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『決定版ルポライター事始』

竹中労 19990422 筑摩書房,329p.

last update:20111124

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竹中 労 19990422 『決定版ルポライター事始』,筑摩書房,329p.
(『ルポライター事始』1981年、日本ジャーナリスト専門学院発行・みき書房発売 を新たに編集)
ISBN-10: 4480034749 ISBN-13: 978-4480034748 \903 [amazon][kinokuniya]

■内容
美空ひばり、大杉栄、ビートルズ、チャンバラ映画…。芸能を愛し革命を夢見て、花のような文章を残した竹中労。“トップ屋”とさげすまれながらも、えんぴつ一本を武器としたルポライター稼業。陋巷市井に沈潜し、アジア・アラブ・中南米へと飛翔した竹中労が過激なまでに自由であった自らの半生と行動の論理を記した名著、待望の文庫化。

■目次

序―――
PART I ピラニアよ、群れるな!
ルポライターの履歴書
マーク・ゲインと『籠の鳥』
PART II わが名は、ゴースト・ライター
言論暴力とは何か?
刑法改正と“自由な言論”
PART III ストリート・ジャーナリズムの黄昏
エロチシズムと赤軍と……
『週刊明星』の研究
「価値なき自由」を守ること
宮崎勤の蝶をさがせ!
INTERLUDE 実戦ルポライター入門
テーマをきめる(上) 編集者との共働作業について
テーマをきめる(下) 予断を立て、予断を棄てること
プロットを組む(構成) まず、基本の実習から始めよう
スケジュールと予算(上) 小宇宙を形成して時空を凝縮する
スケジュールと予算(下) イメエジを描き・捨て、プロットを組む
PART IV 「探検」への旅立ち……
敗戦三文オペラ――浅草慕情
上野駅・地下道無惨
窮民街に生き暮れて

あとがき
竹中労の仕事
実務者あとがき
解説 竹熊健太郎


■引用


■引用
■PART IV 「探検」への旅立ち……(p.213-)
■敗戦三文オペラ――浅草慕情(p.214-232)
「ある時期、その人の文学に傾倒していた。わが無頼の青春は、永井荷風のデカダンスに多分に負うのである。」(215)
「五・三〇事件、……当時は淀橋警察署だった現在の新宿警察署を襲い、公務執行妨害・東京都条例違反・火薬類等取締法違反等々の容疑で逮捕されたのは、それから数日後であった。
敗戦直後の一九四七年から四九年まで足かけ三年間を彷徨した浅草界隈を、いえば見納めに出かけたのだ。」(215)
●永井荷風のデカダンスへの傾倒
●1947〜49年 浅草通い

「私は、共産党員であった。だがむしろ、アナキストにちかかったのである。かつて大正という明治の付録のような、あるいは昭和の前座のようなみじかい時代があって、陋巷をすみかとした「美的浮浪者」の群れがいた。
 いわく、ダダイスト辻潤、その妻野枝をうばった大杉栄、山犬と綽名された作家宮島資夫、十二階下の私娼窟に流連したテロリスト難波大助・和田久太郎、演歌師添田唖?坊、舞踊家石井漠、バンドマン小沢美羅二(後年の山本礼三郎である)、ぶらりひょうたん高田保、浅草オペレッタの創始者伊庭孝、座付作者獏与太平(のちに活動写真に転向して『旗本退屈男』シリーズを撮る=古海卓二)、シナリオ作家の寿々木多呂九平、混血の不良少年大泉黒石、そして若き日の今東光……。私の浅草へののめりこみは意識するとしないとにかかわらず、それらのアナキストと同じ情念において同じ道をたどった。
 ストリップ小屋に入りびたり、パンパンや浮浪児・やくざ・故買人を友として、泥棒は正義であると統制物資の強奪・偸盗を私は働いていたのだ。学生運動家にあるまじき無法の所業に同志たちは呆れ果て、しかも彼らルンペン・プロレタリアートを革命の同盟軍であると、私が固く信じていることにますます以て愛想をつかし、こういう乱心ものを組織の内部には置けないと、指導部は除名を申しあわせていた。五・三〇の尖兵を志願したのはそうした空気を察知してのこと[…]やけくそのヒロイズムからだった。」(216-217)
●共産党員であったが、アナキストにちかかった
●浅草に集うアナキストとの情念の交換
●ストリップ、浮浪児、やくざを友とする。泥棒は正義である。→共産党内での異端

