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『視覚と近代――観察空間の形成と変容』

大林 信治・山中 浩司編 19990228 名古屋大学出版会,312p+7.


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■大林 信治・山中 浩司編 19990228 『視覚と近代――観察空間の形成と変容』 名古屋大学出版会,312p+7.1950 ISBN-10: 4815803617  ISBN-13: 978-4815803612  3048 [amazon][kinokuniya] ※

■目次
序 目覚めたもののための人口の夢
      観察の技法
      視覚と経験
      「視覚」と「言語」

A 観察の技法
I  ルネサンスにおける遠近法――キュクロプスの眼とアルゴスの眼のあいだで――  岡田温司
   1 「透かして視る」――窃視の装置
   2 ブルネッレスキの視覚実験――絵画の「鏡像段階」
   3 アルベルティによる理論化――「現実の大胆なる抽象」
   4 画家たちの実践
   5 「象徴形式」としての遠近法――遠近法の相対化
   6 再‐相対化へ、多元化に向けて
II 近代的視覚の形成――科学革命における観察と実験――  大林信治
   1 観察と解釈――若干の予備考察
   2 器具と観察――天文学の場合
      コペルニクス前史
      コペルニクス理論の射程
      観測の精密化と器具の改善――ティコ・ブラーエ
      観測データと法則の発見――ケプラー
      望遠鏡の発明と天体の観測――ガリレオ
   3 実験と観察――物理学の場合
      測定と数学的分析――ガリレオの運動学
      実験的方法(手続)の秘密――ボイルのエアポンプの実験をめぐって
      ニュートンのプリズム実験
   4 近代的視覚のニュートン的形成

III 視覚技術の受容と拒絶――十七〜十九世紀における顕微鏡と科学――  山中浩司
   1 干渉
      メディアと感覚
      現象技術と社会
   2 顕微鏡と十七世紀
      発明
      王立協会(ロイヤル・ソサイエティー)
      『ミクログラフィア』
      孤独な顕微鏡学者たち
   3 不信とイマジネーション
      潜伏期
      経験論と顕微鏡
      病の存在論
      前成説・胚種先在説
   4 顕微鏡と医学改革
      大学と研究者ネットワーク
      アクロマチック・レンズ
      顕微鏡と視覚の研究
   5 視覚と顕微鏡
      マイクロスコピカル・コミュニケーション
      顕微鏡的視覚

IV 視覚の社会化――「観察者」視点の生成と変容――  生越利昭
   1 近代科学と「観察者」視点の生成
      主観と客観の分離
      自然を支配し操作する観察者――デカルトとベーコン
      自動機械としての観察者――ホッブズ
   2 「自己観察」視点の生成
      精神の独自性
      内面を覗く観察者――ロック
      自然と一体化する観察者――シャフツベリー
   3 「観察者」視点の社会化
      感覚一元化と社会化
      大衆化された観察者――アディスン
      社会的利益の観察者――ヒューム
      共感による公平な観察者――スミス
   4 自己観察者と絶対的観察者との葛藤

B 視覚と経験
V  感覚の序列――十七・十八世紀における「視覚」「触覚」概念の変容とその地位――  山中浩司
   1 洞窟とイメージ――視覚をめぐる幻影と悟性
      光の形而上学
      光学装置と「絵」
      視覚と幻影
   2 視覚と触覚――モリヌークス問題と経験論
      触覚の二つの様態
      二つの幾何学
      二つの幾何学の変奏
   3 触覚と生理学
      神経
      物質と生命

VI 街衢へのまなざし――近代における都市経験とその言語表現――  三谷研爾
   1 経験された都市
   2 都市空間と視覚技術
   3 枠視の形式
   4 正しき都市像――ニコライの場合
   5 遊歩する身体――リヒテンベルクの場合
   6 ジオラマの愉悦――シュティフターの場合
   7 都市文学の原卿

VII 視覚と距離――ゲオルグ・ジンメルとアロイス・リーグル――  奥田隆男
   1 シンメトリーの問題
   2 美術史における形式分析
   3 美的距離――浮遊する眼
   4 社会学的距離
   5 距離化としての近代――主観主義の問題
   6 注意図しての眼差し

VIII視覚性の政治学――モダニズム美術の視覚をめぐって――  尾崎信一郎
   1 視覚性とは何か
   2 透視図法とその視覚性
      透視図法と科学主義
      物語と描写
   3 光学器械と視覚性
      象徴としての光学器械
      視覚における無意識
   4 モダニズム美術と視覚性
      クレメント・グリーンバーグのモダニズム理論
      モダニズム美術における視覚性の本質
   5 モダニズム美術の視覚性への批判
      細部と持続
      アンフォルム

