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Hacking,Ian 1999 The Social Construction of What?,Harvard University Press =20061222 出口 康夫・久米 暁,岩波書店,369p. ■Hacking,Ian 1999 The Social Construction of What?,Harvard University Press,=20061222 出口 康夫・久米 暁 『何が社会的に構成されるのか』,岩波書店,369p. ISBN-10:4000241591 ISBN-13:978-4000241595 \3570 [amazon] ■内容(「MARC」データベースより) ジェンダー、クォーク、人種、児童虐待…。これらはどういう意味で社会的に構成されていると言われているのか? 「サイエンス・ウォーズ」として脚光を浴びた「社会的構成」を巡る論争の哲学的な意味を冷静な態度で分析する。 ■目次 はじめに 第1章 なぜ「何が」を問うのか 第2章 多すぎるメタファー 第3章 自然科学はどうなのか 第4章 狂気――生物学的かあるいは構成されるのか 第5章 種類の制作――児童虐待の場合 訳者あとがき ■引用 「 ただ残念ながら、ある事柄が社会的に構成されたものだとする分析は、つねに人々を束縛から自由にする力を持ち合わせているわけではない。(略)>4>(略)ある事柄が社会的構成物だという主張は、おもに、すでに解放への軌道に乗っていた人たちを、さらなる自由へと一層後押しするだけの力しかもたないのである。」(pp.4-5) 「(略)社会的構成とは何なのか。また、社会構成主義とは何なのか。情熱にかられた激しい言葉が、あたりを飛び交っているのを聞けば、それを沈静化させるために、誰しも最初に定義を望むかもしれない。それとは逆に、われわれは、物事を分析した上で、それを社会的構成物だと決めつける主張の目的をしっかり見定める必要がある。「字義どおりの意味を問うな、目的を問え」というわけである。」(p.12) 「(略)「社会的構成」という表現がこれまで使われてきたのは、なによりもまず問題意識を目覚めさせるためであった。問題意識を覚醒させる仕方には二つあった。一つは、包括的な大風呂敷を敷く方法、もう一つは、より局所的な主張を展開するやり方である。前者は、「われわれが生きて経験している事柄や、われわれが棲んでいる世界の大部分(ないしすべて)は、社会的に構成されたものと見なされるべきである」と論ずる。後者にあたるのは、ある特定の事柄Xが社会的に構成されたという、主題をより限定した、さまざまな立論である。(略)確かに、局所的な主張は、>13>包括的なそれによって含意ないし示唆されるだろう。しかし、局所的な主張は、ある特定の事柄について、人々の問題意識を喚起するという、明確な目標をもっているのである。また局所的な主張どうしは、原理的には、互いに独立な仕方で立論されているといえる。(略)そして本論が扱うのは、ほとんど、この局所的な主張のほうである。」(pp.13-14) 「今われわれが必要としているのは、なにもXが女性難民であるという特殊なケースだけではなく、社会的に構成されていると言われる他のさまざまな項目に対しても、何が構成物であり、何がそうでないかを、きちんと区別できるような一般的な概念装置である。そして「観念」が、このような概念装置としてふさわしいかどうかは、確かに疑問が残る。もっと限定された意味を持つ、「概念」とか「種」という言葉が候補としてないわけではないが、とりあえずは、この「観念」を使い続けざるをえないのかもしれない。その場合でも、私は、この「観念」を、「何かよく分からないが、とにかく心理的と言えるもの」を意味する言葉としては用いない。そうではなく、「観念」を、通常は公共的な場に登場に、その中で提案されたり、批判されたり、賛同されたり、退けられたりするようなものとして理解したい。これは、われわれがその言葉を通常用いている仕方に即した理解でもある。 