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『正義の他者――実践哲学論集』

Honneth, Axel 2000 Das Andere der Gerechtigkeit: Aufsatze zur praktische Philosophie
=20050525 加藤 泰史・日暮 雅夫 他訳,法政大学出版局,449p.

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■Honneth, Axel 2000 Das Andere der Gerechtigkeit: Aufsatze zur praktische Philosophie=20050525 加藤 泰史・日暮 雅夫 他訳,法政大学出版局,449p. 5040 ISBN: 4588007939 [amazon][kinokuniya]

◆内容紹介

実践哲学の相違する領域において何が正義の「他者」と言われうるのか。社会哲学・道徳哲学・政治哲学それぞれの体系的課題を独自の承認論を展開させて分析、正義の原理とその「他者」との関わりに新たな照明を当てる。

◆目次

はじめに
1 社会哲学の課題
社会的なものの病理―社会哲学の伝統とアクチュアリティ
1.ルソーからニーチェへ―社会哲学的な問題設定の発生
2.人間学と歴史哲学の間で―社会学成立後の社会哲学
3.社会の病理診断のための基礎づけ形式―社会哲学の現状をめぐって
世界の意味地平を切り開く批判の可能性―社会批判をめぐる現在の論争地平での『啓蒙の弁証法』
1.[内在的な社会批判―ローティーとウォルツァー]
2.[社会的不公正と社会的な病理]
3.[『啓蒙の弁証法』のアクチュアリティ]
<存在を否認されること>が持つ社会的な力――批判的社会理論のトポロジーについて
1.批判と、学以前のレヴェルにある実践
2.伝統を更新するオルタナティヴな道
3.学以前のレヴェルの実践と道徳に関係する経験
4.資本主義社会の病理
5.労働と承認
6.結論

道徳意識と社会的階級支配―規範的な行為ポテンシャルの分析における諸問題
1.[抑圧された階級がいだく「不正意識」]
2.[規範に関わる階級支配のメカニズム
3.[「階級闘争の鎮静化」のテーゼに抗して]

2 道徳と承認

正義の他者―ハーバーマスとポストモダニズムの倫理学的挑戦
アリストテレスとカントの間―承認の道徳についてのスケッチ
正義と愛情による結びつきとの間―道徳的論争の焦点としての家族
愛と道徳―感情による絆の道徳的内実について
脱中心化された自律―現代の主体批判からの道徳哲学的帰結

3 政治哲学の問題
道徳的な罠としての普遍主義?―人権政治の条件と限界
反省的協働活動としての民主主義―ジョン・デューイと現代の民主主義理論
手続き主義と目的論の間―ジョン・デューイの道徳理論における未解決問題としての道徳的コンフリクト
消極的自由と文化的帰属性との間で―アイザイア・バーリンの政治哲学における解決できない緊張関係
ポスト伝統的共同体―概念的提言
訳者あとがき
原注
事項索引
人名索引