あとがき
索引




■引用・まとめ
太字見出しは、作成者による。
I  ルネサンスにおける遠近法――キュクロプスの眼とアルゴスの眼のあいだで――  岡田温司
遠近法
対象が奥行きに向かってどのように縮小していくかを把握することが、とりもなおさず遠近法の最重要課題だからである。(p.23)

ルネサンス遠近法のパラドックス
だが、ルネサンスの画家たちが求めていたのは、不在の一点(ブルネッレスキの覗き穴)へと表象を秩序立てることではなく、むしろ表象の平面に観る者の眼を引き留めることであっただろう。絵画の「透明さ」とは、理論家アルベルティの夢想であり、欲望(それゆえ実現不可能なもの)である。現実には、画家たちにとってそれは、ずっと不透明なものだったのである。
 この点で、おそらく実作者たちは、ルネサンスの遠近法がはらむひとつのパラドックスを自覚していたにちがいない。消失点へと眼を引きつけることは、遠近法の至上命令ではあるが、無限の彼方にあるその点は多くの場合、画面の中央に位置している。一方、当然のことながら画面の中央には、物語の主要なモティーフが配されなければならない。ところが、消失点の原理に従うなら、画面中央に近づくにつれて、徐々に小さくなってしまうことになる。これでは、物語を読み取らせるという「歴史画」本来の目的から言うと本末転倒である。(p.40)

美術史の遠近法再考と二項対立
いまや古典となったこれらの著作を改めてひもといてみると、興味深い共通点に気づかされる。それらは、どれも二項対立を想定しているのである。具体的に言うなら、ブライソンは「凝視(gaze)」と「一瞥(glance)」、アルパースは「遠近法」的な視覚と「描写」的な視覚、フリードは「演劇性(theaticality)」と「没入(absorption)」である。そして、いずれの場合も大筋において、前者の側が、ルネサンス的な遠近法のヴィジョンに対応すると考えられる。(p.47)

II 近代的視覚の形成――科学革命における観察と実験――  大林信治
ガリレオと観測、予測、実験
以上のことからドレイクは、ガリレオが天体望遠鏡の発明によって天文学に関心を向ける前に実験的で数学的な近代科学の方法を確立していたというのである。確かにこのことを考えあわせると、天文学におけるガリレオの観測が予測に対する実験的性格を持っていることもよく理解できるように思われる。(p.83)

III 視覚技術の受容と拒絶――十七〜十九世紀における顕微鏡と科学――  山中浩司
王立協会と科学の視覚化
 王立協会は、実験哲学の研究を実際に推進する組織であると同時に、「新哲学」を社会に宣伝する機関でもあった。その例会に参加する十分多くの魅力的な聴衆を獲得するための戦略は、ソサイエティーの重要な政策をなしていた。ソサイエティーは公演芸術のように科学を視覚化していったようにみえるとハンターは述べている。フックのような有給の職員によって実験をデモンストレートすることはしたがって、この組織の活動のもっとも重要な部分を占めている。(p.110)

王立協会の例会での様々なデモンストレーションは、こうしたレンズを磨いたり、機械を製作したりする技術職人たちと、フックのようなキュレーター(実験管理者)、レンやボイルのような「哲学者」たち、そして「証人」となる聴衆の存在によって構成されていた。(p.111)

 ハーウッドは初期の王立協会が二つの活動を同時に展開していったと主張している。科学的な活動とレトリカルな活動、つまり、「新哲学」を「実行すること」とそれについて「書くこと」である。フックの観察が進行するにつれてソサイエティーの評議会は、その図版の印刷が「ソサイエティーの公的イメージを確立し、強化し、保護することをますます強く意識するようになった」。(p.112)

顕微鏡の身分低下
十七世紀末には、多くの顕微鏡製作者が婦人やアマチュアの愛好家たち向けの旅行携帯用顕微鏡を製作し、顕微鏡はこうした人々の間で急速に普及した。ところが、そうしたさなか、一六九二にフックは、「顕微鏡は、その発明、改良、利用、無頓着と軽視に関して、望遠鏡と同様の運命を歩んでいる。現在では顕微鏡の唯一の信奉者はレーウェンフックで、彼を除いては、気晴らしや娯楽のため以外にこの器具を利用する者について聞くことはなくなった」と述べて、顕微鏡研究の衰退と趣味化を嘆いている。こうした変化が、医者たちをますます顕微鏡研究から遠ざけていったと考えることは困難ではない。それは次第にまじめな研究の道具とは受け取られなくなっていった。(p.123)

IV 視覚の社会化――「観察者」視点の生成と変容――  生越利昭
視覚の社会化
 以上の考察から明らかになったように、西欧近代において自然的世界についての「外部観察」から出発した観察者視点は、「内部観察=自己観察」として発展・深化し、さらに社会的相互作用による「自己相対化の視点(視覚の社会化)」に到達する。文明化の進展と共に社会慣習や制度に対する信頼が高まるにつれて、自己観察者の視点は強固になるが、他方、そうした文明化による相互交流が未熟で社会慣習に信頼がおけない場合や、逆に文明化が高度に進んで弊害が露わになる場合には、しばしば絶対的観察者の視点からの慣習批判が行なわれる。その後、この二つの視点は、その都度どちらかに重点を移し相互批判を繰り返しつつ継承されてゆく。(p.173)

