『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』
Cohen, Gerald Allan 2000 If you're an Egalitarian, How Come you're So Rich?, Harvard University Press, 256p. ISBN: 0674002180
=渡辺 雅男・佐山 圭司 訳,こぶし書房,409p. ASIN: 4875592116 4830
Last Update:20100821
■Cohen, Gerald Allan 2000 If you're an Egalitarian, How Come you're So Rich?, Harvard University Press, 256p.(Hardcover: 256 pages June 3, 2000) ISBN: 0674002180 [amazon]=渡辺 雅男・佐山 圭司 訳,『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』,こぶし書房,409p. ASIN: 4875592116 4830 [amazon]/[kinokuniya] ※,
Cohen, Gerald Allan:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/cohen.htm
Editorial Reviews
From Beliefnet
G.A. Cohen was once a Marxist--or, at least, he "believed" inMarxism. When growing up in a working-class Jewish neighborhood in Montreal with a strong Communist Party presence, he was a fellow traveller. Later in life, he became an Oxford-trained analytic philosopher and took to translating Karl Marx's rich, dense writing into logical syllogisms and neat little diagrams. Now, in the same detached manner, Cohen has adopted Christianity. Despite his Jewish background and strongly felt Jewish identity, Cohen says he finds himself drawn more and more to the Christian view of equality, a belief that "a change in social ethos ... is necessary for producing equality." Christianity, he argues, offers a more powerful critique of capitalist society, and a better way of changing that society, than either radical or liberal political solutions. Yet as with his earlier work on Marx, Cohen seems to "believe" in Christianity without actually being a Christian; this makes this latest book seem as sterile and pointless as his earlier work, a dull exercise in analytic philosophy instead of a book with moral weight. (Beliefnet, June 2000)
内容(「BOOK」データベースより)
ロールズの『正義論』―格差原理擁護論と対決しネオ・リベラリズムの不平等容認イデオロギーを撃つ!アナリティカル・マルクス主義の第一人者からの挑戦状。
内容(「MARC」データベースより)
格差社会は「正義」か? ロールズの「正義論」-格差原理擁護論と対決し、ネオ・リベラリズムの不平等容認イデオロギーを撃つ、アナリティカル・マルクス主義の第一人者からの挑戦状。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
コーエン,ジェラルド・アラン
1941年生。1963年からユニヴァーシティー・オブ・カレッジ・ロンドン、1985年からはオックスフォード大学(政治・国際関係学部)に勤務するとともに、オール・ソールズ学寮の「チチェーリ社会・政治理論講座」教授。専門は政治理論、政治哲学
