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Americans with Disabilities: Exploring Implications of the Law for Individuals and Institutions

Francis, Leslie Pickering; Silvers, Anita 2000 Routledge, 432p.

last update:20100719

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■Francis, Leslie Pickering; Silvers, Anita 2000 Americans with Disabilities: Exploring Implications of the Law for Individuals and Institutions, Routledge,432p. ISBN-10: 0415923689 ISBN-13: 978-0415923682 [amazon]※ ds

■内容

Who should qualify as disabled? The obese? Asymptomatic HIV-positive people?

In 1990 a landmark piece of legislation was passed by Congress. The Americans with Disabilities Act (ADA) was based on the idea that equal rights can solve social problems associated with disability. Few acts have sparked as much debate in recent years, with many employers and program providers protesting--and litigating--against the burdensome costs of the act. On the other side, many of the Americans with disabilities and their advocates claim that the ADA doesn't do enough, that only the most highly functioning disabled people benefit. Americans with Disabilities looks at the debate and sheds light on who is right.

In this groundbreaking work, leading philosophers, legal theorists, bioethicists, and policy makers offer incisive looks into the philosophical and moral foundations of disability law and policy.

A thought-provoking analysis of one of the most controversial laws on the books, Americans with Disabilities provides a keen understanding of how much U.S. law does--and should--protect citizens with disabilities against intolerance and social limitation.

* About the authors:
Leslie Francis is Professor of Philosophy at the University of Utah.
Anita Silvers is Professor of Philosophy at San Francisco State University.

■紹介

With this pathbreaking book, two of the nation's leading social philosophers have pushed disabled Americans out of the shadows and into the limelight where they belong...Anyone who works on health, education, welfare and civil rights issues will need to read this book. -- Anita L. Allen, University of Pennsylvania Law School
This is an important book. Its collected essays come to grips directly with the most important issues of law, policy and morality involving Americans with disabilities. The authors...will make every reader think more carefully about how best to insure justice for the disabled. -- Thomas Ehrlich, The Carnegie Foundation on the Advancement of Teaching
This comprehensive anthology is a major step in the development of disability studies in philosophy and legal scholarship. It takes philosophy of disability beyond the 'you too' afterthoughts added to discussions of social justice and demonstrates that issues raised by disability are critical to contemporary social philosophy. -- Susan Wendell, author of The Rejected Body: Feminist Philosophical Reflections on Disability
Leading philosophers, scholars and lawyers offer a perceptive philosophical andlegal analysis of the Americans with Disabilities Act (ADA). If you care about the future prospects of people with disabilities, you will want to read this very important book. -- Bimonthly Revew of Law Books/ May-June 2001

■引用

Disability and the Definition of Work
 Iris Marion Young pp.169-173

ADAは期待されたが、10年後の現実は、かえって法的に障害者としてカウントされる人を狭めてしまっている。

□差異のジレンマ(DILEMMAS OF DIFFERENCE)

1 歴史的に排除されてきた。社会運動が等しい尊敬と尊厳とを求めた。
2 10年以上前、マーサ・ミノウ(Martha Minow)は周縁化されている集団に対する偏見と差別とを解消しようとすることが「差異のジレンマ」を引き起こすことを述べた。一方で、差異のスティグマは無視によって作られる。他方、「平等な処遇」も。特定の人々のことしか念頭に置かれず制度が設計されるから。そこで「特別な処遇」。それも差異を。
3 ADAもこのジレンマに。
p.169」
4 この法的措置は新しいスティグマを。財政的その他の負担。その結果、隠された形態の差別。差異を逸脱とし、障害という範疇を固定(freeze)。なぜなら、特別な権利のために法が求めるほど十分に異なっているかどうかが争われることになるから。ここでは、有償労働(paid employment)に焦点を当てる。差異のジレンマと同様、これらの法的是正策は、誰が救済(remedy)を得るに値するかを巡る議論を惹起する。

□憤慨の政治(THE POLITICS OF RESENTMENT)

1 ADAを巡る議論や訴訟はコノリーらが「憤慨の政治」として理論化したものを燃え上がらせた。求める側は犠牲者として、他方の側はその加害に対する責任を負うものとされる。
2 特に訴訟の場合、法的救済の場合には多くの人の憤慨を引き起こす。
3 さらに「私も私も」("me-too-ism")ということになり、それに対する憤慨は、救済される人の範囲を狭くする方向に働く
p..170」
4 雇用主の側は法の認める障害ではなく、してほしい仕事に適していないのだといって障害者を雇わない
5 他の労働者たちの潜在的な憤慨も。彼らの労働条件のわるさ。