観念は何もない真空の中に存在しているわけではない。それはつねにある特定の社会的な状況の中に置かれている。その中で観念ないしは概念や種が形作られる社会的な状況を、ここでは「マトリック>23>ス」と呼んでおこう。(略)女性難民という観念がその仲で形作られたマトリックスとは、さまざまな社会機関、論客、新聞記事、弁護士、裁判所の判断、入国審査の手続きといったものからなる一連の複合物である。さらに、このマトリックスには、侵入を阻む障壁、パスポート、入国審査官らの制服、空港の入国審査カウンター、不法入国者仮収容所、裁判所の建物、難民の子供たちのための野外活動施設といった、入国管理システムを支える、いわば物質的な下部構造も含まれる。これらの物質的な下部構造もまた社会的である。しかし、われわれにとって重要なのはその「意味」だからという理由で、それら下部構造を単に社会的なものだと見なしてしまうのは早計だ。それらはあくまで物質的であり、そして、まさにそれが物質であることによって、人々に対して実質的な影響を及ぼすからである。また逆に、女性難民についての観念が、女性難民を取り巻く物質的な環境に影響を及ぼすこともある((略))そして今度は彼女たちを取り巻く設備が、その社会的意味を知らない人も多い女性難民たちに影響を与える((略))。これら難民にとって知りようもない周りの設備の社会的意味ではなく、その物質としての性質が彼女らに直接影響を与え>24>るのである。」(pp.23-25) 「 観念や分類は、ある何らかのマトリックスの中でのみ、一定の社会的な作用を及ぼすということは自明であり、以上の議論においても、当然、そのことは織り込みずみである。しかし、私はここであえてマトリックスよりも、私が女性難民の「観念」と手短に呼んだもの、すなわち、人々を女性難民としてくくる分類法、ないしはそのようにくくられた人々からなる「種」の方を強調したい。Xの社会的構成と銘打たれた書物を読んでみれば、社会的に構成されたと言われているのは、ほとんどの場合、Xという観念(もちろん一定のマトリックスの中にあるそれ)であることが分かる。そして確かに、このように社会的構成物として理解された観念こそが問題なのである。ある人にとって、女性難民であると分類されることが、死活的に重要な問題だというのは、十分ありうる話なのである。というのも、もし女性難民と分類されなかったならば、その人は強制送還されるか、不法滞在者として身を隠すか、または市民権を獲得するために誰かと偽装結婚をすることになるやもしれないからである。そして、この分類法や観念を通じて、マトリックスは、ある特定の女性の運命に影響を及ぼすことになる。彼女は、カナダに留まるためには、一人の女性難民にならねばならない。そこで彼女は、女性難民と認定されるには、どのような特徴を身につけるべきかを学び、どのような生活を送るべきかを知るにいたる。そしてそのようにして知った生活を実際に送るうちに、彼女は自らをその生活に適応させ、ついにはある特定の種類の人間、すなわち一人の女性難民になるのである。すると、まさに女性難民個々人やその人が持つ経験>25>は、「女性難民」という分類法を取り囲むマトリックスの中で構成されるのである、と言うことも意味をもつようになるのである。」(pp25-26) 「女性難民という先の例において、変数Xを埋める構成物とは、直接的には、個々の女性難民ではなかった。Xとは、なによりもまず、人々が属する一つの種としての女性難民であり、人々を女性難民とする分類法そのものであり、そしてその中で分類が行われるマトリックスなのであった。そして、あくまで、そのように分類された結果、さらに言えば、そのように分類されることで、個々の女性たちや彼女たちの自分についての経験までもが変えられるのである。」(p.26) 「(略)例えばカナダにおいて、人々を「女性難民」としてくくる分類の仕方は、無理の無い、むしろ不可避的なものに見えるという現状があるからこそ、その分類法は、不可避というにはほど遠いと指摘することは、実際に意味のあることなのである。