物語
 5 否認される他者

第4章 記憶のポリティクス
 1 傷痍兵という出来事
 2 記憶を語るということ
 3 否認の共犯者

U 表象の不可能性を超えて
第1章 転移する記憶
 1 外部の他者へ至る道筋
 2 ヘル・ウィズ・ベイブ・ルース

第2章 領有することの不可能性
 1 封印される余剰
 2 偽りのプロット
 3 単独性・痕跡・他者

第3章 出来事を生きる
 1 出来事の帰属
 2 難民的生の生成

V 基本文献案内

あとがき

■引用

「〈出来事〉の記憶を分有するとはいかにしたら可能だろうか。〈出来事〉の記憶が他者と分有されるためには、〈出来事〉は、まず語られねばならない。伝えられねばならない。〈出来事〉の記憶が他者と共有されねばならない。だが、〈出来事〉の記憶が、他者と、真に分有されうるような形で〈出来事〉の記憶を物語る、とはどういうことだろうか。そのような物語は果たして可能なのか。存在しうるのか。存在するとすれば、それはリアリズムの精度の問題なのだろうか。だが、リアルである、とはどういうことなのだろうか。無数の問いが生起する」(はじめに:xvi)

「プルーストには較べるべくもないが、わたしは、わたしのこのささやかな「マドレーヌ体験」から――もっともわたしの場合は「洋梨体験」だが――記憶というものについて、あることを知った。それは、人がなにごとかを「思い出す」と言うとき、「人が」思い出すのではない、記憶の方が人に到来するのだ、ということである。
 わたしがなにごとかを思い出すとき、叙述の上ではたしかに「私が」思い出すのであり、「私が」主体として、思いだされるべきことがらに対して「思い出す」という能動的作用を及ぼしているように表現される。過去の出来事がどこかに記録され保管されており、私たちは必要に応じて適宜、それらを取り出してきては、録画されたヴィデオテープを再生するように、参照するというイメージに近い。
 しかし、この「マドレーヌ体験」が示唆しているのは、「記憶」というものの別ようのあり方である。記憶が――あるいは記憶に媒介された出来事が――「私」の意思とは無関係に、わたしにやって来る。ここでは、「記憶」こそが主体である。そして、「記憶」のこの突然の到来に対して、「私」は徹底的に無力であり、受動的なのである。言いかえれば、「記憶」とは時に、わたしには制御不能な、わたしの意思とは無関係に、わたしの身に襲いかかってくるものでもあるということだ。そして、出来事は記憶のなかでいまも、生々しい現実を生きている。とすれば記憶の回帰とは、根源的な暴力性を秘めているということになる」(pp.4-5)

「だが、出来事は暴力的に人に回帰する。人が想起するのではない。人の意思とは無関係に到来する出来事が、人にそれを想起せしめるのである。出来事は言葉で語りうるのだろうか、言いかえれば、出来事は人によって再現しうるのだろうかということに対して、わたしがどこか懐疑的であらざるを得ないのは、ひとつには、さきに述べたような言語というものの不自由さ、言語が〈現実〉に対して本質的にはらみもつズレのせいだが、しかし、それだけではない。人と出来事との関係において、出来事を想起する、思い出すというとき、人が主体たり得ず、むしろ、回帰する出来事の圧倒的な力に対して徹底的に無力であるのに、なぜ、出来事を語るときは人が主体になれるなどと考えうるのだろうかと思わずにはいられないからである」(pp.8-9、傍点は傍線に変更)

「言葉として語りうるものはいつも、出来事のうちの語りうる部分、その意味について私たちがすでに言葉によって知っている部分だけなのではないか」(pp.9-10)

