『環境の豊かさをもとめて――理念と運動』
鬼頭秀一編 199905 昭和堂,315-4p.
■鬼頭秀一編 199905 『環境の豊かさをもとめて――理念と運動』,昭和堂,315-4p.ISBN-10: 4812299225 ISBN-13: 978-4812299227 [amazon] ee
■内容(「BOOK」データベースより)
かつては、勝利する環境運動は稀であった。運動にかかわる人びとは、自分の気持ちに正直になるよりも、新聞やテレビなどのメディアにいかにとりあげられ、その力を使っていかに有利に戦術的に展開するかということを考えなければならなかった。報道だけ見ていては、環境保護運動がいったい何を求めているのか、必ずしもよくわからないこともあったと思う。しかし、確実に時代は変わっている。いまこそ、わたしたちは何を求めているのか、わたしたちにとって環境の豊かさとは何か、わたしたちはいかに自然とかかわっていくべきなのか、そのようなことを真剣に問い、それを実現していくことが、ますます必要になってくるのではないだろうか。その一方で、わたしたちの日常的な暮らしは、食の問題を典型として、ますます、国際的な環境問題とかかわらざるをえないところにきている。グローバルに生きるということは、どういうことであろうか。「いま、ここ」のローカルな場面での、自然との、あるいは他の人たちとの関係のあり方を問いつつ、いま再び、グローバルとローカルの関係について考えていかなければならない。
(「MARC」データベースより)
環境問題は、人類が育んで来た文化が、自然のリズムから遊離してしまった事に起因していると言う視点のもとに、環境への理念、環境運動、環境に関する市民運動などについて報告・論考する。〈ソフトカバー〉
■目次
序章 「環境を守る」とはどういうことか――そして、だれがそれを担うのか…鬼頭秀一 4
環境の豊かさとは何だろうか?/自然には人間を離れた価値があるのだろうか?/環境を守ることの意味をさぐる/普遍的な視点とローカルな視点のなかで/環境運動に駆り立てる原動力とは何か?/環境運動の担い手はだれなのか?/「市民」とは何か?/新しい「市民」像を求めて/国際的場面のなかの地域と普遍/普遍的視点とローカルな視点の取り結ぶところ/わたしたちは次の世代に何を残していくのか?/ローカルな視点と普遍的視点の相互作用にむけて
第T部 理念
第1章 自然を保護することと人間を保護すること――「保全」と「保存」の四つの領域…森岡正博 30
保全の思想と保存の思想/人間をとるか自然をとるか/「保全」と「保存」再考――(一)/「保全」と「保存」再考――(二)/二項対立を解体するために
第2章 環境思想と行動原理――「グローバル」と「ローカル」…桑子敏夫 54
「グローバル」と「ローカル」の対比/「身体の配置」と「空間の履歴」から考える/なぜ日本で環境倫理が生まれないのか/慈円の思想から――(一)/慈円の思想から――(二)/日本の思想をどう再評価し、環境の理念を組み立てるべきか
第3章 ホーリスティックな世界観と民主的・市民的価値――ディープ・エコロジーとバイオリージョナリズムをめぐって…井上有一 76
エコロジーの思想を支えるもの/ディープ・エコロジー運動とは何か/「ラディカル」の意味/もうひとつのディープ・エコロジー/本質的なつながりと多様性の肯定/バイオリージョナリズム/エコフォレストリー/地域
第U部 運動
第4章 どんな自然を守るのか――山と海との自然保護…関 礼子 104
自然と共生する自然観/結びついた二つの運動/山の自然、海の生活/山岳観光道路と聖地の復権/公害の未然防御と環境権/「自然」の拡大/認められる価値、認められない価値
第5章 この海をなぜ守るか――織田が浜運動を支えた人々…関 礼子 126
海は「みんなのもの」か/織田が浜埋立反対運動/運動のなかでとらえられた「自然」/織田が浜・自然保護運動を担った人々/再び入浜権へ
第6章 アマミノクロウサギの「権利」という逆説――守られるべき「自然」とは何だろうか…鬼頭秀一 150
「勝利」集会のなかの「祝詞」/自然の権利訴訟と入会権訴訟の狭間/「アマミノクロウサギ」は何を託されているのだろうか?/「誤解」の構造とあぶりだされる自然観/守られるべき「自然」は何だったのか?
