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『人は皆草の如く――吉田哲雄遺稿抄集』

吉田 哲雄 発行者:吉田美千代,181p.

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吉田 哲雄 19981218 『人は皆草の如く――吉田哲雄遺稿抄集』,発行者:吉田美千代,181p.(非売品) ※r copy:A4 m<

■目次

「かつらぎ」より一九六一年から一九六七年  7
成長するということ  
幼い者の生命1サリドマイド事件におもう  
フランクル著一識られざる神」第二部「ロゴスと実在について一を読んで  13
生活の中から  15
プロフイール  19

医学・医療・社会――一九六六年から一九九三年
無給医の問題
患者の人権と保安処分
人は皆草の如く――近い老人と遠い医学
精神保健法について考えていること
金沢学会二十年
金沢学会と東大精神科医師連合の運動
「精神神医療誌」と私
脳死問題を考える――「脳死臨調」答申とその後(その一)
脳死問題を考える――「脳死臨調」答申とその後(その二)
脳死問題を考える――「脳死臨調」答申とその後(その三)

自民党政調ヒアリングを終えて――インタビューに答える
人権擁護の視点から脳死慎重論
精神科におけるインフオームドコンセント
宗教と青年の心の健康

昆虫少年の視線
竹筒の訪問者――ジカバチモドキ
アナバチの仲間?

日記――一九九三年十月七日〜十二月二十五
略歴、業績の要約、業績目録、学会活動
あとがき

一 はじめに
[…]
二 学会の社会的活勘
(一)〜(三)略

 (四)当時の学会についての私の疑問
 すでに述べたように、専門分化が進み、高度に専門的な研究は、分科会的な学会の方で発表されるようになった。それでは日本精神神経学会では何を発表するのか、という問題が当然あったはずである。私は、こういう時こそ総合的な視点が必要と思い、総合と分化の両方をつねに大切にすべきだと書いたことがある。つまり精神科において広く共通する問題を総合的に取り上げるべきだと思っていた。
 しかし学会にはそういう自覚はあまりなかったようである。もうその頃は、会員同士でも、他人の専門のことはわからないと言ってまかせてしまい、悪い意味で寛容というか、無関心になりすぎるという傾向があった。一種の分業になり、人を自他ともに何々の専門家と規定するようになっている。その弊害がすでに記したように刑法問題などに表れていて、問題の多い意見書の第一次草案が、一部の委員にまかされてつくられていったのだと思われる。
 そしてこのままでは学会は権威づけ的な存在か、お祭りの場になりかねないのではないかという危惧が私にはあった。<0085<