V  感覚の序列――十七・十八世紀における「視覚」「触覚」概念の変容とその地位――  山中浩司
クレーリーの議論との二つの違い
 第一に、十七世紀世紀末以降顕著になる視覚と触覚のリンクの原因の一つが、次の点にあることを私は重視する。それは、視覚のモデルとしてのカメラ・オブスクーラが「視覚」の内容を書き換えたために、いわば「視覚」が「現実」から浮き上がるという事態が生じたことである。その結果、「視覚」と「触覚」の間にはある間隙が発生することになった。(p.186)

 第二に、本章は、十八世紀の感覚理論にはカメラ・オブスクーラとは全く異質な議論が影響して、触覚優位説が強化されていることを指摘するつもりである。十九世紀初頭に生じた変化を強調するあまり、クレーリーは十七、十八世紀における視覚についての理論が不動の安定した構造をもっていると想定してしまっている。彼が、ビュフォンやモーペルチュイやハラーがディドロやコンディヤックに及ぼしたであろう影響も、その延長上に位置するカバニスの生理学的感覚論も、おそらくは意図的に考察からはずしている。こうした脱落によって初めて、十九世紀とそれ以前の視覚論の相違は明確なコントラストをもって描かれるのである。しかしながら、十八世紀の感覚論者たちにおける「触覚」優位説は、ロックからバークリにいたる十七世紀的な(カメラ・オブスクーラ的)感覚理論とは非常に異なったものである。十七、十八世紀の感覚理論のこうした差異は、カメラ・オブスクーラと写真のエピステモロジカルな特徴を対照させようとするクレーリーの戦略の前にかすんでいる。(p.187)

カメラ・オブスクーラと眼
 しかし、カメラ・オブスクーラと眼を比較することによって、視覚を平面上に展開される絵と等価なものとする理解を決定的にしたのはケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630)の論考である。ケプラーは視覚対象、光、眼(あるいはカメラ・オブスクーラ)そして視覚という四者の関係について次のように説明した。光を当てられた対象のあらゆる点は全方向に対して放射状に光を発出する。しかし、瞳孔に達する光線だけが眼の中に進入することができる。したがって、それぞれの点から発出された光線は、瞳孔にその底面をもつ円錐体を形成することになる。瞳孔に達した光線は眼の中で屈折させられ、網膜の凹面上で再び一点に収束する。もし、眼が何らかの異常をもっていれば、光線は網膜上の像はぼんやりしたものとなる。こうしてケプラーは経験的に確認されている眼鏡の効果を収束点を移動させるレンズの働きとして理解させることができた。「かくして視覚は、網膜の凹面上に形成された、見られる物の絵によってもたらされる」と彼は述べている。「視覚は絵のごとく」理解されることになった。(p.193)

 視覚をめぐるデカルトのこの二つの注意を引く議論、つまり、視覚を一種の触覚とみなす議論と、視覚と視覚対象の間の関係を表象関係とする議論は、これ以降繰り返しそのヴァリエーションを見ることになるだろう。どちらの議論も「視覚」を「絵」のごとくみなすことに由来している。(p.195)

視覚と記号
 ロック、ライプニッツ、バークリの議論は、それぞれ異なった戦略の中に位置づける必要があるが、共通する問題を抱えている。これらの論者においては、「視覚」が何らかの内容を指示する「記号」のようなものだということがすでに前提となっている。記号の内容は、ロックにおいては「経験」(この場合触覚的経験)であり、ライプニッツにおいては「幾何学的観念」であり、バークリにあっては「触覚の観念」である。「記号」の表現と内容が結びつくのは、ロックにおいては無意識の「判断」であり、ライプニッツにあっては「定義」であり、バークリにあっては恣意的な「習慣」である。つまり、問題は何をシニフィアンとし、何をシニフィエとするか、そして両者を結びつける指示作用をどのように考えるかということをめぐっている。(p.199)

VIII視覚性の政治学――モダニズム美術の視覚をめぐって――  尾崎信一郎
モダニズム美術を巡る二つの対立
 かくしてモダニズム美術をめぐる二組の対立が明らかとなる。一つは対象との距離をめぐる一望性と細部の対立であり、もう一つは主として作品の享受をめぐる瞬時性と持続性の対立である。いずれも観者ないし鑑賞者を決定的なモメントとして成立する点にまず注意を喚起しておきたい。(p.301)





*作成者 篠木 涼
UP: 20080611
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