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『全身うごかず――筋ジスの施設長をめぐるふれあいの軌跡』


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■山田 富也 19990310 『全身うごかず――筋ジスの施設長をめぐるふれあいの軌跡』,中央法規出版,272p. ISBN-10: 4805817852 ISBN-13: 978-4805817858 2500 [amazon][kinokuniya] ※ md. n02h.

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内容(「BOOK」データベースより)
生かされることではなく、生きることにこだわってきた難病患者の半生記。

内容(「MARC」データベースより)
「人間はすべて対等なんだ」という信念のもと、筋ジストロフィー症という難病を抱えながら、自分と同じ境遇にあるひとたちの生きる場「ありのまま舎」をつくり上げた著者の半生記。

・内容説明(bk1)「人間はすべて対等なんだ」という信念のもと、筋ジストロフィー症という難病を抱えながら、自分と同じ境遇にあるひとたちの生きる場「ありのまま舎」をつくり上げた著者の半生記。〈ソフトカバー〉

■目次

第1部 ありのまま舎の軌跡
 長い闘いの始まり
 西友会の日々
第2部 集まった仲間たち
 ありのまま舎設立に向けて
 映画制作への挑戦
 ほか
第3部 ありのまま舎の論理
 難病運動と対策
 筋ジス運動
 ほか
第4部 仲間とともに
 謝すべき家族へ
 スッフに伝えたいこと
 ほか>