「また、近代は、単に小説なるものを可能にしただけでなく、近代という時代それ自体が、小説的な語りを要請したのではないか。近代において社会が体験するドラスティックな変容、国民国家間で生起する戦争には、国民すべてが否応なく巻き込まれる。植民地主義の侵略によって、祖国にいながらして、自分たちが帰属する、そして自分たちに帰属するはずの大地から疎外されていくという不条理。近代という時代が、そこに生きる人間たちにもたらすトラウマ(精神的外傷)――その不条理さゆえに言葉で名づけ、「経験」として飼い慣らし、過去に放り込むことのできない〈出来事〉の暴力。そうした、言葉では語ることのできない体験、〈出来事〉を、物語として語るという時代の要請を、小説は自ら引き受けたのではないだろうか。言いかえれば、小説の語りには、そうした出来事の不可能な分有の可能性が賭けられているのではないだろうか。
 だが、それは、言葉では語りえないものが、小説であればにわかに、言葉で語ることができるようになるなどということではない。むしろ、ここでわたしが示唆したいのはそれとは反対のことである。〈出来事〉というものが本質的にはらみもっている再現することの不可能性、それをいかにしてか語ることによって、小説はそこに、言葉では再現することのできない〈現実〉があることを、言いかえれば〈出来事〉それ自体の在処を、指し示すのではないか。言葉によって、もし、すべてが説明されうるのなら、小説なるものが書かれなければならない致命的な必要もないだろう」(pp.14-15)

「おそらく小説というものは、フィクション(虚構)であるがゆえに、この語り得ないことを伝えるという可能性を秘めているのかもしれない。だが、小説が語り得ないものを語るにしても、それは、小説という虚構世界で〈現実〉なるものを忠実に――リアルに――再現できる、ということではない(そう考えるとしたら、私たちはフィリップと同じ過ちを犯すことになるだろう)。むしろ「アデュー」というテクストが示しているのは、そうした根源的暴力のリアリティというものは原理的に、私たちが再現、表象しうる現実の外部につねにこぼれ落ちるものであるということではないだろうか」(p.18)

「ホロコーストという〈出来事〉の体験が、リアルに再現できるような出来事として再現されてしまっているという事実、まさにリアルに再現するという当の行為によって、あたかも再現されたもののリアルさの距離を測定することができる、参照することができるような出来事としてホロコーストがありうるかのように語ってしまっていることが、『シンドラーのリスト』という作品をめぐって、これまですでに批判されてきたが、スピルバーグにおいては、ホロコーストとはまさにそのような出来事、そのような経験として存在しているのであり、そうした批判は、彼にとっておそらく何の意味も持たなかったに違いない。
 『インディ・ジョーンズ』シリーズ、『ジュラシック・パーク』、『シンドラーのリスト』、そして『プライベート・ライアン』。出来事の位相、次元を異にするはずのこれらの作品を、スピルバーグの、リアリズムに対する欲望が貫いている。そして、リアリズムの欲望とは、言葉では説明できない〈出来事〉、それゆえ再現不能な〈現実〉、〈出来事〉の余剰、「他者」の存在の避妊と結び付いている」(pp.28-29)

「〈出来事〉を受けとめ、その不正義を正していくことこそが私たちひとりひとりに課せられているまさにそのときに、〈出来事〉それ自体を否定する歴史修正主義的な言説が、臆面もない露骨さでもって語られ、〈出来事〉の暴力を生きてきたこれら女性たちに対して、さらなる暴力を振るっている。私たちはその暴力を告発し、糾弾する責を負っている。
 一方、〈出来事〉を証すのは、証言である。〈出来事〉を体験した当事者でなければ語れないこと、というものがある。出来事の唯一無比の商人であること、それが〈出来事〉の〈真実〉を保障すると考えられている。
 〈出来事〉の〈真実〉を証す証言に触れたなら、その〈真実〉を、〈出来事〉を否定する歴史修正主義者たちの眼前に突きつけて、お前たちはこれでも抗弁するのかと、言ってやりたいとわたしも思う。だが、このとき、自らの傷ついたからだを切り裂いて、その内部をえぐり出すような証言であるからこそ、そこに〈出来事〉の〈真実〉が証されているのだとするなら、それは何と、グロテスクなことだろう。厚顔無恥な否定論者たちが、それでも〈出来事〉を否定したなら――おそらく、彼らはそうするだろう――私たちは、なおも、彼女たちに、その身をもっともっと深くえぐり、当事者しか知り得ない苦痛を証言せよと要求するのだろうか。だが、いったいどれだけその身を切り裂き、どれだけ深くその肉をえぐり出せば、そして、いったいどれだけの苦痛に身をよじって証言すれば、〈真実〉を語ったことになるのだろう?」(p.31)

