『何が社会的に構成されるのか』
Hacking,Ian 1999 The Social Construction of What?,Harvard University Press
=20061222 出口 康夫・久米 暁,岩波書店,369p.
last update: 20130823
■Hacking,Ian 1999 The Social Construction of What?,Harvard University Press,=20061222 出口 康夫・久米 暁 『何が社会的に構成されるのか』,岩波書店,369p. ISBN-10:4000241591 ISBN-13:978-4000241595 \3570 [amazon]/[kinokuniya]
■内容(「MARC」データベースより)
ジェンダー、クォーク、人種、児童虐待…。これらはどういう意味で社会的に構成されていると言われているのか? 「サイエンス・ウォーズ」として脚光を浴びた「社会的構成」を巡る論争の哲学的な意味を冷静な態度で分析する。
■目次
はじめに
第1章 なぜ「何が」を問うのか
第2章 多すぎるメタファー
第3章 自然科学はどうなのか
第4章 狂気――生物学的かあるいは構成されるのか
第5章 種類の制作――児童虐待の場合
訳者あとがき
■引用
「 ただ残念ながら、ある事柄が社会的に構成されたものだとする分析は、つねに人々を束縛から自由にする力を持ち合わせているわけではない。(略)>4>(略)ある事柄が社会的構成物だという主張は、おもに、すでに解放への軌道に乗っていた人たちを、さらなる自由へと一層後押しするだけの力しかもたないのである。」(pp.4-5)
「(略)社会的構成とは何なのか。また、社会構成主義とは何なのか。情熱にかられた激しい言葉が、あたりを飛び交っているのを聞けば、それを沈静化させるために、誰しも最初に定義を望むかもしれない。それとは逆に、われわれは、物事を分析した上で、それを社会的構成物だと決めつける主張の目的をしっかり見定める必要がある。「字義どおりの意味を問うな、目的を問え」というわけである。」(p.12)
「(略)「社会的構成」という表現がこれまで使われてきたのは、なによりもまず問題意識を目覚めさせるためであった。問題意識を覚醒させる仕方には二つあった。一つは、包括的な大風呂敷を敷く方法、もう一つは、より局所的な主張を展開するやり方である。前者は、「われわれが生きて経験している事柄や、われわれが棲んでいる世界の大部分(ないしすべて)は、社会的に構成されたものと見なされるべきである」と論ずる。後者にあたるのは、ある特定の事柄Xが社会的に構成されたという、主題をより限定した、さまざまな立論である。(略)確かに、局所的な主張は、>13>包括的なそれによって含意ないし示唆されるだろう。しかし、局所的な主張は、ある特定の事柄について、人々の問題意識を喚起するという、明確な目標をもっているのである。また局所的な主張どうしは、原理的には、互いに独立な仕方で立論されているといえる。(略)そして本論が扱うのは、ほとんど、この局所的な主張のほうである。」(pp.13-14)
「今われわれが必要としているのは、なにもXが女性難民であるという特殊なケースだけではなく、社会的に構成されていると言われる他のさまざまな項目に対しても、何が構成物であり、何がそうでないかを、きちんと区別できるような一般的な概念装置である。そして「観念」が、このような概念装置としてふさわしいかどうかは、確かに疑問が残る。もっと限定された意味を持つ、「概念」とか「種」という言葉が候補としてないわけではないが、とりあえずは、この「観念」を使い続けざるをえないのかもしれない。その場合でも、私は、この「観念」を、「何かよく分からないが、とにかく心理的と言えるもの」を意味する言葉としては用いない。そうではなく、「観念」を、通常は公共的な場に登場に、その中で提案されたり、批判されたり、賛同されたり、退けられたりするようなものとして理解したい。これは、われわれがその言葉を通常用いている仕方に即した理解でもある。
観念は何もない真空の中に存在しているわけではない。それはつねにある特定の社会的な状況の中に置かれている。その中で観念ないしは概念や種が形作られる社会的な状況を、ここでは「マトリック>23>ス」と呼んでおこう。(略)女性難民という観念がその仲で形作られたマトリックスとは、さまざまな社会機関、論客、新聞記事、弁護士、裁判所の判断、入国審査の手続きといったものからなる一連の複合物である。さらに、このマトリックスには、侵入を阻む障壁、パスポート、入国審査官らの制服、空港の入国審査カウンター、不法入国者仮収容所、裁判所の建物、難民の子供たちのための野外活動施設といった、入国管理システムを支える、いわば物質的な下部構造も含まれる。これらの物質的な下部構造もまた社会的である。しかし、われわれにとって重要なのはその「意味」だからという理由で、それら下部構造を単に社会的なものだと見なしてしまうのは早計だ。それらはあくまで物質的であり、そして、まさにそれが物質であることによって、人々に対して実質的な影響を及ぼすからである。また逆に、女性難民についての観念が、女性難民を取り巻く物質的な環境に影響を及ぼすこともある((略))そして今度は彼女たちを取り巻く設備が、その社会的意味を知らない人も多い女性難民たちに影響を与える((略))。これら難民にとって知りようもない周りの設備の社会的意味ではなく、その物質としての性質が彼女らに直接影響を与え>24>るのである。」(pp.23-25)