◆引用

<存在を否認されること>が持つ社会的な力――批判的社会理論のトポロジーについて

 「社会的日常の中で道徳的不正であると感じられる出来事について次のように指摘することもできる。つまり、このような出来事が当事者たちにとって生じているのは、つねに、当然のことと見なされる承認が彼(女)らの期待に反して行われないときなのである。人間の主体がこうした状況において典型的に持つことになる道徳に関係する経験を、私は、〈社会的に存在を否認されているような感じ〉をいだく場面として捉えたい。」(Honneth[2000=2005:105-106](「〈存在を否認されること〉が持つ社会的な力」,『正義の他者』所収)
U 道徳と承認
正義の他者―ハーバーマスとポストモダニズムの倫理学的挑戦
 「ポストモダニズムの哲学的運動は当初、どんな種類の規範理論にも強く反対しているように見えたが、この最初の対決姿勢はしだいに大きく変化していった。つまり、デリダやリオタールのような思想家もまず最初は特に理性批判をラディカルに進展させることに取り組んでいたが、今日では人から倫理学的転回と言われるほどに、倫理学と正義の問題に力を注ぐようになったのである。」p145
 「哲学的伝統の思考体系の中で分離され排除されたものに再び光を当てようとする者は、このはみ出すものが認識上の他の選択肢ではなく人間主体を意味している場合には、ある種の必然性を持って遅かれ早かれ倫理的な結論に至らざるをえないからである。この場合に、統一的な思考の犠牲にされた契機が、すなわち掛け替えのない特殊性を持った具体的な個人や社会的なグループが、すべての道徳論や正義論が守らなくてはならない核心であると理解されることは自然である。したがって、今日のポストモダニズムの倫理学も、特殊なもの、異質なものを道徳的に考慮するという着想をその理論的出発点としている。つまり、アドルノの書かれることがなかった道徳理論がまさしくそうであったであろうように、この倫理学は、非同一的なものと適切に関わり合うことによって初めて人間の正義の要求が満たされる、という考えを中心に展開されるのである。」p146
 「これから先のことすべては、保護される必要のある特殊なものをどう解釈するのか、そしてまた道徳的にそれを保護する仕方をどう決めるのかを基準146>147に判断されるだろう。この解釈や保護の仕方の相違からただちに、ポストモダン倫理学のそれぞれ異なったヴァージョンをもたらす多様な選択可能性のすべてが生じてくる。つまり、脅威にさらされた特殊性の契機は、社会的な言語ゲームの単独性として〔1〕、すべての人間存在が持つ廃棄されえない差異として〔2〕、または一人一人の人間が助けを根本的に必要としていることとして〔3〕考えられるのである。」pp146−147

1.〔リオタールの抗争論によるポストモダン倫理学の基礎づけ〕
 「リオタールからすれば、例えばマルクス主義やリベラリズムの歴史哲学が表現していた「大きな物語」が終わると同時に、諸学がいままでは不可侵のものとして自分に備わっていると主張できた普遍的な理性への要求が解体したのである。〔…〕したがって今日、形而上学的思考が克服されることによって諸学を正当化する源もまた干上がったときに、もともいかなる形態の知も特権的な認識能力を備えていないことが初めてまちがいようもなく明らかになった。むしろ、現実社会においてはつねに、言語的に表現された多くの形態の知が対立しあっていて、それらの間でどれが正当な妥当性を要求しうるのかを合理的な根拠によって決めることはできないのである。」p149
 「そこからリオタールの考察の道徳哲学上の核心をなすと思われる直感が生じる。すなわち、われわれの社会においては特定の言説ジャンルの――とりわけ実定法と経済的合理性の言説ジャンルの――優位が制度的に保障されているために、別の種類の妥当性を持つ特定の言語ゲームは社会的に表明されないままにいつまでも排除され続けるのである。そして、この「沈黙している」抗争を忘却の危機から救うためには、社会的に抑圧され逸脱している側面を表現するのを助けうる政治的―倫理的態度が必要である。」p151
 「つまり一方でリオタールは、特定の言語ゲームによる社会支配を甘受しつつ、表現されなかった利害関心と欲求が存在することをいつまでもまた新たに「証言する」という面従腹背の課題を倫理学に課すのである。〔…〕しかし他方でリオタールは、特定の言語ゲームの支配を批判することをもくろみ、いままで排除されてきた言語ゲームに対して社会的コミュニケーションを開くことを規範的目標とする哲学的倫理学を基礎づけようとするのである。」p152
 「私の見るところが正しければ、リオタールは今日に至るまで、この二つのアプローチの間で本当のところどちらを選ぶべきか決められずにいる。つまり、倫理学によって単に証言を行うという考えにも、倫理学の助けによって正義の新しい形態を追求するという考えのいずれに対しても、彼の著作の中にいくらでも該当箇所を見つけることができる。」p152
 「ハーバーマスはリオタールと違ってはじめから、議論の出発点となるこのような状況を批判するためには規範的な性格を持った道徳理論の展開が必須である、と確信していた。つまりハーバーマスにとっては、社会的コミュニケーションの制限が「不正」として描かれうるのはこの制限が人間の正しい欲求の侵害であることが規範的に示されるときだけであるのは自明だったのである。ハーバーマスはそのような道徳的正当化を討議倫理学の構想を通じて企てた。つまり、討議倫理学は、リオタールが自分の考えを既存のコミュニケーション連関を批判する方向へと発展させようとするなら彼でさえ完全には放棄できない、普遍主義的原理の構成要素をその核心として持っているのである。」p153
 「しかしここでハーバーマスはこの伝統とは一線を画し、カントがその著作の中で適切な手続きとはどういうものかへと話153>154を進める際に正しい最初のテーゼから誤った帰結を引き出してしまった、と主張する。というのも、定言命法の定式からは、どの主体も道徳的葛藤の中でただ自分だけに関わり、言葉を交わすことがないので、他のすべての関与者から隔絶しているかのような誤った印象を受けるからである。そこでハーバーマスは、カール=オット・アーペルとの協同作業の中で、カントによる手続きの提案に対して、人間の言語的な相互主観性をふまえた手続きのあり方を示した。」pp153−154
 「その際には関与者の誰もが平等な仕方で強制のない態度決定をなしうるチャンスを持つことが原則的にはいつもすでに前提されていなければならないのである。」p154

