HOME > BOOK >

『音の力 沖縄「コザ沸騰編」』

DeMusik Inter.編 19980410 インパクト出版会,193p.

last update: 20120425


■DeMusik Inter.編 19980410 『音の力 沖縄「コザ沸騰編」』 インパクト出版会,193p. ISBN-10: 4755400740 ISBN-13: 978-4755400742 \2310 [amazon][kinokuniya]

■内容

「チコンキー」普久原朝喜の時代を経て、戦争、基地、ベトナム、コザ暴動、「復帰」、「島うた」の復興と隆盛、そして……。沸騰する「歌の戦場」コザの街で繰り広げられた怒濤の音楽―歴史の中の身ぶりを想起する。貴重なインタビューと斬新な論稿により、「沖縄音楽」に対してかつてない視座を提供する第一集。(「BOOK」データベースより)


■目次

T
お国は? 冨山一郎
コザの長い影――「歌の戦場」を励起する 平井玄
竹中労の戦争 滝口浩
てるりん〜戦後沖縄を笑いで癒したワタブー 森田純一

U
ビセカツ一代記 備瀬善勝 interview 神谷一義・平井玄
島うた70年史 普久原恒勇 interview 神谷一義
島うた第三期黄金時代に向けて 知名定男 interview 神谷一義
旅する島うた 大島保克 interview 神谷一義
琉球フェスティバルから沖縄アクターズスクールへ 黒川修司 interview 東琢磨・小倉利丸・神谷一義
「愛と平和」をこえる強烈なロックを 宮永英一 interview 小倉利丸


■引用


■お国は? 冨山一郎
「またこの視線は、ファノンが植民地主義における人種主義にかかわって、「事物化」と表現した事態でもある。日常的な殺人や土地の収奪が続く中で進行する、「連中を定義する身振りや思考を、私は知っている」という視線なのだ。「連中のことはよく知っている」、「奴らはそうしたものなのだ」と了解できることが、あらかじめ予定されている視線。彼らのは身振りはあらかじめ了解可能であるという、とんでもない思いこみに満ちた視線。そしてこの視線は、絶えざる暴力の発動とかかわっているのである。だが…」(9−10)
「この「了解不能」という事態には、それでも「よく知っている」といい続けたい欲望が依然として存在していると同時に、わかるはずだという予定調和的視線が裏切られたときに表面化する暴力が予感されている。」(10)
「「僕」の発話は、「アネッタイ」と「亜熱帯」の亀裂を生みだし、「何者であるか」という問いかけ自身を解体して行くのである。この亀裂の中で、隠れていた暴力の予感が全面に押し出されていく。「暴動」の予感。」(17)
「沖縄の演芸を見て人々は、沖縄らしさを知り得たと考え、沖縄文化を了解する。そこに日本を見いだすのであれ、日本とは異なる沖縄を見いだすのであれ、「連中のことは知っている」のである。
 だが、歌うということは、ダンスと同じく、そして発話と同じく、まずもって声を震わせ体を揺らしながら遂行される実践なのであって、そこには、合法的ダンスを異議申し立てのダンスに、「アネッタイ」を「亜熱帯」に切り開く身振りが、いいかえれば亀裂を呼び込み、「連中のことは知っている」と了解している人々を不安に陥れ、更に「何者であるか」という問いかけをも解体して行くような身振りが、含まれているのである。この身振りは、歌詞カードの文意の問題ではない。むしろ、歌詞の変更という形で了解されること自体を、拒否し続ける力なのである。」(18)
●植民地主義における人種主義にかかわる「知っている」「分かっている」という了解可能性。それが裏切られた時の暴力。
●「何者であるか」という「了解可能性」を解体していく行い、亀裂を生みだす行い。それによって顕在化する暴力。


■コザの長い影――「歌の戦場」を励起する 平井玄
「もう一つの「裏の戦争」とも言うべきものである。単なる性欲処理の機能を超えて、これから人を殺さなければならないこと、既に殺したこと、さらに極めて確率の高い自らの死への凝視からもたらされる心的な負荷を、何らかの疑似性愛によって集団的に代謝させてしまう精神療法的な後方支援システムとしてそれは成立する。もしくはレイシスト的な虐殺行為の想像的な「演習」としての強姦行動の訓練場として。そして、性病の蔓延による実践兵力の減退という重大なリスクのコントロールのために。その際、戦意維持のために現地及び国内の世論に充分に配慮すること。こうしたセクシュアルな集団身体技術の精妙化は、長期大規模な派遣軍による対ゲリラ戦争下の戦略テクノロジーの一環として、二十世紀に入って急速に発達させられてきたと言える。奴隷化の対象が支配された異民族の女性たちだったのはもちろん偶然ではない。」(26)

