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『ロールズ哲学史講義』

Rawls, John; ed. by Herman, Barbara 2000 Lectures on the History of Moral Philosophy, Harvard University Press.
= 20050223 / 20050325 坂部 恵監訳 みすず書房, 318+319p.


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■Rawls, John; ed. by Herman, Barbara 2000 Lectures on the History of Moral Philosophy, Harvard University Press. = 20050223 / 20050325 坂部 恵監訳 『ロールズ哲学史講義』, みすず書房, 318+319p.  ISBN-10: 4622071118(上); 4622071126(下)  4830円(上); 4620円(下)  [amazon](上); [amazon](下)

■出版社/著者からの内容紹介
「道徳哲学の歴史に関するロールズの思想の中心にあるもの、それは、わたしたちの伝統がもつ偉大なテキストのなかに、人生をいかに生きるべきかに関する多くの困難きわまりない諸問題に甘んじてかかわろうとする、偉大な知性たちの努力を見ることができる、という考え方である。」(「編者の緒言」より)
 『正義論』によって現代の政治哲学に深甚な影響を与えたロールズ教授の、30年におよぶハーバード大学での道徳哲学をめぐる名講義をまとめた大冊である。 穏やかな情念と厳密な理性の連携が、合理的熟慮と人為的徳を導き、そこから生ずる道徳感覚は、人間本性に内在する自然な事実である、とするヒュームの心理学的自然主義。神が創造した最善の世界のもとで、自発的で個別的な理性的魂が、各々の内なる知性の自由を表現する、というライプニッツの形而上学的完全性主義。そして、理性の理念としての道徳法則に基づき、総合的かつア・プリオリな定言命法を定式化する、カントの純粋実践理性の批判へ。 『人間本性論』や『道徳形而上学の基礎づけ』といった、道徳哲学の古典の詳細な読解をつうじて、道徳的構想が担う社会の公共的秩序と構造を探究する、ロールズ版哲学史の精髄。

「自由の要請はいっそう根本的なものである。それはわたしたちの理性が自然の秩序から独立であることを、またしたがって純粋理性の自発性を、前提することだからである。そのようなものとして、自由の要請は、自己の行為にたいして責任能力と弁明能力があると見なされるわたしたちの存在の基盤なのである。」(「カント[」より)
 ロールズ教授によるハーバード大学名講義の下巻は、カント講義の後半から、終章のヘーゲル講義にいたる。 真なる前提と正しい推論によって妥当するカントの道徳的構成主義。わたしたちの思考と判断の最高権威である道徳法則。そして、絶対的に自発的である純粋実践理性による自由の理念。こうしてカントの道徳的構想は、自由で平等な人格としての全員による貴族制を望見する。 いっぽうヘーゲルにとって、諸個人は独力では自由でありえない。家族、市民社会、国家という合理的な社会的諸制度が、公民の自由を可能にし、そして実現する。ここから道徳哲学をめぐるロールズの議論は、ヘーゲルにおける人倫とリベラリズム、理性の狡知と精神へ移行していく。 『実践理性批判』や『宗教論』、『法哲学綱要』をおもなテキストに、自由な個人から社会契約へ、そして国家論へと展開していく、ロールズ版哲学史のクライマックス。

■目次
編者の緒言
序論 近代哲学――1600年から1800年まで
ヒューム
 ヒュームT 心理学化された道徳性、ならびに情念
 ヒュームU 合理的熟慮と理性の役割
 ヒュームV 人為的徳としての正義
 ヒュームW 理性主義的直観主義への批判
 ヒュームX 思慮ある観察者
ライプニッツ
 ライプニッツT その形而上学的完全性主義
 ライプニッツU 能動実態としての魂――その自由
カント
 カントT 『基礎づけ』――序文と第1章
 カントU 定言命法――第一定式
 カントV 定言命法――第二の定式
 カントW 定言命法――第三の定式(以上、上巻の内容)
 カントX 正しさの優位性と道徳法則の対象
 カントY 道徳的構成主義
 カントZ 理性の事実
 カント[ 自由の法則としての道徳法則
 カント\ 『宗教論』第一編の道徳的心理学
 カント] 理性の統一性
ヘーゲル
 ヘーゲルT ヘーゲルの『法哲学綱要』
 ヘーゲルU 人倫とリベラリズム
付録 講義の概略

■紹介・引用
 第一の問い。わたしたちに要求される道徳秩序は外的源泉から引き出されるのであろうか、それとも、なんらかの仕方で、人間本性そのものから、 および、わたしたちが社会のなかで共生することの諸要件から、生ずるのであろうか。
 第二の問い。わたしたちが行為すべき仕方に関する知識なり自覚なりは、ある一部の者にとってのみ、ないしは少数者(たとえば聖職者)にとってのみ、 直接的に到達可能なのであろうか、それともそれは、普通に思慮分別と良心をもったどの人にとっても到達可能なのであろうか。
 第三の問い。わたしたちはなんらかの外的動機づけによって、道徳の諸要求にみずからを従わせるべく説得されたり強制されたりせねばならないのであろうか、 それともわたしたちは、わたしたちの組成からして、外的な誘因を必要とせずして、為すべき仕方で行為することへとわたしたちを導く十分な動機を みずからの本性のうちにもっているのであろうか。
 …上の三つの問いを眺めるとき、この時期の著者たちが、事実として何が正・不正であり、善・悪であるかに関して、多少とも合意し合っている、 ということに気づかなければならない。彼らは、道徳の内実をめぐって、権利、義務、責務、等の、道徳の第一諸原理が実際のところは何であるかをめぐって、 意見を異にしているのではない。…彼らにとっての問題は道徳性の内実ではなく、それの基礎であった。すなわち、わたしたちはいかにして、 その基礎を知りえ、その基礎に基づいて行為することへと動かされうるのであるか、と。…
 上記の三つの問いにもう一度言及すると、ヒュームとカントはともに、それぞれ異なった仕方で、いずれの問いの場合でも二番目の選択肢を肯定する。 すなわち、彼らは、道徳的秩序はなんらかの仕方で、人間本性そのものと、わたしたちが社会の中で共生することの諸要件から生ずる、と考える。 彼らはまた、わたしたちが行為すべき仕方に関する知識や自覚は、普通に思慮分別と良心をもったすべての人にとって直接的に到達可能である、とも考える。 そして最後に、彼らは、わたしたちはわたしたちの組成からして、外的な制裁を必要とせずして、少なくとも、授かる報奨や、神または国家によって 科せられる刑罰という形での外的制裁は必要とせずして、為すべき仕方で行為することへとわたしたちを導く十分な動機をみずからの本性のうちにもっている、と考える。 それどころか、ヒュームとカントはともに、少数者だけが道徳的知識をもちうるのであって、すべての人々、もしくは大部分の人々は、そういった 制裁の手段によって正しいことをさせられなければならないという見解からは、それ以上は隔たりえないと言えるほどに遠く隔たっている。(上巻、p.35-37.) 


*作成:坂本 徳仁
UP:20080720
BOOK  ◇哲学・政治哲学・倫理学
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