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『無輸血手術――"エホバの証人"の生と死』
大鐘 稔彦 199811 さいろ社,235p.
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■大鐘 稔彦 199811 『無輸血手術――"エホバの証人"の生と死』,さいろ社,235p. ISBN-10: 4916052099 ISBN-13: 978-4916052094 1500+
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*おおがねとしひこ
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内容(「MARC」データベースより)
「死んでも輸血を拒む」エホバの証人たち。多くの病院が、訴訟を恐れて彼らの手術を断る中、ジレンマと闘いながらも無輸血手術を行い続けた外科医が、医者生命を賭して取り組んできた手術の全貌を明かす。
■引用
「私自身はどういう決意を秘めて”証人”の「無輸血手術」に臨んだかと言えぱ、患者の身内が非”証人”であった場合も、事前に彼らからいかに耳打ちされようとも、本人との”契約”に遵ずる覚悟で手術に臨んだ――と言えよう。出血が重み、輸血しなければ”デッドライン”を越える、という状況に陥っても、あくまで他の輸液で、やれると<0165<ころまでやる心算でいた。そうして万が一不幸な転帰を辿り、”手術中死”を犯す事態を招いたら、”証人”の手術はもうそれで打ち切りにする覚悟でいた。メスは捨てないのかと問われれぱ、それは多分、捨てないだろう。なぜなら、「輸血は絶対にダメ」というハンディさえ背負わなければ多分成功したであろう手術を、そのハンディ故に失敗したとしたら、そうしたハンディを負った手術だけを避けるのが道理であり、仁義ではないかと考えるからである。
反論は多々あろう。たとえまこういう論拠は大いに説得力がある。日く。
「死んで行く者はまだしもである。後に残された者、ことに、これから幾年、幾十年生きねぱならない幼子やその父なり母なりの悲嘆、口惜しさは測り知れないはすである。こうした”残され行く者達”の幸不幸を考えずして”無輸血手術”ガにこだわるのは、自信過剰と無謀の極みであり、片手落ちではないか」と。
むろん、”残され行く者達”に思いを馳せぬはずはない。私は必ず患者の家族構成を問いただした。しかし、本人の宗教信条、それに則った誓約を”後に残る者”の幸福のために破ったとして、それで彼なり彼女なりが死を免れて彼らの許に生きて返ったとして、果してハッピーエンドに終るかと言えはこれがは甚だ覚束ないのである。
彼女――の場合が、”彼”よりり圧倒的なので――は、実は輸血をして事無きを得たのだという”事実”ガを知らされた瞬問から、生かされある喜びは、激しい”背信”の罪意識<0166<にとって代られるのである。さながら、デンマークの憂愁の実存哲学者キェルケゴールの父親が生涯負った煩悶に、彼女もまた日夜さいなまれるであろう。キェルケゴールの父親は、青年期に一度だけ、大声で神を呪った。それへの後悔の念が終生彼を苦しめ、「自分はそのために地獄へ堕ちる」という強迫観念に悩み続けたのである。」(大鐘[1998:166-167])
「二人の小さなお子さんのためにも、生命こそ大事にして下さい。遠藤周作の”沈黙”じゃありませんが、たとえあなたが輸血を受けられても、神は許すと思いますよ」
私が若き日の信仰を持っていたら、到底発し得ぬ言葉であったろう。輸血という”踏み絵”を敢えて踏めとは、私が同じ信仰者であったら、決して放ち得なかったと思われる。 しかし、有田氏のお陰(?)で、私はこの世に勧善懲悪の神など存在しないという結論に到った。神を否定し切れなかった故に理解できた”証人”の信条も、否定し切った今は、空しい絵空事に思われる。」(大鐘[1998:222])
■言及
◆立岩 真也 2013
『私的所有論 第2版』
,生活書院・文庫版
UP: 20130122 REV:20130328
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