『大泉市民の集いニュース 復刻版』
「大泉市民の集い」三〇年の会 編 19980704,483p.
last update:20110626
■「大泉市民の集い」三〇年の会 編 19980704 『大泉市民の集いニュース 復刻版』,483p. sm02 1vie beh
■目次
第一章 運動の開始
第二章 反戦放送の開始
第三章 金網ごしの連帯
第四章 運動の拡大と終結
編集後記
■引用
■第一章 運動の開始 1968年5月〜1969年5月
「初めてのビラ、ビラ配り、集会、抗議文、基地見学、英文ビラによる米兵への働きかけ、署名活動、デモ、勉強会、文集の発行、都知事・防衛施設庁・朝霞市長への訪問など様々な活動をしながらそのスタイルを確立していった。1969年5月3日のバスでの基地めぐりで各地の反基地運動とのつながりを深めた。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:5)
■最初のビラ「大泉学園地区に住む市民のみなさんに訴える」1968年5月
「日本は、アメリカにありとあらゆる物資を提供し、兵器を修繕してやり、帰休兵を慰安してやっている。日本は、アメリカに野戦病院の敷地を提供し、補給基地を提供し、作戦基地を提供している。日本はLSTの乗組員を提供している。日本はアメリカの汚い戦争の基地なのだ。そして、わが大泉学園地区もその中にあるのである。
私たち夫婦はこの一年間やり切れない思いでヘリコプターの爆音をきいてきた。私たちには老いた両親と二歳の娘がある。幸いにして健康な私たちの娘が彼女の祖父や祖母とたわむれているその頭上を、ベトナムの子供たちの腕をもぎとり、娘たちの顔をやき、老人たちの生命を奪っている汚い戦争の戦士たちが運ばれていくのをみるのは、苦痛である。
[…]もはや沈黙するのもまた苦痛である。
私たちはアメリカのベトナム侵略に抗議する。
私たちは朝霞米軍病院の撤去を要求する。
私たちは米兵のヘリコプター輸送に抗議する。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:8)
■初めての集会のビラ「ベトナム戦争反対・朝霞基地の撤去を求める大泉市民の集いに御参加下さい」1968年6月
「病院をよそにつくれ、ヘリコプターはよその町を飛べというのでは決してありません。私たちは、病院を撤去させ、ヘリコプター輸送を完全にやめさせれば、ベトナムの人々の生命だけでなく、アメリカの青年の生命をも本当に救うことができるものと信じています。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:10)
■初めての英文ビラ「U. S. SOLDIERS AT CAMP ASAKA!」
「U. S. soldiers! The Vietnamese struggle against the U. S. war of aggression is the struggle not only for their national independence and liberation but also for the noble immortal ideas of the 4th of July, which your Government has too long kept dead. If you want to be a truly patriotic American, stop killing, stop helping kill the Vietnamese.
What you should do now: GO HOME AND JOIN THE NOBLE STRUGGLE TO REALIZE THE IDEAS OF THE 4th OF JULY」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:31)
■『大泉市民の集いニュース』第4号(1968年9月7日)
米兵へのビラ巻き
「基地の存在の認識から一歩すすんで、米兵と話したいという希望が多くの人から出された。それがいかに困難な、頼りのない行為かは私たちだれしも知っている。米兵が一定の反応を示したといって喜んでいてはいけない、といったTさん。「おれたちも同意だ」といった米兵のことばを信じたい、というYさん。この二つの意見はいま私たち自身の中の二つの声にちがいない。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:27−28)
■パンフレット「見ることによる基地への攻撃―――1969・5・3・王子・朝霞・立川・横田―――」
■冊子「見ることによる攻撃の記録」
・和田春樹「見ることによる攻撃」
「基地を見るということは、[…]ベトナムの街路や野を赤く染める不屈なる人々の血の色を見るのである。見とおすこと、見つくすことである。それは、もはや見ることをこえ、基地に対して立ち、基地を攻撃する行動を端的になし、その行動につらなるはずである。「見ることによる攻撃」という意味はこのことにある。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:125)
・横田勲「恐ろしいもの」
「私がこの「基地見学の会」で特に興味を覚えたのは基地そのものよりも王子と朝霞、朝霞と砂川、砂川と横田、つまり基地と基地との間にはさまれた住宅や商店や畑や工場、そしてそこでなされている労働や生活の全体であった。そういう日常的な営み、日常的な空間が突然中断され、そこにその日常的なものを拒絶し、排除する仕方で非日常的な殺人道具や殺人要の施設が「突然」あらわれるということに強く印象づけられた。[…]