第7章 先住民族運動と環境保護の切りむすぶところ――オーストラリアの事例を中心に…細川弘明 168
ウルルを守るということ/コロネーションヒル開発差し止め、その後/なぜ森に火を放つか/カカドゥ公園とウォード渓谷をむすぶもの/自然を守ること、自然とのかかわり方を守ること
第8章 住民がつくる農村環境――滋賀県甲良町のまちづくり…野田浩資 190
農村の環境を守ること/原風景としての「春の小川」/まちづくりのなかの環境保全/住民参加のプロセス/地域社会の再構成/「都市/農村」のコミュニケーションのために/歴史的環境としての農村という視点
第V部 市民
第9章 環境破壊に抗する市民たち――「池子の森」を守る運動をつうじて…井上治子 210
自分が変わり社会も変える/行動するとき、心のなかで何が起こるのか/「池子の森」を守る運動/困難とその乗り越え
第10章 地球環境政治への市民的対応――温暖化防止京都会議と日本の環境NGO…井上有一 232
二つの課題/地球環境問題と日本政府/透明性の問題/京都会議への道/気候フォーラムのとりくみ/環境NGOの政策研究/リーダーシップの不在/京都会議が残した課題
第11章 市民による環境教育――そこにおける反省の意味…林 浩二・原子栄一郎 258
いま、注目される環境教育/環境教育の集会の現場から/環境教育のさまざまな眼差し/環境教育の批判社会科学的アプローチ/市民のプラクシスと批判的反省
総合討論 環境を守る 289
■引用
第6章 アマミノクロウサギの「権利」という逆説――守られるべき「自然」とは何だろうか…鬼頭秀一 150
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鹿児島県奄美大島市大島市理原山一帯は龍郷(たつごう)町の町有地であるが、1986年から龍郷町によりゴルフ場の建設がなされ、90年に大手ゼネコンお佐藤工業を中心に奄美大島開発株式会社が設立され、その建設にあたることになっていた。この計画には当初から、地元の「たつごう自然を守る会」を中心に、反対運動が根強くあった。その反対運動はさまざまな戦略を展開し、19
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95年2月には、自分たちの「思い」を直接ぶつけるべく、まったく新しいかたちの訴訟を提訴した。日本ではじめての自然の権利訴訟である「奄美自然の権利訴訟」である。この訴訟は、この龍郷町ともうひとつ住用(すみよう)村の二つのゴルフ場開発の計画の差し止めを要求している。また、その訴訟と深く関連して、龍郷町の計画については、同年10月には入会権訴訟も提訴されて。しかし、このような反対運動が展開されていたが、不動産・建設不況のなかで、佐藤工業が撤退し、1998年になって町によって正式に建設中止が決定された。
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川端氏たちによる入会権訴訟は、ゴルフ場計画地域の町有地に、原告たちの農業水利権と入会権があることを根拠に、ゴルフ場建設差し止めを訴えたものである。つまり、大勝や屋入の集落の人たちがこの市理原を水源として利用していることから、また、ほかの集落とその旨の公文書のやりとりがあったことから、この地域において農業水利権があるという事実、また、市理原一体は、屋入(ヤニュ)、大勝(ホーガチ)、浦(ウラ)、赤尾木(アカオギ)の各村(いまは集落)の共同の入会地として、明治初期から、生活に必要な薪材やや牧草の採取のために利用され、村(集落)の許可を得たうえで、黒糖製造のため
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の薪材採取地、大島紬の泥染用のシャリンバイの供給地としても利用してきたことを根拠にしている。また、第二次世界大戦末期には、燃料確保のための伐採跡地に食糧確保のためのソテツなどの作付けが行われたり、戦後はパルプ材の搬出が行われたりと、必ずしも計画的なかたちで管理されていたわけではないが、いわゆるルースなコモンズとして認識され、利用されてきた。この山は、そのような村(集落)の人たちを支える重要な意味をもっていた。また、台風常襲地帯の奄美において、大勝などの内陸の集落では、この山により台風の大風から守られていたという認識がある。
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「奄美自然の権利訴訟」の訴状を検討してみると、アメリカでの自然の権利訴訟の概念を踏襲したかたちで論拠がのべられている。そこでは、レオポルドのランド・エシックからはじまりストーンの原告適格の提起にいあたる、アメリカでの自然の権利に関する歴史的系譜が語られ、人間から離れた自然の個尾有の価値が論じられている。しかし、一方で、全体自然の保全のために人間のあらゆる権利を一方的に制約するのではないことを付記し、人間の価値や権利と、自然の価値と権利のありだには、対立的でない深い関係があることも提起している(注7)。
(注7)この自然の価値や権利と、人間の価値や権利との関係は、本章の中心的テーマと深い関係があるが、このことの法的な問題を整理し、往々にして批判されるような安易なかたちで人間から離れた自然の権利擁護論に陥らないような新しい枠組みの議論を提起しようとしたものとして、この訴訟の弁護団にも入っている山田(1996、1998)がある。本章では、原告の思いや行動の分析から同様の問題に迫ろうとしている。
山田隆夫 1996「環境法の新しい枠組みと自然物の権利」山村恒年・関根孝道『自然の権利』信山社、21-82頁。
―――― 1998「自然の権利訴訟と環境法の新しい枠組み」自然の権利セミナー報告書作成委員会編『自然の権利――報告 日本における「自然の権利」運動』山洋社、150-156頁。
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このように考えていくと、もともとアメリカで展開してきた「自然の権利」という概念とは内容的にまったくちがうものが、原告の人たちのなかで展開してきたということがわかる。人間から離れた本質的価値が自然にあるという、アメリカで展開されてきた「自然の権利(注11)」とはまったくちがう概念がそこにある。文化や歴史を主に考えている薗氏や中原氏のような原告にしても、
(注11)アメリカでの「自然の権利」という概念に重要な役割を果たしたのは、ナッシュであろう。1970年代以降の人間非中心主義の新しい潮流の流れを、かれが「自然の権利」として定式化したと考えられる。そしてかれは「自然の権利」というものを、奴隷解放運動や女性解放運動の延長線上におき、人間以外の自然物にも権利が与えられるように「進化」したととらえ、その概念を中心に、環境倫理の思想を描いた。しかし、そもそも、「自然の権利」というかたちで環境倫理の思想の歴史を整理することと自体が、すこぶるイデオロギー的である。「自然の権利」ということを再考する際には、このナッシュによって作られた図式から自由になることが必要ではないかと思われる(ナッシュ 1993)。
ナッシュ、R 1993『自然の権利――環境倫理の文明史』岡崎洋監訳、TBSブリタニカ、筑摩書房。
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自然との深いかかわりを重視している常田氏のような原告にしても、いずれにしても、その中心にあるのは、「自然とのかかわり」そのものである。「自然の権利」という言い方をあえて使えば、その「自然」という表現には「自然とのかかわり」が想定されている。「自然の権利」というよりは「自然とのかかわりの権利」である。
*作成:森下直紀 追加者:
UP:20090415 REV:20090610
◇環境/環境倫理/環境思想
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