「 観念や分類は、ある何らかのマトリックスの中でのみ、一定の社会的な作用を及ぼすということは自明であり、以上の議論においても、当然、そのことは織り込みずみである。しかし、私はここであえてマトリックスよりも、私が女性難民の「観念」と手短に呼んだもの、すなわち、人々を女性難民としてくくる分類法、ないしはそのようにくくられた人々からなる「種」の方を強調したい。Xの社会的構成と銘打たれた書物を読んでみれば、社会的に構成されたと言われているのは、ほとんどの場合、Xという観念(もちろん一定のマトリックスの中にあるそれ)であることが分かる。そして確かに、このように社会的構成物として理解された観念こそが問題なのである。ある人にとって、女性難民であると分類されることが、死活的に重要な問題だというのは、十分ありうる話なのである。というのも、もし女性難民と分類されなかったならば、その人は強制送還されるか、不法滞在者として身を隠すか、または市民権を獲得するために誰かと偽装結婚をすることになるやもしれないからである。そして、この分類法や観念を通じて、マトリックスは、ある特定の女性の運命に影響を及ぼすことになる。彼女は、カナダに留まるためには、一人の女性難民にならねばならない。そこで彼女は、女性難民と認定されるには、どのような特徴を身につけるべきかを学び、どのような生活を送るべきかを知るにいたる。そしてそのようにして知った生活を実際に送るうちに、彼女は自らをその生活に適応させ、ついにはある特定の種類の人間、すなわち一人の女性難民になるのである。すると、まさに女性難民個々人やその人が持つ経験>25>は、「女性難民」という分類法を取り囲むマトリックスの中で構成されるのである、と言うことも意味をもつようになるのである。」(pp25-26)
「女性難民という先の例において、変数Xを埋める構成物とは、直接的には、個々の女性難民ではなかった。Xとは、なによりもまず、人々が属する一つの種としての女性難民であり、人々を女性難民とする分類法そのものであり、そしてその中で分類が行われるマトリックスなのであった。そして、あくまで、そのように分類された結果、さらに言えば、そのように分類されることで、個々の女性たちや彼女たちの自分についての経験までもが変えられるのである。」(p.26)
「(略)例えばカナダにおいて、人々を「女性難民」としてくくる分類の仕方は、無理の無い、むしろ不可避的なものに見えるという現状があるからこそ、その分類法は、不可避というにはほど遠いと指摘することは、実際に意味のあることなのである。また続けて次のように論ずることも可能である。この不可避のものではない分類法や、その分類法を包み込むマトリックスが、女性難民の何人かの自己認識を変え、経験を変え、そして行動を変えるのであると。>26>
このように間接的な仕方で、人々自身が分類法によって影響を蒙り、そして――もしそう言いたいのなら――女性難民個々人もまた、ある種の人間として、社会的に構成されるのである。」(p.26)
「 社会的に構成されたと言われている事柄には、実は、三つの異なったタイプを区別することができる。だが、この三つのグループは、それぞれきわめて一般的で、また互いの境界があいまいなので、それらにぴったりあう名前を見つけるのはなかなか難しい。一つのグループが「対象」、もう一つが「観念」として、三つ目のグループを表す言葉を探すために、クワインの言う「意味論的上昇」――すなわち、ある事柄について語ることから、それを表す「語」について語ることへのシフト――によって生じた一群の言葉を書き出してみる必要がありそうだ。すなわち、「真理」「事実」「現実」などなど。これらの言葉を一まとめにする定着した呼び名が見当たらないので、ここでは仮にそれらを「エレベーター語」とでも呼んでおこう。というのも、それらは、エレベーターが乗客を上のフロアへと運ぶように、哲学の議論においては、議論の意味論的レベルをあげる役割を果たしているからである。」(p.48)
「 観念とは、それについて議論されたり、誰かによって受け入れられたり、みなで共有されたり、公に表明されたり、いろいろな人によって練り上げられたり、意味内容が明確にされたり、異を唱えられたりする、そういったものである。また観念とは、ぼんやりしていたり、含蓄があったり、深遠だったり、馬鹿々々しかったり、役に立つものであったり、明快であったり、独特だったりといった、いろいろな性質を持つものでもある。グループ分け、分類(ないし分類法)、種(例えば、女性難民)といった事柄もまた、ここでの議論においては、観念の一種として取扱われる。」(p.50)
「(略)社会構成主義の政治的な立場表明を「自己満足」とか「ナツメロオヤジ」とか揶揄する際に忘れてはいけないのは、以下の二つである。まず一つは社会的構成にまつわる議論のかなりの部分は、アメリカにおいて、おそらく百年ほど前に始まった、社会問題へのアカデミックなアプローチの仕方を、そのまま受け>87>継いでいるという点である。ちなみに、このアプローチの仕方は、『社会問題』という学術雑誌と、シカゴを中心とする才気ある一群の社会学者たち、いわゆるシカゴ学派を生み出すことになったものである。ここで問題なのは、シカゴ派社会学は、社会構成主義が否定しようとしていた対象そのものであったということである。社会構成主義は、自らをその批判者として売り出したはずの当の相手の言説の一部となり果てているのである。
第二は、構成主義者たちが、過去の一定の社会問題への過剰の思い入れゆえに、木を見て森を見ない式の視野狭窄に、驚くほど簡単に陥ってしまっているという点である。ある種の構成主義者たちは、過ぎ去った時代のある特定の社会問題を取り囲む歴史的・社会的文脈に対する一種の所有権を主張したがっている。言いかえると、自分たちは、その文脈を現代において共有しているのだと言い張りたいのである。このような態度は、実は、骨董趣味とでも呼べる、過去への尊敬の念の裏返しとも言える。ただ、この過去への尊敬の念は、そのような感情を抱いていると指摘された場合、当の本人たちは、良い顔をしないという点で、いささか風変わりなものではある。そしてこのような過去の社会問題への角の思い入れ、一体感は、また、近視眼的視野狭窄をも引き起こす。にーちぇ曰く、「そのような立場は、現在あるところのほとんどの事柄から目を閉ざしている。それは多くの事柄に顔を近づけすぎ、したがって目の前のものしか見えない状況に陥っているがゆえに、ますます少ないものしか見ないのである。このような立場は、自らが見ている対象を、それ以外の何物とも関連づけることができない。そしてそれ故に、その立場は、自分が見たものすべてに同じだけの重要性を与え、その結果、各々の個別的な事柄に対して、過度の重要性を付与してしまうのである」(Nietzsche 1874/1983.74)」(pp.87-89)
