『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』
樋口 恵子 19980205 現代書館,198p.
■樋口 恵子 19980205 『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』,現代書館,198p. 4-88233-045-8 1575 [amazon]/[kinokuniya]/[kinokuniya]/[bk1] ※ d
19980205 『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』
現代書館,198p. 定価1500円+消費税 ※ **
(現代書館:東京都千代田区飯田橋3ー2ー5
電話 03−3221−1321、ファクス 03−3262−5906)
・現代書館
http://www.gendaishokan.co.jp/
■内容説明[bk1]
幼少時代からの施設生活による自己抑圧、障害者としての先輩であるパートナーとの出会い、単身米国研修、自立生活運動などを経て、自分の障害を豊かさへと変え自立に向き合ってきた著者のパワーあふれる手記。〈ソフトカバー〉
■著者紹介[bk1]
高知県生まれ。一歳の時に脊椎カリエスを発病する。大学卒業後、町田市非常勤職員として勤務。現在、全国自立生活センター協議会代表、町田市市議会議員。
■目次
第1章 障害をもって生きる
第2章 アメリカの自立生活運動
第3章 日本の自立生活運動
第4章 自分の中の女と向き合う
第5章 私、議員になろうかな?
第6章 ピアカウンセリングは自分探しの旅
■引用
「寝たきりの生活が始まりました。上半身を硬いギブスベッドの中に入れ、起き上がることもだめだといわれ、じっと天井の模様を数えるような生活でした。その生活が始まって何日目かに、総婦長さんが部屋になってきました。私の部屋は八人部屋で、みんなは施設に隣接する養護学校に言っており、私一人でした。「足が冷たいので、足に巻くようなタオルケットか何かを家から持ってきてもらっていいですか?」と私は何気なく聞いたのです。「一人だけそんなわがままは許しません」というような言葉にあい、驚きました。
その後、婦長さんからは何かあるたびに、私に対して「頭が良いだけじゃだめなのよ」と言いました。私は頭がいいという言葉は誉め言葉だと思っていました。なのに、総婦長さんから聞かされるそれは、なぜか、とても拒否的な響きのある言葉に聞こえてしまうのです。私は、どうしたらここで好かれるのかと悩みました。
私は幼いときから自分の言葉で自己主張をすることがあたりまえだったのですが、ここではどうもそれは歓迎されないらしいと感じ始めました。自分のことが自分でできない人は「ありがとう」「すみません」「ごめんなさい」といった言葉が似合うらしい、それを繰り返しいれば何の注意も受けないということがわかってきたのです。そうした対応をとる看護婦さんや保母さんが悪いのではないかもしれない、障害をもって生きていくには何か暗黙のルールでもあるではないかと思うようになったのかもしれません。」
「総婦長さんが私一人だけのときに現れました。「あなたはイエス様に誓って、このことを誰にも言わないと約束できますか?」と、私に聞くというより、絶対に誰にも漏らしてはいけないと言わんばかりに迫ってきて、それはプレッシャー以外の何者でもありませんでした。私はなぜこんなことを言われなければならないのかわからず、考えていました。誓いますという返事はしませんでしたが、そもそも私が返答することは総婦長さんには関係のないことだったというふうで、続けて「今度の面会日にお母さんや誰かが来ても言わないように」と言って、いなくなりました。
私はその威圧的な言われ方がどうしても納得できず、悔しくてつらくて、三日間涙が流れつづけました。その束縛は私を縛り、私がこのことを人に明かしたのは三十五歳を過ぎてからでした。」
「薬を続けなくては根本の病気はなおらない、でも、それをするともっとひどい症状に襲われる、私はこんなことを繰り返しながら死んでいくのだろうかと、絶望的になりました。そんなとき、園長先生や総婦長さんも私の力にはなってくれませんでした。」
「自分の価値をおとしめてしまうことは、数限りなくありました。「誰もいないから大丈夫だよ」と廊下で身体を拭かれたり、みんなが帰省する時期には手術後の人など数人しか施設には残らず、職員の目が届くよう、男女混合の部屋にされることもありました。お盆か正月か忘れましたが、同級生のH君と同室になったことがあります。同級生と言ってもクラスで机を並べてと言う関係ではなく、親しみも何もない人でした。そんな人と同じ部屋にされ、トイレや正式、肩や太股への注射のときの彼のなんとも言えない視線、今ならいやといえるけど、プライバシーもなにもない無権利状態でした。」
「毎月の定例として、血液をとって(血沈)を計るのと延長先生の診察がありました。ある日、いつのものように私は裸になって診察台の上でそのときを待っていました。どやどやと園長先生以外の若い男の人も入ってきました。私は何でこんな人に自分の体を見られなければならないのかと納得がいかず、早くこの屈辱的な時間が過ぎないか、それとも私が消えてなくなればいいと思いました。彼らは医大のインターンで、私ではなく、カリエスという物体を見ていたのでしょう。自分のベッドに移されてからも私のショックは消えず、やりきれない思い出食事も喉を通りませんでした。当時、インフォームド・コンセントという言葉もなかったし、ましてや障害児の患者に敬意など払われず、「私が障害者だからこんな目に会うんだ」とあきらめるしかなかったのです。
「この人たちはお医者さんになるために勉強中なので、あなたのことを一緒に診てもらっていいですか?」と聞いてくれたら、あんなにつらくはなかっただろうなと思います。「いやです」といいたくても言えなかったかもしれませんが、それくらいの声かけは、最低の礼儀ではないでしょうか。」