「突然」と感ずるのは私達が充分「見て」いなかったからだ。彼らは、ずっと前から、徐じょにナイフを研いでいたのだ。私たちの構え、反対を封ずるために、ずっと前から、法に法を積み重ね(正しくは法に不法を積み重ね、例えば安保条約によって憲法九条を空洞化し)合法性の名のもとに私達の手と足と目とを封じてしまったのである。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:142−143)
◆日常生活を寸断し、戦争を入り込ませる基地という存在。それとともに、寸断されているのではなく、日常生活が基地、戦争と連続していることの予感。
■「朝霞野戦病院の内部―――取材した記者の報告―――」
「米空軍横田基地には、[…]負傷兵が、毎週十八便の大型輸送機で直接送られてくる。担架に寝たままで六人乗れる大型ヘリは、ここから岸根(神奈川・陸)、座間(神奈川・陸)、横須賀(神奈川・海)、朝霞(埼玉)、王子(東京・陸)、立川(東京・空)の六病院(各一〇〇〇ベット)へ送られる。一番遠い横須賀まででも二十一分。傷病兵の六割以上が、日本で六十日治療してもなおらず、週十九便のMAC(米空輸司令部)便で米国へ帰って行く。残りは全治して沖縄、朝鮮か、再びベトナムの戦場へ―――[…]
血で血を洗う戦場のショックに耐えきれず、魂を引裂かれた兵士たちだった。
「在日米軍病院は、ベトナムで傷ついた兵士の七割を受け入れています」
神奈川座間町の在日米陸軍医療司令部で司令官は収容患者数が一目でわかるグラフを示した。[…]毎月の収容患者は二千人から三千人台なのに、二月は四千六百人、五月が四千五百二十人。戦いの激しさが、そのままうつし出されていた。[…]
病院で彼[基地労務者]が見たものは―――ベッドの上で「戦場に帰るのはイヤだ」とうずくまって叫ぶ傷病兵。つぎつぎに舞いおりる赤十字マークをつけたヘリコプター」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:164−165)
■第二章 反戦放送の開始 1969年6月〜1969年11月
「それまでの米兵へのビラ等によるはたらきかけが反戦放送局という形になって定着した。6月、8月、10月に集中し連続した放送の後、11月から毎日曜日にやることになり定例デモ(大泉・朝霞)とともに活動の柱になる。ベトナム反戦・反安保・沖縄闘争勝利、11月の佐藤首相の訪米反対、反軍反基地についてベ平連などの市民団体と朝霞や都心での集会やデモに参加した。朝霞では米兵の反応も高まりついに地下新聞を兵士が出すようになりこれを手伝う。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:167)
■報告書「こちらは朝霞反戦放送局」
・1969年6月から放送開始。放送の内容は@ニュース(アメリカ国内の基地での反戦・反軍運動や沖縄全軍労のストライキと米軍の弾圧、外国人ベ平連の結成など)、A各種メッセージや記録(脱走兵の声明や手紙、マーティン・ルーサー・キング夫妻の演説、小田実の呼びかけなど)、本田勝一『戦場の村』の読み上げ、B音楽(反戦歌、解放運動歌、ジャズ、ロックなど)、C反戦市民の声。
・清水知久「こちらは朝霞反戦放送局」
「総括の一部。(1)、「いやがらせ」という最小限の目的は継続して完全に果たされたこと。(2)、私たちの訴えを通じて米兵内に一定の意見の明示と分裂が生じたこと。(3)米兵の目をふさぐことはできても耳をふさぐのは困難であり、音は強力な武器であること。(4)、少数の人間でも、一定の計画をもち、恐怖その他の自分自身の内部にいる敵を克服すれば、封じこめ不可能な「攻撃」をつくりだせること。(5)だからまたやれるし、やるべきであること。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:172)
■『大泉市民の集いニュース』第18号(1969年7月8日)
・1969年6月29日朝霞基地一周デモが練馬ベ平連の主催で開催。埼玉ベ平連、大東文化大ベ平連、若い対話の会、そして大泉市民の集いが参加。
■黒人兵士むけのビラ「Appeal to Black Soldiers」
「Your enemy is not in Vietnam but in America ---- the Nation which is moving toward two societies, one black, one white, separate and unequal; the Nation which has thousands of starving black children; the Nation which has the racial ghetto created, maintained, condoned by the white institutions, marked by the “military-industrial complex.”」 (「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:221)
「STOP THE OPRESSION NOW AND DO NOT PARTICIPATE IN GENOCIDE! ALL POWER TO THE PEOPLE!
