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『コミュニティ――安全と自由の戦場』

Bauman, Zygmunt 2000 Community: Seeking Safety in an Insecure World, Polity Press.

=20080110 奥井智之訳『コミュニティ――安全と自由の戦場』,講談社,223p.


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■Bauman, Zygmunt 2000 Community: Seeking Safety in an Insecure World, Polity Press.
=20080110 奥井智之訳『コミュニティ――安全と自由の戦場』,講談社,223p. ISBN-10: 4480867171  ISBN-13: 978-4480867179  2730  [amazon]

■内容紹介(amazonより)
私たちが生きる世界で、コミュニティとは何なのだろう。かつての血縁や職域によるローカル・コミュニティは、近代の産業構造に取って代わられたが、いまや それも解体し、果てしない分解を経て、ゲートで鎖された高級住宅地とゲットーの二極化に向かっている。コミュニティは、文字通り監視カメラと壁と銃によっ て守られる空間になりつつある。
グローバル・エリートは社会からの逃走を図り、負け組が再浮上するための回路は切られ、持たざる者は置き去りにされる。この動きは、いまや「国」や「社 会」や「福祉」の意味を大きく変えようとしている。
こうした世界で「安全」と「安心」を求めるとき、代償として何らかの「自由」を支払うことは避けられない。しかし守られるのは誰の安全で、無視されるのは 誰の自由なのか。階層化が加速し、囲い込みと排除が進む世界で、安全と自由は幻なのか。
現代の社会学界を代表する理論家が、コミュニティの幻想と現実と課題を論じ、共同体の根幹を問う、必読の書。
 著者からのコメント
最近勤務先の入学試験の小論文で、「格差社会」への賛否が問われた。わたしは試験官の一人として、その答案を読む機会を得た。そして予想外に、賛成論が多 いことに驚いた。いや「驚いた」というのは、あまり正確ではない。驚いたのは半分のわたしであって、もう半分のわたしはそれを当然のことと思ったからであ る。
冷戦が終わり、新自由主義イデオロギーが「画一思考」と化して、15年以上がたつ。それは「規制緩和」の合唱の下で、自由化や民営化が押し進められてきた 時代である。そしてまた競争の成果として、「格差」が生み出されてきた時代である。今日の若者たちは端(はな)から、そのような時代のなかを生きてきたと いってよい。
若者たちがこぞって、「格差社会」に賛成するのは奇妙である。というのも実際には、皆が競争に勝ち残れるわけではないから。しかしかれらの立場は、もう少 し切羽詰まったものかもしれない。かれらはもう、社会的救済に期待を寄せていない。したがって元々、「格差社会」に賛成する以外の選択はないのかもしれな い。
わたしは今回、Z・バウマン著『コミュニティ』を翻訳し、刊行した。著者は目下82歳、原著の刊行時には75歳であった。というと読者の皆さんは、年寄り の説教臭い話を連想されるかもしれない。しかしそれは、大いなる誤解である。いったんかれの著作を繙(ひもと)けば、スピーディな論旨の展開に驚かれるは ずである。
本書の主題は一言でいえば、コミュニティの際限のない解体である(社会学では家族、地域、大学、会社、人類その他の、あらゆる集団をコミュニティの単位と 見る)。本書で著者は、個別化や階層化が加速し、社会が分断されつつある状況を描く。そこではコミュニティは、「失われた楽園」として夢想されるにすぎな い。
若者たちが今後、船出していく世界はいかなるものか。本書では人間は、グローバルズとローカルズに大別される。グローバルズとは「国際化」や「情報化」の 波に乗っている人々をいい、ローカルズとはそうでない人々をさす。はっきりしているのはグローバルズには、ほんの一握りの人々しかなれないということであ る。(訳者より)

■目次
序章 ようこそ、とらえどころのないコミュニティへ
第1章 タンタロスの苦悩
第2章 引き抜いて、植え付ける
第3章 撤退の時代―大転換第二段
第4章 成功者の離脱
第5章 コミュナリズムの二つの源泉
第6章 承認を受ける権利、再分配を受ける権利
第7章 他文化主義へ
第8章 はきだめ―ゲットー
第9章 多文化の共生か、人間性の共有か
終章 ケーキも食べればなくなる
原注
訳者あとがき
索引

■引用
 まず分割して統治せよdivide et imperaの原理がある。……いかなる時代の権力も、あちこちに散乱しているばらばらの不平不満が、互いに照合され濃縮されることに脅威を感じたときに はいつでも、好んでこの原理に訴えてきた。……数多のさまざまな圧政に、人々がそれぞれ別個のカテゴリーの被害者として苦しむようになりさえすれば、どう であろう。……種族間やコミュニティ間の敵意が過度に高まるなかで、反抗のエネルギーは消え失せ、たちまち使い果たされてしまうであろう。その際権力は、 高みにあって、公平な審判者、対立する要求を取り持つ平等の推進者、平和の守護者、救済者、大殺戮戦の各陣営への慈悲深い保護者の役割を担うのである。権 力は、戦争が不可避な状況をもたらす役割を果たしているのだが、都合のよいことに、それは見過されるか、忘れ去られる。リチャード・ローティは、旧来の分 割統治の戦略が今日も使用されることについて、「厚みのある記述」を行っている―「分割統治の目的は、アメリカ人の底辺の75パーセントと世界人口の95 パーセントを、民族的紛争や宗教的紛争に忙殺させておくことであろう。……もし、時々起こる短期間の血なまぐさい戦争も含めて、メディアが作り出す疑似イ ベントpseudo-eventが、貧しい者の心を自身の絶望からそらすことができれば、超大富豪にとって恐れるものは何もない。」(Rorty, Achieving Our Country, p88) (: 143)

 ローティの見解によれば、「左翼文化人」は、アメリカ社会に広がる文化的な他者性に対する加虐的な不寛容と戦うなかで功績をあげたにもかかわらず、公共 の議論から、すべての不公平と不公正の最も深い原因である物質的窮乏の問題を排除する、という罪を犯している。性習俗が、不寛容の非常に重要な足場の一つ として利用されたことは、疑いない。しかし問題は、もし、異なる習俗との出会いに際して礼儀や政治的に公正 political correctnessにばかり気をとられるならば、非人間性の根源をもっと深く掘り下げる機会がほとんど失われてしまう、ということである。そしてそれ 以上に大きな問題は、「左翼文化人」が差異を絶対化し、共存して生活を営む方法についての相対的な美点や欠点に関する議論のすべてを阻んでしまうことであ る。そこには、次の主張が隠されている。すべての差異はよいものであって、ただ違うという事実だけで保存する価値があるということ、そして、人間生活全般 の水準をより高く(そしておそらくは、よりよく)引き上げることができるように、現在の差異をなくそうとする議論は、どれほど真剣で誠実で丁寧なものので あっても、すべて禁じられるべきである、という主張である。(: 145)

 差異differenceへのこの新たな無関心indifferenceは、「文化的多元主義」の承認として理論化される。この理論によって形成され、 支持される政策こそが、「多文化主義multiculturalism」である。表向きは、広く門戸を開くという前提、コミュティが自己主張する権利への 配慮、コミュニティが選んだ(もしくは引き継いだ)アイデンティティの公的な承認が、多文化主義を導いている。しかし多文化主義は、本質的には保守的な力 として働いている。その影響によって、公的には認められそうもない不平等が、「文化的差異」―大切に育み、守るべきもの―に作り替えられてしまう。……こ の過程で見失われたものは何か。承認への努力は、持続的な再分配によって支えられていなければ実を結ばないということ、そして、コミュニティが文化的特殊 性について主張したところで、ますます不平等性を高める資源の配分のおかげで自分相応の「選択権」しかもたない人々にとっては何の足しにもならない、とい うことである。(: 147)

 コミュニティが、真に重要な戦場において、今日の原子化した社会の病理と真っ向から対決しようとするならば、思い起こすべき課題が二つある。それは、権 利上の個人の運命を事実上の個人の能力に作り替えるのに必要な資源の平等化と、個人的な無力や不幸に対する集団的な保証の構築の二つである。(204)

 もしコミュニティが、諸個人が構成する世界で存在しようとするならば、それは分かち合いと相互の配慮で織り上げられたコミュニティでしかありえない (し、またそうでなければならない)。それは、人を人たらしめる平等な権利や、そのような権利の上で人々が平等に行動しうることについて、間や責任を共有 するコミュニティである。(204-205)


UP:20080304 REV:
個別性/普遍性・親密圏/公共性死  ◇哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学  ◇BOOK
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