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『哲学への回帰――資本主義の新しい精神を求めて』

稲盛 和夫・梅原 猛 19990615 PHP研究所,215p.

last update:20140210

稲盛 和夫・梅原 猛 19990615 『哲学への回帰――資本主義の新しい精神を求めて』,PHP研究所,215p. ISBN-10:4569572820  ISBN-13:978-4569572826 \476+税 [amazon][kinokuniya]  ※


■内容

内容紹介
「豊かな社会」に身をおきながら、豊かさを実感できずにいる日本人。バブル景気に浮かれ、倫理と道徳を忘れて暴走した結果、貧相な精神構造に陥ってしまった日本人。閉塞した現状を打破し、新たな行動指針を見いだすために、われわれは「哲学なき資本主義」と訣別しなければならない―資本主義のあるべき姿から心の教育の問題まで、日本と日本人が抱える課題を縦横無尽に語りつくした白熱の対論。

■目次

序章 混迷のなかでわれわれは何をすべきか――稲盛和夫
第一章 資本主義の倫理と独立自尊の精神――稲盛 和夫・梅原 猛
第二章 共存の哲学と循環の思想――稲盛 和夫・梅原 猛
第三章 過去に学び、未来を考える――稲盛 和夫・梅原 猛
第四章 心の教育を目指して――稲盛 和夫・梅原 猛
終章 「行き詰まりの時代」を開く方法――梅原 猛

■引用

◆利害得失だけの価値観で日本の社会が動いていることが行政改革も阻み、規制緩和も阻み、地方分権も阻む大きな原因ともいえるでしょう。既得権益に慣れた人たちは改革に対し常に絶対反対を唱えます。…すべてが利己的な行為であり、他人のために犠牲になろうというような「利他の精神」、あるいは「愛」といったものがまったくないのです。/行革や規制緩和、地方分権だけでなく、政治の混迷、バブル現象やその崩壊が起こったこと、株価の低迷、金融不祥事、日米経済摩擦、国際的な問題等々、日本を取り巻く混迷は、非常に貧弱な倫理、哲学しか日本人がもちえなくなってしまったところから発しているのではないか、と私は思います。[1999:12-13]

◆現在の日本のこの世相も、今住んでいるわれわれ日本人の心がつくり出したものです。したがって、解決するためには心を研ぎ澄まし、プリミティブ(素朴)な倫理でいいから心を浄化する。美しい心を行動規範にし、判断基準にし、価値観にする人たちが出てくれば、この世相も変わるはずです。[1999:16-17]

◆努力して強くなったのはいいとしても、弱い者を思いやる心がなければ、人間としての魅力に欠ける。弱い者には手を貸し、たとえば困っている人がいたら自分のことは後回しにしてでもすぐに助けてあげる。そのような優しさが大切なのです。[1999:25]

◆真の自信とは、理屈を知っているかどうかで決まるようなものではありません。その人がもっている哲学、人生観、価値観といったものが根拠になって出てくる自信が、本当の意味での自信なのです。それは、形而上学的な世界、倫理、哲学などにおける普遍的な価値判断に基づく自信ということができると思います。そういう自信をもって行動する者に対して、人は敬意を表したり、尊敬するというような反応を示すものです。逆に、普遍的な価値判断のない人の自信は、傲慢さが鼻につくだけのものでしかありません。/残念なことに、日本には本当の自信が欠落してしまっています。だから利があるかどうか、論理的に矛盾がないか、というような知的働きのみに依存せざるを得ず、傲岸不遜のイメージをぬぐえないのです。[1999:26]

◆イギリスの貴族にはノーブレス・オブリッジ(高貴な身分に伴う徳義上の義務)というものがあります。高い地位を得て、大衆から信頼と尊敬を受けるのは、貴族が卑怯な振る舞いをせず、戦闘などの非常の場にあっては自己犠牲を払う勇気があり、命を落とすことも厭わない覚悟をもっているからだ、という考え方です。…/元来、高い地位にある者は尊敬されるに値する倫理観、哲学、価値観というようなものをもっていなければならなかったはずです。ところが、そういった形而上学的な価値観を見失って、非常に俗っぽい判断基準しかもっていない人が、日本の中心に位置してしまっている。儲かるか儲からないか、理屈に合うか合わないかという程度の判断基準しかもってないものだから、どこへ出てもその人の発言が周囲の人に「なるほど」とうなずかれることもなく、「立派なことをおっしゃる」とみんながついてくることもない。そして、右顧左眄して、とにかく大勢についていかなければならないという方針でやらざるを得ないのです。[1999:26-27]

◆もともとの資本主義は世の中の役に立つことを目指して行われていたのですから、まずは「その原点に帰りましょう」と考えればいい。そして、それをベースにして、初期の頃よりもっと優れた「新しい資本主義」をつくっていくよう、努力すべきでしょう。やはり、元に帰っただけでは進歩がありませんから、頽廃している現在は原点へ帰って一度基本の形を復元させ、そこから「新しい資本主義」へと進んでいく。そうすると、いい知恵がわいてくる可能性は非常に高いと思います。そのためには、資本主義の担い手である産業人、企業人たちに、もっと広大な哲学をもってほしい。そういう力がこれからは重要になってくるという感じがしています。[1999:37-38]