また続けて次のように論ずることも可能である。この不可避のものではない分類法や、その分類法を包み込むマトリックスが、女性難民の何人かの自己認識を変え、経験を変え、そして行動を変えるのであると。>26> このように間接的な仕方で、人々自身が分類法によって影響を蒙り、そして――もしそう言いたいのなら――女性難民個々人もまた、ある種の人間として、社会的に構成されるのである。」(p.26) 「 社会的に構成されたと言われている事柄には、実は、三つの異なったタイプを区別することができる。だが、この三つのグループは、それぞれきわめて一般的で、また互いの境界があいまいなので、それらにぴったりあう名前を見つけるのはなかなか難しい。一つのグループが「対象」、もう一つが「観念」として、三つ目のグループを表す言葉を探すために、クワインの言う「意味論的上昇」――すなわち、ある事柄について語ることから、それを表す「語」について語ることへのシフト――によって生じた一群の言葉を書き出してみる必要がありそうだ。すなわち、「真理」「事実」「現実」などなど。これらの言葉を一まとめにする定着した呼び名が見当たらないので、ここでは仮にそれらを「エレベーター語」とでも呼んでおこう。というのも、それらは、エレベーターが乗客を上のフロアへと運ぶように、哲学の議論においては、議論の意味論的レベルをあげる役割を果たしているからである。」(p.48) 「 観念とは、それについて議論されたり、誰かによって受け入れられたり、みなで共有されたり、公に表明されたり、いろいろな人によって練り上げられたり、意味内容が明確にされたり、異を唱えられたりする、そういったものである。また観念とは、ぼんやりしていたり、含蓄があったり、深遠だったり、馬鹿々々しかったり、役に立つものであったり、明快であったり、独特だったりといった、いろいろな性質を持つものでもある。グループ分け、分類(ないし分類法)、種(例えば、女性難民)といった事柄もまた、ここでの議論においては、観念の一種として取扱われる。」(p.50) 「(略)社会構成主義の政治的な立場表明を「自己満足」とか「ナツメロオヤジ」とか揶揄する際に忘れてはいけないのは、以下の二つである。まず一つは社会的構成にまつわる議論のかなりの部分は、アメリカにおいて、おそらく百年ほど前に始まった、社会問題へのアカデミックなアプローチの仕方を、そのまま受け>87>継いでいるという点である。ちなみに、このアプローチの仕方は、『社会問題』という学術雑誌と、シカゴを中心とする才気ある一群の社会学者たち、いわゆるシカゴ学派を生み出すことになったものである。ここで問題なのは、シカゴ派社会学は、社会構成主義が否定しようとしていた対象そのものであったということである。社会構成主義は、自らをその批判者として売り出したはずの当の相手の言説の一部となり果てているのである。 第二は、構成主義者たちが、過去の一定の社会問題への過剰の思い入れゆえに、木を見て森を見ない式の視野狭窄に、驚くほど簡単に陥ってしまっているという点である。ある種の構成主義者たちは、過ぎ去った時代のある特定の社会問題を取り囲む歴史的・社会的文脈に対する一種の所有権を主張したがっている。言いかえると、自分たちは、その文脈を現代において共有しているのだと言い張りたいのである。このような態度は、実は、骨董趣味とでも呼べる、過去への尊敬の念の裏返しとも言える。ただ、この過去への尊敬の念は、そのような感情を抱いていると指摘された場合、当の本人たちは、良い顔をしないという点で、いささか風変わりなものではある。そしてこのような過去の社会問題への角の思い入れ、一体感は、また、近視眼的視野狭窄をも引き起こす。にーちぇ曰く、「そのような立場は、現在あるところのほとんどの事柄から目を閉ざしている。それは多くの事柄に顔を近づけすぎ、したがって目の前のものしか見えない状況に陥っているがゆえに、ますます少ないものしか見ないのである。このような立場は、自らが見ている対象を、それ以外の何物とも関連づけることができない。