2.〔ホワイトの徳論によるポストモダン倫理学の展開〕
 「リオタールにとって、ポストモダン倫理学が是正しなければならない近代の本当の誤りが抗争の存在の抑圧であったとすれば、ホワイトにとってのそれは他者の特質に対する無知であった。ホワイトの考察の出発点となるテーゼは、カント的伝統を持つ道徳的普遍主義が、現実を選択的にしか知覚できないようにしてしまう存在論的前提に依拠しているというものである。近代的な思考の中では、社会的生を世界への156>157能動的な介入という性質を持つプロセスだけに結びつける社会存在論が優勢となった。それに対して、ただ受動的な性格を示すだけのあらゆる行為や素質はカテゴリーとしてきわめて低い位置づけしか与えられなかった。この、存在論的な偏見は、近代倫理学の中では経験的に知覚可能な変化をもたらす人間の行為だけを道徳判断の拠り所と見なす傾向となって現われている。それに対して、世界の中に実践的な成果を生み出さない活動はすべて、道徳的反省の地平から排除されたままである。したがって、ホワイトは、近代の倫理学的思考には彼が「行為に対する責任」と表現した原理が刻み込まれていると考えるのである。」pp156−157
 「近代のこの主要な誤りを是正しようとする倫理学は、その誤りを正すことによって、他者の特性に対する感覚を再び目覚めさせようとするような道徳的教説の形をとるにちがいない。そしてそれは、個々人の特殊性を知覚し感受するのに尽力する振舞い方が、いわば徳として説明されるという仕方においてのみ可能になる。」p159
 「したがって重要であるのは、世界に能動的に介入してゆく傾向が断ち切られ、個々人の微妙な特性や差異に気づくための時間と注意深さとが生じるような心構えや志向性である。そのような感受性の徳の例としてホワイトが挙げるのは、人の話を耳を澄まして聞くことができる能力、感情をともなう関わりへの準備、そして最後に人格的な特性を許容する、いやそれどころか励ましさえする能力である。つまり、一言で言えば、すべてそれらの振舞い方は、今日「心遣い」という概念で一括されているものである。」p159
 「個々の人159>160格の個人的な特殊性に対して、伝統的道徳理論の形式主義の中で与えられていた以上の注意と承認を与えることである。しかしホワイトはさらに加えて、以上にスケッチした心遣いの徳に、平等な取り扱いという普遍主義的な理念が社会的現実の中で実現されてゆくための実践的方法の探究に貢献するという課題も与える。心遣いの徳のこの第2の役割を規定する際にホワイトが依拠したテーゼは、リチャード・ローティーが行った考察を一般化したものである。ローティーのリベラリズムの捉え方で中心的な役割を果たしているのは、社会の道徳的進歩が規範的改革の実現という形で直接になされるのではなく、むしろ社会的不正を一つ一つ段階的に取り除いてゆくという否定的な仕方で達成されるという考え方である。」pp159−160
 「カントとその継承者において支配的だった、他者を無視することに対する批判へとホワイトを駆り立てたのは、まさに討議倫理学がもともと公然と主張してきたものにほかならない。」p162
 「つまり、ホワイトがハイデガーに立ち戻りながら個々人の特殊性をありありと思い浮かべる能力として描いたものは、ここでは道徳的討議を行うにあたっての人格的前提として考えられるコミュニケーション的な徳の中心的な要素なのである。」p167