(※ニーチェの引用部分は邦訳『ニーチェ全集4 反時代的考察』小倉志祥訳,ちくま学芸文庫,1993年所収――引用者)
「(略)カント、ロールズ、フーコーは倫理学において、道徳的命令をいかにして築くか、そして、なぜ築かねばならないかを示した。(社会的)構成主義者にも同様に、「構成」の原義に近い隠喩に忠実であろうとする信条を持ちつづけてもらいたい。構成された物と呼ぶに値するものは、後の段階は前の段階の産物の上に、あるいは、その産物を材料として築かれていくといった具合に、いくつかのはっきりとした段階をふんで、構成された物、あるいは、構成されている物である。構成された物と呼ぶに値するものは歴史を持っている。しかし、どんな歴史でも良いというわけではない。それを「築く」歴史でなくてはならないのである。一人の人が「構成」という隠喩を拡張して使い、「築く」歴史をもたないものまで構成された物として扱った場合には特に害はないが、多くの人がそれにならった場合には「構成」という隠喩は死んでしまうのである。」(p.119)
「社会的・文化的現象に関する構成主義的分析を支持するほとんどの人にとっては、形而上学よりも政治・イデオロギー・権力のほうが重要な問題なのである。構成について語ることは知識や分類分けの権威を弱める傾向にある。構成について語ることは、われわれが見出してきた世界のあり方やわれわれの現在のやり方を、否認したりよりよい対案を提案したりすることによってではなく、「仮面をはがす」ことによって、それらが不可避であるというのんきな想定に意義を唱えるのである。構成主義が仮面をはがして正体を明らかにしようと着目するものには、まずは人が含まれる。すなわち、子供性・ジェンダー・若者のホームレス・危険・聾唖・災害・病気・狂気・レスビアン・読み書き能力・著者である。次に人の種類である。すなわち、女性難民・子供のテレビ視聴者・心理学者の被験者である。さらに、連続殺人やホワイトカラー犯罪といった行動があり、また、怒りのような感情もある。われわれは人口動態統計とポストモダ二ズムを手にしている。また、われわれはこれら多様な事例を別々の仕方で着目することもできる。たとえば、若者のホームレスは状態、ホームレスの若者や家出人は人間の種類というように。
これら多岐にわたる項目をクォークや、トリペプチドについての知識のような無生物の種類から区別すべきであろうか。なぜ人は無生物と違うのか。答えのヒントは、これほどまでに構成主義が主張されるにいたる動機が何かを考えれば、得ることができる。構成主義者は権力や管理の問題に大いに関心をいだいている。仮面をはがす目的は、知識の分類がいかにして権力関係において使用されているかを示すことによって、抑圧されている人々を解放することである。」(p.134)
「人間の種類の重要な特徴は、人間の種類がそこに分類された人に影響を及ぼすとともに、そこに分類された人が今度は逆に自ら行動を起こし分類に影響を及ぼすことができるという点なのである。私はこの現象を「人間の種類に関するループ効果」と呼んだ。今では相互作用する種類という名前の方が好きであるが。
基本的なアイディアはあきれるほど単純だ。人は自分のことを意識する。人は自分が何であるかを知ることができる。人は潜在的には道徳的行為者であり、道徳的行為者にとって自律こそが最も価値あることだとルソーやカントの時代以降、西洋においては考えられてきた。クォークやトリペプチドは道徳的行為者ではなく、それゆえクォークにループ効果はない。したがって、自然科学に適用される構成主義は、まずは、形而上学的・認識論的な立場であり、実在や推論についての見方に関わる。一方、構成主義が人文社会科学に適用される場合は、第一の関心は道徳的問題にあるに違いない。」(p135)
■概要
はじめに
「カルチャー・ウォーズ」、「サイエンス・ウォーズ」さらには「フロイト・ウォーズ」。これらはいまどきの知性をいろどる、いくつかの論争に対するレッテルとして、ひろく用いられている言葉である。〜中略〜激しい論争を戦争と譬えてよしとする風潮は、本物の戦争の存在を、自然で不可避なもの、人間のありようの一部とする見方を助長するものといえよう。(pp.vi-vii)
- 第一章「なぜ『何が』を問うのか」
「Xの社会的構成」、「Xを構成する」という本のタイトルが多い。
↓何故か
社会的構成というアイディアが、人をさまざまな束縛から解放する、驚くべき効果を持っていた(p.4)
ソーカル事件はとんでもない大騒動を引き起こした(p.7)。しかし本書の目的は、ソーカルが登場する以前から三十年以上にもわたって論争の渦中であり続けた「社会的構成」という概念を分析することにある(p.7)。
相対主義
「われわれは一体、相対主義の何をそんなにこだわっているのか」(p.9)。
・「どんな意見でも、他の意見と同じぐらい立派である」(p.9)
・相対主義の持つさらなる危険性としては、歴史修正主義がある。ホロコースト・すなわちナチスによる大量虐殺を否定しようとする(pp.9-10)
・知識人やナショナリストたちは、インド、イスラエル、イスラム世界、アメリカといった世界のあちこちに見られる宗教的原理主義に恐れを抱いている(p.11)
最初に定義をするな、代わりに意図を問え
「社会的構成」という表現がこれまで使われてきたのは、何よりもまず問題意識を目覚めさせるためであった。