□語られない前提:雇い主が仕事を定義する
 (THE UNSTATED ASSUMPTION: EMPLOYERS DEFINE WORK)

1 障害は論争的な範疇。多様。程度問題で、その境界は恣意的。「普通」の職場の要求に同意するようにということになる。
2 法のもとで、「普通」の職場の定義について雇用主は広い権限を有する。この単純な事実が、ADAがうまくいっていない主要な源。それを「憤慨の政治」が囲む。
3 組合は交渉するが、それは多く給料や労働時間や職場環境で、労働過程自体ではない。
p.171」
4 ADAに関わる判決はこの雇用主の権利に挑戦するどころか、支持してしまっている。例。こうなると障害者が、雇用主側が適切に対応すれば仕事を支障なくできると主張することが難しくなってしまう。障害を負う前にその仕事ができていたと証明できなければならないようなことになってしまう。
5 マーサ・ミノウ(Martha Minow)は差異のジレンマは語られない諸前提から発すると述べた。一つは、人々を異なるものとするのは他者たちとの比較によってではなく、その人に内在的なもの(intrinsic)なものだという前提。他の諸前提は、判断がなされる視点から。その視点が中立的で普遍的なものだとされる。
6 「元気で精力的な」(hale and hearty)労働者という規範。
7 憤慨の政治は少なくとも部分的にはここから。多くが負けるに決まっている競争の場に置かれてしまう。
p.172」
雇用者の権利に挑戦するのは次のステップ。「もし社会が、全ての成人が、その能力を最大に生かして社会に生産的に貢献することを望むのであれば、そしてそうした生産的な仕事に従事することが他者達の評価や自己評価の一つの大きな源泉であるのなら」、もっとと一般的な公衆の(public)議論と決定がなされるべき。
8 どのように。ADAの言葉は広いので解釈は可能。障害者と自己規定しない労働者にとっても雇用主の権限に挑戦することは意義がある。組合や他の団体も。

*メモ
・cf.ADA(アメリカ障害者法)
・どこまでを障害を理由にした(不当な)差別とするかという線引の問題が生じてきうること、実際生じていること、その結果、雇用の範囲が限られてしまうことは別の論者たちも指摘している。
 杉野 昭博 20010901 「ADAとDDA――雇用問題を中心に」
 障害者総合情報ネットワーク
 http://ipcres1.ipcku.kansai-u.ac.jp/~suginoa/houkoku/20010901.htm
・興味深い?のは、上記の「ADA」のファイルでも引用しているが、日本での(例えば 花田春兆の)ADAに対する批判と、ヤングの批判の仕方が同じでないことだ。前者は、ADAでは、うまく調節(accomodation)すれば「職務に伴う本質的な機能を遂行できる障害者」を排除してならないとするのだが、しかし、するとやはりその機能を遂行することができない障害者は結局排除されてしまうではないか、といったことが言われた。このようなことをどう考えるか。
・上にあげた根本的?な疑問の他に指摘されてきたことは以下。この法律はつまり「仕事ができるなら、障害があるからといって差別してはならない」ことを言う。しかし障害にともなってかかる費用があるとして、さらにその費用は雇用主もちであるとするなら、雇用主の側は雇うのをためらう。それで雇わないでおこうと思い、雇わない。それで雇用されなかった人たちは困るのだが、それをADAは救えるか。このとき雇用主の側は、雇用しない理由は障害があるからではなく、当該の仕事が(他の候補者に比べた場合に)できないからであると言うだろう。さてその主張の是非はどのようにして判断されるのか。また誰に拠証責任があるのか。…。このようなことを考えたときに(様々な条件によって変わってくるのではあるが)なかなか難しいものがあることは容易に理解することができるだろう。そしてここでは「障害(が理由である)」ことを巡る争いが起こり、そのことによって、あの人たちは障害があることをかさにきて(本来、就職などできないはずなのに)就職できた、あるいは就職したいとごねている、このようなことが言われることになる。(ヤングもまたこのような場面が気になっているようなのではあるが、ただ問題はこのことをどのように言うか、言っているかである。)
 このような事情をみたとき、むしろ「割当て制」の方が、面倒な争いごとに巻き込まれる(そしてその争いごとに勝たなければならない)ことがなくよいのではないかという議論が現われることにもなる。これはこれでもっとな議論ではある。ただ、やはり、「障害者が特別扱いされている」という類いの議論はなくならない。(むしろより強くなるという可能性がある。)
 この辺りのことを問題にし考えているのは遠山真世(東京都立大学大学院)。最新の論文は『社会政策研究』(近刊)。私はその論文がうまくいっているとは考えていないのだが、読む価値はある。読んでいただきたい。また私が書いた文章もある。
cf.障害者と労働
 立岩 真也 2001/12/25 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」
 『季刊社会保障研究』37-3:208-217(国立社会保障・人口問題研究所)