3.〔デリダが指摘する、二つの道徳的観点の緊張関係〕
 「今日リオタールもホワイトも、この理念に規定されている思考地平を彼らの著作の中で越えていないのに対して、この決定的な一歩を初めて示したのは、ここ数年ジャック・デリダがその大枠を展開した倫理学のアプローチである。」p168
 「デリダのテーゼはむしろ、すべての他者との差異を持つ個的主体を正当化できるのは、平等な取り扱いの理念に対して生産的な対立関係にある道徳的パースペクティブのみである、というものである。デリダがその倫理学において解明しようとしたものは、このような形の緊張関係なのである。彼の倫理学の理論的な核心をなすのは、道徳的経験の現象学である。それが、あらゆる基礎づけ169>170の重荷を背負わされているのである。」pp169−170
 「デリダがとりわけ関心を持っているのは、それぞれが人間の責任の異なった形を指し示している二つの相互主観的な態度がどのようにして総合に至るのかということである。デリダが主張するのは、すべての友愛の関係において第一に、他者が具体的な代理されえない一人の人格という役割において登場するという他者への関係の次元があることである。〔…〕したがってデリダにとって友愛の関係には、他の人格が一般化された他者という役割において登場する、相互主観性の関係の第二の次元もつねにまた関わってくる。つまり、普遍性のこの審級に170>171よって考えられているのは、対称的に付与された権利と義務に従ってすべての他者の人格に対して私がどんな責任を持っているのかをある社会の中で定める、制度として具体化された道徳原理なのである。したがって友愛の関係の中で私が出会う相手は、二つの役割を持っている。つまり、一方で私の相手は、同情と好意という情動的なレヴェルにおいて私に非対称的な義務を訴えてくることができるが、しかし同時に他方でこの相手はまた、道徳的な人格としてすべての他者と同じように尊重されることをも求める。そもそも友愛という道徳的な絆を初めて生み出すのは、責任の二つの異なった形態の間にあるこの克服されえない緊張関係なのである。」pp170−171
 「具体的なケースにおいてはそのつど、責任の二つの原理のうちのどちらに準拠するのかを決定しなければならないが、その助けとなるようないかなる上位のパースペクティブも存在しないからである。「現実においては、正義が私を普遍性の均衡の中に閉じ込めておくことは177>178ない。正義は私に正義の直線を超えるように強いるのであり、いったん超えてしまえば何ものもこの歩みの終着点を決めることはできない。法の直線の向こうには、まだ探求されずに善の国がどこまでも拡がっており、その国は単独の現存者へのあらゆる補助を必要とする。」pp177−178
 「そうすることによって正義はつねに正義そのものを超え出てゆくように駆り立てられる、という驚くべきテーゼの定式化が可能となるのである。」p178