●1946年5月末 敗戦後、数年ぶりに浅草を見る。北海道への放浪への出発の際。
「ただしその雑踏は、観音様を目ざしてではなく、ヤミ市と化した店並に蝟集して」(218)
「ここもまたヤミ市、六区にむかって露店がひしめき、ふかし芋やらポン煎餅、まっ黒なフスマ入りのパン、イカの丸煮、軍隊毛布、編上靴、地下足袋、戦闘帽などを所せましと商っていた。[…]本堂を裏にまわれば、“コジキの総本山”淡島神社、泉水のまわりに浮浪者がごろ寝をして、パンパン・ガールとおぼしい女どもがあちこちにたむろしていた。」(219)
「女たちは上野・有楽町へ、あるいは新橋・池袋・渋谷の“職場”に春を売りにいくのである。男たちもまた何かを拾いにあるいは盗みに、東京中に散っていく。[…]夜のない浅草はすなわち夜を稼ぐものの昼の宿であり、憩いのターミナルとして機能していたのだ。
 一九四六年に私が見た、それがわが街の実態であった。啄木ではないが、どうしてそれを浅草と呼べようか。[…]浅草に、私は敗戦の悲哀と屈辱を見た。」(222)
●浅草でない浅草。敗戦の悲哀と屈辱。
●ターミナルとしての街。娼婦たちの移動。

「胃袋は“民主化”されず、飽食する者と飢え迫る者との間に、奈落はひらくばかりであった。」(233)
●敗戦=飢え。飽食する者との格差。

「引揚者の世話活動とは、とりもなおさず荷物運びと列車添乗の重労働であり、“報酬”は東京都から月々支給される九十枚の外食券のみ。」(225)
●引揚世話活動=重労働

「ここは自由であった。[…]地の底を生きる人々の最後の自由であるということ、いや国家や社会に高速されない無政府の生きざまこそが、真人民のあるべき姿であることを、私はおぼろげながら納得できた。」(231)
「たとえタコ部屋の悲惨の中でも、人籍に登録せられざる自由を床下の住人たちは守ろうとしたのだ。まぎれもなく、そのことは敗戦非人の誕生を意味した。焼土における革命は秩序の回復を目ざしてはならず、いっさいの統制から、人々を解き放つことから始められねばならなかった。人みな非人であれ、坂口安吾の思想にようやく触発されて、私が堕落を志したのはそのころからであった。遅ればせにむさぼり読んだ『続堕落論』の一説を想起すれば」(231)
●逆説的に自由である床下、浮浪者たち
●革命とは秩序回復ではなく、統制からの人の解放。敗戦非人の可能性。→坂口安吾からの触発

1948年3月、東京学生同盟の幹部に(232)
「東京駅仮泊所のセッツルメントから、上野寛永寺の引揚寮・山谷の天幕一時宿泊施設等々、家なき人々の吹き溜り(本願寺床下もその一つだったのである)にふれる間に、私の魂はそれらの人々と同じ地平に身を置くこと、学園への退路を断つことを要求した。」(232)
●セツルメント、引揚者支援等のなかで、学園生活からのドロップアウトを決意。


■上野駅・地下道無惨(p.233-248)
・引揚学生同盟対内部長就任(事務局長)
「私は、特配物資を闇ルートに流し党に上納していた。しかし、すくなくとも、その一部を着服する悪ヂエには染まっていなかった。」(237)
・上野駅地下道での一斉「狩りこみ」(238)
・1946年度「狩りこみ」(「救護」) 都下1万7千人、その半数約1万人が上野駅地下道・公園山内・ガード下の住人。完全宿無し1,326名。(239)

「そうした光景を私は、憑かれたように見て歩いていたのだ。いや、ただ見ていたのではない。馬鹿が赤旗をふって、朝も夜もアジ演説をぶっていた。「皆さん立ちあがるのです、革命をこの地下道から起すのです! 皆さんは人間ではありませんか、人間には食う権利があります、持てる者から奪い取ることは正義です、暴動をおこすのです。立て、飢えたる者よ!」
 道路交通法違反で私は検束された、一晩で釈放されたが、それが留置場初体験だった。仲間からはキチガイあつかいされ」(240-241)
●アジ演説をする竹中。革命・暴動を呼び掛ける竹中。それにどう応える人々がいたのか?
●初めての逮捕経験

