『大江戸死体考――人斬り浅右衛門の時代』
氏家 幹人 19990921 平凡社新書,227p.
■氏家 幹人 19990921 『大江戸死体考――人斬り浅右衛門の時代』,平凡社新書,227p. ISBN-10:4582850162 ISBN-13:978-4582850161 \714 [amazon]/[kinokuniya] ※ c0134
■出版社/著者からの内容紹介
花のお江戸は屍あふれる町だった! 死体を使った刀剣試し斬り武芸者“人斬り浅右衛門”を軸に、水死体、生き胆、検死など、知られざる江戸のアンダーワールドを案内する。
■目次
プロローグ
第一章 屍都周遊
第二章 様斬(ためしぎり)
第三章 ヒトキリアサエモン
第四章 胆(きも)を取る話
第五章 仕置人稼業――浅右衛門の弟子たち
エピローグ――もっと闇を!
あとがき
付録 山田浅右衛門の代々
主な参考文献と史料
■引用
「現代の感覚では残酷そのものに思える試し斬りですが、すくなくとも江戸初期までの武士の世界では、それは至極まっとうな行為とみなされていました。>68>
いいえ、「まっとうな」どころか、試し斬りは多くの見物人(見学者と言ったほうが妥当かもしれません)を集め、人々の喝采を浴びることさえ珍しくありませんでした。たとえば随筆『異説まちまち』には、本多大内記という武士の、こんなエピソードが紹介されています」(pp.68-69)
「好んで試し斬りを行った武士の中には、それが半ば専業のようになった人もいました。『甲陽軍艦』に登場する今福浄閑もその一人。浄閑は若い頃から試し斬りめの名人え、ために武田の侍衆は、試し斬りの必要があると誰もが彼に頼んだということです」(p77)
「次第に高まる忌避の感情
戦国から江戸初期にかけて、武芸の錬磨と刀剣の品質検査のため、大名たちですら自ら行っていた試し斬り。それが次第に特定の「芸者」の手で行われるように変化した背景には、武芸の個別専門化という傾向もさることながら、やはり試し斬りに対する忌避の感情の深まりを指摘しなければならないでしょう」(p80)
「そもそも山田浅右衛門だけが将軍家の試し斬り(御様御用)を一手に引き受けるようになったのはなぜか。山田浅右衛門における特権獲得の道をふり返るとき、それは多くの競争相手を蹴落として得た栄光というより、ライバルたちが次第に姿を消していった結果に過ぎなかったことがわかります。浅右衛門は、勝ち残ったのではなく、生き残ったのです」(p96)
「類い稀な試し斬りの名手。山野勘十郎同様、鵜飼は試し斬りを兼ねて罪人の処刑役も果たしていたようで、元禄五年に御様御用を拝命してから九年間に実に千五百人の罪人を試し斬りしたとか」(p101)
「そして浅右衛門だけが残った
その後は、やはり山野流を学んだ根津河三郎兵衛、松本長太夫、倉持安左衛門そして山田浅右衛門が御様御用を努めています。(中略)>102>
享保五年五月二日の御用で切り手を務めたのは、戸田山城守(忠真。宇都宮城主)の家来(つまり陪臣)の倉持安左衛門と、浪人山田浅右衛門の二人。場所は伝馬町の牢屋敷で、同じ年、山田・倉持のコンビは六月二日と七月二十五日にも御様御用の切り手を務めています」(pp.102-103)
「元文元年(一七三六)九月二十七日、倉持安左衛門の死が幕府に届けられ、とうとう御様御用の切り手は山田浅右衛門だけになってしまいました。“そして一人になった”というわけです。同年十月十日、浅右衛門は、今の状態では自分が病気になった折に御用に差し支えるので、伜の源蔵にも御様御用の経験を積ませたいと伺い出、山田浅右衛門が“家の芸”として将軍家御様御用を独占する体制が確立したのです」(p104)
「死亡や老衰、そして試し斬りという仕事そのものに対する罪悪感(宗教的な負い目のようなもの)に促され強力なライバルが一人また一人と舞台を去っていった結果成立した人斬り(首斬り)浅右衛門の家――。だからこそ、この家に対するさまざまな怪談が編み出され、浅右衛門は穢多頭」弾左衛門の手下であるといった誤解も生まれたのでしょう。
もちろん代々の浅右衛門たちも、罪人の首を斬ったり処刑後の屍を切り刻むような家業にある種の“穢れ”を感じないではいられませんでした。
宝永元年(一七〇四)四月、神君家康公の命日に執り行われる日光祭礼に当たって、幕府はあらかじめ忌み慎むべき“穢れ”の数々を挙げていますが(『文露叢』)、そこでも「ためし候刀脇差」(試し斬りをした刀や脇差)は三十日を経なければ“穢れ”が付着しているので神事の場には携帯できないと明記されていました。試し斬りした刀剣に対してすらこうなのですから、ましてや職業的な切り手ともなれば、その“穢れ”も少なからず忌まれたはず。
多くの人の処刑を手掛け、死体を試し斬りした負い目を払拭するべく、浅右衛門も、山野勘十郎や鵜飼十郎右衛門同様、死人の供養や慈悲を心掛けました」(p.105)
「試し斬り、人斬りという拭いがたい穢れの印象とは裏腹に、浅右衛門は刀剣界におけるゆるぎない名士として、刀剣を愛する多くの人々に尊重されていたのでした。
穢れと誉れ――。山田浅右衛門にまつわるこの二律背反性が、武士道という言葉で飾られたとはいえ、権力がつまるところ人殺しを本領とする武士によって掌握されていた時代に由来にしていたことは、いうまでもありません」(p115)
「「浪人」という曖昧な身分で将軍家の御様御用を代々務めるのみならず、依頼があれば大名家にも人斬りの人材派遣をしていた山田浅(朝)右衛門、しかも彼の弟子たちは、それぞれ異なる藩に所属していたのです」(p211)
■書評・紹介
■言及
*作成:櫻井 悟史