今日、いわゆる「言語論的転回」を経て、社会やシステムについての素朴な実在論的見方が克服され、表象(言語)を媒介としたモデルによって、人々は社会の存在や再生産を考察するようになったが、さらに社会学では、表象(言語)が特に共同体に構成される現場が注目され、「言語論的転回」からいわば「コミュニケーション論的転回」へのシフトが生じつつある(p. 71)。
社会学のコミュニケーション理論は、言語学に比べ、コミュニケーションにおける社会的作用そのものを対象とし、ある意味ではこれを前提にすることができた。すなわち、コミュニケーションを、仮に、メッセージレベル/メタメッセージレベルの二層で考えると、メタメッセージレベルがより重要であることを前提としてきた(p. 86)。
社会学は、「言語論的転回」を通じて、両者が二元的ではないことを、この間主張してきたのだが、その場合両者の結合は、ポストモダニズム的議論に多く見られる理論傾向と同様、メッセージレベルを完全にメタメッセージレベルに回収する結果に陥っていることが多い、「客観的な意味はなく、意味の一義決定はできず、それは、外部の社会的作用(権力)によって決定される」とするのである(p. 86)。
問題は、外部権力によって意味が決定されるのではなく、メッセージレベルすなわち通常の意味作用の内部そのものに、すでに、社会的コミュニケーション的な、他者を通じた力が作用していることである(p. 86)
このような枠組みにおいては、ハーバーマスも指摘し、ルーマンも述べているように、言語は必須の要件ではない。なぜなら「送り手側に伝達しようとする意志がなくても、情報と伝達の差異を観察することに受け手たる自我が成功する場合」コミュニケーションは可能だからであり、ここに言語という要件は重要な論点として入ってこない。また一方では、このような「情報」と「伝達」の差異に関し言語は、コミュニケーションの「意図」があることを保証する重要な手段となる(p. 99)。
ハーバーマスの議論が身体離脱し、ルーマンの議論は主体を解体しているとすれば、主体の身体から出発するミード論は、さらにそこに介入する他社の作用を挙げている点で、最も可能性があると考えられるが、その可能性を具体的に見てみよう。また西原の批判を受けて、ミード理論の問題点を具体的に検討してみよう(p. 102)。
ミードの概念である「身振り」は、いわば「態度取得」の中身であるが、「態度取得」を現実に内化する現実的実践的方法とは、この身振りを立ち上げていく身体行動である。「身振り」は「態度取得」の中身であるが、「身振り」の獲得を可能とするような身体運動が先行しなければ、その反応の結合としての「態度取得」は実際には不可能である。ミードは、この「身振り」というものが「身体反応の同型性」において有効なのだとする(pp. 104-105)。