渡辺 雅男
1950年生。1979年一橋大学社会学研究科博士課程単位取得。一橋大学社会学研究科教授、社会学博士
佐山 圭司
1967年生。2001年ハレ=ヴィッテンベルク大学哲学研究科博士課程修了。北海道教育大学教授、哲学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■引用
「「あれこれの社会を支配する調整ルールとはなにか」という問題は社会学の問題である。これに対し、「調整ルールはどうあるべきか」という問題は哲学の問題あるいは政治理論の問題である」(9)
⇒ ロールズの議論は「正義を最適の調整ルールと同一視」している(9)。
だが、「社会を調整するのに適切なルールを生みだすいかなる手続も、その独自の働きや成功をもってしたところで正義の根本原理と同一視することはできない」(11)
◇第八講
「人々の利己心の程度が平等と正義の実現見込みに影響をおよぼすとするならば、それは部分的には――これは今も私の考えなのだが――正義が、人々の行為の枠組みとなる国家立法的な構造の問題であるだけでなく、彼らがこの構造の内部で選択する行為の問題、つまり日々の生活における個人的選択の問題でもあるからである。私は最近のおなじみのスローガンが言うように、個人的なことは政治的であると考えるようになった」(222)
「上記のスローガンは、フェミニストが広く用いたものである。しかしもっと重要なのは、私がこのスローガンを使って定式化しようとした理念、そして先に解明しようと試みた理念が、それ自体フェミニスト的な理念だということである」(223)
「フェミニストによる批判の実態とは、次のようなものである。すなわち、標準的なリベラルの正義論、とくにロールズの正義論は、家族(その法的構造は何ら性差別を示していないこともある)の内部での不正な分業と不正な権力関係を不当にも無視している、と。これが、政治的視点から見た、フェミニストによる批判のポイントである。しかし、フェミニストによる批判の(多くの場合、暗黙の裡でしかない)形式とは、そのジェンダー中心の内容を捨象したところから得られるもので、次のようなものである。すなわち、法によって規制されない選択は正義の第一次的な範囲内に収ま223>224る。これが、理論的視点から見た、フェミニスト的批判の要諦である。」(223-224)
フェミニストは、「ロールズはそのさまざまな著作を通じ、家族が基本構造に属するか否か、正義の諸原理が適用される場であるか否かという問題について、終始動揺していた」(223)ことに気づいていた。
⇒ これに対して、スーザン・オーキンは、「基本構造に家族を含めれば簡単に解決できる」と述べる。だが、「彼女はこの点に関して間違っている」(223)。
「ロールズは、分配的正義の諸原理が適用されるのは基本構造に対してだけだという彼の主張を放棄しないかぎり、社会の基本構造に家族を含めることができないのである。オーキンがロールズは家族関係を基本構造に含めることができるだろうと想定するとき、彼女はフェミニスト的ロールズ批判の形式を把握できていないことを示している。」(224)
◇格差原理批判
・「格差原理は通常、たとえばロールズによっては、物質的インセンティヴの仕掛けを中心に置く不平等賛成論の承認であると考えられている。この理念は、次のようなものである。すなわち、才能に恵まれた人は通常よりも高い賃金を支払われたとき、そしてそのときだけ、そうでないときよりも多く生産しようとするであろう。そして、その場合には彼らが生産する余剰のうちのいくらかが最も悪い状態にある人に充当されるであろう、と」(226)
・「この説は、市場経済において高収入を得ているような、よい状態にある人々が行う選択行動に注目している。彼らは報酬のよしあしに従って、忙しく働くか楽に働くか、あの職にするかこの職にするか、あの雇用主にするかこの雇用主にするか、選択することができる」(227)
⇒ 「彼らについてあてはまるのは、高収入を得ることができ、その収入の高さにきっかり応じて自分たちの生産性を変化させることができるという幸運な境遇に彼らが置かれている、ということだけである」(227)
「才能に恵まれた人々は、自分から格差原理を肯定するかしないか、どちらかである。つまり、もし悪い境遇にある人々の状態を向上させるのに不要なら、この不平等は不正だと自分から考えるか、それとも、格差原理が正義の命ずるところだとは関げないか、どちらかである。もし正義の命ずるところであると考えないならば、そのとき彼らの社会はしかるべきロールズ的意味において正当な社会ではないということになる。というのも、ロールズによれば、社会はその構成員が自ら正しい正義の諸原理を承認し、それを支持するときにのみ正当だからである」(229)
「彼らは格差原理による審判の場で、自己を正当化するために、最も悪い境遇にある人の状態を向上させるために自分たちが高い報酬を得ることが必要だと主張することはできないはずだ」(231)