・友人のオカマたち。エントツ・オシゲ、タップのオシゲ、ノリマキ・オシゲ(上野公園の三シゲ)
→1947年12月 エントツ・オシゲの好意で、その妻子の定宿であった山谷“だるま屋”の部屋を提供される。70日あまりタダメシを食わせてもらう。かわりに息子・娘に読み書き、算数を教える。(241‐242)
「私は望み通り浮浪の人となった(すこしく出発は高級であったが)。窮民街の実態をつぶさに傍観者としてではなく、しょせんは志願浮浪人、すぎゆく者であっても底辺から見ることができたのである。」(242)

・『共産主義のABC』、『改造』1948年3月号・宮出秀夫「ルンペン・プロレタリアートの問題/上野地下道の人々」の批判。浮浪者、ルンペンを差別。(243−)
「人々に勤労意欲がないだって、安易に生きているだって? したり顔で馬鹿をいうな! 彼らは必死に労働して、日々の糧をかせぎ出している。盗みは職業ではないのか、貰うこと、拾うことも、またとうぜんみずからの肉体を売り、あるいは売るまねをしてだますことも、労働ではないのか?」(244)
●「浮浪≠労働者」への疑義。人々は労働している、という批判。
●拾い、地見屋、トンボリ、バタ屋
●『共産主義のABC』、『改造』1948年3月号・宮出秀夫「ルンペン・プロレタリアートの問題/上野地下道の人々」

・左翼・党派の論理に絶望、学生同盟の仲間とも疎遠に
・1947年秋〜冬 学園に顔出さず
・1947年12月姜夫婦、梁氏(朝鮮人やくざ)との出会い(殺傷事件)→焼き鳥屋台を営業
・1948年正月 甲府で父に近況報告
・〜1949年夏 陋巷陥没


■窮民街に生き暮れて(p249-
「1945年の晩秋、朝日新聞で読んだ石川達三の文章を私は鮮烈に思い出す。[…]〔いまや日本に政府はないのだ。すくなくとも我々の生死を保証する政府は、どこにも見当たらない。「政治」「法律」「治安」を信じて、窮巷に餓死する者は愚者である。経済的に無政府の状態にある今日、我々の命を守るのは我々の力だけだ。したがって我々は、一切の権力の外に我々自身の手で共同防衛と相互扶助の“武装せる”生活擁護組合をつくらねばならない。〕[…]“みずから守る”反国家脱国家の「自由連合」こそ、(逆説的にいえば)無政府共産のユートピア国家を戦後に約束したのである。“真人民のくに”を敗戦の焦土から創る唯一の道は、まさに一切の権力のラチ外に、人民自身の逆権力を共働し、連動するところにある。」(249)
●石川達三(1945年晩秋朝日新聞): 政府はない。共同防衛と相互扶助の武装生活擁護組合を。権力の外へ。
●反国家脱国家の自由連合を敗戦の焦土に夢見る。
●持てる者からの略奪、換金という生業へ?

「山谷から高橋へ、さらに松戸へと私が仮寝の宿を移していったのは、『無頼と荊冠』にやや詳しく述べたように、ある目的のために資金を稼ぐべく「革命的窃盗団」を結成してもっぱら闇市荒らしを働くようになってからであった。
 とっくに時効なので、“戦果”の一部を拾うすれば、銀座某有名菓子店倉庫よりモンサント・サッカリンを十缶(当時の盗品価格で三万円)、上野石鹸(ボンシャ)横丁マーケット四軒(ただしすべて暴力団経営)から、梁やくざ氏の手びきで密造シャボン約一万個。」(254−255)
●闇市荒らしのための移動生活。暴力団経営点からの略奪。