◆現在の日本というのは、まさに独立自尊を失ったところで生きていると思います。言葉が悪いかもしれませんが、「長いものには巻かれろ」という処世術が主流になっている。言い方をかえれば、「和を貴ぶ」という理念のもとに、大勢の意見に従うのが正しいとされている。そこで独立自尊などというと、「異端」になってしまう。何か自分の意見をいうときでも、このくらいは許せるという程度にとどめ、あとはすぐに妥協する。…/しかし、民主主義の社会というのは、あくまでも自分の説を主張しなければなりません。もちろん、多勢に無勢であれば多勢に従いますが、自分の説は曲げなくていい…というのが本当のあり方です。[1999:55-56]

◆…たとえばアジア諸国における環境汚染…に対して、日本に分析機器が数多くあるわけです。それを各国に配備をし、測定すればずいぶんとデータの集積ができると思います。日本の能力とお金で測定するけれども、集めたデータは全部そこの国に提供し、可能ならば処方箋まで書く。そのくらいのことにそれほどお金がかかるわけではありませんから、国家でやるべきだと私は思います。これも人助けの一つであり、近隣友好のためにも重要な政策ではないでしょうか。[1999:101]

◆発展途上国はある程度、発展していいと思います。その代わり、われわれ先進諸国は自ら進んで犠牲にならなければいけません。その結果、現在の生活レベルが落ちることはかなりの確率で推測できます。…「そこまで厳しい自己犠牲を伴う共生という概念に、皆さんは耐えられますか」という問いかけを、われわれは自らに対してやっておく必要があるでしょう。[1999:103]

◆そこで、私が改めて考えたことは、「善きことを思う」「善きことをする」ところに、天・地が味方をするということです。…/それから、私がよく社員にいう言葉に。「現在は過去の努力の結果。将来はこれからの努力で」というものがあります。個人のレベルで考えれば、これまでやってきた努力で明日を切り開けるわけではなく、これから行う努力で明日は築かれていくという考え方です。/つまり、昨日までの努力の成果にあぐらをかいていてはいけないということですが、この言葉をもっと大きな人類という視点から考えますと、今日のわれわれは過去の歴史の上に立っていて、未来はわれわれがこれから何を行うかで決まっていくと理解することができるでしょう。そういう意味では、われわれは過去を無視したり、過去に学ぶ気持ちを失ってはいけないし、同時に未来への希望と努力を忘れてもいけない。現在を生きるわれわれにとって、過去と未来はいずれも欠くべからざる柱なのだと思います。[1999:150-151]

◆…「心の教育」に真剣に取り組むことを望みます。…宗教、さらには哲学や倫理学、そして心理学といったものがすべて「心の教育」に入ります。日本の英知を絞って、そういうカリキュラムを考えるときがきているのではないでしょうか。[1999:173-174]

◆「心の教育」がきちんと行われていたなら、共生のコンセプトも循環のコンセプトも、実践的なレベルで理解できると思います。そして、みんなが「共生と循環」の哲学に共鳴し、ある程度の犠牲を払ってでも、「やるべきことをやりましょう」となるだろうけれども、心の教育がなされてこなかったものだから、多くの場合、エゴだけで環境問題を考えています。エゴだけですと、行き着く先はエゴとエゴのぶつかり合いとなる。すると、共生するどころか循環という考え方でさえ蹴飛ばしてしまいます。そこに環境問題が混乱して明るい展望が開けないでいる一因があると思います。/共生の哲学を考えていくと「心」の探求につながると思います。社会は相手があって成り立つのですから、社会を構成する人間同士が自分の自我を極大化したのでは生きられません。相手に対する思いやりが必要です。それは人間だけではなく、他の生きとし生ける動物・植物にまで、極端にいうと、無生物に対してまで、そういう優しさと思いやりがいる。この地球上で生きていくためには、あらゆるものと共生しなければいけません。[1999:179-180]

◆一九八五年に当時の額で一〇〇万ドルを各大学に寄付したら、各学校とも京セラ教授職を置き、助手を一人、秘書も置いて、研究するような体制をとりました。面白いことに、ある大学では元金の一〇〇万ドルを一七〇万ドルに増やしています。つまり、企業が出した資金を使い尽くすのではなく、優秀な人を任命して財務運用をやらせ、投資・運用の利益で教授を養い、研究をさせているのです。教授職だけでなく、共同研究ももちろんそうです。…なかなかいいシステムだと思います。そういうところですから、収支決算も毎年送ってきます。寄付した側にすれば、出し甲斐がある、という感じがいたします。…私はアメリカ型のほうがいいと思います。…寄付されたら、それを運用する。それで出た利益を使っていけば、元金は減らずに長い間、講座なりプロジェクトなりが続きますし、うまくすれば元金が増えてもっと多くの研究ができるようになるかもしれません。[1999:185-186]

◆日本の教育で足りない教育が三つあると私は考えています。一番目は創造的な教育です。…自分で考えて、自分で行動する人間を養うことはできていないのです。/二番目は環境教育です。…/環境教育はだいたい二重の教育です。一つは人間と自然との関係が素晴らしいものであり、人間と自然のつきあいを教える。もう一つは現代文明がいかに環境破壊を行ったかを教える必要があります。…/最後に、心の教育です。自分の利益だけではない「善い生き方」というものを、子どものときから教えていかないといけない。そして、真理とか善とか、あるいは美とかいうものがどんなに肝心なものかを教えてあげないとダメです。[1999:193-194]

■書評・紹介

■言及




*作成:片岡稔
UP:20131216 REV:20140204 0206 0210
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