↓そのための二つの方法
- われわれが生きて、経験している事柄や、われわれが棲んでいる世界の大部分(ないしすべて)は、社会的に構成されたものとみなされるべきである(p.13)。という立場
- ある特定の事柄Xが社会的に構成されたという、主題をより限定した、さまざまな立論(p.13)。
不可避性に抗して
社会構成主義は、社会の現状に対して批判的である。「Xが社会的構成物」であるとする論者は、だいたい次のような見解を抱いているのである(p.14)
- Xのこれまでの存在性には必然性はない(p.14)。
- Xの今日のありようは、まったくもって悪いものである(p.15)。
- もしXが根こそぎ取り除かれるか、少なくとも根本的に改められるかすれば、われわれわの暮らしは今よりずっとましになるだろう(p.15)。
ジェンダー
すべてのフェミニストが社会構成主義に好意的ではない。
Ex.バトラー…「おそらく、性(セックス)と呼ばれる構成物も、ジェンダーと同じように文化的に構成されたものである…結局、性とジェンダーとの間の違いなどは、実はそもそも存在しないのである」(Butler 1990,7)
女性難民
ムーサは、その著作で、女性難民の受け入れ側国の視点で議論を行っている(p.22)。
ムーサが論じているのは、女性難民というある種の人がまさに人間のある特別な「種」として社会的に構成されているということである。もしくは、端的に、構成されているのは、女性難民という「観念」なのだ、と言ってもよかろう(p.23)。
マトリックスの中の観念
観念は何もない真空の中に存在しているわけではない。それはつねにある特定の社会的な状況の中に置かれている。その中で観念ないしは観念や種が形作られる社会的な状況を、ここでは「マトリックス」と呼んでおこう(p23-24)。
・女性難民という先の例において、変数Xを埋める構成物とは、直截的には、個々の女性難民ではなかった。Xとは、なによりもまず、人々が属する一つの種としての女性難民であり、人々を女性難民とする分類法そのものであり、そしてその中で分類が行われるマトリックスなのであった(p.26)。
一つの前提条件
「Xが存在する必然性はなかった」というテーゼ(1)が、いかにしてXについての社会的構成論のお膳立てをしているか、を考えてみよう(p.27)。
↓
Xが社会的に構成されたと、まともな人々が議論をし始めるのは、次のことを見出した場合だけなのである(p.27)
↓
- 現状では、Xは当たり前のことだとされており、不可避の事柄のように思える(p.27)。
・テーゼ(0)はXそのものについての前提ではない。それは、Xについて社会的構成を云々する際に、成り立っていなければならない前提条件なのである(p.28)
自己
「個人の自己」という観念を、自然なもの―さらに言えば、不可避なもの―と受け取っていた人々〜中略〜は、現状では原子論的な自己観が当たり前とされている、すなわちこの事柄に関しては、条件(0)は満たされていると感じている。そしてもちろん、この現状を踏まえたうえではそれは不可避でもなんでもない、というのがその人たちの言い分なのである(p.36)。
本質主義―人種を例として
「人種」に関して、議論の出発点となる前提(0)を、一段と強くすると本質主義に行きつくことは明らかであろう(p.37)
こここでの本質主義とは、もちろん「人種は、その人の本質の一部をなす」と主張する立場を意味する。この種の本質主義は、かなりしばしば、人種差別主義の理論的支えになってきたことは確かである(p.37)。
人種についての徹底的な社会構成主義は、人種本質主義にくらべ、確かにはるかに政治的に正しくはある。反人種差別主義の立場から書かれた書物や論文は、人種に対する本質主義的な態度を弾劾しているものがほとんどなのである(p.38)。
感情
グリフィスの引用によれば、そこでは、「感情とは社会関係のその都度の場面において臨機応変に演じられる役割(社会的に構成された一定の行動パターン)である」とされる(Averill 1980, 312)。しかし、これらいずれのモデルにおいても「社会的構成」というレッテルは事柄の正確な記述のためというより、むしろ一種の符牒として用いられている(p.42)
コミットメントの濃淡
ごく大雑把に言って、先にあげたテーゼ(1)(2)(3)をどれだけ真剣に受け止めるかによって、構成主義へのコミットメントの仕方にはさまざまな濃淡が生まれる(p.43)。
歴史的―アイロニカル―改良主義的・仮面はがし的―反抗的―革命的
歴史的…Xについての構成主義の中で最も控えめなタイプは、「歴史的」なそれである。このタイプはXがたどってきた歴史を示すことで、Xは社会的な過程をへて厚生されてきたものだということを主張する(pp.43-44)。→このタイプはXが良いものか悪いものかには一切コミットしない歴史的構成主義者というのも十分ありえる。
アイロニカル…Xは社会の歴史やさまざまな社会的な力の産物であり、きわめて偶然的なものである。だがそれでも、われわれは、この社会に生まれたものとして、そのXを「宇宙」の一部をなすものと捉えざるをえない(p.44)。→リチャード・ローティにヒントを得た
改良主義的…Xが不可避のものではないと見取った以上Xをよりましなものにするために、そのいくつかの側面に少なくとも手を加えることぐらいは現状でも可能だろう(p.45)
仮面はがし的…ある観念が「理論を越えて果たしている役割」がひとたび見抜かれるとその概念がもっている「実践における効力」もまた失われるだろう、というものである(p.45)
→マンハイムが主にその立場だが、この立場は、仮面をはぐという行為そのものは、あくまで知的な作業にとどまる。
反抗的…Xに関するテーゼ(1)(2)(3)をいわば体を張って主張する論者は、Xについて「反抗的」な構成主義者である(p.46)。
革命的…Xをなくすために世の中そのものを変えようと行動する活動家は、「革命的」と呼ばれてしかるべきであろう(p.46)。