横浜=海賊都市→革命的窃盗団結成後逮捕、“同志”2名の潜伏先横浜へ。
・桜木町駅
「駅の構内は浮浪者だまり、ここも敗戦乞食の群れがひしめいていた。右に弁天橋を渡れば本町通り、馬車道、元町となつかしい盛り場だが、進駐軍はメインストリートをほとんど接収して、伊勢佐木町通りなど米軍のカマボコ兵舎と飛行場とにはさまれた形で、まっ昼間から商店は大戸をおろし、猫の子一匹は知らない“死の街”と化していたのである。
 活気にあふれているのは、上野と同じ闇市と売春通り。」(236)
「ハマに流れてきて、直ちに犯罪のニオイを私は嗅いだ。曙町の私娼窟で豪遊している船員ふうの三国人たち、南京町(中華街)の呆れかえるほど豊かな闇物資、デンスケ(街頭いんちき博打)。モミ賭博の若い衆が煙草を詰めて吸っている白い粉、[…]ヨコハマの闇の繁栄は、密輸に支えられていること一目りょう然であった。
砂糖・バター・紅茶・肉類から、高級洋服生地・貴金属・薬品・カメラ・ウィスキー・カレー粉にいたるまで、この街で手に入らぬものはなかった。それらの物資は沖あいで取引きされ、小舟で暮夜ひそかに川筋から、あるいは三浦半島あたりの漁港に、三々五々陸揚げされてブローカーの手に散っていく。そいつを横合いから略取するぬれ手に粟の水上愚連隊、もっと手っとり早く船を襲って強盗をはたらく海賊共も跳梁して、ギャング映画そこのけのミナト・ヨコハマではあった。
 プータローといえども、沖仲士のぬきとりは当然、進駐軍の倉庫荒しは朝メシ前、トラックの上乗りとしめしあわせて積荷をほうり出し掠奪する。税関の監視船との追っかけっこで、海に沈めた物資を底曳きする「ガンガラビキ」という珍商売も、けっこう余禄になっていた。」(257−258)
●闇市→闇物資による繁栄
●闇ルートの地図。海上の攻防。
●進駐軍の倉庫荒らし、ぬきとり。
●「三国人」の存在

「敗戦の上野も浅草も横浜もサン・タントワーヌではなかった。私はただ夢を見たのか、“窮民革命”とはこれをようするに、錯乱のキッチュでしかなかったのであろうか?いや、そうではないのだ。あの焼土に生きる真人民の姿を、私はけっきょく見ることができなかったのである。
 つまりは革命ごっこ、犯罪ごっこの過客としてしか、ニッポン窮民街を漂泊しなかったのだ。坂口安吾の思想を、「まっさかさまに堕落する」ことを私は実戦しているつもりでその実、探検する者でしかなかった。敗戦を生活しなかった。帰るべき学園もあれば故郷もある、仮装浮浪人にすぎなかったのだ。」(262)
●犯罪ごっこ、革命ごっこの経験でしかなかった。真人民の姿を見ることができなかった。
●どちらへも違和感を抱えたままの経験: @変態しきれない人民の姿?、A同一化しきれない竹中の生活? →焼土、焦土、闇市への両義的な姿勢

1949年初冬 新宿旭町 木賃宿へ


「浅草・上野・山谷に、吉原・新宿・有楽町・渋谷・新橋・池袋で東京九景。番外、野毛山=横浜・飛田=大阪・甲府と、合計四百二十枚の構成プランがあった。[…]なぜ執筆されなかったのか記憶はおぼろ、仮題『不良少年チイの冒険』、夢野久作『犬神博士』の主人公と同名だった。」(265)


■竹中労の仕事(まとめ 夢幻工房)
「敗戦直後の試作は、フェニックス・葦の船・幻視などの主として同人誌に、三十篇以上掲載されたと竹中労は言うが散逸している。[…]未完の小説『葬られた歴史』(1950年)、『なみだ橋界隈』(同)、ルポ『北富士軍事基地』等も掲載しは現存していない。
[…]
東京毎夕新聞時代の色もの記事や、週刊スリラー・別冊アサヒ芸能、そのほかコンサート・映画・演劇プログラムへの寄稿などについても同様。
『女性自身』執筆以降の文章はおおむね現存している。」(271)
●ルポ『北富士軍事基地』
●東京毎夕新聞、週刊スリラー、別冊アサヒ芸能


■書評・紹介

▼松岡正剛の千夜千冊 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0388.html

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20111124 
沖縄 竹中労  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)