認定申請を取り下げる
一方、私自身は、一九八五年、自らが求めつづけていた患者としての認定申請を取り下げました。そう考えるようになったのは、一つには水俣病事件の本質的な責任のゆくえを自分が追っかけていたからだと思います。確かに水俣病事件の中では、チッソが加害企業であるし、国や県がそれを擁護して産業優先の政策を進めてきたのも事実です。その意味では、三者とも加害者であることは構造的な事実です。しかし、チッソや国や県にあると思っていた水俣病事件▽△の責任が、本質的なものなのかという疑問がずっとありました。そういう構造的な責任の奥に、人間の責任という大変大きな問題があるという気がして仕方がなかったわけです。
もう一方で、水俣病事件は私たちに何をいっているんだろうかと考えるようになりました。というのも、ずっと長い間、問われているのは加害者で、そしてそれが当たり前だと思い込んでいて、まさか自分が問われているなどとは一度も思ったことがなかったわけです。ところが、熊本県庁や環境庁や裁判所や、いろんな所に行動を起こしていく闘いの中で、その問いを受けてくれる相手がいつもコロコロ入れ替わって、相手の主体が見えないわけです。そして投げかけたものを受け取ってくれる相手がいないもんだから、逆に自分の所に跳ね返ってきてしまう。跳ね返ってきたものが、たくさん、たくさん溜まってきて、その問いに自分が押しつぶされんばかりに狂ってしまったわけです。「お前はどうなんだ」と問われたんだろうと思います。かつてチッソが毒を流しつづけて、儲かって儲かって仕方がない時代に、自分がチッソの一労働者あるいは幹部であったとしたらと考えてみると、同じことをしなかったとはいい切れない。そうした自分を初めて突きつけられたわけです。
そしてチッソとは何なんだ、私が闘っている相手は何なんだということがわからなくなって、狂って狂って考えていった先に気付いたのが、巨大な「システム社会」でした。私がいってい▽△る「システム社会」というのは、法律であり制度でもありますけれども、それ以上に、時代の価値観が構造的に組み込まれている、そういう世の中です。それは非常に怖い世界として見えました。狂っているときに、とんでもない恐ろしい世界だと思いました。このまま行けばその仕組みの中に取り込まれてしまうという危機感があったから、そこから身を剥がねばならないと思って認定申請を取り下げ、それ以来、他の患者の人たちにも自分なりの呼びかけ方をしてきたわけです。
チッソはもう一人の自分
チッソとは一体何だったのかということは、現在でも私たちが考えなければならない大事なことですが、唐突ないい方のようですけれども、私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っています。
私はこう思うんですね。私たちの生きている時代は、たとえばお金であったり、産業であったり、便利なモノであったり、いわば「”豊かさ”に駆り立てられた時代」であるわけですけれども、私たち自身の日常的な生活が、もうすでに大きく複雑な仕組みの中にあって、そこから抜けようとしてもなかなか抜けられない。まさに水俣病を起こした時代の価値観に支配され▽△ているような気がするわけです。
この四〇年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスチックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。水道のパイプに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけれども、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。「近代化」とか「豊かさ」を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱して行くのかということが、大きな問いとしてあるように思います。┃(pp.193-196)