「というのも、標準的なケースを見てみれば分かることだが、莫大な報酬をもらえば生産的に働くが、並みの報酬ではそれと同じだけ働くのをしぶるのが彼らなのであり、その結果、才能に恵まれない人々はそうでなければ得ていたはずの報酬よりも少ない報酬しか得られないようになってしまうのである。まさに、高額の報酬を必然たらしめているのは、彼ら自身に他ならないからである。」(231)
「格差原理を受容し実行に移すことがなにを意味するかについてのこの結論は、次のことを含意する。すなわち、ある社会の正義は、その立法構造の関数、つまり法的に命令的なルールの関数でしかないのではなくて、そのルールの枠組みのなかで人々が行う選択の関数でもある。」(231)
「正義に突き動かされた市民が国家政策の承認を通して、利己的な経済的主体だと自ら宣言する自分たち(の一部)を相手に、租税ゲームに参加するという、格差原理の実行に関する二重構造モデルは、市民は格差原理に込められた正義の基準に自発的に従うという、正当な社会の(堅実な)ロールズ的成立要件にそぐわない。それゆえ、われわれとしては次のように結論できるだろう。すなわち、格差原理の観点からみて正当な社会は、正当な強制的ルールだけでなく、個人の選択に浸透する正義のエートスをも必要とする。」(232)
■言及
◇立岩 真也 2006/12/** 「二〇〇六年の収穫」,『週刊読書人』
◇藤岡 大助 2007 「リベラルな分配的正義構想に対するG.A.コーエンの問題提起について」『法哲学年報(2007)』日本法哲学会編
「分配的正義が適用されるのは社会の制度的枠組みに対してであり、その下で営まれる個々人の日常的行為にまで直接及ぶものではない」 …… ロールズやドウォーキンの「分離テーゼ(dualism)」(161)
「正義の実現見込みが人々の日常的行為選択からも影響を受ける限りは、日常的行為も正義の適用対象に含まれるべきである」 …… コーエンの「一元化テーゼ(monism)」(161)
「ドウォーキンにとって、普遍的な視点である平等な配慮は「主権者に不可欠の徳」であるけれども、「主権者に特殊な徳」なのである」(163)
「コーエンの批判からドウォーキンも免れ得ない」 …… 「理論が分配的正義を提示し、その実現(帰結)を真摯に求めるならば、理論は背景的前提として分離テーゼに依拠することはできず、一元化テーゼを採用しなければならない。もちろん、理論から帰結主義的側面を完全に放逐することが//できれば、一元化テーゼを採用せずとも済むかもしれない。しかし、分配的正義を標榜する以上、帰結的考慮を観世に排除することは難しい。また別の可能性として正義の実現見込みが日常的行為選択から影響を受けないことを論証するか、日常的行為選択から影響を受けないような形で正義構想を再構成すれば、つまり日常的行為選択と正義の実現度との影響関係を完全に遮断出来れば、分離テーゼを維持出来るかもしれない。しかし、前者はありそうにもないことであるし、後者は内容的に極めて貧しいものとなろう」(164)
「コーエンの主張を推し進めていけば、一元化テーゼは正義の実現見込みを梃として、人々に善行の原理を迫ることになる」(164)
「平等のエートスが平等の帰結に資するのかどうかは、あくまで経験的主題である。」
⇒ 「そうすると、正義に適った社会目的の帰結を最大化するために、政策当局は、何であれ役立つエートスを醸成せよ、ということになるはずである。余暇は時間の浪費であり、無償の労働こそが人間の本来的喜びであると、公的に喧伝すべきということにもなろう」(165)
⇒ 「この状況を政策当局の側からみれば、……有能な人が勤労より余暇を選択したとすれば、それは彼の弱さゆえであり、何ら正当化できるものではない。そうであるならば、社会は彼を弱さから救い、正義に適った選択である労働を実施させるために、強制労働を強いたとしても、そこに何らの不正義はないはずである」
⇒ 「コーエンの一元化テーゼへ向けた提言は、より洗練された、ソフトな全体主義の再演となってしまわないか」(166)
とはいえ、「コーエンが提起したのはリベラルな分配的正義構想の内在的矛盾であり、単に魅力がないという次元の議論ではない」(166)
⇒ 「これを乗り越える一つの方法は、分離テーゼのステータスを、議論の前提から結論へと変更することである。分離テーゼは、単に背景的議論枠組みとして設定されているのではなく、分配定式の実現見込みを犠牲にしたとしても、なおも尊重すべき価値へのコミットメントとして理解されなければならない」(166)
「分離テーゼを正義構想の一部として捉えれば、分離//テーゼは、正義構想が提示する分配定式に対する制約原理として機能することになる」(166-7)
UP:20061126 REV:20100821
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BOOK