BLACK PANTHER PARTY」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:173)
■『大泉市民の集いニュース』第21号(1969年10月5日)
基地設置反対・拡張反対の防衛的闘争だけでなく、基地機能麻痺をめざす攻撃的闘争。
・北富士演習場に対する忍草母の会の闘争。着弾地付近の座り込み小屋での座り込み。
・立川飛行場に対する砂川反戦塹壕の闘争。
・厚木飛行場に対する厚木基地爆音防止期成同盟の闘争。タイヤを燃やし、黒鉛で飛行機の発着を妨害。
「このような攻撃的基地闘争の一翼を担うものとして、わが大泉市民の集いの朝霞反戦放送局開設がある。兵士の修理という野戦病院の機能を反戦工作によって妨害することが、この目的である。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:223)
■『大泉市民の集いニュース』第22号(1969年11月5日)
・朝霞基地内より反戦兵士のメッセージ
「私はベトナムで戦ったことがあるので、戦争の実態を知っている。まず第一にベトナム戦争は不正義であり、宣戦布告なき戦争だということだ。もしも私がベトナム人であるならば、くる日もくる日も誰かが私の家にきて、私の妻を殺し、私の子供たちを殺し、私の家を焼くなどということは到底がまんできないだろう。私の考えでは、アメリカ軍は人形にすぎない。彼らは盲目的に服従している。正しいことでも、誤ったことでも、いわれた通りにやるのだ。私は誤ったことは一切したくない。だから、もしもまたベトナムへ行けといわれたら、私は牢獄に入った方がましだ。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:235)
・「かつてない反応」
「アメリカで兵士が発行している反戦・反軍の出版物を手に入れようと一八のグループに連帯の挨拶と協力の手紙を送った。
次に放送開始と同時に配布する二種類のビラを作成し、印刷した。ひとつは米兵士全体に向けたもので、米少年・米兵・ベトナム人民・ホーチミンらの死について、そして現在・将来の死者について何を考えるかを問おうものだ。[…]もうひとつのビラは黒人兵士にあてたもの[…]米本土、沖縄において黒人兵士が抑圧をはねのけるために蜂起していること、[…]ブラック・パンサー党のビッグマンとロベルタふたりに吹きこんでもらった黒人兵士への抜すいである。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:237)
放送の中身:アメリカ人反戦活動家のメッセージ、兵役離脱の方法についての技術的助言、軍隊内部の体制批判など。『We Got the brASS』アジア版の紹介と部分的な朗読の録音。
「ぞろぞろと20人くらいの青い服を着た傷病兵達が廊下に出て来た。少しとまどっていたようだが、『ウィ・ゴット・ザ・ブラス』を見せて取りにくるようにいうと、あたりをはばかりながらやってきた。数人は金網のところに座り込んで話しはじめる。清水さんと山口さんが応対する。ある米兵は、このような運動があるのはすばらしい、自分たちのことを思ってくれてありがたい、自分も帰国した後、大学に帰って反戦活動をやる、といった。[…]MPの車が巡回しても彼らは無視して居続ける。タバコを持っているか、と尋ねたので渡すと、お返しに病室まで戻ってチョコレートを持ってきた。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:238)
「ベトナム戦争をどう思うかときくと、「キル、キル、キルだ」と悲しげな顔。デモをやるのか、安保条約反対でやっているのかときいてくる。大学で英文学やっていたという。いま一人は、カセットのテープレコーダーもって近よってきて、「こうすれば皆がきける」と音楽やメッセージを録音しはじめた。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:238)
◆励ましあいのコミュニケーション。基地の中ではできないコミュニケーションを取る。そのコミュニケーションをつないでいき、軍隊内の活動を活性化させる。
■第三章 金網ごしの連帯 1969年12月〜1970年12月
「反戦放送の金網のこちら側はベトナム人留学生、反戦アメリカ人も参加し、各地から多くのひとびとがやってきた。[…]金網のあちら側からは米兵の地下新聞が3種出された。運動は次第に盛上がり10月18日には野戦病院前に傷病兵約50人が出てきて座り込み、金網の内外を越えた一大集会の観を呈した。70年12月、ついに朝霞野戦病院は閉鎖された。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:247)
■『Kill For Peace』November Issue(249−252)
“COMMUNISTS?”
