『自分であるとはどんなことか――完・自己組織システムの倫理学』
大庭 健 19971220 勁草書房,307p.
■大庭 健 19971220 『自分であるとはどんなことか――完・自己組織システムの倫理学』,勁草書房,307p. ISBN-10:4326153288 ISBN-13:978-4326153282 2940 [amazon] ※ p w/ot b
■内容
「BOOK」データベースより
若い人たちの「所在なさ」の感覚に照準し、考える。自分らしさとは何か、そのことと社会はどう関連するのか。
「MARC」データベースより
「自分らしいってどういうことなんだ?」「そもそも社会って何なんだ?」 若い人がこのような問題を考える時の最適な手引き。コンセプトやセンスの柔らかさのある、けれどDJ的ノリは排したほどよい口調の本。
■目次
まえがき
序章 自分らしく生きる
1 自発的だが、本意ではない……日常とのミスマッチ
2 欲求の階層性と、自分らしさ
3 ほんとうに、やりたいこと…………?
4 「ほんとう」の自分をもとめて……?
5 社会の力と、自分
第一章 自分と行為と、社会
1 わたしにとって、社会とは何なのか
2 わたしの行為と、社会システム
3 意志と行為
4 「意志作用」の非‐神話化
5 行為主体と意味
6 意図と意味と、理解
第二章 意味と意図、行為の共軛的実現
1 意味の時間的・間主観的な不確定性
2 解釈とは違う仕方で、規則にしたがう
3 行為を支える「信」の成り立ち
4 行為の遂行と理解の共軛性
5 行為の共軛的な実現と、行為の連接
6 なることと、すること
7 「する」による複雑性の縮減
8 共軛的に「する」ことの連接としての社会
第三章 わたしの社会的構成
1 行為に先立つ存在という意識?
2 身体の移動という概念
3 生体的な主観的地図
4 再帰的な指標語「ここ」
5 ソコではなくココという自覚
6 呼応
7 呼応と自己指示
第四章 システムとしてのわたし
1 固有名と「わたし」
2 無限の暫定的な切断と、「わたしたち」
3 循環と「事故原因」
4 システムとしてのわたし
5 対他存在としてのわたしの同一性
6 話法の重心であることと、呼応可能性
第五章 わたしは、他者と直接にはふれあえない
1 固有名と指標語
2 社会システムの外部環境としての、個人
3 複雑すぎて対応できない
4 個人と個人の直接的な関係の不可能性
5 社会の自己再生産と個人――中間総括
第六章 心システム・社会システムの自己創出(オートポイエシス)
1 心・社会というシステム
2 生体と社会
3 言語とメタ・コミュニケーション
4 システム境界の認知
終章 倫理的自閉と、日常の不本意感
― 総括にかえて
1 不本意感の根
2 消極的に合理的な選択
3 システムによる選択と個人選択
4 他者への無関心
5 自閉的な欲望器械への変貌
6 心という環境の“汚染”――最悪の循環
結びになりえない、結びもどき
後書き
■引用
自分が、ここで・こう生きているのだ。心からそう実感できる居場所・人間関係が、どうも見あたらない……。こうした浮遊感は、「所在なさ」の感覚とでも呼べよう。この感覚については、現代社会の特徴として、これまで多くのことが語られてきた。しかし、この「所在なさ」の感覚(ひいては「身の置きどころのなさ」の感覚)がとらえきれたようには思えない。それどころか、なにが起こっているのか分からないままに、この所在なさの感覚が、いまだ明確な自意識も形成されていない子供たちの世界をさえ覆っているかのようにもみえる。
ここでは、いったい、なにが起こっているのか? これが、本書の問題である。(pp.@-A)
以下引用ページ不明
社会とは「個人の集まり」のことだろうか。そうではない。複数の個人が集まっていたとしても、その諸個人のあいだに何らの関係も成り立っていないとした
ら、そこにあるのは無関係の個人の「集合」であって「社会」ではない。
だとすれば、社会は、互いに関係しあう諸個人の集合、つまり「諸個人から成るシステム〔要素のあいだの関係が定まっている集合〕」なのだろうか。これも
ちがう。というのも、そのように考えると、ひとつに、社会のもっとも基本的な性質が説明できない。社会は、たとえば家族、学校、企業のようなミクロな社会
から国家や資本制社会といったマクロな社会にいたるまで、それを構成する/その要素となるメンバーが入れ替わっても「同じ」社会として存続しうる。またひ
とつに、それでは、重要な社会現象がうまく描写できず、その特質もみえてこない。景気変動や民族対立といった大規模な社会現象を前にすると、諸個人のあい
だの関係といったレベルをこえて、なにか社会という「モノ」があって、それが自己運動しているようにもおもえてくるし、またそのように把握することで多く
のことが説明されたりもする(デュルケーム)。諸個人なくしては社会もまた消滅するが、けれども社会の諸事象や諸性質は、あまりにも個々人の意図からは独
立している、すなわちさまざまな個々人のからみあいのなかからは、誰ひとりとして意図しなかった集合現象が生じる〔ミクロのからみあいからマクロな性質が
創発する emerge〕。
しかしこの場合でも、マクロな性質/事象がいかにして創発するかは、誰と誰が集まっているかには依存しない。集合を構成する個人が同じであっても異なる
マクロな現象が創発しうるし、逆にまったく違った個人から成る集合でも同じマクロな現象が創発する。とすれば、やはり個人を要素とするシステムとして社会
をとらえるのは適切ではない。
A)社会は個人の入れ替わりにもかかわらず同一であり続けるし、社会のマクロな性質はどの個人が集まっているかということと独立である〔個人は社会の要素
ではない〕。けれども、個人がまったくいなくなれば社会もまた消失する。だとすれば、社会の要素は個人そのものではないが、しかし個人あってこそ存在しう
るXである、とひとまずいうことができる。
さて、それではXとはいったい何なのだろう。つまり社会は何から成り、それらがどう関係しあうことによって、社会は(再)生産されているのだろう。これ
にたいしては、諸個人のあいだで起こること/成ることである、という答えがおもいつく。そうした「コト〔デキゴト〕」がつながりあって、結びつきあって社
会は成り立っているのだ、と。
■著者紹介
大庭 健
1946年 浦和市に生まれる
1978年 東京大学大学院博士課程単位修得退学(倫理学)
現在 専修大学文学部教授
著書
『他者とは誰のことか』(勁草書房)
『権力とはどんな力か』(勁草書房)
『はじめての分析哲学』(産業図書)
主論文
「平等の正当化」(『現代哲学の冒険 差別』岩波書店,所収)
訳書
ハーマン,G.『哲学的倫理学叙説』(共訳,産業図書)
セン,A.『合理的な愚か者』(共訳,勁草書房)
ルーマン,N.『信頼』(共訳,勁草書房)他
■言及
*作成:石田 智恵・橋口 昌治・安部 彰 追加者: