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『人体部品ビジネス――「臓器」商品化時代の現実』

粟屋 剛 19991110 講談社,260p.

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■粟屋 剛 19991110 『人体部品ビジネス――「臓器」商品化時代の現実』,講談社.260p. ISBN-10: 4062581698 ISBN-13: 978-4062581691 \1680 [amazon][kinokuniya] en, ss, be, bp, g01, d07d, c0201

■出版社/著者からの内容紹介
すでに事態はここまできている!
このレポートを前に、あなたはいったい何を考えるか。
心臓弁が6950ドル、アキレス腱は2500ドル。提供された人体組織を加工して急成長するアメリカ産業。刑務所や病院を舞台にしたフィリピン、インドの腎臓売買。いまや臓器が「商品」となり、脳死体は「医療資源」と化す。テクノロジーと資本主義の行き着く果てを見つめ、倫理を問う。

■内容(「BOOK」データベースより)
心臓弁が6950ドル、アキレス腱は2500ドル。提供された人体組織を加工して急成長するアメリカ産業。刑務所や病院を舞台にしたフィリピン、インドの腎臓売買。いまや臓器が「商品」となり、脳死体は「医療資源」と化す。テクノロジーと資本主義の行き着く果てを見つめ、倫理を問う。

■内容(「MARC」データベースより)
心臓弁が6950ドル、アキレス腱は2500ドル…。市場経済下においては人間の臓器でさえも、商品となる可能性がある。人体の利用とそこから派生する「人体の商品化」について、その目的や実態をまとめる。〈ソフトカバー〉

■著者紹介
1950年、山口県生まれ。九州大学理学部および法学部卒業。製薬会社勤務後、西南学院大学大学院博士課程修了。現在、徳山大学経済学部教授。専攻は医事法社会学。
共著に、『法律学フローチャート』『現代法学』(ともに法律文化社)、『操られる生と死』(小学館)、『いのちの未来・生命倫理』(法蔵館)、『生命倫理学講義』(日本評論社)などがある。


■目次

はじめに p7

第一部 人体利用・商品化の現実
序章 クライオライフ社訪問記 p13
第一章 医療資源・商品としての人体
 1 移植用人体部品 p28
 2 遺伝子治療とバイオ医薬品 p41
 3 ヒト組織・細胞――薬物試験と医学研究 p49
 4 いったいどこから手に入れるのか p53

第二章 囚人の臓器を買う神父――フィリピン臓器売買事情
 1 臓器売買はどこで、なぜ起きる p60
 2 刑務所がコーディネーター p63
 3 禁止する理由は何もない p73

第三章 募金で臓器を買う少年――インド臓器売買事情
 1 調査開始 p84
 2 売買ではなく謝礼だ!――デリー p88
 3 スモール・ビジネスの夢――ボンベイ p95
 4 「腎臓」村――マドラス p114
 5 混沌のなかで――カルカッタほか p127

 中間考察
第四章 人体利用・商品化の歴史と近未来
 1 骨笛とどくろ盃 p138
 2 人体実験 p143
 3 ゆきつく果て――首から下の脳死身体の移植 p146

第二部 人体利用・商品化の意味論
第五章 人体を資源・商品としてよいのか
 1 人は死んでもゴミにはなれない p160
 2 不可逆過程 p171
 3 歯止めはないのか――人体利用・商品化の法と倫理 p176

第六章 臓器売買はなぜ悪い
 1 根本的矛盾 p186
 2 七つの背景――臓器売買反対論 p191
 3 根強い賛成論 p200

おわりに p209
補論 p215
註 p231
あとがき p257


■引用

はじめに
(pp7-9)
 豚はイノシシのなれの果てである。豚は、人間が「品種改良」というテクノロジーによってイノシシを改良したものである。
 もともと豚もイノシシと同じく檸猛で、しばしば人を殺していた。そして中世ヨーロッパでは裁判にかけられて死刑になったりしていた。それを人間がさらに改良して、今のような従順で肉の部分の多い、食べられるためだけに生まれてくるような豚を作り上げた。
 現在出回っている果物や野菜は、ほとんどが数百年にわたる品種改良の結果である。たとえば、トマト。原産は南アメリカで、小粒で黄緑色をしていた。現在、品種改良の結果、赤く、甘く、大きくなった。
 過去、人間は動植物や自然環境を徹底的に改造、利用(ひいては商品化)してきた。いうまでもなく、その改造、利用の手段――強力な手段――はテクノロジーである。テクノロジーは広く欲望充足の手段である。かつて、テクノロジーの直接のターゲットは人間以外の自然環境や動植物だった。しかし、現在、人間そのものがそのターゲットになりつつある。
 人間は、自然環境や動植物の改造、利用で培ってきたテクノロジーを駆使して、人間そのものを改造、利用しようとしはじめている。すなわち、人間以外のものの改造、利用のノウハウが人間そのものに向けられはじめたのである。具体的にいえば、テクノロジー、とりわけ医療テクノロジーによって、人間とりわけ人体が、さまざまに改造、利用されはじめているのである。
 人体の改造と利用が進行するにつれて、人体の商品化も急速な勢いで進行してきている。ここで、人体の改造と利用のうちとくに人体の利用に着目すれば、それは、ほぼ人体の「資源化」を意味する(第一章で詳述)が、その人体の資源化とそれらの商品化の距離はあまりない。資源としての価値をもちはじめたものが商品としての価値をもちはじめるのはきわめて自然である。事の是非は別にして、事実として、人体全体が商品化の過程にある。
 ここには、「テクノロジー、とりわけ医療テクノロジーが人体を資源化し、市場経済がそれを商品化する」という構図が見られる。すでに指摘されているように、人間は、これまで自然(土地、天然資源など)や動植物を商品化し、さらには労働力――人体の機能――を商品化してきたが、今、人体構造そのものを商品化しはじめている。人間はあらゆるものを商品化してきた。人間そのものが商品だった時代すらある。そもそも、奴隷という人間は商品だった。
 市場経済下においては、基本的に、あらゆるものが商品化する可能性をもつ。残念ながらというべきか、当然にというべきか、人間――ヒト――の臓器や組織も例外ではない。
 本書は、以上のような基本認識から、人体の改造と利用のうち、とくに「人体の利用」について述べるものである。また、人体の利用から派生する現象である「人体の商品化」についても述べている(本書のタイトル、「人体部品ビジネス」はこの人体商品化に由来する)。
 具体的には、本書は、人体部品がどのような目的でどのように利用されているのか、また、それらはどれくらい商品となっているのか、などという点について述べている。さらには、本書は、人体商品化に関連して、これまでに私が行ってきた臓器売買の実態調査を紹介し、また、その是非論についても述べている。ほかに、人体利用および商品化に対する位置づけ、評価等についても述べている。当然、倫理的な問題点にも触れている。ただし、考察は十分であるとはいえない。それらのさらなる考察は今後の課題としたい。
 なお、そもそも、人体部品ビジネスといわず、臓器や組織の移植それ自体ひいては現代医療自体が巨大ビジネスの要素をもっているが、それらは本書の射程内には入らない。ほかに、人体特許ないし生命特許の問題も同様に、本書の射程内には入らないことをお断りしておく。

第一部人体利用・商品化の現実
序章 クライオライフ社訪問記
(p13)
 人のよさそうな宅配便のおじさんがにこにこしながら、骨壷より一回り大きめの箱(コンテナ)を届けてきた。その箱には黄色地に黒字で大きく、「こわれ物。急いで下さい。移植用ヒト組織」と書かれていた。中には、死体から採取された、そのままの(未加工の)心臓が入っている。一九九七年の夏、私が人体部品加工販売会社「クライオライフ」を訪ねた時のことである。
 クライオライフ社は、心臓弁や血管、軟骨、アキレス腱などを加工して販売(有償で提供)する会社である。私は心臓の場合など、死体から弁だけが取り出されて送られてくるとばかり思っていたので、少し驚いたことを覚えている。

第一章 医療資源・商品としての人体
(pp56-57)
 さて、ここで第一章の締め括りとして、人体部品の国際移動について簡単に述べておく。
 近時、人体部品は国際的に移動しはじめている。もちろん、理科の実験室に置いてある骨格標本などは以前から国際的に移動している。骨格標本の大半はインド産で、それらはヨーロッパ経由で日本に入ってきている。
 アメリカの血液(正確には、血漿)が、血漿分画製剤の製造の原料として日本に輸入されていることはよく知られている。血漿分画製剤そのものも輸入されている。アメリカから日本に移植用腎臓―いわゆるUS腎―が空輸されたこともある。また、前述のように、アメリカから研究用の臓器、組織、細胞、遺伝子が日本に輸入されている。薬物試験用の肝ミクロゾームなども同様である。さらには、最近、アメリカから移植用の心臓弁、血管、腱なども輸入されはじめている。これらはまさに、舶来インポートグッズである。ほかに、スリランカから角膜が日本に輸入されている。骨髄もアメリカから輸入(および輸出)されている。
 珍しいところでは、歯科インプラント練習用の死体生首の輸入がある。一九九八年、アメリカから二十個の生首が輸入され、ニュースとなった。
 ついでながら、臓器売買を含めて、外国での臓器移植は、US腎の輸入のように臓器そのものを単独でコンテナに入れて輸入するわけではないが、やはり、厳密にいえば、患者の体とともに移植された臓器が移動するわけであるから、臓器の国際移動にあたるといえる。
 人体部品の国際移動は当然、人体部品の商品化に、多かれ少なかれ、寄与している。さらにいえば、心臓や肝臓も、保存技術が開発されれば、組織(および腎臓)のように、コンテナで国際的に移動しはじめるであろう。もちろん、性能的に優れた人工臓器、動物臓器、再生臓器などが先に開発されれば話は別であるが。
 人体部品の国際移動についてのまとまった調査は、これまでのところない。現在、私の発案で国際プロジェクトを組んで調査をはじめたばかりである。アメリカ、カナダ、イギリス、ドイツ、フランス、フィリピン、中国、台湾、韓国など、世界約三十ヵ国から研究者、医師、法律家などが参加している。責任者はインド厚生省のR・R・キショール医師(世界医事法学会臓器移植国際委員会委員長)で、二〇〇二年に報告書をまとめる予定である。

第二章 囚人の臓器を買う神父――フィリピン臓器売買事情
(pp60-61)
 私はこれまで、フィリピン、インド、中国、香港、台湾、タイ、スリランカ、バングラデシュ、エジプト等で臓器売買の実態調査等を行ってきた。これらの調査のうち、第二章でフィリピンの事例を、第三章でインドの事例を紹介させていただくことにする。
 ここで、なぜインド、フィリピンなのか、という点について簡単に説明したい。臓器売買はこれらの国のみならず、前述した多くの国で行われている(いた)。しかし、それらの国のものは、全体数が少なく、いわば、「事件としての臓器売買」である。それに対して、インド、フィリピンにおけるそれは、全体数が多く、いわば、「日常としての臓器売買」である。それゆえ、これらの国を主たる調査の対象とした。
(pp81-82)
 前述のエリベルト・ミサ・ジュニア国家刑務局長も、「(受刑者による臓器売買が)非倫理的とは思わない。禁止する理由は何もない。腎臓を提供するかしないかは、受刑者自身が決めることだ」と述べた。そういえば、前述のアスピラス恩赦・仮出獄委員会事務局長も、「腎臓は個人のものだ」といっていた。
 一時、刑務所内に臓器売買禁止の通達を出したこともあるベン・ジョ・テソロ(Ven Jo Tesoro)元刑務所長も、禁止した理由について、「腎臓売買の斡旋で刑務所が不当な利益を得ているという悪評を打ち消すのが目的だった」と述べている。なお、彼はインテリで、モンテンルパ刑務所の歴史を一冊の本にまとめるといっていた。
 ここで、臓器売買を非倫理的と考えている人もいることを付け加えておこう。実際に臓器提供法の条文の作成にあたった下院保健委員会のマフェオ・ビバル(Mafeo Vibal)弁護士は、「個人的に、あなた自身はどう思うのか」という私の問いに、弱々しくではあるが、「臓器売買が倫理的であるとは思えない」と語った。
 前述したように、フィリピンの受刑者(男子)の多くは刑務所内で稼いだ乏しい収入で所外の妻子を養っている。フィリピン経済が長年に亘って停滞しているのは周知の事実である。刑務所の内も外も、日本の現実とはあまりにもかけ離れている。
 経済だけではなく、社会構造、法制度、民族の歴史、文化、国民性、宗教、慣習、モラルなど、数え上げればきりがないほど違いがある。臓器売買に対する評価が日本の場合と異なっていても不思議ではない。他国からの、高みに立った「倫理的」観点からのみの批判は差し控えるほうが賢明であると思われる。少なくとも、私は差し控える。もちろん、一般論として臓器売買の是非を論じることは可能であろうが。
 最後に、刑務所病院に備え付けられている提供希望者名簿に、調査当時、約四百五十人のドナー候補者(希望者)が登録されていたという事実を付け加えておこう。

第三章 募金で臓器を買う少年――インド臓器売買事情
(pp85-86)
 まず、腎臓の売買は、いわばビッグビジネスになっていた。統計資料はない(移植自体についてすらない)が、諸種の調査結果から推計して、数千例から数万例に達するものと思われる。数としては、フィリピンなどの比ではない。あくまで推測に過ぎないが、世界中の腎臓売買の七割以上をインドが占めるのではないかと思われる。
 インド国内でみれば、ボンベイおよびマドラスが圧倒的に多い。それにひきかえ、デリーおよびカルカッタはそれほど多くないようである。ボンベイには中東諸国から多くの患者が来ていた。また、マドラスは東および東南アジア諸国からの患者が多かった。もちろんインド人患者もいた。私の調査の範囲では外国人患者の方が圧倒的に多かった。腎臓の値段は、地域や個々のケースにもよるが、調査時点で、約三万ルピー(一ルピー=約四円)程度である。値段は徐々に上がりつつあった。ちなみに、腎臓代金も含めて、腎臓移植の総費用は約二〇万〜三〇万ルピー程度であった。その約七割は医師ないし医療機関に入る。
 臓器売買の形態は大きく三つに分けることができる。
 (a)ブローカーがすべてを取り仕切るブローカー主導型
 (b)ブローカーを通さず病院が直接ドナーおよび患者を集める病院主導型
 (c)ブローカーを通さず患者が直接、新聞広告などによってドナーを集める患者主導型
の三つである。調査では、腎臓の売買について、これらすべてが観察された。
(p88)
 デリーは、首都だけあって、街造りがゆったりしている。美しい名所、旧跡も多い。しかし、車の排気ガスがひどい。街中では至るところで空気が排気ガスによって灰色に着色されていて、前方が霞んで見える。しかし、タクシーの運転手など、これは霧だから心配いらないという。彼らは排気ガスに含まれる発ガン物質の危険性など知らないから強い。
 調査のために最初に訪れたのが一九九三年二月。最近では一九九九年一月と八月に訪れた。この間、デリーの大気汚染状況はほとんど改善されていない。友人のインド人弁護士(S.K.バルマ氏、後出)は、「政府は、人が多すぎるので早く死んでほしいと思っているので手を打たないのだ」と、冗談とも本気ともとれることをいっていた。
(pp101-102)
 N・D氏の担当医(腎臓内科医)はキルティ・ウパダヤヤ医師(男性、四十三歳)である。かなり太めの体をし、いわゆる牛乳瓶の底のような眼鏡をかけている。家族は妻と子ども一人。ボンベイ生まれでボンベイ大学医学部卒。アメリカのイェール大学に二年間の留学経験がある。また、アメリカで七年間の実務経験をもつ。エリートである。
 彼の病院内外での評判は高い。非常にまじめそうな印象を受ける。収入など答えにくい質問にも、口外しないという約束で答えてくれた。腎臓移植および腎臓売買に関する彼のコメントは次のようである。
 「我々の国は貧しい。腎不全で苦しむ多くの患者は透析を続ける以外、方法がない。それは毎年およそ六万ルピーかかる。もし患者家族に移植手術を受ける経済的ゆとりがあり、またそのつもりがあるなら、非血縁者からの有償の腎臓移植は患者本人を病苦から解放するだけでなく、同時に、ドナーとなる貧困者をも救うことになるだろう。政府は、現在のところ、腎不全で苦しむ患者もドナーとなる貧困者もどちらも救うことはできないのであるから、このような治療法(すなわち非血縁者からの有償の腎臓移植)は社会全体としてみればそれに利益を与えるものになる。政府はこのような治療法を禁止するのであれば、患者のために無料または低額の透析を用意すべきである。
 また、同時に、ドナーとなるような貧困者を救済する施策を用意すべきである。このような対策を取らないで禁止しても事態は悪化するばかりである。すなわち、需要と供給はそのままで、良心的で腕の良い医師は手を引き、二流三流の医師が闇で移植をすることになるだろう」
(pp131-133)
 さて、本章を閉じるにあたって、次のいくつかのことを付け加えておきたい。
 日本のみならずアメリカ、ヨーロッパの新聞、雑誌等でも、よく「中東の石油成金が金にあかせて貧しいインド人から臓器を買い漁っている」などという記事を見かけるが、実態は少し違う。
 そもそも、金にあかせて臓器を買い漁るという表現自体フェアではないが、その点はおくとして、中東からの移植患者は、少なくとも調査から知る限りでは、普通の人びとである。たとえば、前述のサー・ハルキシャン・ダース病院で出会った移植患者は、前述のレバノンのタクシー運転手、N・D氏やクウェートの陸軍兵士、H・N・A氏のほかには、サウジアラビアのレストラン従業員、同じくサウジアラビアの小学生や主婦などである。
 ドナーについていえば、もちろん移植患者に比べて相対的に貧しいことは確かだが、インドの最下層のクラスの人びとではない。それらの人びとは栄養状態が悪いことが多く、また、病気にかかっている場合もあり、仮に臓器を売りたくても売れないようである。臓器を売る(ことができる)のは、一応、粗末ではあるが家屋に住むクラスの人びとである。
 ほかに、ドナー志願者に対する、いわゆるインフォームド・コンセントも、少なくともドナー志願者が医師に会う段階では、一応なされているようである。とくに、病院主導型の臓器売買システムをとっている病院(マドラスのパンダライ医院およびウィリンドン病院)など、コーディネーターおよび医師によって懇切丁寧になされている。
 さらに付け加えると、移植患者は、とくにブローカー主導型や病院主導型の売買の場合など、手術費、診察費、病院代、薬代、腎臓代金等すべて一括して請求されるので、「腎臓を買った」という意識は薄いようである。
  私はこう思う
 ここで少し、私なりの感想を述べてみたい。
 原爆を持ちながらGNPが最低ランクの国、インド。戦争、テロ、人口爆発、宗教対立、貧困、伝染病、洪水、差別……、メニューは豊富である。この国を一言で形容するなら、「混沌」。
 臓器売買はインド社会においてどのように位置づけられるのだろうか。まさか整合的に位置づけられるとまではいえないだろうが……。臓器売買がインドで一種の社会問題になっていることは確かである。しかし、私の印象では、残念ながら、それはインド国民全体およびインド政府にとってそう大きい問題ではなさそうである。
 ところで、なぜあなたは臓器を売るのか、という問いと、なぜあなたはインドのそのような所でそのような境遇に生まれついたのか、という問いとの間の距離はどれくらいあるのだろうか。調査中、私がこの人たちと同じ境遇にいたら臓器を売っただろうか、と何度も考えた。自信をもってそういうことはしない、という結論には遂に至らなかった。
 また、私は、調査中、個々のドナー、レシピエント、医師らを倫理的に非難する気持ちをもったことは一度もなかった。ブローカーに対してでさえもそうである。果たして、「何か、誰か」が悪いのだろうか。もし何かが、誰かが悪いのなら、それは何なのか。誰なのか。ありきたりの、おざなりの答えだが、それはインドの政治、経済および社会構造そのものではないだろうか。

中間考察
第四章 人体利用・商品化の歴史と近未来
(pp138-139)
 人体の「伝統的」各種利用には四種類のものがある。
 @道具(用具)としての利用
 Aアートの原材料としての利用
 B医薬品製造用の利用
 Cその他の医療関連の利用
の四種類である。
(p152)
 臓器移植(ひいては広く、医療テクノロジーによる人体の改造と利用)を正当化する――してしまう――原理として三つのものがある。
 それは、生命功利主義、物的人体論および自己決定の原理の三つである。
(pp154-155)
 これら三つの原理によれば、脳死身体の各種利用は正当化されるだろうか。
 第一に、脳死身体の各種利用は医学全般を発展させ、それによって人類に多大の貢献をなすだろうから、それは、生命功利主義の観点からは当然に是認されるだろう。
 第二に、脳死身体の各種利用は、物的人体論からも、当然に是認されるだろう。
 第三に、脳死となったときにその身体を各種利用のために提供するか否かは提供者自身が決めることである、ということが保障されるならば、脳死身体の各種利用は、自己決定の原理からも是認されるだろう。
 このように、ここで述べた三つの原理からは、脳死身体の各種利用は容易に正当化されると思われる。その三つの原理は臓器移植の場合のみに妥当し、脳死身体の各種利用の場合には妥当しない、とする合理的根拠を見出すことは難しいと思われる。もし、合理的であるかどうかは別として、そのような根拠があるとするなら、それは、私たちの「現在の」倫理感情以外にはありえないだろう。

第二部 人体利用・商品化の意味論
第五章 人体を資源・商品としてよいのか
(pp165-167)
 以上、人体は「物」であるか否か、という点について、物理的、医学的、社会的、法的、の四つの観点から簡単に検討した。結論として、私は基本的に、人体は物――利用・交換可能な物――であるといわざるをえないと思う。私はこのことを、前述のように、「物的人体論」という用語で表している。「人間――少なくとも生きている人間――は物ではないが、人体は物である」。
 さらにいえば、後述するように、実のところ、人体は単なる物ではなく、表現は悪いかもしれないが、リサイクル可能な資源、ひいては商品――宝の山――になった(なってしまった)といえるだろう。
 さて、以上のように事実として人体が物であるとしても、だから物として扱ってよいとか、物として扱うべきであるとかいうことにはならない。人体が物であるという事実から、当然に人体を物として扱う「べき」であるというルールは引き出されない。もちろん、逆もいえない。その事実(現実)を追認することも批判することも、ともに可能である。いずれにしても、個別具体的な根拠、理由づけが必要である。なお、「物として扱う」という言葉が「粗末に扱う」ということを意味する場合があるが、その場合の答えは簡単であろう。ほとんどの人がNOというだろう。私ももちろん、NOという。
 では、人体を物として扱ってはならない、とする立場の根拠は何であろうか。それは、一言でいえば、「人間の尊厳」ということになると思う。人体を物として扱うことは「人体」の尊厳をけがすものであり、ひいては「人間」の尊厳をけがすものである、だから人体を物として扱ってはならない、というわけである(人体の徹底利用や商品化と「人間の尊厳」の関係について、第六章で述べている)。
 逆に、人体を物として扱ってもよい、とする立場の根拠は何であろうか。それは、一言でいえば、「功利主義的人体観」ということになると思う。この功利主義的人体観は「生命功利主義」の人体バージョンである。
 そもそも、なぜ、人体を物として扱ってよいのか、という問いが発せられるのであろうか。やはり、私は、功利主義的人体観、そしてその帰結――人体の徹底利用(有効利用)や商品化――に対する不安や危惧感が人びとの間にあるからだと思う。もちろん、私個人にもそのような感情がある。
 私は、人体を物として扱ってよいとすることに躊躇を覚える。多くの人はそうだろうと思う。しかし、素朴な倫理観に基づく感情のレベルを超えて論理的、合理的思考に徹するならば、アメリカ「人体部品」産業が供給(販売)する、死体から採取され加工された小さな心臓弁一つで一人の人間の命が救われるという事実はやはり重い、などと考えてしまう。逡巡は終わりそうにない……。
(p168)
 人はかつては、比喩的にいえば、死ねばゴミになった。死体は、尊厳をもつ(べき)ものであると同時に、ほどなく腐敗しはじめる、始末に困る物体でもあった。だからこそ我々は、死体を焼いたり埋めたりする。
 かつては、死体そのものに価値――少なくとも経済的、商品的価値――はなかった。しかし、今は違う。主として、医療資源としての価値――しかも莫大な価値――がある。それゆえ、「そのまま焼く(埋める)のはもったいない」という発想が出てくる。もったいないから臓器や組織を提供する。きわめて合理的、そして単純な発想である。人体が医療資源であることは、その是非は別として、事実(実態)の指摘として正しいと思われる。しかし、このような言い方は、一般に、あまり好まれない。
(p169)
 人体が医療資源であることを前提として、さらに、人体とりわけ臓器は公共の医療資源であるとする考え方がある。私はそれを、臓器「公共資源」説と呼んでいる。
 この公共資源説にはバリエーションがある。臓器を単に公共の医療資源であるとするもの、臓器は国家の医療資源(死体は国家の財産)であるとするもの、臓器は人類共通の医療資源(死体は人類の共同財産)であるとするもの、などである。
(pp174-175)
 人体の商品化には構造的な要因がある。医学・医療テクノロジーが発達し、移植医療用、医薬品製造用、薬物試験用、医学実験・研究用などの医学・医療用(医療関連用)の人体利用が推進され、さらにはそれらの人体利用のための社会的・経済的・法的条件が整備されることによって、人体利用のルーティン化が起こる。
 その結果、臓器、組織、細胞などの「物質」性、「部品」(パーツ)性、「財産」性が増大する。すなわち、移植医療等による人体利用が推進されればされるほど、人体は医療資源としての性格をもつようになり(人体の徹底利用)、その経済的価値や商品的価値が増して行く。すなわち、商品に近づいて行く。
 前述したように、そもそも、市場(資本主義)経済下においては、基本的に、あらゆるものが商品化する可能性をもつ。人間(ヒト)臓器や組織も例外ではありえない。テクノロジー、とりわけ医療テクノロジーが人体を資源化し、市場経済がそれを商品化する。すなわち、一言で言えば、市場経済とテクノロジーとりわけ医療テクノロジーが、直接的に、あるいは間接的に、人体(部品)に商品としての能力を付与した(する)のである。
 さらに付け加えると、人体の商品化は、「はじめに」で述べたように、以前は商品とはされていな<p175>かった自然(土地、天然資源など)、動植物、労働力(人体の機能)などが商品化されたことの延長線上に位置づけられる。このことは、アンドリュー・キンブレル氏がその著書『ヒューマンボディショップ』(「はじめに」註2参照)の中ですでに指摘している。
(pp180-181)
 以上では、「人体」の尊厳の語と「人間」の尊厳の語を並列させて用いてきた。ここで、それらの違いないし関係性をはっきりさせておこう。
 両者は同義ではない。そもそも、「人体の尊厳」という概念を措定することは可能だろうか。また、意味があるのだろうか。具体的に、人体という物体そのものにどれほどの尊厳が見出せるのだろうか。見出すべきなのだろうか。さらにいえば、心臓や髪の毛や皮膚そのものにどれほどの尊厳があるのだろうか。前述のように、少なくとも分離された人体部品(歯、毛髪、血液、精液等)や遺骨、死体などについては、たとえば日本の判例は、すでに、それらは物であるとしてその所有権を認めているではないか。
 しかしながら、そもそも基本的に、我々は今のところ、「人体」を離れたところで人間というものを考えることはできない。人類は誕生以来、肉体(身体)に規定されて生きてきた。これからも少なくとも当分の間はそうであろう。そうであるならば、「人間」の尊厳を担保するもの(手段)として「人体の尊厳」という概念を措定することはむしろ必要とされることであろうと思われる。
 さらに、私は、テクノロジー(および市場経済)による人体からのいわば収奪が世界的規模で広範に行われはじめている現在、「人体の尊厳」という概念を措定することは意味があることと思う。現に、フランスの生命倫理立法は「人体の尊重」を規定している。
 なお、人体(死体を含めて)を物として利用してはならないという価値観、身体観、倫理観(現実には、前述のように、人体は昔も今も物として利用されているが)は、「人体の尊厳」の論理的帰結であるといえる。
(p183)
 以上のように、現在進行中の、功利主義的人体観に基づく人体利用や商品化は、基本的に、「人体の尊厳」ひいては人間の尊厳――それがどれほどの価値であるかは別として――への挑戦、さらにはそれらを汚すことを意味すると考えられる。しかし、現実には、人体利用や商品化は急速な勢いで進行している。
 ここでは、人間の尊厳などという抽象的価値よりも臓器や組織を必要とする目の前の患者の救命や生活の質の改善が優先するという価値判断がすでに下されている。前述したように、確かに、アメリカ「人体部品」産業が供給(販売)する、死体から採取され加工された小さな心臓弁一つで一人の人間の命が救われるという事実は重い。
 しかし、我々は、少なくとも、経済学が環境コストをゼロと計算し、その結果、環境破壊が起きた(環境破壊の原因の一端となった)ように、医学や生命科学が「道徳コスト」をゼロと計算し、その結果、「道徳」破壊が起きつつある(「道徳」破壊の原因の一端となりつつある)ということを自覚しなければならないだろう。

第六章 臓器売買はなぜ悪い
(pp191-192)
 臓器売買はなぜいけないのだろうか。自分が自分の意思に基づいて自分の腎臓を売ってなぜ悪いのだろうか。腎臓病で死に瀕している人がなぜ腎臓を買ってはいけないのだろうか。そもそも、なぜ臓器売買が倫理や法律の問題となるのだろうか。なぜそれらは法律で禁止されなければならないのだろうか。少なくとも、臓器売買は、殺人が非倫理的であり法で禁止されるべきであることが自明であるほどには、自明ではない。
 では、問題点はどこにあるのだろうか。前述したように、臓器には医療資源としての経済的、財産的価値がある。そして、臓器は商品のように、あるいは商品そのものとして流通する潜在的能力をもっている。自己決定権に基づく臓器提供自由の原則はすでに確立している。しかしながら、それにもかかわらず、人体は物ではないからその一部(ないし全部)の取引は許されない、とする建て前としての近代的な価値観がある。ここに根本的なジレンマがある。
(pp205-207)
 以上、臓器売買に対する賛成論と反対論を紹介し、多少の検討を加えた。以下では私が思いつくことを述べてみたい。
 臓器売買は臓器調達システムの一つであるが、世界中で禁止されつつある。なぜ臓器売買は禁止されるのだろうか。
 通常、前述した反対論にみられるような倫理的理由があげられる。しかし、本当のところ、臓器売買禁止は少なくとも倫理的理由のみによっているのではないと思われる。私は、表面にあらわれていない動機があると思う。それは、いったん臓器に値段がつくと、希少資源である臓器は売り手市場で高騰する可能性が高く、移植医療の主導権が臓器の提供者に委ねられてしまい、大変なことになる、という判断があるからだと思う。これは倫理ではなく、政策ないし戦略である。この、「臓器に値段をつけない(金を払わない)」という原則は、マスコミの、「ニュース・ソースには金を払わない」という原則とよく似ている。
 現在、世界中で臓器調達システムの主流は善意無償提供システムである。しかしながら、この善意無償提供システムにも内在的な欠陥があるといえる。それは、移植医療の規模が増大するにつれて絶対的な臓器供給量が不足してくるということである。善意に頼るシステムであるがゆえにインセンティブが不足することが原因である。
 善意の人を説得、啓蒙、欺罔するのも限界がある。よく「移植は助け合い」といわれる。しかし、そもそも、「立場の互換性」のない社会の構成員間では助け合いなど成立しない。日本の移植関係者にいわせれば、日本人は助け合いの精神がたりないそうである。日本の状況はおくとして、たとえば、インドで、ドナー(正確には臓器売却者)となるような、最下層に近い貧困層の人びとが逆に移植を受けた、という話は聞いたことがない。彼らが移植に関わるとすれば、それは患者としてではなく常に提供(売却)者としてである。彼らに無償の臓器提供を呼びかけることは二重に彼らをだますことを意味しないだろうか。
 また、「臓器提供は愛の行為」ともいわれる。「無償の愛」の、言葉は悪いが、おねだりである。日本でも、先に述べた臓器「公共資源」説を積極的に肯定する医師が「愛の行為」を口にする場合もある。「愛の行為」と「医療資源」の距離はどれくらいあるのだろうか。
 なお、臓器提供者を増やしたいならば、日本のような社会では、「助け合い」や「愛の行為」をいうより、「あなたの息子の腎臓が私の体の中で生き続ける」などというアニミズム的思考を強調する方が、より効果的であると思われる。
 ここで、本章のまとめとして、臓器売買に対する私なりの評価、価値判断をごく簡単に述べてみようと思う。私は、「移植は善、売買は悪」は一種のドグマ(固定観念)ではないかと思っている。臓器移植が無条件の善であるとは必ずしもいえないと思う。そして、臓器売買が無条件の悪であるともいえないのではなかろうか。

補論
(pp217-218)
 ここで、いわゆる移植カニバリズム論について少し触れておく。臓器移植の本質がカニバリズム(人肉食)であることは、フランスのジャック・アタリや日本では札幌大学の鷲田小彌太教授によって指摘されている。なお、臓器移植が本物のカニバリズムにつながることも、すでに鷲田教授によって指摘されている。
(pp219-220)
 人類は、形を変えて、すなわち、ソフィストケートされた形で、カニバリズムを再開する可能性がある。私は、それを「ネオ・カニバリズムNeo Cannibalism」と呼んでいる。ネオ・カニバリズムとは、未来社会における人肉の加工食品としての利用(および商品化)である。これまで見てきたように、現在すでに、基本的に、食糧としての利用以外、人体部品の利用は何でもOKという状況である。私は、現代における人体の徹底利用と商品化の延長線上にネオ・カニバリズムを見る。それは、仮に、実現するならば、人体徹底利用および商品化の、おそらくは終着駅である。
 私は、数年前に、半ばSF物語として(三分の一くらいはまじめだった)このネオ・カニバリズムについて書いた。現実には、臓器や組織の供給の問題は、やがて、人工臓器や動物臓器の開発あるいはそれらのハイブリッド臓器の開発、さらには再生臓器の開発などという形で解決されるであろう。また、食糧の問題は、バイオテクノロジーやEMなどのテクノロジーおよび国際規模の適切な食糧政策――たとえばFAO(国連食糧農業機関)などによる――によって解決されるだろう……と期待している。しかし、後述するように、臓器移植や脳死身体の各種利用、広く人体の徹底利用を正当化する三つの原理、すなわち生命功利主義、物的人体論および自己決定の原理は、明らかに、ネオ・カニバリズムまでその射程内に入れている、ということを忘れてはならないだろう。
(pp228-229)
 さて、「ネオ・カニバリズム」は現実のものではないが、ここで、前述した、臓器移植を正当化する三つの原理、すなわち、生命功利主義、物的人体論および自己決定の原理からそれがどのように評価されるかを考えてみよう。なお、これら三つの原理から脳死身体の各種利用が容易に正当化されてしまうことは、第四章ですでに述べた。
 まず第一に、ネオ・カニバリズムは、少なくとも食糧難の時代には、それを解決するであろうから、すなわち、多くの人びとの生存を可能にするであろうから、生命功利主義の観点からは是認されるであろう。
 第二に、ネオ・カニバリズムは、物的人体論からは、当然に是認されることになろう。
 第三に、死んだときにその人肉を他人の食用のために提供するか否かは提供者自身が決めることである、また、他人の人肉からできた加工食品を食べるか否かはその人自身が決めることである、ということが保障されるならば、自己決定の原理からも是認されることになろう。
 このように、前述の三つの原理からは、ネオ・カニバリズムは、脳死身体の各種利用の場合と同様、正当化されるであろう。その三つの原理は臓器移植(および脳死身体の各種利用)の場合のみに妥当し、ネオ・カニバリズムの場合には妥当しない、とする合理的根拠を見出すことは難しいと思われる。もしそのような根拠があるとするなら、それは、脳死身体の各種利用の場合と同様、我々の「現在」の倫理感情以外にはありえないであろう。
(p229)
 臓器移植の次に問題となる(なっている)ものが脳死身体の各種利用であり、その脳死身体の各種利用の次に問題になる可能性があるものが、ネオ・カニバリズムであった。
 たとえていえば、臓器移植、脳死身体の各種利用、カニバリズムは、鉄道における各駅である。臓器移植は始発駅であり、脳死身体の各種利用は途中駅である。そして、ネオ・カニバリズムは終着駅である。
 人類はすでに列車に乗り込み、その列車は動きはじめている。その列車の名を「生命功利主義」号という。問題は、ブレーキをかけるのか、かけるならそれはいつなのか、である。だが、その判断はきわめて難しい。
 単純にブレーキをかけるべきだとはいいきれないし、逆ももちろんいえない。ただ、ここで一ついえることは、もしブレーキをかけるならば、その意思――強力な意思――が必要であるということである。すなわち、人類の意思によってブレーキをかけないかぎり、列車は進み続けるということである。