「Many mornings, outside the fence, in front of one of the wards, there have been people demonstrating against the war in Viet Nam and for the removal of a certain U. S. Army post from Japan. No one wants war and we can’t blame these people for not wanting us here. How should you like a bunch of Japanese soldiers running your home town? […]Tray to go to the fence and talk to these people and ask them why they demonstrate. The MPs would not let you. They will more than likely tell you the people are communists. They are not. We of “Kill For Peace” have talked to them. All they want is the removal of the U. S. military presence from their land. […] They are simply antimilitary and so much anti-American.」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:251)
“MILITARY JUSTICE?”
「Stop acting like adman robot!!!」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:250)
■『大泉市民の集いニュース』第24号(1969年12月27日)
・フリーパーティーを1969年12月24日開催。米兵数名、埼玉ベ平連、外国人ベ平連、大泉市民の集いでパーティー。
■『大泉市民の集いニュース』第26号(1970年3月1日)
・1970年2月自衛隊員にビラ配布
ビラの内容
「皆さんは首都警備部隊として治安出動の猛訓練を受けています。デモ隊の指導者を狙撃せよとの上官の命令が正しいものであることをたしかめられますか。
皆さんは七二年に沖縄進駐を命じられるでしょう。沖縄に行って誰から何を守るというのですか。沖縄県民の斗いから米軍基地を守る番犬になるのではないですか。米兵にかわって、全軍労の労働者の胸に銃剣を突きつけるつもりですか。
[…]
憲法違反の命令を拒否せよ!
同胞に、沖縄県民に、アジアの民衆に銃を向けるな!
ソンミ、南京の虐殺者となるな。
無数の反戦米兵と小西三曹につづけ!」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:287)
■『大泉市民の集いニュース』第27号(1970年4月2日)
・清水知久「亀裂と連帯」
「「そうよ、戦争大好きさ。ベトナム人、あいつら糞ったれ、殺してあたりまえよ。」
大声でわめき散らす白人兵、うしろには応援団らしき七、八人の白人兵、ときどき声を合わせる。[…]「入ってきやがれ」と何度も叫ぶ。けんかでいう「表へ出ろ」と同じ調子。[…]
白人一名、黒人二名、金網に寄る。
―――黒人の、ぜひやってくれ―――
―――放送ずっとつづけてくれ―――
―――おれたちはやるぞ!―――
口々にこういい、興奮したみんなと握手。[…]
階級は不明だが、将校が偉そうに説得を開始。病舎に入りかけた兵士のうちのひとり、黒い車で連行される。その間ひとりが戸口に座りこむ。完全な坐りこみ行動、「断じて動かぬ」―――ウィ・シャル・ノット・ビー・ムーブド―――というアメリカの労働歌を思いだす。もうひとりが坐りこみに加わる。われわれは拍手。激励、将校・MPの抗議をつづける。[…]