対象・観念・エレベーター語
社会的に構成されたと言われている事柄には、実は、三つの異なったタイプを区別することができる(p.48)。
対象…世界の中に存在しているなにか(ex,家賃)
観念…グループ分け、分類、種といった事柄
エレベーター語(意味論的上昇)…それらの定義をたどっていくと、大ていは循環に終わる(p.52)。それらの意味内容や意味するところのものが、時とともに、大幅な、突然変異的とも言える変化を蒙ってきた(p.53)
普遍的な構成主義
重要なのは、バーガーとルックマンは、どんな意味であっても、普遍的な社会構成主義者としての名乗りをあげなかったということである。彼らは、例えばハチミツの味や火星を含め、すべての事柄が社会的構成物だなどとは主張しなかったのである(p.58)。
子供のテレビ視聴者
アルファベット順リストにおいてもっとも陳腐な「観念」の例は、「子供のテレビ視聴者」であろう。ここでは、「この『子供の視聴者』という、範囲が明確に区切られた『人間の種類』を表す『観念』こそ、一つの社会的構成物である」という主張がなされているのである(p.59)。→ex,Vチップ、国際会議
なぜ「何が」を問うのか―罪深き者その1、私自身
なぜわざわざ、対象と観念を区別しなければならないのだろうか(p.65)。
↓
観念と対象がしばしば混同されるから
概念と慣習と人々とは、互いに相互作用を及ぼしあっている。このような相互作用こそが、社会的構成について語るさいの、まさに最大の論点なのである(p.67)。
なぜ「何が」を問うのか―罪深き者その2、スタンリー・フィッシュ
スンタリー・フィッシュの主張:「クォークが社会的構成物である」と社会構成主義者たちが主張していると見なされたとしても、その主張は何の問題もなく「クォークは実在している」という考えと両立可能となろう(p.68)
物理学者のほとんどは、クォーク理論は、その当時、物理学者が直面していた問題に対する解答としては、それしかありえなかったものだと思っている(p.71)。
サイエンス・ウォーズの一つの重要な論点が横たわっているのである。科学理論が偶然的か必然的かに関する見解の相違を、私は第三章で、サイエンス・ウォーズにおける「第一の係争点」と呼ぶだろう。〜中略〜スタンリー・フィッシュと違って、私は構成主義者と科学者の間に平和が訪れることなど望みはしない。私が望むのは、両者の見解がいかなる仕方で対立しているかについての、さらには、なぜ、両者が、おそらくこの先もけっして互いに一致することがないかんついての、よりよい理解なのである(p.72)
相互作用
人間を分類する仕方が、分類される当の人間と相互作用を及ぼしあうのはなぜか。
・一定の種として分類されることで、人々はおそらく、自分自身をその種の人間とみなすようになる(p.72)。
・われわれのすべての行為は、一定の仕方で記述されるというのもまた事実である。すると、われわれが選びうる行為は、記述という純然たる形式的な側面に関しては、われわれの手に入る記述の仕方、すなわち観念に依存している(p.72)
・分類というのは、単に言葉の上だけの操作ではなくさまざまな制度、しきたり、さらには他の事物や人々との実質的な相互作用の中で遂行される作業なのである(pp.72-73)。
☆相互作用は単に起こるのではない。それは明らかに社会的な多くの要素、さらに、明らかに物質的な多くの要素を含む、一定のマトリックスの中で起こる(p.73)
一方で、心を持たない事物は、その定義からして、人間がそうするように、自分たちについて意識することはない。ある一人の女性が、自分が女性難民というある種の人間であることを学び、その種にふさわしいように行為するようになることは十分にありうる。が、クォークが、自分たちがある種の存在者であることを学んだり、その結果、それにふさわしいふるまいをし出すということはない(p.73)。
二つの別個の問題群
- 偶然性や形而上学や安定性をめぐる問題群
- 確かに生物学的とも言えるが、なによりも相互作用にかかわる問題群
二つの問題領域
・科学の安定性の内在的な説明と外在的なそれとの対立
・人々が「Xの社会的構成」について語る際、たいていの場合、一緒くたに「X」と表現されてはいるが、実は、互いに異なった、複数のそれも相互作用を及ぼしあう事柄を年頭に置いていたのであった(pp.77-78)
自然科学とは何か
ダナ・ハラウェイの指摘…霊長類の行動に対しての説明がその説明を与える社会を反映している
「イギリス人が報告するサルはどうしようもなく強情で、アメリカ人のそれはえげつないまでに先取の気性に富み、日本人から見たサルは身分の違いにうるさくかつ協調的、フランス人のサルは性関係が乱れ気味」(p.146)
誰が科学についての社会構成主義者なのか
社会構成主義的な考え方の例として、私は既にこれまで二つの著作に何回も言及してきた。(p.147)
ピカリング 『クォークを構成する』(Pickering 1984)
ラトゥール・ウールガー『実験室の生活―科学的真実の社会構成主義』(Latour and Woolger 1979)
さまざまな区別
社会学者にとっては、科学のプロセス、言い換えると、科学的活動こそが、研究の主要な対象となるべきことなのであり、他方、科学者にとっては、最も議論を呼んでいる哲学的問題とは、プロダクト、ないしは真理の集まりとしての科学なのである(p.152)。
私が「係争点」なるものを列挙することで強調したいのは、むしろ両者の和解をはばむ哲学的な障壁、言い換えると、たとえお互いが明晰で誠実な研究者であっても、永遠に一致点が見出せないような真の対立点の存在なのである(p.155)。
第一の系争点―偶然性
ピカリングが、高エネルギー物理学の実態の展開はかなり偶然的な要因によるものだと言うとき、彼が言いたいのは、〜中略〜そもそも加速器を必要としないような、別の想像上の科学を考えてみること。〜中略〜クォークなるものがまったく登場しないような科学を読者に思い描かせることである(p.157)。