■言及

粥川準二, 20020822, 「人体の資源化・商品化」市野川容孝 編『生命倫理とは何か』平凡社:187-195.
(p.189)
 また,人体は商品にもなりうる。
 「商品」をやはり『広辞苑』で引くと,「商売の品物。売買の目的物たる財貨。」とある。これもまた当てはまりそうである。
 この商品という言葉について,法学者の粟屋剛・岡山大学教授は次のように展開する。「商品」は,経済学では「市場で取引される財貨」などと定義されている。バーゲンセールなどで利潤なしに売られるものであっても商品と呼ばれることはある。しかし最初から利潤が見込まれずに生産・流通されるものまで商品と呼ぶことは難しいだろう,と(『人体部品ビジネス』講談社選書メチエ)。
 人体について考えてみよう。脳死者や生きている人から無償で提供されて,そのまま患者に移植される臓器は商品とは呼べないだろう。しかし,インドやフィリピンで報告されている臓器売買においては,臓器は立派な商品といってよい。
 しかし,微妙なものもある。たとえば角膜は「特定保険医療材料」になっており,医療機関は診療報酬を請求できる。患者は医療機関に「特定保険医療材料」代として金を払う(通常「手術代」に含まれる)。医療機関はアイバンクに「あっせん手数料」として金を払う。しかしアイバンクが角膜の提供者に金銭を払うことはない。粟屋は,角膜を商品と断定することはできないまでも,「疑似商品」と呼ぶことはできると述べている(前掲書)。


◆今井竜也, 200209, 「アメリカにおける移植用臓器マーケット論――Henry Hansmann, "Market for Human Organs"の紹介」『生命倫理』12(1):140-146.
(p144)
 ここまで紹介してきたハンスマンの主張に対し、評価できる点として、以下の2つが挙げられると思う。
 まず、健康保険加入に際し、死後の臓器提供に同意すれば保険料を割引するという案は、もしその割引率がかなり高いものであれば、従来、健康保険から締め出されてきた貧困層に、健康保険に入ることの出来る道を開くかもしれないという点である。大量の貧困者がこの割引システムで健康保険に加入することで臓器の提供数が増え、しかもそれが、貧困層への社会保障の整備にもなり得るという可能性もある(*9)。
 また、世界的に臓器売買が禁止されているとは言え、実際には臓器が非合法のマーケットに乗って動いている地域があり(*10)、このような非合法マーケットを確実に撲滅する有効な手立てもない。ならば、臓器売買を合法化し、ある程度の社会的統制を加えつつマーケットをオープンにすることで、それによって暴利を貪る人間を排除し、取引や価格を適正化することで、潜在的ドナーの参加を促し、臓器の提供を増やし得るという可能性も考えられるかもしれない。
(p146)
 (*10)これについては,粟屋剛『人体部品ビジネス』(講談社選書メチエ,1999年)が詳しい.


◆安藤泰至, 200209, 「臓器提供とはいかなる行為か?――その本当のコスト」『生命倫理』12(1):161-167.
(p162)
 さて、臓器移植は大きく分けると次の二つの考えによって正当化されてきた。一つは、臓器を社会共有の医療資源と見なしてその有効利用をはかるという考えである。いわば臓器のモノと見、人体に関して功利主義的な見方を適用したものと言える(1)(これをAとする)。もう一つは、ドナーの善意に基づく利他的行為として、それを「生かす」のを助けるという考え、すなわちドナーの自己決定を重視したものである(これをBとする)。AとBはお互いに相反するものではなく、実際には二つが合体した形で、移植医療が進められてきたと言える。ただ、欧米諸国においても、臓器移植論議においては、AよりもBの方が前面に出されてきたことは確かである(臓器調達に関して、いわゆるopting out方式をとっている国や州では、実質的にかなりAも前面に出されている)。
 しかし、これまでの日本の移植推進論においては、A(モノ=公共資源化)の側面を隠すために、過剰にBが強調される傾向が顕著に見られる。しかもそこでは、臓器移植を美化するために使われた「いのちの贈り物(2)」「いのちのリレー」といったコピーによって、こうしたドナーの善意の強調がある種の薄められたアニミズムへと接続している点に特徴がある。こうした傾向が、脳死移植論議において、日本の脳死反対論者、慎重論者をも巻き込んで展開されていることに我々は注意しなければならない。
(p166)
(1)粟屋(1999)は、臓器移植をはじめとする医療テクノロジーによる人体利用を正当化する原理として「生命功利主義」「物的人体論」「自己決定の原理」の三つをあげている。小論では、身体の「モノ化」という語を、近代の物心二元論や人間機械論とは違った次元で、「医療資源化」という意味で用いているため、前者二つを一体のものとして扱う。
(pp163-164)
 移植医療において臓器を(公然と)「モノ」と考えられるかどうかについては、文化差などさまざまに比較考察すべき点がある。しかし、実際に行われている移植医療、とりわけドナーとレシピエントが見知らぬ人同士であり、それぞれの治療にあたっている医療者が別個である脳死移植や心停止後移植においては、「モノ=医療資源」化は厳然たる事実である(少なくとも筆者は、日本で最初の脳死移植が行われた際に新聞に載った、それぞれの臓器がどこへ運ばれたかを示す地図によって、そのことを実感させられた)。
 問題は、それが単なる「臓器」のモノ化にとどまるのだろうかということにある。ここで、粟屋(1999)が挙げている、次の2つの移植のあり方を例としてこの問題を考えてみよう。一つは、現行の脳死移植のように、脳死者から臓器を取り出して保存し、それをレシピエントの所に運んで移植するというやり方。もう一つは、脳死者をそのまま移植施設に運んで、そこで臓器を取り出しレシピエントに移植するというやり方である(臓器に血流が途絶える時間がなくなり、臓器の生着率が良くなるため、こちらの方が効率性の点から望ましいと主張する人々がいる)。「これら二つの移植方法の間に倫理的な違いがあるのかどうか」というのがここでの問いである。
 この問いを投げかけられた人々が、前者に対するよりも後者に対して、より大きな抵抗を示すであろうことは容易に想像がつく。実際、筆者の勤める大学医学部の学生(約240人)に回答を求めたところ、大半の学生が「倫理的違い」を認め、前者は認められても、後者は認められないとした。その根拠としては、後者では「臓器だけでなく、ドナーの身体全体がモノ(「臓器の保管庫」)として扱われている感じがする」とか、「十分な看取りの時間や場所が得られないため、ドナーの家族にとって耐えられないだろう」としたものがほとんどであった。他方、両者の間に「倫理的違い億ない」と述べた少数の学生の中に、移植医療そのものの是非について懐疑的な考えを持つ者の以下のような考えも散見された。曰く、「どちらも人の臓器をできる限り利用してやろうという点で人の死をあてにする医療であることに変わりはない」「ほとんどの人は後者のような移植をおぞましいと感じるだろうが、前者と後者の間に本質的な違いはないと思う。むしろ、前者の持っているうさんくさい(非人道的な?) 側面を拡大して、グロテスクに見せると、後者のようになるだけの話ではないだろうか」といった意見である。これは、通常の脳死移植の場合でも、あるいは心停止後の移植の場合であっても(5)、患者の生命を救える可能性が断たれ、臓器移植のドナー候補として患者が見られるようになったある時点から、患者の身体が「臓器の保管庫」的な意味を帯びてしまう(臓器をできるだけ新鮮に保つような処置や、脳死の場合それを引き延ばすような処置によって)という、移植医療が必然的にもつ一面を鋭くえぐり出している。
 また、「違いがある」とした学生の中に、倫理的に後者の方が望ましいとした者が少数見られた。「身体ごとレシピエントのもとに運ばれることによって、臓器は単なるモノではなく、一人の人間の身体から取り出して使われるのだということを、辛くとも実感しながら手術を受けるべき」「ドナーとなる人の体から取り出されるのだということが身近に実感でき、よりありがたみが増すのではないか」といった理由からである。これは、「見知らぬ者同士の人格的接触を欠いたモノの贈与」という脳死移植のあり方を、お互いに人格的接触を持ち、ドナーとなる方の痛みや犠牲を十二分に認識しながら同じ手術室に横たわる近親者間の生体移植の方に近づけて考えようとしたもの、ととらえることもできる。こうした見方には、後に述べるような「モノ化に対する人格性による補償」という考え方の萌芽が見られること、また脳死者に対しては通常あまり強調されない(「どうせ助からないのだから」)ドナーの「犠牲」というテーマが現れていることに注意したい。
 以上のことを考えるだけでも、臓器移植において「モノ」化されるのが臓器だけではないこと、そして移植医療における身体のモノ化が、ある種の人間的な生の尊厳を損なう(と意識される)ことは明らかである。こうした、人間の生の尊厳への侵犯とは、具体的にはどのような局面において表れるのであろうか。