「Aサイン制度の方は許認可権の行使による地域経済の基地従属化であると同時に、[…]より細微な「身体矯正テクノロジー」だったと言っていいだろう。」(30)

「生きるために性を売る者たちと生き延びるために性を買おうとした者たちとの間で交わされた微妙な息のやり取りの空間の中で、「売春」という粗雑で男根主義的な言葉によっては決して語ることのできない大胆で多様な生命の結合が、「性の兵站部」の奥深くで日夜繰り広げられていたのである。」(30)


■竹中労の戦争 滝口浩
「1973年、竹中労は[…]アジアへ出発する。その背景には、日本国内の反権力運動の総体としての閉塞(その端的なあらわれが新左翼諸党派の内攻)という現実があり、そこに突破口を切り開くことが旅の一つの目的になっていた。」(63)


■ビセカツ一代記 備瀬善勝 interview 神谷一義・平井玄
「僕が中学二年の頃というとそんなに民謡が盛んでもなくて、民謡酒場ができたのは昭和37年くらい、喜納昌永が城間で始めたのが最初だと思います。60年代になってから、あのときのスターは登川誠仁、喜納昌永、小浜守栄、嘉手苅林昌、前川朝昭、知名定繁という人もいました。玉城安定というのがちょっと下にいて、女性歌手は糸数カメ、船越キヨ、新橋カマドですか、戦前の料亭の三味線弾きが女の歌手のスターですね。それから大城美佐子あたりが出てきた。琉球放送ののど自慢で若手の人たちが出てきたんです。のど自慢の三転鐘シンカと言ったら大スターでしたからね。そこから山里ユキとか前原淳子とか、いっぱいいました。」(91)

「ジャズをやってたのは軍の中ですよ。50年代の半ばくらいからジャズがポピュラーじゃなくなりましたからね。朝鮮戦争で沖縄はジャズメンがワッと増えまして、ベトナム戦争でロックが増えたんです。民謡だけはずっと続いてますがね。」(96)

「あの人たちの時代までは民謡も古典音楽も区別して考えていない。ただし、学校の校長先生あたりが古典をやっている人たちは、民謡はうたわさなかったんですが、馬車持ちゃーとか、普通の人たちは一緒にうたってました。学問で音楽をやった人たちは嫌ったみたいです。
 民謡酒場の前は料亭ですよ、スナックがなくて。料亭と言っても四畳半から六畳くらいで、夜中でも、コンコンと叩いて、ああ、こいつは大丈夫となれば入れる。お座敷があって、誰か三味線弾く人がいて、いまのスナックみたいな感じですよ。サカナヤーと言いますがね、あの頃の料亭は。そこで三味線弾いてた女性歌手もたくさんいますよ。」(98)

・ジュリグヮー小唄、ラッパ節、与論小唄、十九の春のつながり(99)

「戦後も戦後、上原直彦が[「島唄」という言葉を]流行らせたんだから、70年代の頃ですよ。俺が流行らせるって言って定着させちゃった。もとは大島の言葉ですよ。大島の人怒ってるんじゃないかな。」(105)

「あの人も思い込みの激しい人ですから、自分がこうと決めたら曲げない。民謡を全国に普及した功績はすごいですよ。竹中を嫌っている人もいっぱいますけど、思想的に真っ白な民謡の人からは好かれているんです。大城美佐子なんか、竹中が来るとオニギリ作ってくるもんね。」(108)
●竹中: 思い込みの激しい人。全国に民謡を普及した功績。思想的に真っ白な民謡の人への影響。


■島うた70年史 普久原恒勇 interview 神谷一義
「炭坑夫たちが[八重山に]やってきて[「書生節」や「ラッパ節」といった歌を]伝えた。西表に炭坑があったでしょ。労働者たちがきて唄を教えた。そんあことしか考えられませんね。」(122)
●移動してきた炭坑夫たちが唄を運ぶ。

「全然別ですね。毛遊びーしていたのは辻にいけない人間。貧乏人。百姓がたまには女郎を買いたくて牛を売って。。水呑百姓は女郎なんて買えないんです。そういう貧しい連中が毛遊びーをやったんです。」(122)

「民謡は明治からだからね、使い出したのは。昔は民謡という言葉は存在しないから。」(123)