ピカリングは、クォークの存在を否定しているのではけっしてない。彼は単に、物理学は、クォークを想定するという道筋をたどる必然性がなかったということを主張しているだけである(p.159)。
彼の議論は、「真理」といった哲学の手垢に汚れた言葉にからめとられない仕方で、科学者と構造主義者の間の深刻な意見の不一致の基礎に横たわっている事柄を切り取って見せてくれているのである。そして「真理」に代わって、彼の最近の仕事で最も重要な役割を果たしている二つの言葉。それが「抵抗」と「順応」である(p.160)。
抵抗と順応
せっかく作られた装置が実験の現場でうまく作動しないという状況を、ピカリングは「抵抗」という言葉で表そうとする。で、そんな抵抗に出会ったからといって、そうやすやすと音を上げたりしないのがその道プロ。科学者は、なんとかしてその抵抗に「順応」しようとする。
頑健なかみ合わせ
理論と現象論と図式的モデルの「かみ合わせ」が「頑健」なのは、つぎのような場合、すなわち、その実験を再現する試みがとてもスムーズにうまく行った場合、いいかえると、新しい実験装置を持ち実験の仕方について別の暗黙知を共有し、実験全般について異なった文化をもっている、別の研究者グループが新たな大きな抵抗に出会わずに、同じ実験を繰り返すことができた場合である(p.164)。
偶然性は「前もって決まっていないこと」を意味する
クォーク(の観念)を構成物だとする構成主義者にいわせれば、「順応」と「抵抗」のプロセスの結果は、前もって決定されているものではないのである(p.164)。
偶然性は不完全決定性を意味しない
クワインの概念…「経験による理論の不完全決定性」
クワインが着目したのは、どのような経験の一定の集まりが得られたとしても、その経験は数多くの互いに両立不可能な理論と論理的に両立可能だという事態である(p.165)。
科学の進化の過程で現れうる頑強なかみ合わせの在り方をあらかじめ決めている要因など何もない。〜中略〜このような仕方で理解された偶然性の概念を厄介視するのはいったい、誰だろうか。それは形而上学者ではなく、物理学者だろう(p.167)。
異星人の科学
異星人の物理学を翻訳することで、それがわれわれの物理学と等値であることを確かめるというワインバーグの考えは、一種の論点先取りに陥っている(p.171)。
系争点
構成主義者が唱える「偶然性テーゼ」
- 物理学の理論は、現在の理論がたどってきた道筋とは違う仕方で、たとえばクォーク理論を含まない仕方で発展することが可能であった。
- 想像上のオルタナティヴ物理学は、現行の物理理論と、どのような意味でも等値ではない。
第二の系争点―唯名論
事実
なぜある人々がpを信じるようになったのかを、pが真であるからだとか、真実に対応しているからだとか、端的に事実だからだという理由で説明してはならない(p.186)
唯名論
「ダグラスモミ」といった、普通によくある名前で呼ばれている対象のあいだには、それがダグラスモミと呼ばれていること以上の実質的な共有性質は一切ない。これが極端な名前主義者の主張である(p.187)。
↓対立する立場
世界は、その本来のあり方して、一定の構造を持っており、われわれは、その構造に則して世界を記述しているのである(p.188)。
系争点
「すべての人は生まれながら、アリストテレス主義者かプラトン主義者である」といういろいろな人があちこちで語っている言い草を借りるなら、社会的構成をめぐる現代の退屈な繰り返しに見える議論の背後にも、大昔から成仏できないでいる亡霊が潜んでいるのである。その亡霊を唯名論と名付けたのはスコラ哲学者たちであった(p.191)。
第三の系争点―安定性の説明
C・P・スノーは彼の有名な講義『二つの文化』で、すべての人文学者は、科学に関する最低限の知識として、第二法則を理解していなければならないと主張した(pp.191-192)。
二十世紀初頭の物理学では、相対論や量子力学の登場に代表される根本的な変化が数多く起こった(p.192)
↓それで
カールポパーは、一定の理論に安住せず、つねに推測と反証を繰り返すダイナミックな営みとして科学を描いた(p.192)。
いまや多くの科学の分野が安定期を迎えたという(p.193)
文化と科学
十九世紀物理学史の研究者であるノートン・ワイズは[A]そのものに対してではないが、[A]が暗黙裡に伝えようとしていたメッセージの一つ、すなわち、マクスウェル方程式は人間の文化とはまったく無関係だという考えに異議を唱えた。ワイズに言わせれば、文化と科学は互いに分離できないということは、まさにわれわれが出くわす厳然たる事実なのである(p.195)。
↓だがしかし…
このように形式に訴えた構成主義者の議論は、今のところ実質を欠いた空手形にすぎないのである。したがって、そのような議論が展開されるまで、われわれとしては、現在の形式を与えられている限りでのその法則や方程式を、歴史から独立なものと見なさざるを得ないのである(p.198)。
大きな飛躍
ワインバーグの主張[A]は、第一の係争点にはかかわっていない。〜中略〜[A]が主張しているのは、その方程式は科学の中で安定した存在となっているということ、言い換えると、科学が今後、どのように進展しようとも「生き残り」ことが期待できるということである(p.199)。
『科学革命の構造』でクーンは、科学が世界について何らかの最終的なビジョンへ向かって前進しているという考えを否定している。クーンによければ、科学の歴史において見られるのは、むしろ、以前の信念から離れていくという形での進展なのである(p.202)。
外的な説明
自然法則の安定化にとって外的な諸要因が働いているとラトゥールが考え、そんな要因は無関係だとワインバーグが主張する以上、物理学者の法廷で、そのような弁明をしたところで無駄なのである。両者の安定化の外的な説明をめぐるこの対立こそ、問題の核心にして第三の系争点なのだから(p.205)。