われわれとベトナム人民に露骨に敵対する兵士たち、彼らと対立し、われわれに連帯の意志を明確な行動で示す兵士たち。病舎内にも明白な亀裂が広がり、その一方はわれわれに結びついている。この日の体験、たくさんの人が書いてほしい。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:295)
◆反戦放送を聞く、という行動自体が一つの軍隊内の抵抗運動である。聞くことを辞めさせようとするMP、将校、兵士がおり、そのせめぎ合いがフェンス近くで展開される。放送を力として、軍隊内での抵抗を試みる兵士。
■『大泉市民の集いニュース』第32号(1970年10月19日)
・『Kill For Peace』1969年12月〜
・『Right On』1970年8月〜
「「ライト・オン」(がんばれ)が出ました。この新聞の出た日私たちはそれを十数枚筒にして何本も放送を聞く兵士たちにむかって投げました。すると何人かがそれを取りに来、皆んなで分け合って読みました。「どうだ」と聞いた私たちにむかって、何人かの兵士がそれをうち振り、「いい新聞だ」といいました。このところいつも五十人近い兵士たちが廊下に立って放送をきいていますが、この日は黒いベレーをとり出してかむった黒人兵が私たちに合わせて手をつき出して「パワー・トゥー・ザ・ピープル」などとシュプレヒコールをしました。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:349)
■『大泉市民の集いニュース』第33号(1970年11月23日)
桝井論平「金網のむこうとこちら」
「カセットテープがまわりはじめ、増幅されたメッセージが、郊外の眠りを覚ましてこだますると、あたりの風景は、一変し、にわかな緊張と連帯が金網のむこうとこちらを結びつけ、また、解き放った。[…]金網ごしに、ベトナムがあった。金網ごしに、アメリカがあった。すぐそこに、戦争があった。
金網のむこうの負傷者たち。彼ら自身の傷口の、深い部分の、そのむこうに、ぼくら自身のスタートラインも引かれている。金網のむこうとこちらは、おんなじなのだ。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:368−369)
■『大泉市民の集いニュース』第36号(1971年4月4日)
「その兵士マイクは、良心的兵役拒否の除隊を得て、三月二四日にキャンプ・ドレークを出発し本土に向った。[…]マイクが軍隊離脱の気持を具体的な行動に移すきっかけになったのは私たちの反戦放送・GI新聞まきだった。これを通じて彼は良心的兵役拒否による除隊の方法があることやPCSの存在を知ったという。それから友人とPCSのカンセラーの助言や教示をうけてついに除隊を手に入れたのだ。[…]「金網のところに行って新聞をうけとったり話をするのはものすごく勇気のいることなんだ」とくり返した。[…]兵士は自分の権利についてほとんど何も知らない。これからも活動をつづけるなら、反戦のメッセージに加えて、権利や権利獲得の具体的な方法を兵士に教えてほしい。これが私たちへの最大の希望であり助言だった。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:406−407)
◆反戦放送やGI新聞が反戦運動のきっかけになっている。兵士は自らの権利や合法的な除隊の手続きについて無知である。ゆえに基地の外からの情報提供や支援が有効である。
■第四章 運動の拡大と終結 1971年1月〜1975年6月
「野戦病院を閉鎖に追い込んで私達はひとつの目標をなしとげた。71年からは米国人のべっくからの情報をもとに「べっく情報」を旬刊で発行し、また日本企業の南ベトナム進出に抗議する運動を始めるなど運動は場所も対象も大きく広がった。横田基地への市民団体共同行動等米兵への働きかけも継続する中、1972年8月〜9月の相模原では「ただの市民が戦車を止めた」空前の運動が起こる。1973年1月のベトナム和平協定での米軍との闘いは一段落し「ニュース」も第40号で終る。その後はそれまで続けてきた日本企業の南ベトナム進出(戦争利得)に抗議する運動を「ハイエナ企業市民審査会」として活動を続け、1975年4月のサイゴン解放を迎えた。」(「大泉市民の集い」三〇年の会、1998:379)
■書評・紹介
■言及
*作成:大野 光明