4.〔ハーバーマスによる二つの道徳的原理を媒介する試み〕
 「ハーバーマスもまた、討議倫理学を形成する途上で、平等な取り扱いという近代的理念が心遣いという道徳的原則に対してどんな関係にあるのか、という問いに直面しなければならなかった。というのも、フェミニズムの道徳理論が形づくられるとともに、キャロル・ギリガンの研究に倣って、カントにまで遡る討議倫理学のアプローチにおいては、相互的な義務を考慮することなく具体的な他者に関わりその人に自発的に援助と支援を与えるような道徳的立場がおざなりにされているという非難の声がただちに挙がったからである。」p180
 「もちろんこのように述べたからといって、今日のフェミニズム倫理学が「心遣い(ケア)」というキャッチフレーズで正当に要求している原理に、討議倫理学の道徳的パースペクティブがそもそもどのような態度をとるのか、という問いに答えが与えられたわけではない。というのも、道徳的なものについてのわれわれの考えが平等な取り扱いや相互責任の概念によってすべて汲み尽くされるわけではなく、慈悲ある行い、助けようとする気持ち、隣人愛等に基づく非対称的な行為において生じる振舞い方にも関わっていることは、けっして否定されていないからである。」p181
 「討議倫理学がフェミニズム倫理学の挑戦によってただちに苦況に陥るというわけではなかったとしても、いかに討議倫理学が心遣いの原理と全体的に関わるのか、という問題に答えることはやはり必要であった。そのためにハーバーマスは、ローレンス・コールバーグの最近の著作を扱った論文において、彼自身の解決策を展開しようとした。彼の議論が行き着いた考えとは、討議のコミュニケーション的前提がたしかに心遣いの視点を含んでいるとしても、同じように「隣人の幸福」を問題とする類似の原理を含んでいるということである。つまり、あらゆる実践的討議には、「連帯」という道徳的パースペクティブに即した志向性が組み込まれているのである。なぜなら、いかなる討議においても、参加者が平等な権利を持った人格としてのみならず、同時にまた代理されえない個人としても相互に承認しあっていなければならないからである。ハーバーマスが正義の「他者」と特徴付けるこの原理は、他の人間の実存的な運命を情動的に十分に思いやるという特徴を、心遣いと共有している、とされる。しかし、連帯の原理が心遣いから区別されるのは、連帯においては個人的な思いやりがすべての人間に同じ程度に向けられるので、どんな種類の特権化や非対称性からも自由であることによる、とされる。それゆえハーバーマスにとって、連帯が正義のもう一つの側面であるのは、すべての主体が平等な権利を持った存在として人間のコミュニケーション的な生活形態を共有しつつ、連帯においてそれぞれの他者の幸福のために相互に努力しあうからである。182>183
 他者への思いやりのこのように一般化された形態に関しては、そもそもそのような思いやりの形成へと導く特別な動機と経験とがどんなものであるかが、当然ながらまだ不明のままである。ハーバーマスは、この関連で、「理想的なコミュニケーション共同体に帰属するという」意識について語っている。この意識は、「共通の生活連関において結ばれるという確固たる気持ちから生じてくるだろう」。しかし、共通の生活形態にこのように社会的に帰属しているという感情がそもそも形成されうるのは、さまざまな重荷、苦しみや課題をも共通のものとして経験する程度に応じてのみである。このような共通の重荷や困窮という経験は、これもまた集合的な目標が存在するという条件のもとでのみ成立しうるが、そのような目標の限定は共有される価値という光に照らして初めて可能なのである。したがって、社会的に帰属しているという感情が成立するためには必然的に価値共同体の存在が前提となる。それゆえ連体を相互的な思いやりという道徳原理として理解するならば、連帯はいわば特殊主義の契機なしには考えられない。この特殊主義の契機はどんな社会共同体が成立する際にもついてまわるものだが、それは、この共同体の構成員が特定の、倫理的に限定された目標において一体であると思い、それによって特別の重荷の感情を共有するからである。もちろんある規範的な基準によって連帯する人類の融合点を考えることもできるが、しかしそれは、すべての人間存在が彼(女)らの文化的違いを超えて共通の目標を持っているという、極端に理想化された想定のもとでのみ可能なことである。したがって、平等な取り扱いという普遍主義的な理念とは反対にすべての人間を包括した連帯という考えには何か抽象的でユートピア的なところがある。それだけになおさら、すべての人間を包括した連帯という考えは、一方的な心遣いや恩恵ある行いの形態でいつもすでにわれわれの社会的世界の超越的要素を形成している道徳原理を普遍主義的に代理するものと見なすことはできない。183>184