「彼女たちが被るその苦痛によって、彼女たちが証言する〈出来事〉の〈真実〉を担保し、それでもって、歴史修正主義者たちの言説を否定しようとすることは、わたしには、どこかになにがしかの錯誤があるような気がしてならないのだ。彼女たちの証言、「過去」に封印されていた〈出来事〉が、〈出来事〉を包み込む厚い皮膜を突き破って、〈出来事〉の外部へと、私たちのもとへと到来する。彼女たちが被った〈出来事〉の想像を絶した暴力の衝撃に打たれるとき、私たちは、〈出来事〉の暴力的な到来に対して徹底的に受け身であらざるを得ない自分たちの非力さ、無力さに耐えることを回避して――〈出来事〉それ自身の暴力に私たちがさらされることに耐えきれなくて――〈出来事〉の〈真実〉を領有し、それを手にして自由主義史観を批判することで、〈出来事〉が否定する私たちの主体性を回復しようとしているのではないだろうか。〈出来事〉の存在を否定する歴史修正主義者を批判する作業は私たちの責務としてある。このとき、身を裂くような苦痛のうちに語られる、これらの女性たちが被った〈出来事〉の暴力性を私たちが徹底的に受けとめる、ということと、歴史修正主義者を私たちが批判することは、繋がってはいるけれども、おそらくは、別個のことがらであるように私には思えるのだが」(pp.32-33)

「映像のレベル、物語の表面的なレベルでは、私たちは、その「リアル」な再現によって〈出来事〉の暴力性を追体験したような気持ちになる。しかし、語りの深層において、物語が否定しているのは、まさに〈出来事〉の暴力性そのものなのである。これらの作品が、多くの観客を動員したのは、そこにこそ理由があるのではないか。私たちは、〈出来事〉を、深い人間的共感をもって理解する。〈出来事〉が暴力的に到来して自らの主体性を奪ってしまう心配はない。むしろ作品は、観客を、〈出来事〉の「真実」を領有する主体とする。「ヒューマニズム」と「エンターテインメント」の見事な融合。だが、それは、誰の、どのような欲望に奉仕しているのだろうか」(p.41)

「出来事の暴力を生きのびるために、そのような方便でもって自分を納得させざるを得ない者に向かって、それは自己欺瞞である、〈真実〉に直面せよと語ることの、もうひとつの暴力性にわたしは打たれる。しかし、また、想像を絶する大量虐殺という〈出来事〉を可能にした瞞着、欺瞞の犯罪性を私たちが批判しなければならないとしたら、自らに対しても欺瞞を拒否しなければならないという倫理的命令にさらされているとも思う。ひとつだけたしかなことは、出来事の暴力を生きのびるためであれ、そこに偽りの意味を充填することは、そのような不条理を生起せしめた暴力の根源をも欺瞞のうちに、生かし続けることになる、ということである」(pp.48-49)

「ネルソンは『ソルジャー・ブルー』で星条旗を、まったく異なった記憶を喚起するものとして書き直した。それは、他者の〈出来事〉を分有するための営為にほかならない。スピルバーグの『プライベート・ライアン』は言ってみれば、他者の〈出来事〉を分有すべくネルソンによって書き直された星条旗を、もういちどアメリカの「誇りある」物語として語り直そうとする作品であると言えるだろう」(p.55)

「思い出を語る人々の語りには、不安がある。自分にとってリアルな出来事が言葉で説明されるとき、果たして他者にもリアルなものとして伝わっているのだろうか、自分の言葉は、出来事のリアリティを相手に伝えているだろうか、自分の言葉は出来事を十分、語っているだろうか、そのような根本的な不安を抱えているがゆえに、彼らの話は、たえず相手に確認を求めながら語られてゆくのである。自分がその出来事の記憶に不安を抱いているからではない。自分にとってはどんなに確信に満ちた記憶であっても、それを他者に語るということから、不安が生まれるのである」(pp.64-65)

「人が記憶を語る、しかも、自分にとってかけがえのない出来事の記憶を他者に語るということが、こんなにも、他者から理解されたいという切実な思いに満ち、人の語りをこんなにも頼りなげで、不安な色に染め上げているのだということが、語りの端々ににじみ出ているということに、わたしは切なさを覚えずにはいられなかった」(p.66)

「作品がナショナルな欲望との結託を拒否するなら、自己の生を肯定することをめぐって、この二つの態度――他者との関係性において自己の生を肯定するという態度と、無意味な死という〈出来事〉の暴力を否認するために、死に意味を充填する態度――が和解不可能な対立であることを作品に書き込む必要があったのではないか」(p.67)


作成:野崎泰伸
UP:20071215 REV:1218 19
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