合理主義と経験論
真理の外的な理由と内的な理由をめぐるロックとライプニッツの歴史的な対立の蒸し返しと思えば思えなくなくもない〜中略〜真理を支える理由は、その真理に内在的なものであると考えるライプニッツに対して、世界にかんする真理(ないしはそれに対するわれわれの信念)はその真理にとってつねに外在的であり、われわれの経験以上の根拠をけっして持たないと主張したのがロックである(p.206)。
系争点
構成主義者…「科学的信念の安定性に対する説明は、少なくとも部分的には、その科学の公式の内容には含まれない、何らかの外在的な要因を含まざるをえない」(p.207)
反対者…「科学的発見の文脈はともかく、科学理論の安定化のプロセスの説明は、その科学それ自身に対して内在的なものとなるはずである」(p.207)
「仮面はがし」という反権威主義
多くの構成主義者がターゲットにしているのは、科学において受け入れられている命題の正しさなのではなく、科学がなそうとしている事柄についての高尚なイメージ、自分の仕事に対して科学者自らが要求している権威なのである(p.211)。
確かに、科学者は、理論と実験装置の間の頑健なかみ合わせなるものを達成してきた。だが、こうして得られたかみ合わせは、科学者がたどり着きえや唯一のものというわけではない(p.213)=偶然性テーゼ
マクスウェルの方程式が現在まで生き残っているのは、電磁気学や量子電磁気学、さらには宇宙論といった関連する科学理論内部の要因からのみでは説明されるべきではない。構成主義者がこのように主張することでも、結果として、科学の権威は傷つけられるのである(p.213)。
左と右の政治力学
構成主義者の政治的スタンスは、自分たちをしいたげられた人々の味方と考える一方、世界の最も重要な真理の特別に選ばれた守護者にして、客観性の砦をも自認している科学者のそれとはまったく相容れないものである。科学者は、最終的には弱者にとって最後に頼りになるものこそ客観性であるとかんがえる。他方構成主義者は口が裂けてもそういう言い方はしないだろう(p.214)。
クーンとファイヤアーベント
『構造』のある章でクーンは、科学は、世界のある側面についての正しい説明なるものに「向かって」進んでいくというより、過去の科学から「離れる」方向へと進んでいく、と述べている(p.217)。
クーンは、科学のイデオロギーの弱体化に際して大きな役割を果たした。だが、彼は、意図的に仮面はがしを行い、科学の偽りの権威を暴こうとしたわけではない(p.218)。
反権威主義の立場を大いに公言してはばからない…ポール・ファイヤアーベント
彼のとった手法は社会構成主義者が用いるような根拠に一切依拠していない。〜中略〜マンハイム流の仮面はがしという方法はとらない(p.219)。
ファイヤアーベントが偶然性テーゼを採用しようとしている理由をほとんど見出せない(p.220)
ファイアアーベントが文句無く構成主義の項目にマルを付けるだろうと思うのは唯名論をめぐる第2の系争点である(p.221)。
クーン…唯名論…社会構成主義者
ファイヤアーベント…唯名論へと傾いている
チェックリスト
あなたがそれぞれの係争点において構成主義の立場に熱烈に味方するのなら5、まったく反対なら1という具合に1から5というスコアで自己採点をされてはどうか。
第1の系争点:偶然性 2
第2の系争点:唯名論 4
第3の系争点:安定性の外的な説明 3
「児童虐待は本当に起きている」。このように言うことの意味も同じように明らかだ。児童虐待が日常茶飯事だとほとんど信じられていなかった一九六二年に、このように言うことは、児童虐待の流行を専門家たちが口にする現代においてよりも、目立った発言だったけれども〜中略〜児童虐待は政治活動家が頭の中で作り出した事柄ではない。実際、身体的に・性的に・心理的に虐待を受けてきた夥しい数の子供がいる。このことが、児童虐待が本当に起きているという発言の意味である(p.275)。
有意な種類
われわれがいかにして日常生活において新しい種類を選び編成するのかを理解するには、詳細な事例が必要である。その場合、進化する伝統についての事例が必要になってくるが、千年かかった進化の事例ではなく、ここ二、三十年の進化の事例が必要となる、そこで「児童虐待」が役立つ(p.282)。
児童虐待は相互作用する種類である。この種類は人間や人間の行動と相互作用する(p.283)。
経験したことは新しい仕方で思い出され、その当時は考えられていたはずのない語によって考えられるようになる。経験は再記述されるだけではない。経験は再び感じられるのである(p.283)。
相互作用する種類は「人間の制作」に関わる。これは単純な話ではない(p.285)。
なぜこの種類なのか
ハッキングが児童虐待を取り上げる3つの理由について
1、児童虐待の三〇年間に単なる進化以上のものを目にするため
2、法律に、民生委員の日常業務に、家族の管理に、子供の生活に、そして子供と大人が自分の行為や過去を、あるいは隣人の行為や過去をどのように描くのかに、多大なる影響を及ぼしてきたから=有意な種類
3、児童虐待はいずれの領域においても重要な真理が存在すると堅く信じている専門家たちが沢山いるから。
歴史のスケッチ
残虐行為
1961年から62年にかけて児童虐待が登場する。直接の火付け役は、C・H・ケンプが率いたデンヴァーの小児科医のグループだった。彼らは幼い子供たちに繰り返された傷害に世間の注意を向けた。エックス線が客観的証拠だった〜中略〜「被殴打児症候群」と宣言し、翌62年にグループの後ろ盾になっていたアメリカ医学協会の十分な権威とともにそれを発表した(p.293)。
性
家庭内での性的虐待が「社会問題」と認知されるようになるのは一九七五年になってからである(p.299)