・マーサ・ミノウ(Martha Minow)の「差異のジレンマ」についての『正義と…』における言及は以下。
 「Martha Minowは、差異のジレンマとは、現在抑圧され不利を被っている集団のために正義を促進しようとする者誰もが直面するジレンマであると見ている。集団の差異を無視するような形式的には中立的なルールや政策は、その差異が逸脱として規定されてしまっている人々に対する不利益を永続化させることがある。だが、差異に焦点を当てることは、その差異がかつて帯びていたスティグマに再び力を与える危険がある(Minow,1987,pp.12-13;cf.Minow,1985;1990)」(p.169、堀田義太郎訳)
 以下のように続いている。
 「法や政策は、誰もが平等だと宣言しているのに抑圧が続いている[…]したがって私は、多くの集団にとって、そして多くの状況において、すでに社会的生活の中で実在している集団の差異を、政治的な生活のなかで肯定しそれを認知することのほうが、より力を与える〔empowering〕と考える。差異の意味そのものが政治的抗争の一つの領域になれば、差異を肯定しそれを認知することで人は差異のジレンマを避けるようになる。」(p.169)
 次にミノウが出てくるのは以下。
 「対立としての差異という本質化してスティグマ化するような差異の意味に対するオルタナティブは、差異を特異性(specificity)、バリエーションとして理解することである。この論理においては、Martha Minowが示すように(1985,1987,1990)、集団の差異は実体的なカテゴリーや属性によって規定されているのではなく、関係的なものとして理解されるべきである。」(p.171)
 「メモ・2」の大川正彦による――ヤングの肩をもち、フレーザーの議論に疑問を呈する文脈での――言及を参照のこと。


“Disability, Priority, and Social Justice”
 Richard Arneson
◆内容紹介(堀田義太郎・頁数はアーネソンのHPにあるPDFファイルより)

 障害は人種的スティグマを受けた人々や能力を欠いた人々と同じか。
⇒ ADAが言うようにこの類比はまずは適切だ。差別を受け機会平等を拒否されている点では重なるからである。さらに、現在の労働市場は偏見と差別に満ちており、これを変える必要がある、と主張されている。
 ここから、差別がないことや機会平等という理念の分析の必要性が示唆される。非差別の規範として解釈された機会平等理念はいくつかの種類に区別できる。

「大まかに言えば、私の結論は、この規範のどれもが、せいぜい社会正義の実質を不完全に説明するにすぎず、最悪の場合には、能力に関する道徳的フェティッシュを作りだすことによって、また、同じ野望と能力をもつ者は人生で得られるモノへの期待が同等であるような、完全な能力主義こそが正しい社会だという間違った思い込みによって欠陥がある、ということになる。〔それに対して〕我々が社会正義の要求を通して相互に負っているものは、能力主義的な非差別を超えている。」(1)

障害と正義をめぐる難問は、優先主義を用いて扱うのがよい。
⇒ 「それにより、反差別という枠組みでしか障害をめぐる問題を考察しないるような発想から解放されれば、社会正義の観点からみて、障害者の状況に対するより適切な補償(remedies)について考えるための道が開ける」(2)