松原洋子, 200210, 「生物医学と社会」《科学技術社会論研究》(特集 「科学技術と社会」を考える――「科学技術と社会」の諸相 環境/情報/エネルギー/生命)
 1997年の体細胞クローン羊の誕生、1998年のヒトES細胞の樹立、2000年のヒトゲノム概要版の発表は、21世紀の生物医学研究の新たな展開を象徴する事件であった。組織移植が必要な患者の細胞核をドナー提供の除核卵に移植してクローン胚を作成し、そこからES細胞をとりだし、培養して拒絶反応がおこらない移植用組織を作れる可能性が出てきたのである。遺伝子研究・遺伝子工学、細胞・組織・臓器の培養および移植技術、生殖技術が相互に連関しながら発展するなかで、産・官・学の各セクターの科学的・技術的関心が、研究情報資料および医療用素材としてのヒトの細胞、組織、臓器、胚、DNAなど様々な「ヒト由来資料」に集まっている(粟屋1999,Andrews and Nelkin2001,増井2002)。日本では人クローン規制法(2001年)と各種ガイドラインで対応しようとしているが、体細胞クローン人間の産生は禁止していてもその他の胚(たとえば胚を分割したクローン胚や複数の人のキメラ胚)の産生を禁じていなかったり、倫理的問題のある様々な胚の作成が届け出制になっていたりして問題が多い(御輿 2001)。
 「ヒト由来資料」の入手や技術移転をめぐっては、権利や倫理をめぐる軋轢や経済格差にともなう人身売買にも似た人権侵害が国際的に生じる恐れがある。ユネスコの「ヒトゲノムと人権宣言」やヨーロッパ評議会の「人権と生物医学に関するヨーロッパ条約」(バイオエシックス条約)といった国際規約の政治的役割も考慮しつつ、対応を慎重に検討する必要があろう(米本2001)。


細田満和子, 200301, 「生体肝移植医療――不確実性と家族愛による擬制」『家族社会学研究』14(2):148-156.
(p149)
 このように臓器移植法とそれに関連する議論では、脳死体からの移植が対象になっており、生体からの移植についてはほとんど言及がされていない。しかし、臓器移植は脳死体からだけ行われるのではない。脳死体からの移植は、臓器移植法施行から2002年11月末までの時点で23例目に突入したばかりであるが(*2)、それに対して生体からの移植は1万件以上に上る(*3)。生体腎移植は1997年までに8,800件以上行われ、肝臓は臓器移植法が施行される前の1989年に、島根医科大学で国内第1例目が行われたのち、急速に実施数を伸ばし、2001年末までに2,000件行われている(*4)。日本ではむしろ、生体間の移植のほうが圧倒的に多く実施されているのである。生体肝移植では一部の疾患が原因の場合は健康保険が適用されており、もはや確立した治療法になっているという認識さえある(*5)。
  U.生体間の移植
 脳死からの臓器移植に比して生体間の移植に関する議論がこれほど少なく、通常医療になろうとしているのはどういうわけか(*6)。これは生体間の移植には法的にも倫理的にも社会文化的にも問題がないということなのであろうか。ところが実際はまったくそうではなく、ドナーとなった当事者に「問題だらけ」といわしめる状況にある(*7)。
(p154)
 (*6)ただし、生体間の移植についての議論がまったくなされていないわけでない。粟屋(1999)はフィリピンやインドにおける臓器の商品化という観点から、青野(1999b、2000)や岡上(2002)はドナーになることの自発性という観点から、武藤ら(2000)は過渡的な手段としてでも望まざるをえない当事者の観点から、生体間の移植について論じている。筆者もかつて脳死体と比べ生体からの移植の議論の少なさに言及したことがある(細田、2001)。また、当事者の団体であるトリオ・ジャパンからも発行物が出され(1993、1997)、今年になっては生体肝移植に関するノンフィクションの著作も上梓されている(後藤、2002)。未刊行だが清水(2002)がドナーへの調査研究を行っている。


◆加藤久雄, 200307, 「臓器不足と生命倫理 Lack of organ and bioethics」『生命倫理』13(1):36-43.
(p37)
 このワークショップのコーディネーターである粟屋剛教授は、その線密な実態調査に基づく、まさに驚愕すべき内容で埋まる著書『人体部品ビジネス―「臓器商品化時代の現実」』(講談社選書メチエ1999年60頁以下)の「第2章:囚人の臓器を買う神父―フィリピン臓器売買事情」では、「臓器売買発生の原因」として5つの条件を挙げて検討している。(1)需要:国内外に臓器を必要とする多数の患者が放置されていること、(2)供給:ドナーとなる多数の生活困窮者が海外にいること、(3)医療技術:移植技術と移植ができる医療設備が整備されていること、(4)禁止立法:法律による臓器売買が禁止されているが、いまだにその規定による摘発もなくその実効性はないこと、(5)社会的風土1臓器売買を容認する風土があること、の5点である(62頁)。ただし、(5)の社会的風土の評価は、買手の側の論理で賛同はできない。


◆倉持武, 200510, 「訳者あとがき」 Kass, Leon R, ed. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York: Dana Press(=200510, 倉持武 監訳『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』青木書店).
(pp392-394)
 市場の社会的深化のもう1つの側面が,身体および精神の市場化であり,資源化である。身体の資源化の代表が,移植医療,細胞と核移植クローン技術に基づく再生医療,SNIPsの解析に基づくテーラーメイド医療である。臓器移植医療は自由市場原理とは整合しないし,奇形腫やミトコンドリアDNAの問題を考えれば,再生医療も危うく,薬物に対する反応の違いなどの身体の個性が一塩基多型だけに還元できるとも思えないので,注文仕立て医療にもそんなに期待はかけられないと思うのだが,これらの研究にはともかく膨大な税金がつぎ込まれている。核融合研究や超伝導研究の二の舞とならないことを祈るばかりである。現時点で唯一成功している身体資源産業は,組織加工業だろう。これは,無償で提供された身体諸組織を加工,保存し,心臓弁は1つおよそ83万円,アキレス腱は1つおよそ30万円,血管は長さによっておよそ24〜36万円と定価をつけて販売する企業である。ちなみに,組織加工業の雄であるクライオライフ社は1998年に,『フォーブス』によって「アメリカにおける200の最優秀株式上場小企業」に選ばれ,同年の同社の総収入はおよそ72億円であった(F)。
 身体の市場化は精神の市場化に先行したが,両者はパラレルな関係にあるので,日本国内に目を向けながら,同時に簡単に見てゆこう。両者の市場化を支える思想は予防とその延長線上に位置づけられた増進または促進という観点である。身体の市場化は「健康増進法」によって法的根拠さえ与えられており,そのリーダーは,本人の自覚はともかく,生き方上手」の先生である。同法第2条によって,健康増進が「国民の責務」と規定され,国民は少なくとも健康診断から逃れられなくなった。結核対策から始まり,がん対策に応用された「早期発見,早期治療」の思想が,有効性の科学的検討さえ欠いたまま全身に拡大され,普通の生活を営んでいる者であっても,病気につながるサインはないかと鵜の目鷹の目で調べられることになったのである。これによって健診産業は繁盛が約束され,受診者の何割かは確実に「異常」が発見され,医療機関にまわされることになるので,医療機関も一定の収入が保証される。病気につながるサインの原因が加齢から「生活習慣」に変わったのだから,受診者の自己責任と自己負担は当然増えることになる。増加一方の監視カメラは国民の身体にも向けられて,国民は健康か病気か,ではなく,病気になりそうな徴候があるか健康が増進される方向にあるか,という観点から調べられることになるのだから,普通の状態も医療の対象になり,社会の医療化が一段と促進され,表向きのかけ声とは裏腹に,必然的に医療費総額も増加する。健診で採取された血液も先に挙げたSNIPs解析とデータベース作りのために,さまざまな理屈をつけて,利用されていくことになるだろう。