そしてそれ故に、その立場は、自分が見たものすべてに同じだけの重要性を与え、その結果、各々の個別的な事柄に対して、過度の重要性を付与してしまうのである」(Nietzsche 1874/1983.74)」(pp.87-89) (※ニーチェの引用部分は邦訳『ニーチェ全集4 反時代的考察』小倉志祥訳,ちくま学芸文庫,1993年所収――引用者) 「(略)カント、ロールズ、フーコーは倫理学において、道徳的命令をいかにして築くか、そして、なぜ築かねばならないかを示した。(社会的)構成主義者にも同様に、「構成」の原義に近い隠喩に忠実であろうとする信条を持ちつづけてもらいたい。構成された物と呼ぶに値するものは、後の段階は前の段階の産物の上に、あるいは、その産物を材料として築かれていくといった具合に、いくつかのはっきりとした段階をふんで、構成された物、あるいは、構成されている物である。構成された物と呼ぶに値するものは歴史を持っている。しかし、どんな歴史でも良いというわけではない。それを「築く」歴史でなくてはならないのである。一人の人が「構成」という隠喩を拡張して使い、「築く」歴史をもたないものまで構成された物として扱った場合には特に害はないが、多くの人がそれにならった場合には「構成」という隠喩は死んでしまうのである。」(p.119) 「社会的・文化的現象に関する構成主義的分析を支持するほとんどの人にとっては、形而上学よりも政治・イデオロギー・権力のほうが重要な問題なのである。構成について語ることは知識や分類分けの権威を弱める傾向にある。構成について語ることは、われわれが見出してきた世界のあり方やわれわれの現在のやり方を、否認したりよりよい対案を提案したりすることによってではなく、「仮面をはがす」ことによって、それらが不可避であるというのんきな想定に意義を唱えるのである。構成主義が仮面をはがして正体を明らかにしようと着目するものには、まずは人が含まれる。すなわち、子供性・ジェンダー・若者のホームレス・危険・聾唖・災害・病気・狂気・レスビアン・読み書き能力・著者である。次に人の種類である。すなわち、女性難民・子供のテレビ視聴者・心理学者の被験者である。さらに、連続殺人やホワイトカラー犯罪といった行動があり、また、怒りのような感情もある。われわれは人口動態統計とポストモダ二ズムを手にしている。また、われわれはこれら多様な事例を別々の仕方で着目することもできる。たとえば、若者のホームレスは状態、ホームレスの若者や家出人は人間の種類というように。 これら多岐にわたる項目をクォークや、トリペプチドについての知識のような無生物の種類から区別すべきであろうか。なぜ人は無生物と違うのか。答えのヒントは、これほどまでに構成主義が主張されるにいたる動機が何かを考えれば、得ることができる。構成主義者は権力や管理の問題に大いに関心をいだいている。仮面をはがす目的は、知識の分類がいかにして権力関係において使用されているかを示すことによって、抑圧されている人々を解放することである。」(p.134) 「人間の種類の重要な特徴は、人間の種類がそこに分類された人に影響を及ぼすとともに、そこに分類された人が今度は逆に自ら行動を起こし分類に影響を及ぼすことができるという点なのである。私はこの現象を「人間の種類に関するループ効果」と呼んだ。今では相互作用する種類という名前の方が好きであるが。 基本的なアイディアはあきれるほど単純だ。人は自分のことを意識する。人は自分が何であるかを知ることができる。人は潜在的には道徳的行為者であり、道徳的行為者にとって自律こそが最も価値あることだとルソーやカントの時代以降、西洋においては考えられてきた。クォークやトリペプチドは道徳的行為者ではなく、それゆえクォークにループ効果はない。したがって、自然科学に適用される構成主義は、まずは、形而上学的・認識論的な立場であり、実在や推論についての見方に関わる。一方、構成主義が人文社会科学に適用される場合は、第一の関心は道徳的問題にあるに違いない。」(p135) ■書評・紹介 ■言及 *作成:石田 智恵 追加者: UP:20080810 REV: ◇構築/構築主義 ◇身体×世界:関連書籍 ◇BOOK |