1 非差別と機会平等

機会平等はいくつかある。自由意思による契約は差別を許容する。能力に開かれた職務は、@仕事がすべての人に開かれているという意味と、A求職者はそのポストに必要な能力だけで判断されるという意味、そしてB公正な機会平等がある。
 @は、求人広告の範囲が様々でありうる以上、そこから差別的な態度を除去することはできない。Aは能力を事前に判断できないことから、統計的差別が起こりうる。また、完全に職務をこなす能力をもつ人とは、職務をこなす以上の能力の持ち主かもしれない。その場合、雇用者は雇用しないかもしれない。数学者を事務員として雇うことを、雇用者は、退屈してすぐに辞めてしまうのではないか等々の理由で、拒むかもしれない。(3-4)また、真に能力のある人をどのようにして見分けるのかは困難である。
 年齢差別を考えるとさらに込み入ってくる。高齢者を退職させているが、それは能力に職務は開かれているという理念を侵害するようにも見える。とはいえ、若くして死なない限り誰もが年を取るのだから、機会平等を人生全体で能力に職業が開かれているという形で理解すれば、特定の時点での機会平等と一致しないとしても、年齢差別は機会平等と両立する。
 B公正な機会平等には、たしかに初等教育等を要求する根拠である。問題は、この義務はどこまでに至るのかだ。ロールズは能力が等しく、人生の企図(ambition)も同じである場合、競争で勝ち抜くための同じ展望をもつべきだと述べる。(4-5) だがこの理念については、二つの側面についてコメントする必要がある。
 第一に、他者と同じ能力をもっているという見方は明確ではない。誰のどんな才能に対していかなる環境が公正だと言えるのかは、事前には不明である。また第二に、企図に応じて同じ才能の人も違った能力を涵養するが、ロールズ流の定式ではこれは公正だということになる。だが、偏見などによる企図への影響を考慮すべきではないか。とくに障害者について考える場合にはそれは重要になるだろう。(5)

 以上のような機会平等論は、仕事が定義され個別化される仕方を決定する過程には制約をかけていない。職が再編成され再組織化されれば、有資格者として見なされる場合もありうる。能力や特徴を仕事に合わせて変えることあるいは、仕事を特徴に合わせて変えればそれも可能である。手が動かないとしても、外科医になったり投手になったりすることが可能な状況を想像することはできる。これらは社会正義の諸問題を提起している。(6)
 キャサリン・マッキノンは、女性に不利な職場環境が「白人男性に対する巨大なアファーマティブ・アクション計画」の産物だと指摘している。同様に、身体障害が職務遂行を妨げるとして、環境が変わればそうはならないと言える。(6)
 いかなる機会平等論も、この論点、つまりアレン・ブキャナンが「インクルージョン」と呼ぶような論点については論じていない。(7)インクルージョンの問題は分配的正義の一般的問題の一側面である。非差別と機会平等という独特原理は、この問題の射程を扱うのには適していない。
 反差別規範が分配的正義の仕事を全て引き受けるだろうと考えるのは説得力がない。普通に考えて、重度障害者は、いかなる差別も受けておらず機会平等からも排除されていないとしても、酷い人生展望に直面している。アーネ損が足がなく盲目で聾だとする。彼は自分が就く資格ある職についており、社会も十分に対応しているとする。また企図が妨げられたりしているわけでもないとする。この場合、彼の問題は差別ではなくて、彼の能力が乏しいことにある。

「彼のQOLが低いのは、人間にとって真に重要な財に対する機会という意味においてである(His quality of life is poor in terms of opportnities for genuine important human goods. )」(7)

これを機会平等論は扱えない。

2 優先主義

分配的正義論の基礎は、選択運と自然の不運の違いである。分配的正義原理の多くは、幸運な者は不運な者に対して、個人的なコントロールを超えた過程に結び付けられている部分については、人生の展望を平等にするように保障すべきだと考えている。(8)
 これは「運の平等主義」と呼ばれているが、私は、その最も説得力のある立場は厚生主義であり、優先主義だと考えている。また、責任配慮的な要素が必要である。つまり、本人がその状況に対する責任が少なければ少ないほど、それを改善するという道徳的価値は大きくなると。それぞれまとめれば、
 ・「責任配慮的」という考え方とは、「我々がお互いに負っているモノの一部は、所与の入手可能な機会のなかで、我々が自分自身に対して行ったことに依存する」という考え方である。(8)
 ・「厚生主義」という考え方は、諸個人が直面する初発の機会を測定するための適切な分配的正義の基準とは、その機会が彼女に獲得可能にするところの福利であり厚生だ、という考え方である。
 ・「優先主義的」な分配的正義原理は、我々は、制度や実践を、その道徳的価値つまり福利の関数が最大化されるように、行動すべきであり編成すべきだと考える。