■引用

 「第二章 筋ジス運動
 先にご紹介した難病対策とは別に、筋ジス施策は親の会のいち早い運動の成果もあり、まったく別枠の施策として行われた。その運動について整理してみた。
 筋ジスが酷い病気であることの一つには、病気の進行が逐一患者自身に自覚され、同病の患者の進行を予測し、一か月後、ニか月後が見えてくることだ。
 隣の友人が死にいくことで私たちは、自分の時間を確認する。今の自分の状態は誰よりも自分が一番よく知っている。
 入院していれば多くの死と出会い、私たちは嫌でも学習を繰り返さなければならない。いくつぐらいにどうなって、何歳頃には何ができなくなって、そしてどんなふうになったら、永遠の別れを迎えるのか、私たちは入院のなかで学んでいく。誰に教わるわけでもない。すべて自分で学ぶのだ。
 筋ジス運動は、両親たちの切なる思いから始まった。治療法がない。日々障害の度合いは増し、家族の負担は限りなく大きくなっていくことを、親たちは予感した。どの親もわが子を一人病院に置くことは、つらく悲しく身を割かれる思いだったに違いない。
 それでも、そうしなけれぱ家族が崩壊する、生活が成り立たなくなる、との危機感は強かっ▽164 たのだろう。入院しているほとんどの仲間はそのことを理解しようとしていただろう。恨むことではなく、ただひたすらにその日その日を必死に生きていこうとしていたと思う。明日に何かを求めることより、今日を生きることのほうが重要で、確かな人生がそこにあったから。
 そんな私たちの思いとは少し違ったところで、私たちのために私の両親を含む親たちが動きだしていた。
 昭和三十九(一九六四)年三月「全国進行性筋萎縮症親の会」は発足した。あてもなく歩きだした頃のことを思うと感慨深いことだったと思う。
 その三か月後には、「全国重症心身障害児を守る会」がスタートした。こうしてそれまでばらばらに苦しんでいた人々にも、同じ悩みを共通の土俵で語れる心の安らぎが得られる場が生まれた。まったく何もなかった筋ジス政策から、新たな段階に入ったのだ。
 親の会の動きは早かった。国会、厚生省への陳情などが行われ、厚生省はすぐに検討に入ったといわれる。なかなか国会議員と直接会えず、トイレで待ち構えて陳情したという話も聞いた。
 その結果として「進行性筋萎縮症児対策要綱」がいち早く作成された。今では考えられないほど早い対応であったと思う。それほどに親たちの思いは切実で、動きは機敏だった。私の両親をはじめ若い人々が多かったせいだろうか。とにかく、対策がとられることになった。
 その手始めに行われたことは、昭和三十九(一九六四)年から四十五(一九七〇)年までの七年間をかけて、国立療養所に二千二十床の病床を整備することだった。その先駆的施設とし▽165 て千葉の国立療養所下志津病院と仙台の国立療養所西多賀病院のニつ、それぞれ二十床のベッドが用意された。昭和五十五(一九八〇)年度には二千五百床の専門病床が二十七の国立療養所において整備された。
 国民病といわれた結核が徐々に下火になり、その空きベッドが筋ジ病棟に割り当てられるようになったのだ。
 現在では、実際にはおおむね八割以上のべッドが利用されているようだ。
 だが、実際に整備は全国を八ブロックに分け、一ブロック一病院の整備を目標に行われていったようだが、私たち筋ジス患者をどのようにしていこうかといった、明確な方針はなかった。「収容」することがすべてだった。
 病院には専門家もおらず、それぞれの地域に点在する専門医に協力をお願いしながら、入院生活が始まった。そのことにみられるように、施策は場当たり的だった。当時の筋ジス政策がいかに実のないものであるかを証明している。
 治療法がないのだから仕方ない、という人がいるが、だからこそ時問をいかに有効に使うの一が一人ひとりに求められていることを知っていてほしかった。
 重症心身障害児(以下、「重心」という)と筋ジスは国立療養所に受け入れ、児童福祉の体系のなかで位置づけられることになったわけだが、国立療養所政策もまた、大きな波のなかで揺れ動いた。とにかくそこに入ればいいんだといったところで進んでいたが、なぜ国立療養所なのかといった問いには今も答えてはいない。
 ▽166 今では、とても考えられないようなことが当時行われた。たとえば、アキレス臆を切って、無理に動かされたり、必要以上に無理な負担をかけた訓練が行われた。結局、筋ジスに対してどのようにしてよいのかわからなかったのだ。
 医療施設を福祉施設として位置づけ、その活用を図るとのことだが、医療施設と福祉施設とは、その求められている役割は違うし、そこに働くスタッフの体制も設備も違う。
 筋ジスはほぽ九〇%が国立療養所に入り、重心は六〇%が国立療養所に入り、ほかは民間の位施設に入っていった。
 その先駆けとなったのが、国立療養所西多賀病院だったことは再三申し上げたとおりだ。体系がどうであれ、親たちにとっては、家庭崩壊が回避され、しかも子どもたちには寂しさを紛らわす、昼間のにぎわいがあり、医師、看護婦さんが側にいてくれる場が得られたことで大きな役割を果たしていることは事夷だ。
 そのほかに、指導員や保母と呼ばれる人たちもいたが、医師や看護婦とは、必ずしも一体的な活動はされず、隔たりも大きかった。当時は資格制度も充実しておらず、指導員や保母の必要性には、私も疑問だった。
 とにかく、今をいかに生きるのか、というところから、筋ジス運動は始まり、そのための患者、患児の生活空問の確保と、家族の生活拠点を維持することにあったといえる。
 とはいえ、とにかく筋ジスを制度のなかに組み入れることになったことの意味は大変大きいといえる。
 一九六〇年代後半から一九七〇年代にかけて、筋ジス施策は大きく動いた。
 その原動カ「全国進行性筋萎縮症親の会」のその頃の運動はきわめて活発で、国会・厚生省のほか関係団体への陳情、要望を繰り返し、多くの問題が進展した。結成の翌年には外国の団体との関係を充実することから、名称も「日本筋ジストロフイー協会」と改めた。
 この頃の研究体制はほとんどとられておらず、とにかく「収容」だけしようということだった。
 しかし、多くの方々の努力によって、筋ジスが少しずつではあったが、全国の人々に知られるようになっていった。私が映画づくりを始めるきっかけともなった、映画『ぽくの中の夜と朝』も全国で上映されていたし、研究所づくりの署名集めも盛んに行われていったようだ。
 その結果として建設された研究所は、「国立精神・神経センター」として現在も筋ジスの研究が行われているが、筋ジスだけにこだわる日本筋ジストロフイー協会の運動にはいささか違和感があった。
 私たち三兄弟(ありのまま舎)の願いは筋ジスだけではなく、筋ジスと同様の状況におかれている難病患者とともに歩むことだった。そして、その小さな声を多くの人々に知ってもらうことだった。そうしたスタンスの違いはあるが、日本筋ジストロフイー協会の行動には敬意を茂したい。
 その時国立療養所徳島病院の患者たちが出したビラを次に紹介したい。」(山田[1999:163-167])

■言及

◆立岩真也 2014- 「身体の現代のために」,『現代思想』 文献表


UP: 20160105 REV:20160124
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