近親相姦と児童虐待とが概念として近づくにつれて、近親相姦の概念が急激に拡張された。つまり、性交とまったく同様に、なでたり触ったりすることも近親相姦となったのである(p.299)。
解放
非常に多くの女性が、たいていは男性の血族や姻族、それに手近な人から受けた不名誉な経験のことを告白することにより、また、男性でそうした経験について口による者もじょじょに増えることになった(p.300)。
近親相姦のタブーは次第に広がってきたが、それは、われわれの社会における、しかもここ三〇年における特殊な出来事である。この拡張はほぼ突然に始まった。なぜか。児童虐待は、多くの種類のさまざまな行為をだんだんとカバーするようになったある種類の行為であり、その児童虐待と近親相姦とが関連をもったことがその原因の一部である(p.302)。
計算
児童虐待は最初から数字ゲームに巻き込まれていた。〜中略〜児童暴行の増加を立証するためのデータは存在しなかったが、一般紙はすぐにこの「悲劇の増加」に大衆の注意を向けた。無数のデータが手に入る今になってさえ、数が増えたということが、虐待を受けた子供が実際に増えたからなのか、虐待を受けたという報告が増えたからなのか、それとも、多くの出来事が新たに虐待だとみなされるようになったからなのか、ほとんど分からない(p.305)
虐待とネグレクトの数は、七〇〇〇人(1967年)〜一一〇万(1982年)へと急激に増えた(p.306)
理由:虐待の定義がかわった。子供の定義がかわった。
輸出
一億一五〇〇〇万人のインドの子供のうちの四〇パーセントが貧困最低ラインを下回った生活をしている。〜中略〜外国の人々は児童虐待がアメリカ特有の問題であると言い始めたのである(p.312)。=つまり第三世界では食料の配分についての問題が「栄養面で暴力を受けている子供」という語で主題化された。
客観性
自然科学においては、あるものがある種類に属しているか否かを判定する客観的な基準が存在するとわれわれは考える、このことが、被殴打児症候群が非常に説得力をもった理由なのである(p.316)
われわれはしばしば虐待を証明するための合意された公的な基準を欠くのである(p.317)
肛門拡張の検査は子供に対する犯罪のたぐいにとっては魔術的な解決法だった。すぐにできる単純な臨床観察が決定力をもっていた。客観性が性的児童虐待の領域に入ってきたのである。しかし、客観性の帰結はとんでもないことだったのだ(p.317)。=小児科医が自分の任務に取りつかれ親に無関心になった。そして、診断と処理にあまり客観性がなかった(p.318)。
比喩的表現
あるものの名前を他の物の名前として使うことでありその場合、前者が後者の部分であり、それゆえに前者によって後者が示唆されるような関係にあったりする=換喩
事例:「近親相姦」という言葉を、家庭内での性的意味を伴った児童虐待全体の名前として使うというようなことである(p.321)。
線を引く
児童買春は、それと対照的に、児童虐待の一覧には出てこなかった(p.322)。…それとは、家庭内での乱交
古い世界
児童虐待という観念は、因果関係に関するそして道徳に関する現代の思索の網にとらわれているから、遠く離れた過去の事件を区別なしに記述する際に、児童虐待の観念を使うことは意味をなさない(p.327)。
少なくとも西洋文明の歴史は小児虐待の歴史である。時代をさかのぼるにつれ事態はどんどん悪くなる(p.328)。
アリエスは、ルイ13世の時代には、幼児と子供の生殖器を使った公的な遊びが常に行われていたという事実を、重苦しい概念化が行われていなかったことの証拠として使った(p.328)。
ドゥモースは、人間という種の本性について、人間は児童虐待する種なのだと主張している。それに対し、アリエスは、われわれ自身についての概念、すなわち人間であるとはどういうことかの概念は変わっていくものだという繊細な主張を提出した(p.329)。
さまざまな種類の精神異常は19世紀の医者にとっては極めて多くの「人間の種類」であった。しかし、「子供への残虐行為」は19世紀の科学的種類ではなかった。フロイトの患者の近親相姦を犯した保護者がきちんと収まるより大きな「種類」が1890年には存在しなかった(p.331)。
新しい世界
反虐待運動が成功を収めたために、男性が公衆の面前で子供にけっして触れられないよう勧告される都市―たとえばオレゴン州ポートランド―が存在するようになった(p.333)。
ループ効果
虐待されたという症状は、医原性のものであるかもしれない、すなわち児童虐待の事例に関わって手助けをしてくれる専門家によって引き起こされているのかもしれないということだ(p.333)。
子供の、十代の若者の、そして大人の性的相互作用へのラベル貼りや介入それ自体が、被害者意識を植え付け、トラウマを与える(p.333)
自己知
一九七五年以降の家庭内性的虐待の発見から生ずるもっとも目立った帰結は、多数の女性と少数の男性が今や、自分自身が性的虐待を受けた経験があると見なすようになったことである(p.335)。
二つの立場
・多くの人がとうとう自分の経験について話をすることができるようになり、大いに慰めを感じている
・あるものは、抑圧してきたものを思い出すように強いられることに憤りを感じている
上記の二つの立場とは異なる立場
その当時は直接的に意識的に虐待事件だと経験されていなかった出来事を過去にさかのぼって虐待事件と見なすという現象(p.335)。
私が話しているのは〜中略〜その人が全く知らなかった仕方でその人自身がその中で形づくられるような世界に入ることについて話をしているのである。意識は高められるのではなく、変えられる。ある人は自分自身が子供の時に虐待されていたと今や見なすようになるのだが、それは、彼女が新しい概念を獲得して、その概念の観点から彼女自身を理解するからである(p.337)。
■書評・紹介
■言及
*作成:石田 智恵 更新:中田 喜一