三 東大精神科の勘向

 学会と東大の関係と言えば、古い時代には学会の理事長は東大精神科の教授がつとめてきた。東大の医局員は学会の手伝いをしたが、学会の基本的な問題に手をつけることはあまりなかった。
 さて、東大精神科の傾向は、私の知る限りでは身体研究偏重であった。しかし、臨床教室であるし、主に精神病理学者たちからの批判や不満もあった。身体研究よりももっと臨床を重視すべきだという声があった。そこには一定の対立が潜在していた。このような状況に対して、私としては「どこかおかしい」という感じをもっていた。
 当時、医局の少し外側でなされていた精神療法についての「土居ゼミ」、すなわち土居健郎による精神療法のゼミナールは、かなりの影響力があり、精神分析学を受け入れなかったといわれる内村時代の東大とは違う状況にあったと思われる。また、台教授の時代に、アメリカから帰国したばかりの中久喜雅文病棟医長が力動的精神療法、特にグループ治療を病棟に導入し、朝早くから精力的に活動した。
 それ自体も東大としては大きな変化であった。それでも、精神科医の社会的責任についての自覚は全体に乏しかったと思う。もちろん、東大にあっても、松澤病院での勤務を経験している岡田靖雄が刑法問題などに鋭い関心を寄せていたし、浜田晋が病院で待ち受けている医師ではなく、地域に進出していく医師を、という問題意識を抱いていた<0086<とはいえ、私を含めて大半の医局員はまだまだそういうことにはうとかった。
 医局内部では刑法・保安処分の司題などはあまり議論せず、すでに医局からは距離のあった先輩・専門家まかせの傾向があった。
 精神衛生法については、以前から松沢病院の医局がよく取り組んでいたと思うが、こういう面での松沢病院との連絡・交流はあまりなかった。東大と松沢病院の間は、若干の医師が研究生の形で、短期間ながら松沢病院に出入りするなどの交流があったし、松沢病院と東大の合同の臨床研究会もときどきあったが、松沢病院でのいわゆる「一瞥診断()」に東大の者が感心したり疑問をいだいたりしていたのがせいぜいで、対社会的な問題への取組みについて、東大が松沢病院の医局に学ぶという姿勢はあまりなかったと思う。精神医療の問題について、大学と病院が相互の役割を補いあうという意識は薄かったように思う。
 また東大内部でも、学問の専門分化に対する総合への動きも、これといってなかったと思う。
 私は東大精神科医局に入った頃の初心として、患者に対する医師の態度、とりわけ患者の面前での、医師の不遜な言動などが大変気になっていた。さらには、後にいう「医の倫理」にも、今思えばまったく不十分、未熟の限りだが、私は他の医師よりは深い感[ママ]心をもっていたつもりである。そういう芽は私にすでにあった。しかしそれを直接活かす機会は乏しかった。
 身体研究を偏重し、臨床、特に医療が軽視されがちである医局のあり方について、価<0087<値体系の歪みを感じ、「こんなことでいいのだろうか」と思ってはいたが、それを変 えるのは、気の遠くなるような難事に思われた。

四 金沢学会についての理解

 私の理解では、確かに学会のあり方そのものが問われていたと思う。一方で精神病院において患者に対する虐待事件が起こっているのに、学会運営は製薬会社に大幅に依存し、それがあたり前とされていた。会期中に昼間から会場の横に観光バスが何回も発着するような、たるんだ状況も目立っていた。
 この時の激動の直接のきっかけとしては、前年の長崎学会で可決されなかった認定医制度についてのいきさつがあったと言われる。そして長い討論に発展し、従来学会の主なイべントであった研究発表会がつぶれ、理事会、評議員会が解散し、新たな出発を期して暫定的な新理事会を選んで終わったわけである。
 この激動自体が、すでに述べたように、つもりつもった準備状態に時の運動の勢いが加わって発展して行ったものであろう。そして多くの会員には、学会がどうなるだろうかという思いもあっただろうが、多数の会員が議事に最後まで臨席したのが印象的である。
 また、この年に理事会が「精神病院に多発する不詳事件に関連し学会員に訴える」という声明を出している。これは、主として、病院職員らの患者に対する暴力的な侵害行<0088<為を問題にしたものである。確かに学会として長年触れずにいたことを取り上げたわけで、それ自体としては画期的でもあり、悪いわけではない。しかしそういう声明を出す以上は、しなければならないことがあまりにも多いことが問題になったと思う。そしてこの声明が、結果的に、翌年の朝日新聞のキャンペーン「ルボ精神病棟」に連なったと言える。

五 当時の学会での研究の状況について

 金沢学会の準備状態として、学会での研究のあり方に対する会員の危惧も、少しは役割を果たしていたのではないかと私は思っている。つまり、日本精神神経学会は研究を重視しているはずなのに、すでに指摘したように、実は細分化された専門的分科会に先端的な発表を吸収されて、日本精神神経学会は面白くなくなってきた。そういう不満や不全感も会員に潜在していたのではないかと考える。
 そもそも学会での研究は何を大切にしてきたのであろうか。まず、研究が大学中心になされ、精神病院の現場との溝があったと思う。
 学会機関誌に治療についての論文が少ないことはすでに述べた。社会の中での患者の処遇の研究は、呉秀三の時代よりも明らかに乏しい。
 そして一見明快で、比較的短時間にまとめやすい身体研究が偏重されていた。このような研究は大学院の卒業論文にも適していたであろう。また海外留学のテーマとしても<0089<

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2013/11/ 『造反有理――精神医療の現代史 へ』,青土社 ※


UP: 20131019 REV:20150217
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