 デリダがレヴィナスに依って、一人一人の人間の無限の特殊性に向かう心遣いをする正義として描いたものは、平等な取り扱いや連帯とも違って、完全に一方的で、非対称的ないつくしみという性格を持っている。それにともなう義務は、その傾向からすればつねに、その義務を引き受ける者自身の行為における自律性までもが大幅に制限されることまで要求する。したがって、一人一人の人間の尊厳であれば、それをすべての人間に尊重するように求めることは道徳的に当然であるが、それと同じようにいま述べたような責任を引き受けることをすべての人間に求めることはできない。しかしながら、発生学的に言えばこの道徳原理は子供の発達プロセスの初期の幸福な環境のもとで作用しているので、この原理の経験は、他のすべての道徳的観点との出会いよりも先である。それどころか、そもそもある人が、無制限な意味で平等な取り扱いと呼ばれるものを理解する感受性を発達させうるのは、その人自身がかつて無制限な心遣いを受けた、つまり正義に基づかない扱いを受けた、という経験をしている場合だけかもしれない。しかし、二つの道徳原理の間には、発生学的な優先関係があるだけではなく、相互的な排除の関係もある。つまり、心遣いと恩恵ある行いへの義務がそもそも成り立つのは、ある人が極端に困窮あるいは切迫した状況にあるために、平等な取り扱いという道徳原理をその人に適応することがもはや状況に見合ったこととは言えない場合のみである。つまりそのような状況にあって実践的討議に物理的または心理的に参加できない人々は、少なくとも彼(女)らと感情的な絆によって結ばれている者たちから献身的な心遣いをうけるのは当然である。しかし反対に、彼(女)らが実践的討議に加わることによって、すべての他の者たちの間で平等な存在として承認されるや否や、心遣いという一方的な関係は終わりにしなければならない。つまり、その思うところや物の見方を公共の場で表現することができる主体に対しては、慈悲ある態度は禁じられているのである。184>185
 さて、こうしたことから、レヴィナスの言うようには、心遣いや慈悲ある行いがすべての道徳的なものの原理の発生的な基礎であるのみならず、また論理的な基礎でもあるという結論を導き出すことはできない。つまり、近代の諸条件のもとでわれわれが道徳的な観点であると、つまり「道徳的な見方」であると考えるものは、なんといってもまず平等な取り扱いという普遍主義的な原則から説明されるのである。しかしまた、いままでの展開から同時に生じる帰結は、カントにまで遡る道徳哲学の伝統においては、道徳的なものの現象領域の内部に心遣いを位置づけることがほとんどなかったが、改めてそれに適切な位置づけを与えなければならないということである。連帯が正義原則の必然的な対極をなすのは、連帯が特殊主義的な仕方で相互に思いやろうとする情動的衝動を正義原則に付け加えるかぎりのことである。その一方で、心遣いも同じように正義原則の必然的な対極をなすのであるが、それは、心遣いが正義原則に、一方的で、完全に利害から離れた援助の原理を補うからである。道徳的なもののこの領域にある、解決することができないが生産的な緊張の発見は、デリダの最近の著作の功績である。つまり、結局それらの著作によってポストモダン倫理学は、平等な取り扱いの理念といういままで近代に対して決定的だった規範的地平を超え出る、小さいがしかし重要な一歩を踏み出したのである。」pp182−185

作成:仲口路子
UP:20080116 REV:
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