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『インターネット・マザー』

香山 リカ 19990520 マガジンハウス,203p.


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香山 リカ 19990529 『インターネット・マザー』,マガジンハウス,203. ISBN-10:4838711468 \1500  [amazon][kinokuniya] 

■内容
・ブックレビュー社
「私だけが苦しんでいるんです」とメールで訴える人々……電子メディアと「自己のあり方」の接点を探る引きこもりを続ける患者が,電子メールでは能弁に自分の悩みを精神科医である著者にぶつける。
メールでは,ほとんどの場合,「私だけが特別に苦しんでいるんです」と訴えてくるという。
一見,相反する「能弁」と「引きこもり」。どこで個人の中で結びつくのか。その接点を著者は「死」ととらえ,インターネット心中事件と話題になった「ドクター・キリコ事件」を例に挙げる。「ドクター・キリコ」は,Web上では礼儀正しく,ページ閲覧者に紳士的に振る舞っていた。しかし現実の彼は必ずしもそうではなかった。

最近の自己の"2重性"は,内部で「対立」するものではなく,当たり前のように「並立」する,と著者は主張する。その「並立」を容易にしているのが電子メディア空間だと指摘。電子メディアの中では,「自分の考える自己」を思うようにデザインすることも不可能ではない。だから違和感なく使い分けられるのだ,と。

結論部分では,電子メディアと共存していく未来で,いかに「自己」を保つかを占う。電子メディアとこれから,いかにかかわっていくかを考えさせられる。 (ブックレビュー社)
(Copyright@2000 ブックレビュー社.All rights reserved.)

・(「BOOK」データベースより)
「誇大自己」をかかえた若者たちがインターネットの海に溶けてゆく。少年Aの声明文は、夜毎交わされるおびただしい数のメールによく似ていた。「キミだけは、僕の苦しみをわかってくれるよね?」誇大な自己と脆弱な自己。この自己の二重性をかかえて自室に引きこもる若者たちは、コンピュータに向かって訴え続ける。

■目次
第1章 ユー・ガット・“毒”メール
第2章 ピュアなハートのセックスマシーン
第3章 “わたし”の行方
第4章 ボディ・アンド・ソウル・ナウ
終章 新リアル創世記
あとがき

■引用
わたしは自閉症/わたしはヒーロー

◆自称「自閉症」患者はヒステリーか
「自閉症」と呼ばれる坊気の人に、病識(自らの疾病に対する洞察)はあるのだろうか。
近年、「自閉症の手記」といったふれこみの本がいくつか出版されているが、それをざっと読んでも、書き手たちは知的には自らに下された診断が「自閉症」であることを理解してはいても、その感じ方はふつう「自分は病気だと思う」というときのそれとは、微妙に異なるように思う。たとえば『自閉症とアスペルガー症候群』(ウタ・フリス編著、東京書籍)で紹介されているテンプル・グランディンの手記においても、彼女が自閉症について自説を語るときもっぱら関心を払っているのはその認知的スタイルや根底にある神経システムの違いについてで、逆にほとんどの人が最も著しい障害だと思っている社会的側面(コミュニケーションの取り方など)についてはことごとく無視していることが指摘されている。つまり、彼女は「わたしは自閉症だ」と“知ってはいるが”、“感じてはいない”。
また、先ごろ翻訳されてベストセラーになったドナ・ウィリアムズの手記『自閉症だった私へ』(新潮社)でも、(…)自らの情緒面や社会面に対する関心は乏しいと言わざるをえない。(…)
自閉症者は、やはりふつうの意味での病識を持たない人たちなのであろうか。
この私のあまり良くない先入観は、「私は自閉症」という“誤った(しかし強い)病識”を持った人たちとの出会いにより、さらに強められることになる。pp.94-95

診察室にやって来る人たち、そしてプライベートな時間に会う人たち――そのほとんどは若い女性なのだが――から、私はこれまで何度となく、「自分は自閉症だと思う」という“自己診断”を聞かされたことがあった。自らどうしてそういう診断を下すようになったのか、と尋ねてみると、その根拠はだいたい次のようにまとめられるようである。
「わたしはほかの人と違っている」「ふつうの人たちの気持ちがわからない」「気分が落ち込んでだれにも会いたくなくなることがある」「わたしだけの世界に閉じこもりがちである」など。
 これらの振る舞いはたしかに「自閉的」に見えるかもしれないが、彼女たちはもちろん、医学的にいう「自閉症」――幼少期から異常を示すいわゆる早期幼児自閉症――とはなんの関係もない。
(…)
ほとんどの場合、私はおとなしく彼女たちの言い分に耳を傾けているのだが、「ねえ、こんなわたしって自閉症でしょう?」としつこく尋ねられたときには(そういう人たちの「自分はいかに変わりものであるか」といった“自分語り”は延々と続く)、こう答える。「いや、安心していいよ(といっても本人は失望するかもしれないが)。医学的な意味での自閉症とは違うと思うよ」。
そして、その後、本人には聞こえないようにこうつぶやくこともある。「……でも。ヒステリーではあるかもね」。pp.95-96

◆青年期の「正常知能自閉症」
しかし、考えてみれば、私の知識不足〔高機能自閉症やアスペルガー症候群など、「正常知能自閉症」の概念に対して:引用者注〕よりなによりまず問題にすべきは、彼らが「わたしは自閉症ではないか」「わたしには他人と同じ心がないのではないか」と自ら述べて受診していることである。その意味で、彼らの正しい“自己診断”を私が否定してしまった可能性がある。
それにしても、彼らは何がきっかけとなって、「自分は自閉症ではないか」などと考えるようになったのであろうか。それは、正しい「病識」なのか、だれかに言われただけなのか、それともなにか“天啓”めいたものだったのか……。p.105