F粟屋剛『人体部品ビジネス』講談社,1999年。


柘植あづみ, 20061222, 「卵子・胚・胎児の資源化――何が起きようとしているのか」荻野美穂 編『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』岩波書店:159-184.
 世界で初めて体外受精によって子どもが生まれたのは一九七八年、日本では一九八三年である。不妊の人々の「福音」と表現されたこの出来事は不妊治療の新たな幕を開けた一方で、女性を研究材料の供給源として扱うことを正当化した。不妊治療技術の進展のためという名目ができたからである。もちろん、体外受精技術が成功する前にも、多くの卵子や精子が実験に用いられてきたことは想像に難くないが、一九七八年以降は、世界中において体外受精の研究や臨床応用のための実習がなされるようになったのである。
 人体由来の組織や臓器などを医学や生命科学の研究材料、資源として用いるのは、決して稀なことではない(たとえば、粟屋 一九九九、キンブレル 一九九五)。臓器や組織そのもの、あるいはそこから抽出されたさまざまな成分(ホルモンや酵素など)が医薬品の原料とされてきた。流産、死産、中絶手術後の死亡胎児の細胞や組織、臓器も例外ではなかった(玉井 二〇〇四)。
 一九八〇年代から特に注目されはじめたのが、人の胚、受精卵、卵子などである。これらの生殖細胞は、「受精の段階から人間である」とするカトリックの考え方に代表されるように、宗教的にも、また一般の意識でも、特別な存在として扱われてきた。しかしながら、世界ではじめて一九七八年に体外受精を用いて子どもを誕生させたエドワードとステプトーの「偉業」は、そのための研究や実習に多くの卵子と精子が実験材料として使われてきたことを明るみに出したのである。
(略)
 実は、徳島大学の医学部は、一九八二年に日本で最初の倫理委員会を設立しており、体外受精実施においても倫理的な手続きを踏むように整備していた(武藤ほか 二〇〇五、二八頁)。いわば、日本のIRB(施設内研究審査委員会、日本では倫理委員会と読んでいる)のさきがけである。そこで先の事件が起こっていたことを考えると、卵子の実験使用は医師や研究者の中では決してルール違反でも倫理に反することでもないとされていたことが窺える。現在では、すべての医学部・医科大学に倫理委員会組織が設置されており(前掲、二八頁)、この二〇年間に医師たちの意識も変化した。治療や研究における手続きも整備されてきた。
 しかしながら、卵巣以外の臓器の無断採取事件も少なくない。粟屋によると、「人体の資源化・商品化現象と呼応するように、各国において、さまざまな、臓器の組織の無断採取事件が起きている」(粟屋 二〇〇二、一〇一頁)という。一方で、バイオエシックスという学問・社会運動領域が広まり、日本でも一九八〇年代になって「患者の権利」という概念が紹介・導入され、次第に普及してきた。そのために、手術前の本人への説明が定着し、また、切除した臓器やそれに含まれる卵子などを研究に使用する際のインフォームド・コンセント(またはインフォームド・チョイス)に関するシステムが整備され、当該施設の研究倫理委員会も機能するようになってきた。しかし、臓器や組織そのものを利用するだけではなく、その遺伝情報までが材料や資源、商品となる時代になり、研究者や医師の良心に頼るだけでは「無断採取事件」が繰り返される可能性があるといわざるをえない。

粟屋剛、一九九九年『人体部品ビジネス ― 「臓器」商品化時代の現実』講談社。
粟屋剛、二〇〇二年「人体資源化・商品化と現代的人体所有権」『アソシエ』九号、お茶の水書房、一〇一―一一二頁。


上田紀行, 20070920, 「心のエンハンスメント」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』新曜社:90-114.
(p92)
 エンハンスメントは自然の時間の流れのなかで起きているときはあまり不気味なものとは思われない。そして、本人の主体的な体験として連続性があるときは問題がないように感じられる。
 ところが、何ものか外側のものが瞬時に「注入」されたとなると、一気に不気味になってくる。ある集会で何らかの「心」が劇的に注入された、となるとわれわれは「洗脳」を疑い、それが連続した本人の主体的体験ではなく、人為的に断絶された人工的かつ不自然な体験であるかのように感知されるのである。
 その「外部から瞬時に注入」という点は、身体的「人間改造」における「臓器移植」の不気味さにも通じるものがあろう。
 さて、そうした不気味さ、不自然さを増長するものとして、それらの「人間改造」のビジネス化がある。例えば粟屋剛の『人体部品ビジネス――「臓器」商品化時代の現実』を見れば、人体の各パーツを部品として売り物にするビジネスが、かなり不気味なものであることを見て取ることができる。


◆奥野克巳・森口岳, 20071010, 「グローバル化する近代医療――医療は帝国的権力か?」池田光穂・奥野克己 編『医療人類学のレッスン――病をめぐる文化を探る』学陽書房:125-146.
(p142)
 身体のパーツをめぐる売買という、生命の市場化は、近代医療のグローバル化の問題から切り離すことはできない。臓器を、それが元来所有されている人間の身体から切り離し、特殊な技術で保管し、空路などを伝って世界各地へと送り届ける活動は、世界各地を結ぶ近代医療の知識と技術の共有や、臓器市場の情報ネットワークが存在しなければ成り立たない。
 また、臓器移植における「生命の略奪」は、第一世界諸国と第三世界諸国の経済格差の広がりとパラレルなものであるということができる。第三世界諸国のなかには、自発的に自らの臓器をブローカーに売り、報酬を得ようとする貧困者層の人びとが存在する[粟屋1999]。
 臓器移植をめぐるグローバルなネットワークの存在は、近代医療の技術と資本主義の発展によって、人間の身体の一部でさえも売買の対象になりうるという、極度に対象化された身体観をベースにしているのではないだろうか。わたしたちはここで、普遍化される「同一の身体」という近代医療のイデオロギーをみることができる【コラム1】。それはまた、帝国医療の新たなかたちであるともいうことができる。
  新興感染症と監視の強化
 個々にバラバラな身体を交換し合うという臨床医学の状況とは別に、すべての人びとの身体を一律の監視下に置くような公衆衛生の動きがある。


*作成:植村 要