「沖縄ではただ単に唄だと思いますよ。誰が歌謡曲という言葉作ったか知ってる?NHKですよ。ラジオ歌謡から。ああいうネーミングはすごいよね。定着している。やっぱりNHK様ですよ。」(123)
●NHKの影響力。


■島うた第三期黄金時代に向けて 知名定男 interview 神谷一義
「第一期黄金時代と言われているのは30年代です。前半から後半にかけて。まず、テレビがない時代で、ラジオからかかってくるだけですから、いまで言うアイドルだよ、声はすれども姿は見えずで、すごい憧れるわけ。その当時流れてきた歌い手たちというのは、男では前川朝昭さん、登川誠仁さん、小浜守栄さん、山内昌徳さん。女性では船越キヨさん、糸数カメさん、玉城カメさん、田場キミさん。それに普久原朝喜さんご夫妻にうちの親父というのがラジオでは主流だった。
 その人たちはものすごい人気で、親子ラジオというのがあって、有線だけど、村には村の事務所があって、そこが一定の電波をもらって、そこから有線で引っ張ってくる。その目的は、もともとは常会であるとか、ユイマールがあるとか、寄り合いがあるとか、お知らせ用の包装だった。それがある一定時間を作って包装していた。それが民謡の時間だった。夕方7時くらいから15分間とか、それをみんなかじりついて聞いてたよね。ラジオから流れてくる声というのは大スターなんだ。嘉手苅林昌さんの声を一遍じっくり聞いてみたいとか思うと、どっかのお祝いのときに彼を頼む。来てもらって歌ってもらう、2、3曲だよ。引っ張り凧だったんだよね。お祝い、結婚式、子供の誕生祝い、新築祝い。」(132)
●親子ラジオを民謡

「神谷 昭和30年代が民謡の第一期黄金時代で、第二期っていうのは。
 知名 昭和40年代の民謡クラブ。ステージで民謡をやるようになったのも林助さん。諸見にメトロというクラブがあって、そこの専属のバンドに林助さんがたまたま勉強したいっていうんでベーシストで入ったんだよ。彼は茶目っけが多いから、自分の曲を演奏させて自分で歌ってというようなことをしていた。そうこうしているうちに、オーナーが面白いからといって民謡を入れた。それが喜納昌永さんだった。だから民謡クラブに出演したのは喜納さんが一番最初じゃないかな。みんないやがったんだから。いわゆるキャバレーみたいなところで唄を歌うのは嫌だったんだ。」(133)

「「琉球フェスティバル」に出られるような歌い手はエリートだという感じは生まれたように思いますよ。竹中さんの影響は大きいよ、いまのよき沖縄時代になる。[…]労さんはおそらく興業だとか沖縄時代を作ろうとかは毛頭なかったと思う。自分の趣味の延長であって、どうしてもやり遂げたいという、彼の中の必然性だった。僕の場合は違った。繋げていこう、沖縄の若い連中がどんどん島離れして、東京に目が向いているのを、後ろから肩を叩きたい、こちらを向かせたいということだったよね。」(135)


■琉球フェスティバルから沖縄アクターズスクールへ 黒川修司 interview 東琢磨・小倉利丸・神谷一義
「しかし、よく嫌われてました。嫌われているのがわかっていてずけずけ入っていって、さらに嫌われながらやった。でも魅力ありましたから、沖縄の人も竹中さんに呼ばれたらいかないといけないみたいな、つかず離れずで。不思議な人でした。最後のあの死に方も沖縄の人にとっては驚きだったでしょう。あんなになってまで沖縄の音楽を最後までって。いまはだからあんまり悪く言う人いないんじゃないですか。
 竹中さんは沖縄にくると台風みたいにワーッと動いて、みんなもそれに巻き込まれる。だから、竹中さんが帰ると悪口ばっかり言ってましたよ、みんなで(笑)、二度と協力しないって。でも何ヶ月かして竹中さんがくるとまた集まってました。あの頃は沖縄の音楽を本土に歌いにいくとか、本土に紹介されるということがなかったから、唯一竹中さんがそういう役割をやってくれるということで、打算的な部分もあったと思いますよ。竹中さんと付き合っていれば東京に出れたり、レコードが出せたりって、そういうおいしさはありました。トンチンカンなんだけど、けっこうズバッと歌の本質をついてくるところがある。」(156)
●竹中とのつかず離れずの関係。お互いにとってのメリット。


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20120407, 0425
沖縄 社会運動/社会運動史  ◇竹中労 身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)