 「優先主義的正義は、個々人の機会の比率を、そこに含まれる個人的責任に従って調整する。その個人の責任に関する見方は、人は自らのコントロール力を超えたモノには責任は持つべきでなく、かつコントロール可能な範囲内でも、その人が合理的な選択をしそれを実行に移すことが困難で苦痛に満ちたものであるなら、人は不合理な選択をしてそれを実行したとしても、それに対してあまり責任はないと考える。」(9)

したがって、「諸個人の機会についての分配的正義の尺度は、人がその人生を、その人にとって賢慮した選択を行うための困難さとコストを規定する特定の条件下で、その人に期待することが道徳的に合理的であるような仕方で本人が賢慮して導いたさいに、到達できるであろう厚生のレベルである」

これを要するに、私の立場は「厚生主義的機会志向の優先主義」である。

 「優先主義は障害とみなされるような個人的特徴を、個人の生来の能力を扱うのと同じように扱う。いずれも、人の人生の初期の見通しを規定する包括的な環境に含まれる。分配的正義は、そうした諸環境を、最終的な初期資源の分配が機会の公正な見通しについての基準を満たすような資源分配やその他の方法で、再編成するよう私たちに要求する」(9)

「私が、自分の個人的賦与において不幸であると想像してみよう。私は精神分裂病的であり、かつボーダーラインあるいはナルシシスティックな人格障害をもつとする。私が諸資源を良き人生へと変換する力に極端に乏しい人間であるということは、不幸なことだろう」(9)

「インクルージョンの道徳性」の問題 …… 協働の枠組みへの生産的な貢献者の役割に要求されるテストを決定する必要がある。この要求度を下げれば多くの人が包摂されるので、辛うじてそれに参加できる人にとって良いが、より制約された枠組みに参加でき、そしてその枠組みの方が多くの生産性をもたらすので暮らす向きがよくなる人にとってはより悪いものになる。(10)

「この問題を前にして、誰も排除されないように協働の条件は設定されるべきだと主張するのはもっともらしくない」(10)

「深刻な精神遅滞者や深刻な精神病をもつ個人も完全に生産的なメンバーに慣れるように生産貢献に対するハードルを下げることは、協働の純益をほとんど無にまで低下させるだろう」(10)

⇒ 帰結主義の観点から見ると二つの受け入れがたい極端な帰結を優先主義はもたらすように見える。

・一つは、優先主義は、インクルージョンの優先性を常に強調するだろうというものである。とすると、最低限の人が少しでも得るモノがあるならば、暮らし向きの良い多くの人々がどれだけ失おうが、それでよい、ということになる。
・もう一つは、総計主義的功利主義を採用する場合である。この立場からすれば、総計がよくなるならば、すでに不遇の人がより多く失ったとしても別に良いということになる。これは受け入れがたいだろう。

最不遇者を最大化する(マキシミン)と単純な利益総計の最大化の間を取る方策が優先主義だ(10)。とはいえその詳細はここでは論じられない。

3 障害とは何か?

ワッサーマンは厚生主義を「社会をハイジャックする」ような分配をもたらすとして斥ける。

⇔ ワッサーマンの議論では、分配的正義は平等を要求すべきだと考えられている。だが、優先主義は平等を要求しない。資源の平等な分配を要求するとしても、問題は平等そのものではない。
一人に分配して他のすべての人の福利が平均以下になり、平等になるとして、それを要求しない。(12)
また、福利や厚生は単なる主観的選好の充足ではない。(13)

インクルージョンは社会政策において切り札的な価値をもつものと考えることはできない。そのコストがあるからだ。コストを無視した議論は極論である。(15)

シルバースらは障害は社会的構築物であると述べる。たしかにそう言える部分もある。

「黒い肌は人種差別社会では障害であるが、適切な補償は、黒い肌をもつ個人をできないものとみなすことではないし、彼女の不幸なハンディを補償することでもなく、すべての肌の色の個人にとって公正な社会に変えることである」(15)と、シルバースらは言う。

そして、「補償に値するような不利益を被っている人々をふるい分けることを命ずるような分配的正義の概念は、シルバースによれば問題がある。というのも、それは不可避的に支援を必要とする人々の価値と尊厳を侮辱するからである。」(15)とされている。