◆「自閉症」だと訴えるにはわけがある
一方で、冒頭に紹介したように、医学的に見て自閉症とは言いがたいのに「わたし、自閉症なんです」と“自己診断”する人たちには、これからも繰り返し出会うことになるはずだ。では、彼女たちとはいったい、どういう人たちなのか。p.106
(…)
彼女たちは「自閉症」をひとつの足がかりとして、なにかを物語ろうとしているようである。では、何を語りたいのか?おそらく彼女たちは、「わたしは自閉症」と宣言することで、自分を主人公としたある大きなストーリーを作りたい、と望んでいるのではないか。逆に言えば、「自閉症」はそれを可能にするキーワードにも見えるのである。P.107

◆九〇年代の英雄譚
なにか、大きな物語の主要人物になってみたい。これじたいは、決して現代にだけ特徴的な願望ではない。p.110
〔以下、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジが現代社会のヒーローとして受け入れられたのではないかという考察〕
努力の否定。個人的な問題の優先。これが、九〇年代的な英雄譚の特徴なのかもしれない。このふたつの特徴は、マスメディアを舞台に繰り広げられる最近の“事件という名の英雄譚”でも共通していると考えられる。(…)p.111
さらに、もうひとつつけ加えるなら、現代の英雄譚には「だれが仕組んだのかもわからない」という特徴もあると思う。p.112

精神科医の前に現れて、「わたしって自閉症なんです」と語る女性たちも、本当は別のことばで自分が名づけられ、違った物語が始まるのを待っていたに違いない。あるいは、自分を中心に据えた目に見えるような物語が始まらない人生など失敗だ、と信じ込んでいたとも考えられる。
しかし、そんな物語は始まりそうにない。それどころか、仕事も恋愛も自分が望んだのとは違う方向にどんどん転がりつつある。――、これじゃ、いけない。そう考えた彼女たちの起死回生の一撃が、「わたしは自閉症」というつぶやきだったのだろうか。そのマイナスの刻印を中心に、新たな物語が紡ぎだされ、そこでは彼女たちが願っていたドラマチックな展開が起こる可能性もあるではないか。そう思って、捨て身の覚悟で「自閉症」ということばを口にするのか。
もしそうだとしたら、それは早期から始まるコミュニケーション障害である医学的な意味での「自閉症」と同じくらい、深刻な病いであると言える。いや、もしかしたら彼女たちは、「ぼくは自閉症ですか」と病院を訪れる“病識ある医学的自閉症者”よりももっとひどく、現代という名の毒を浴びた人たちと考えられるのではないか。毒はさらに多くの人に蓄積し、二十一世紀に被害はさらに広がるのだとしたら、昔のように彼女たちを見て「ああ、ただのヒステリーだよ」と笑ってすませることは、決してできないはずだ。p.113

「彼らにこういってやりたくなることがある。「孤独かもしれないと恐れているなら、心配しなくていい。同じことで悩んでいる人は、いくらでもいるんだからね。ほら、この手紙の束を見てごらん」。しかし、彼らが待っているのはそんな答えではない。それでは、彼らを傷つけることはあっても、決して救いにはならないのだ。
彼らが待っているのは、それとはまったく逆のこういう種類のことばだからだ。
「あなたほど深く苦悩している人を、私ははじめて見た。」p.116

■書評・紹介

■言及
ニキリンコ 20021031 「所属変更あるいは汚名返上としての中途診断――人が自らラベルを求めるとき」石川准・倉本智明編『障害学の主張』明石書店
たとえば香山では、実際には自閉とは思えないにもかかわらず「自分は自閉症だと思う」という自己診断を語る人々を取り上げており、その特徴は「自己愛的な特権意識」や「ボーダーラインの人たちが示しがちな不安定さ」「自閉症と言う特別な存在になって、人に注目してもらいたいという願望」だと分析しながら、彼女たちの問いの「しつこさ」「自分語りの長さ」にも言及しているし(『インターネット・マザー』[一九九八:九六])、まるでハンで押したように同じ言葉で「みんなのように生きられない」「普通の人がうらやましい」と訴えてくる若者たちからの電子メールや手紙に触れ、人はそこに「生理的に『鼻持ちならなさ』をかんじとってしま」う、「彼らの自己中心性にはこちらの陰性感情を掻き立てる何かがある」と記しているのだが、こういった反応こそまさにGarlandやWilleyをはじめ、多くの仲間たちが浴びせられてきた<冷たい視線>そのものではないだろうか。つまり、たとえ本当に発達障害を抱える人であっても、謎を解こう、納得しようとしているときの姿は、はた目には、自分が特別だと言う「物語」に陶酔している姿と区別がつかない。そして、たまたま外見が似ている「自己愛的な人たち」に対する「陰性感情」(それ自体が正当なものかどうかは別として)のいわばとばっちりを受けているのかもしれない。p.217
皮肉なことだが、同じ香山〔一九九八〕では、「彼らにこういってやりたくなることがある。「孤独かもしれないと恐れているなら、心配しなくていい。同じことで悩んでいる人は、いくらでもいるんだからね。ほら、この手紙の束を見てごらん」。しかし、彼らが待っているのはそんな答えではない。それでは、彼らを傷つけることはあっても、決して救いにはならないのだ。」〔同[:一一六]〕とある。このような返事こそ(口調やその陰にこめられた感情はともかくとして、その内容自体は)、軽度の発達障害を抱える人々や、CytowicやRamachandran'O.sacksなどが紹介している人々にとっては<救い>や<安心>、ときには<歓喜>とさえよぶものなのだ。p.217-218


*作成:山口 真紀 
UP:20090606 REV:
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