ここには、アンダーソンの議論との共通性が確認できる。

「シルバースは、反差別規範が私たちを障害をめぐる問題に適切に応答するような正しい社会政策に導く根本的な道徳原理であるという」(15)

これらは重要な指摘だが、優先主義はすでにこれらの問題に適切に応答している。(15)

優先主義は、既存の社会状況が固定しているとも不可侵であるとも思わない。優先主義からすれば、何が正義であるかは、私たちが現在の出発点から道徳的価値を最大化するような状態を最大限長い期間達成できるやり方に依存する。

 侮辱の問題は重要である。だが、それに拘泥することは、逆に間違った方向にわれわれを導く。他者の眼差しによって判断され、ランク付けされ、測定されることは、社会的諸関係の中では日常茶飯事である。なぜこれらの問題に対する公的領域における公的判断が、プライベートな領域でわれわれが日々直面しているものよりも、より重大なものなのだろうか。もしかするとそうかもしれないし、優先主義の観点からそれに対処するためのパターナリスティックな政策が擁護されうるかもしれない。だが、それも計算に依存する。ある種のケースでは、ある種のスティグマと侮辱を押し付けるような社会政策が、全体として見たときには最善であるかもしれない。優先主義的正義の基準によって見積もって、そうしたコストを相殺するような利益によって上回るからである。
 侮辱とスティグマの問題は、いかなる適切な理論も対処しなければならない困難であり、単に厚生主義や運の平等主義による分配的正義概念に対する一つの反論なのではない。(16)

 ある社会の状態が、社会が提供する財に対する効果的アクセスを極めて不均等にしているような場合、我々がすべきことは、あるいはそもそも我々が何かをすべきかどうかは、様々な政策的オルタナティブがもたらすコストベネフィットに依存している。(18)

 テレビや新聞のニュース報道の複雑な表現が精神遅滞(mentaly retarded)や精神病の人々を排除しているとして、その場合、たしかにニュース等の重要な財が万人に提供されていないと言える。しかしそれを深刻な精神遅滞者でも理解できるように簡単にすることは、良い政策であるとは言えないだろう。というのも、それは、平均的な知能をもっている人にとって情報量を著しく低下させることになり、そのコストは莫大なものになるからである。(18)

 あなたがコストベネフィット評価に対する優先主義的基準を採用するにしても、あるいは別の規範を好むにしても、正しい社会政策を決定するためにはコストベネフィット計算は絶対に必要とされるだろう。(18)

 ここでシルバースの基本的直観に立ち戻ろう。シルバースの議論では、障害者に対する正義は基本的に、人種的マイノリティや女性やゲイなど支配集団による誤ったそして敵対的な処遇を受けている人々に対する正義のモデルに基づいて、市民権の問題であるとされている。それは、形式的な反差別規範、つまり「能力に開かた職務」という理念の一般化として解釈できる。だが、すでに見たように、このような形式的な機会平等論は不十分である。仕事が求職者の資格に従って配分される世界とは、黒人の人々は、彼らが生来の能力を、そこで要求されるようなスキルに転換する機会を完全に欠いている場合には貧困になるような世界である(18)。
 これはロールズの実質的な機会平等、つまり「公正な機会の平等」の考え方になるだろう。(19)だがそれは不完全である。何か別の規範が必要とされるだろう。もしそれがないならば、魅力的な職などが白人男性に占められるような世界においても、この実質的な機会平等は満たされるということになってしまうだろう。

 いずれにしても問題は、完全な能力主義の何がそんなに素晴らしいのか、だ。シルバースは、社会が本当に能力がない人を障害者として不当に処遇していると考えている。だが、もし逆に完全に能力主義的社会になるとしたら、そのほうがより厳しい事態になるのではないか。(19)  それは公正だろうか。思うに、能力主義的原理が忠誠を命ずるとして、それはこの原理が偶々より根本的な正義の価値を達成する効率的な手段を提供するからである。この点について、とくに障害に関する難問を考えるならば、優先主義のほうが優れた原理だろう。(19)

*作成:箱田徹ほか
UP:20031230 REV: 20100719,20110202
ADA(アメリカ障害者法) ◇障害学  ◇アイリス・ヤング集中講義01/29  ◇アイリス・ヤング集中講義  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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